■理論 物語は虚構でしかない。しかしその物語が一定のリアリティを持って読者に迫るとき、読者は衝撃を受け、現実の人生をも揺さぶられる。そのような作品は読者の心の中に長い間残るよき物語となり、ただそのときそのときの代替可能な快楽のために消費される物語とは一線を画すことになる――しかし、今の時代において、そのような衝撃を与えられるだけの物語、すなわちそれだけのリアリティを持ちうる物語とは成立しうるのだろうか。現代は、ある意味で物語不可能な時代である。情報化が進み、あらゆる価値観が蔓延し、一定の価値観のみしか表明できない物語は単なる虚構としてしか受け取られない。その一方で単なる娯楽商品として物語は消費され続け、あるいはコミュニケーションツールとして活用され続ける物語たち。単なるエンタテインメントではない、心に残るような物語を、現代の我々は作り出すことができるのか。 そのような問いに対して回答を試み
ハードディスクをあさっていたら、高校時代に書いたこんなレポートがみつかった。言語学の授業かな。ためしにアップしてみよっと。高校(ちなみに二度目の)のほうが資料性の高い文章かいてたなあ……ってやばいじゃんそれ。とまってるってことじゃん。 それにしても、このころから、しっかりサブカルポエム評論してますね。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 二人称の冒険(改題) 1*人称詞が死屍累々と…… 男には名前がなかった。親につけてもらうのも自分でつけるのもいやだった。殺し合いにもうんざりしていた。名前なんかなくったって構わないと思っていた。 女も同じだった。 ところが一つだけ不便なことがあったのだ。 ―――高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』 名前を知らないと、すれ違ったひとに話しかけることすらできない。これは日本語の構造的な
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