はてなキーワード: カウントダウンとは
【3行要約】
・長野県の山の上にゴンドラで行く。一人3000円くらいかかる
・新月で晴天という最高のコンディション
・よく見えた!天の川がうっすら見えるくらいだった。ただ日本一ではなくないか?
【本文】
7/25(金)の夜に、家族で長野県の阿智村へ日本一と言われる星空を見に行った。
7/25にしたのは、新月だったから。新月だと月の光が邪魔しなくて星がよく見えるらしい。
ただ心配なのは天候。こればかりはどうしようもない。まさに天に祈るしかない。
星空を見るのにはゴンドラの予約が必要で、一人3000円かかる。しかもキャンセル不可で、雨でも返金はない。
かなりの賭けだが、子供が見たいというので、思い切って予約した。
(ちなみにホームページはこちらhttps://sva.jp/)
7/25当日。天気予報は「雨」。最悪だ。
口コミを見ても、「雨で何も見えなかった」「曇りで星が一つ二つしか見えなかった」と散々なレビューが目立つ。
子供には「見えないかもしれないし、見えたらラッキーくらいに考えておこう。その代わり明日山登りして楽しもう」と保険をかけておいた。
19時に着くと、すでにゴンドラ待ちの列ができていた。
ふと空を見上げると……なんと、意外と晴れてる!雲がほとんどないし、このままいけば星が見えるかもしれない!
そんな期待を胸にゴンドラに乗り込む。
夕日が沈み、辺りは真っ暗。そんな中、ゴンドラに15分揺られて山の上に着いた。
着くとそこは肌寒く気温は20度。
イルミネーションやプロジェクトマッピングが行われてて、気持ちを高めてくれる。スタッフの服装もオレンジの宇宙服だった。
「こちらに来て、寝転んで、カウントダウンをしましょう」という案内が流れる。
そこへ行くと、星のお姉さんがいて、周辺にはレジャーシートの上に寝転んでる人がたくさんいた。暗くて見えないけど数百人くらいいる。
「新月で、こんなに晴れてる日を引くなんて、みなさんは強運です!」
お姉さんはそう言ってくれた。雨の天気予報を覆して晴れるなんて、確かに強運かもしれない。
「さあ、目をつぶって目を暗闇にならしましょう。そしてカウントダウンで一斉に目を開けましょう。5、4、3、2、1、0!」
目を開けると、満点の星空が広がっていた。思わず観衆から歓声が上がる。
はっきりと星座の星が分かるし、人工衛星が飛んでるのも分かる。流れ星も見えた。ついでにホタルも飛んでいた。
お姉さんがレーサーポインタで直接星空を指して、星座などの説明をしてくれる。さながらプラネタリウムだ。
織姫と彦星の星、そしてその間を流れる天の川もうっすら確認することができた。
ただ…日本一か?と聞かれたら、疑問はある。天の川の紫の色とかまでは見えなかったし、公式サイトにあるような星空ではなかった。
でも、こんな星空を見るのは初めてだった。子供も満足そうでよかった。
そんなわけで、無事星を見ることができた。
カウントダウンで大勢の人と星空を見る経験は、子供の思い出になったのではないかと思う。
他の人に勧めるかと言われたら、賭けの部分が大きいので、正直あまり勧められない。
それより晴れた日を狙って近所の星空スポットに行った方が満足できる確率が高いのではないだろうか。
もし参考になれば。
16年前のガンが再発し、再闘病8年目の今年2月、これ以上の治療は困難とのことで緩和ケアへ移行することになりました。
この時私は妊娠6ヶ月でした。念願の初孫だと喜んでくれていたので、この告知はとてもショックでした。
予定日は7月2日、母の余命は4ヶ月ほどだろうと言われました。主治医の先生には被るのではないかとまで言われたそうです。
去年は友達と九州へ旅行に行ったり、好きなアーティストのコンサートに行っていたのに、本当に急でした。
もちろん里帰り出産なんて出来ませんでした。さらに今後、私がお腹の子を育てていく際に母の支えが無いのだということに絶望しました。孫の手を引くお母さんを見ることは出来ないんだと、孫を甘やかすおばあちゃんがいないのだと。
しかし1番悲しいのは母自身です。私は期待を持たせて悲しさが大きくなるのが怖くて、孫に会わせたい、孫を抱いて欲しいという願いをグッと飲み込み、母は母の病気に向き合って、私は私の出産を頑張るからと伝えました。
遠出を避けなければならない妊娠後期ギリギリまで何度も帰省しては、母にたくさんお腹を撫でてもらいました。撫でてもらうたびに、お腹の子に会わせたいという淡い思いで胸がいっぱいになりました。
最後に会ったのはGWでした。またね、頑張るんだよと声を掛けてくれた姿は比較的元気そうでしたが、今思えば妊婦の私を気遣って無理をしていたのでしょう。
その後、母はみるみるうちにやつれていきました。ご飯が咀嚼出来なくなり、ゼリーなどの流動食ばかり食べていたようです。肺に水が溜まり、心臓が痛くなり、起き上がるのが苦しくなっていたのです。また薬の副作用や症状の悪化でせん妄が顕著に現れていました。テレビ通話やメッセージが支離滅裂になっていく母の姿を見るのは辛かったです。
しかし私のお腹の子はどんどん大きくなって来ます。とうとう正期産の日になりました。その当日の妊婦健診時の「いつ生まれて来てもいいからね」という先生の言葉を聞いたからなのか、はたまたこの後のことが分かっていたのか、その日の夜、子は予定より3週間も早く産まれてくれました。
小さく生まれたものの、2510gとギリギリ体重をクリア、増加率も問題なく、一緒に退院することが出来ました。
旦那が無事に出産したと実家にメッセージを送ると、混濁していた母の意識が急にはっきりして、母子の無事を泣いて喜んでくれたと聞きました。喜怒哀楽を娘にあまり見せない親だったので、大泣きする母の姿が想像できませんでした。
母がしっかりと会話できたのはこの日が最後でした。
介護をしている姉から送られてくる母の様子は、かなり厳しいものでした。言葉が出てこなくて癇癪を起こしてしまう、姉の顔を忘れてしまった、ベッドから起き上がれなくなった、トイレに行けなくなったとゆっくりと、しかし着実に一生を終える階段を登っているようでした。
ついに1週間前、母が入院になりました。最後の入院になるだろうとのことでした。医者の見立てというものはすごいです。2月の段階ではここまで進行するとは思えないほど元気だったのに。
私は姉に伝えました。1ヶ月健診が終わったら帰るから、それまで頑張るんだよと伝えて欲しいと。
子が早く生まれてくれたから、早くに外出できるようになったのです。母に抱かせられるかもしれない。諦めたはずの期待が溢れてしまいました。
無事に1ヶ月健診を終え、急いで実家に帰省しました。母を見舞う前日、姉から「ご飯が食べられなくなった。それに伴って持病の薬を全て中止した」と言われました。全身に転移したガンとは別に心臓の持病を抱える母にとってそれは、最期へのカウントダウンでした。
月曜日、特別に許可をもらい子を連れて病室に向かいました。母は息をしていました。意識はほぼなく、呼吸器をつけてやっとしていた息ですが、心臓を動かして待ってくれていました。痩せて骨と皮だけになった母の手を取り、子の手を触ってもらいました。発熱していたこともあり、温かい指先でした。目を少し動かし、私を、子を追っているように見えました。待っていてくれてありがとう、私もお母さん頑張るよと伝えて病室を後にしました。
その日の深夜、日付が変わる時に母は旅立ちました。主人に子を預け、最期に立ち会うことが出来ました。
息を引き取った母を見て、ああ本当に待ってくれたのだと思いました。また、子は母の命の時間を知っていて早くに生まれてくれたのだと思いました。
そうとしか思えないのです。
そう思ってもよいでしょうか。
母の病気が治らないと知った時、奇跡なんてものはなく、神もいないのだと悟りました。
でも抱かせることは叶わなかったけれど、無事出産できたことを知らせることができ、孫の写真を見せられて、直接孫の顔を見せることも、孫の手に触れさせてあげられたことも出来ました。
このタイミングが偶然のものだとしたら、出来すぎだなあと笑ってしまいます。
そして未明に母が帰宅し、授乳の合間を縫って仮眠を取り、やっとジワジワと母が逝ってしまったことを実感しています。
死に目に遭えたからとしても、やはり私のこの先の人生に母の姿がないことに変わりはありません。その事実がどうしようもなく辛く、悲しく、胸に重くのしかかってきています。寝不足のまま、微かに一階から流れくる線香の匂いを嗅ぎ、理由なく泣き続ける子をあやしながら、広くなって静かな家の廊下を歩いていると、今日がきっと人生で1番辛い日なのだと思います。
程度は変わるのでしょうが、一生この辛さは消えないのでしょう。ここに母がいたら、母だったら何を言ってくれただろう、と。道ゆくおばあちゃんと孫の姿を見かけるたびに、私は一呼吸置いて鼻の奥が痛くなるのを堪えるのでしょう。
それでも我が子を抱きながら、この子と母の奇跡のような巡り合わせを思い出して、痛みを少しだけ溶かしていくのだと思います。
義実家とは結婚の時に縁が切れています。そのため頼れる家族が、認知症を患う父と陸の孤島と呼ばれる県内の果ての地で教鞭をふるう姉しかいません。
天皇制(天皇の制度)は、日本の初代天皇とされる神武天皇の即位を紀元前660年とする伝承に基づけば、2025年現在でおよそ2685年続いていることになる
ただし、これは『日本書紀』などの記紀神話に基づく神話的な年代であり、歴史学的に実在が確認できる最古の天皇は第10代崇神天皇(3世紀頃)または第16代仁徳天皇(4世紀後半)とされることが多い
史実ベースで見ても、少なくとも1500年以上にわたって天皇という称号をもつ人物が継続して存在してきたことは確かで、世界最古の君主制とも言われている
しかし、それが今まさに終わろうとしている。
――つまり昭和天皇の存在感をリアルタイムで体感してきた人々は、すでに高齢者になっている
「玉音放送を聞いた」「御真影を拝んだ」「靖国で頭を下げるのが当たり前だった」そんな記憶を共有する世代が、静かにフェードアウトしようとしている
いまや平成生まれの中でも後半の世代にとって、天皇は「行事で見る人」「テレビに出てくる儀礼の人」くらいの存在でしかない
特別な信仰や敬愛の念を持っている若者は少数派で、むしろ「なんとなくまだある制度」としてスルーされている感じがある
それが制度の終わりを意味するかはともかく、「天皇を精神的支柱とする社会」は確実に過去のものになりつつある
また、天皇は「男系男子」でなければならないとする伝統は、現代の価値観から見れば極めて不自然だ
女性天皇は過去に存在したにもかかわらず、現在では「女系天皇は認めない」「男子がいなければ断絶もやむなし」という議論が公然と行われている
これは、血統と性別に過剰に依存した制度が、近代以降の法と倫理の進化にまったく追いついていないことを示している
そもそも現代社会では、性別によって職業選択が制限されることは基本的に許されていない
なのに、最も象徴的な国家機関の長が「男であること」を義務づけられ、それが当然だとされている
この違和感は、若い世代ほど強く感じているはずで、そこにある無言の排除や差別構造は見過ごせない
加えて、皇族女子は結婚したら「民間人」になる一方、皇族男子は家を継ぎ、制度の担い手となる
これは封建的な家制度の名残そのもので、女性にだけ選択肢がない
つまり天皇制は、性別によって人生の進路が大きく制限される制度であり、それが国民の象徴であることに誰もが疑問を抱きはじめている
「伝統を守る」ために女性を排除し、子どもの産める男子を数人に絞り込むという構造は、いずれ綻びる
女性天皇を認めれば制度が延命できるかもしれないが、そこに踏み込めない保守性こそが、制度の終わりを静かに早めている気がする
どっかのお偉いさん同士が先輩後輩でなあなあやった事案のせいで公文書管理が死ぬほど厳しくなったんだけど、マジで死にそう。
・その部署では日常的に使うような書類も鍵をかけて管理。鍵を受け取るための処理にクソほど手間がかかるように。
・書類の電子管理推進として紙+電子の二重管理が徹底化。電子処理ソフトが激重になり残業が増大。
・増大した残業がワークライフバランス軽視とされ勤怠管理の徹底管理が行われるが、それへの対応で各自毎月3時間程度作業時間が増える。
・残業40時間超えたら反省文や説教が待ってるので皆勤怠管理で嘘を付くようになる。
・勤怠管理が嘘まみれになる中で公文書管理の徹底化が進み、水面下で見えない残業時間が増えまくる
・見かけ上は嘘の勤怠管理を見てるのでトップは「電子化したおかげで書類管理の手間が減ったでおじゃる。麿たちのお手柄でおじゃ~~~~」と大本営発表
・見かけの残業時間は増えてないせいでバンバン仕事が振られて体調を崩す奴が続出
・私生活がたるんでいるせいだと無意味な講習が行われ更に見えない残業時間が増える
・メンタルが壊れた連中の限界な仕事×見かけ上の綺麗さだけを求めた嘘まみれの管理=完全なる崩壊へのカウントダウン
俺ももう逃げたいよ。
あと10年この職場で働いていける自信がない。
でも俺みたいな奴が今更普通の会社で働けるのかって考えると不安しかない。
ゆーて結局定年迎えたら弾き出されるわけだし今のうちから転職活動もありかなーとは考えてる。
ま、警備員かビルメンぐらいしか雇われ先ないだろうし、生涯賃金の下がり幅考えたらダラダラ自衛隊暮らしが正解なんだろうな。
いやホンマ人生お先真っ暗だよ。
つうかさ、公の機関がこんなゴミみたいな管理の仕方で上が「ヨホホホホ麿達の世代でドンドンKAIZENされているでおじゃる~~~~管理の天才でおじゃ~~~」やってるのがマジでクソ
これは再インストールかなあ。
まさか復旧にネットワークが必須というアホなモジュールをubuntuが採用するとは思わなかった。
いかれてるよ。
いつものようにsambaとteratermでubuntu24 LTSにアクセスして作業していたら突然の切断。
そして起動しない。
mount /snap/core22/1908: special device /var/lib/snapd/snaps/core22_1908.snap does not exist.
can't look blockdev
みたいなエラーメッセージが出ていて、よくわからないけどネットワークブートをしたいのか1分カウントダウンをしていた。
ただし、NICを認識していないっぽくてネットワークには出れない。
しかないので、エラーメッセージを手で描き移すという原始人みたいなことをしながらchatgpt先生に聞いてみると、どうやらsnapdが壊れてしまったみたいだ。
このSSDを別のマシンに刺してみると、パーティションは生きているmountもできる。
とりあえずtarでバックアップを取った。SSDのデータは無事らしい。
さて復旧なんだけど・・・これができないんだよな。
/var/lib/snapd/snaps/core22_1908.snap がないならコピーすればいいじゃんということでコピーを試みるも、正常に動作するubuntu24マシンにはそんなファイルはない。
同じUSBからインストールしたOSのはずなのに意味わからん。
しかたないので、chrootしてsnap refresh coreを実行することにした。
sudo mount --bind /dev /mnt/dev sudo mount --bind /dev/pts /mnt/dev/pts sudo mount --bind /proc /mnt/proc sudo mount --bind /sys /mnt/sys sudo chroot /mnt # chroot内で snap refresh core
chatgptがいうにはこうやると復旧できるらしいが、失敗!
error: cannot communicate with server: Post "http://localhost/v2/snaps/core": dial unix /run/snapd.socket: connect: no such file or directory
やはり、ちゃんと動く方のubuntu24には snapdはいないようだ。
パーテーションもちゃんと見えるのに、grubとかでkernelは起動しているのに、snapdとかゴミが正しく動作しないだけでOSの再インストールをしないといけなさそうだ。
余計な手間を増やすんじゃないよ。
ubuntuインストーラーのUSBをさして、nic認識させたらCtrl+F1..F6とかでインストーラーから飛び降りてmountして復旧する作戦も試してみた。
snap refresh coreを発行するとやはりエラー。
もう知らん消すと apt purge snapd とやった。
そしたら起動時のエラーは消えたけどやはり緊急モードでしか起動しない。
もういいよ。バックアップを取っているし、再インストールしよう。
綺麗な思い出に汚い感情を乗せたくありませんが、あまりに度が過ぎていたので吐き出させてください。
キャストの皆様、スタッフの皆様、関係者の皆様、本当にありがとうございました。
全員の力を結集して、このライブを必ず成功させるのだという、強い意志を受け取りました。
舞台の向こう側は本当に最高でしたよ。
だからこそ、観客席の醜さが際立つ。
台無しにするんじゃないよ。
自我を出すな。
指定席なので30分前には着席を終えた。
うるさい。
とにかくうるさい。
ろくなオチもないしょうもない話を大声でベチャベチャベチャベチャ。
「つまんねー男」
おめーらのおスベり雑談を聞きにここに来たんじゃねーよ。
それができないなら黙っとれ。
開演予定時刻30秒前から、クソデカボイスでカウントダウンを始める大馬鹿者が一人。
周りの仲間は辞めさせろよ、なぁ?
そうしたらその大馬鹿者が、
黙れよ。
その間もうるせえうるせえ。
黙って聴けよ。
おめーらのおスベり雑談を聞きにここに来たんじゃねーよ。
曲のサビでは、両手に持ったオレンジペンライトを頭上でぐるぐるぐるぐるぐるぐる…。
一人二人とかいうレベルではなく、アッパースタンドから見えるアリーナはそんなんばっか。
邪魔すぎる。
不快すぎる。
会場を盛り上げたいんじゃなく、自分達が気持ち良くなりたいだけだろ…。
運営の言う事を聞け。
年齢層が低い
日本文化圏外の観客も多い
それは事実かもしれんが、バッドマナーを許容する理由には全くならん。
「バンドリ!」というコンテンツが潰れてしまう前に、先に潰すべきものがあるのは良く分かった。
俺は大好きなバンドと、これからもずっと生きていきたいんだよ。
邪魔をするな。
https://tabibito198511.blog.fc2.com/blog-entry-1.html
再びバンコクに来た。日本時間の午後6時にオンラインで仕事は終えたが、タイではまだ午後4時だ。まずはゆっくり片付けを終えるとホテルの外に出てスイカスムージーを飲みながら頭をぼーっとさせて街行く人たちを見る。
タイは国際色豊かな都市で、地域にもよるが今いるシーロムエリアではタイ人の割合は半分ぐらいで、欧米人やタイ以外の他のアジア系、そして日本人も多く滞在している。
バンコクに来たのは去年仕事で大きな失敗をし、心身共に疲弊していたからだ。本来は休暇を取ってくれば良いのだが、仕事の敗戦処理もあり半分は仕事、半分は休暇のワーケーションとしてホテルの部屋で仕事をしている。
以前バーで知り合った馴染みの女性はこの3月に結婚が決まり、今はもうバンコクにはいない。お祝いが渡せればと思ったが、会うことは難しそうなので電子送金で彼女に振り込むと共に、この大都会バンコクであてもなく過ごすことになった。それも悪く無いと思いつつ。
スムージーを飲み終わると、普段は海外では絶対行かない日本食のレストランに入り、海鮮丼を頼む。海外で日本食のレストランを利用しないのは衛生面で不安が残るのと、そもそも割高な割に味も日本で食べる以上のものに会うことが無いからだ。だけど今回の旅では普段やっていないことを積極的に行い、自分の幅を広げたい。失敗したことの意味を噛み締めて何かを得る時間にする為に。
普段はバンコクに来てもシーロムエリアではなく、アソークやナナエリアでビールを飲んでいたが、今日はパッポンナイトマーケットで夕食を取ることにする。ここのナイトマーケットは服やお土産物を買う際に他のマーケットよりも値段を釣り上げて請求してくる割合が高く、別名ぼったくりマーケットと呼ばれている。ただ食事に関しては真っ当な値段で食べることができる。パッタイとビールを嗜み、ぼったくりマーケットを散策しているとバーを見つけた。こういったバーの入り口にはPRと呼ばれるお店に人を呼び込むことをメインの仕事にした女性が立っている。幾人かのPRから声をかけられたが、1人だけそっぽを向いて緊張しているような背の高い女の子がいた。PRの子達からの誘いに乗ってお店の中に入りビールを頼みながらステージでダンスを踊る女の子たちを見る。彼女らはそれぞれの目的の為に彼らの客を探して、魅惑的なダンスと視線を送って入ってきた客を誘惑をしている。
普段ならそちらに目を向けるところだが、今日はそっぽを向いていたPRの女の子のことが気になり、彼女を呼んで飲もうと思った。近くの店員に彼女を呼びたいと伝えるも、彼女はPRだからダンスしてる人から選びなよと取り合ってくれない。ママさんらしき人を見つけて直接話し、彼女を呼んでも良いか確認をしたところ渋々オッケーをもらった。
彼女を呼びに入り口まで行き、彼女に一緒に飲みませんかと英語で話しかけるもうまく伝わらない。後でわかったのだが彼女はあまり英語が得意ではなかった。仕方ないので携帯で翻訳アプリを使い、用件を伝えると彼女は驚いた顔をして同行しているママさんに確認をしてから、一緒に席まで移動することになった。
話を聞くと彼女はPRとしてお店に入ってまだ2日目で仕事の仕方も教わっておらず、勝手がよくわからない状態だった。だから初めての指名に驚いていたと教えてくれた。自己紹介をして自分の名前と日本から来ていることを話した。すると驚いたことに彼女は片言の日本語で自己紹介をし出した。彼女の名前はインジュ、どこか影のある美しい女性だ。タイは別名微笑みの国と呼ばれるくらいタイ人の女の人はよく笑うし、その笑顔が魅力的だ。しかし彼女は微笑みの国の人なのに緊張してるのか、元々の性格なのかあまり笑わず、話していても最初は会話がスムーズに繋がらなかった。
そんな中で聞き出せたのは彼女が何故少し日本語を話せるかというと、過去に日本語の勉強をする学校に通っていたことと、アニメが好きでコスプレをしていたりするからだということだった。タイに面白い出会いが待っていた。
彼女の家族の話や、この仕事のこと、昼間の仕事は肌のアレルギーの関係で難しいことを聞いた。「ねぇ一緒にお店の外に出て話さない?」インジュからの申し出を快諾してママさんを呼んで話すと、ママさんはまだ仕事を始めたての彼女を心配しタイ語で彼女と話している。一見の信用できるかどうかもわからない日本人に仕事したての新人がついて行っても大丈夫か不安があるようだ。ママさんには必ず2時間後にお店に連れて帰ってくること、彼女の嫌がることは絶対しないことを約束し、2人で外に出ることができた。
彼女は人が多いところが苦手だと言うので、近くのドンドンドンキに行き、お菓子や飲み物を買った。彼女は初めてみる日本のメーカーの製品が多く、何を買ったら良いか悩んでいた。セブンイレブンに行っておけばよかったかなとも思ったが、結果的にはこちらでよかった。
買い物したものを持って2人で自分の滞在しているホテルへ行き、ソファに座ってそれらを開けていく。日本のグミやお菓子、おつまみを試していくが、一番気に入ったのは意外なことにチーズタラだった。
チーズタラを食べながら彼女のコスプレ写真や、昔の写真を見せてもらう。彼女の身長は女性にしては高く170cm程度あり、スキニーというよりはバレーボール選手の様に健康的なスタイルだった。髪の毛は長いが、これはエクステで本当は短髪なんだと小さな秘密も教えてくれた。その後も話をしているとあっという間に2時間が過ぎたので、約束通り彼女をお店まで送っていった。
ママさんは僕らを見ると約束を守ったことを理解し、喜んだ顔で迎えてくれた。先ほどより夜もふけたせいか店内は閑散としており、静かな場所もできていた。僕とインジュは店の1番端の席に座るとお酒を注文した。彼女は店に入る前にこう言った。
「できれば閉店の2:45まで一緒にいて欲しい。あなたが帰ると私はその間1人になってしまうから。」
翌日の仕事は午前10時からなので閉店までいても6時間は寝れそうだ。話をしたり、アプリで落とした日本人なら誰でも知ってるワニの歯を選んで遊ぶゲームを2人でして、時間を潰すも流石に長い戦いだった。途中何度か暇になったタイミングでママさんもこちらに遊びに来て、部屋から持ってきたチータラを一緒に食べたりした。チータラを気に入ったママさんは、明日もこの店にきて私にこれをお土産に持ってきてと言い出し、その代わりにお酒とお水をサービスしてくれた。チータラ1袋150バーツで400バーツ相当のドリンクがもらえるならありがたい限りだ。
そして閉店時間のカウントダウンを終えるとインジュとさよならをして店を出た。帰り際、「明日はあなたは何時に来る?」と来ること前提で聞かれたが、「仕事が終わったら来るよ。」とだけ言ってLINEを交換して帰った。
・過去作
https://anond.hatelabo.jp/20240109171705
https://anond.hatelabo.jp/20240107070705
雨の涙
https://anond.hatelabo.jp/20240108002442
花の街のニュウ