はてなキーワード: 帰納法とは
ビックリした。
めっちゃ短いじゃん。
プレイ時間が100時間のゲームを月に一本遊んだとして年12本×50で600本しか遊べない。
ビックリだわ。
各歴代ゲーム機の人気ソフトベスト100をやろうとしても6台ぐらいで終わりだ。
50時間でクリア出来るゲームもあるし、10時間で終わる名作もあるけど、それを考えて3倍に増やしても20台弱のゲーム機までしか網羅できない。
今までの人類の歴史を振り返って「まあそれでいいんじゃね?」と思ってる人間は考えが薄すぎるよ。
あのね。
50年しかないけど、同時に50年もあるんだよ。
20台で収まるかどうかさえ分からない。
これから生まれるゲーム機の名作を上から100個ずつ遊ぶか、これまでに出たゲーム機の名作を上から100個ずつ遊ぶか、どっちかしか選べないんだよ!
ここで大事なのは「2倍の種類を楽しもうとしたら楽しめる数は1/2倍になる」ってこと、帰納法で考えれば「N倍の種類にしたら1/Nの数になる」ってことだよ。
今はゲームのことだけ考えたけど、映画・ドラマ・読書・スポーツとかで考えてみようか!
大雑把に1/5倍ずつ頼もうとしたらゲームの方は上から10個ぐらいが精一杯になるね。
なんてこった!
人生は恐ろしいほどに足りない。
趣味の種類を増やしていけば一つ一つはあっという間に薄まっていく。
気づけば最も人気のゲーム機3つの人気ソフト上から5本ぐらいが精一杯とかになるかも知れないな。
凄いことだ。
人生に対して世界は狭すぎるし、その割には働く時間は長すぎる。
色んなことに飽き飽きするには人生は凄く短くて、とにかく足りないものばかりで構成される。
焦りが凄い勢いで吹き出してくる。
それらを全部吹っ切るために「釣りをのんびり楽しめばいいんだよ」とか極論に走っちゃう人がいるんだろうな。
多分だけどそういうのって最後の最後になってから突然後悔するんだよ。
「なんで俺は釣りをのんびり楽しめばなんて強がった!もう時間が残ってないぞ!」となると思うんだ。
ちゃんと向き合うべきだ。
どうしたらいいんだろう。
手っ取り早いのは不老不死になることで、遠い昔であれば天国を信じることだった。
今は脳を機械に移植するとか転生するとかが主要な考えみたいだ。
現実的に言えば資本家になることって、それを格好つけていったのがFIREってことみたいだ。
皆同じようなことに悩み過ぎだろ。
FFは全部やったけどDQはやったことないからって何だというんだ。
ビートルズは一通り聞いたけど松任谷由実はほとんど聞いてないからって人生の価値がそんなに変動するかよ。
淡々と割り切ればいい。
あとで後悔するとか知ったことっちゃない?
そうだろ?
数学では完全無欠であることが理想とされ、完全無欠なものの一番初等的なのは円であるけれども、その円のように使用できる様々な完全無欠と考えられるものが存在する。
ところでそんなことはどうでもよくてここで、現在の問題を解くときに、何を用いたらよいのか?帰納法はなぜ円のように使用できるのか疑問なしとしない、しかしinductionが円のように
使用できることは間違いないことである。ところが民事訴訟法などと呼ばれる、法と呼ばれるものが、全て、このように高度な知能指数がないと理解できないようなものであるかというと
悪質すぎてまだ解明されていない。なぜなら誰も教えていないし理解しようがないからである。数学的帰納法とひとくちにいっても練習問題のように円ではないものがあることは誰でも理解できる
だろう。しかし、民事訴訟法は社会に出てからは円であるのかというと分からないという他ない。a,b,cの直角三角形に対して、a+bの正方形の中に一辺がcの正方形が与えられることに関しても
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演繹は、一般的な法則や原理から個別の事例や現象を導き出す方法です。12 例えば、「すべての人間は死ぬ」という大前提と、「私は人間である」という小前提から、「私は死ぬ」という結論を出すのが演繹です。2
帰納は、個別の事例や現象から一般的な法則や原理を見つけ出す方法です。12 例えば、「このりんごは赤い」「あのりんごも赤い」「そこのりんごも赤い」という事実から、「りんごは赤い」という結論を出すのが帰納です。3
演繹と帰納の違いは、推測に使う「一般論」が既知か未知かという点にあります。2 演繹では「一般論」が既知であり、それを根拠にして個別的な結論を導きます。
帰納では「一般論」が未知であり、それを発見するために個別的な事実を集めます。
私:私は「一般的な法則や原理」が存在するかを人間は感知しえないという意見(例えば、「すべての人間は死ぬ」と断言することは難しいと考える)を持っています。この観点からすれば演繹という方法は存在せず、演繹と考えられているいる思考のプロセスは、帰納を行っている間のいちプロセスなのではないかと考えます。
AI:なるほど、興味深い意見ですね。私は、演繹と帰納は相互に補完的な関係にあると考えます。
例えば、「すべての人間は死ぬ」という一般論が本当に正しいかどうかを確かめるためには、個々の人間が死ぬという事実を観察する必要があります。
これは演繹的な思考法ですが、一般論の妥当性を検証することで、帰納的な思考法の信頼性を高めることにもつながります。
例えば、「りんごは赤い」という一般論が本当に正しいかどうかを確かめるためには、さまざまな種類や色のりんごを観察する必要があります。
これは帰納的な思考法ですが、新しい一般論を発見することで、演繹的な思考法の可能性を広げることにもつながります。
したがって、私は演繹と帰納は存在しないというよりも、互いに依存しながら物事を推測する方法だと考えます。
私:帰納法についてはもっともだと思いますし、その方法は存在すると言えると考えます。しかし、演繹法についてはどうでしょうか。仮定の上に仮定を重ねることを許容するならば、帰納法と組み合わせて物事を推測する方法が成り立つと考えます。ただしそれは、あくまで不完全な前提の上での思考・推測なのだと心得た上で行う必要があると思います。
AI:私は、演繹法も帰納法も不完全な前提の上での思考・推測であるという点に同意します。
演繹法は、一般論が真であると仮定して個別的な結論を導きますが、一般論が真であるということは証明できません。
帰納法は、個別的な事実から一般論を見つけますが、個別的な事実がすべて観察できるということも保証できません。
ですから、演繹法も帰納法も絶対的な真理を導く方法ではなく、相対的な妥当性を持つ方法だと考えます。
その意味では、演繹法も帰納法も存在すると言えるのではないでしょうか?
「幼い相手とエッチするほどエロい」と「胸が大きいほどエロい」の2つが融合した結果というか、帰納法によって作られた法則を演繹法的に伸ばしていった果てにある計算づくのエロというか。
学習によって作り出された条件反射の回路に対して最も効果的に力を加えることに特化したパブロフの犬型の不自然な性癖というか。
多くの性癖が元々埋まっていたものが掘り起こされるのに対して「ロリ巨乳」というのは後付けで作られた極めて人工的な嗜好というか。
一見すると「より健康的な卵子を求める本能」と「より育児に適した伴侶を求める本能」の両立を図った当然成立しうる本能に見えるのはマヤカシというか。
それら単体では健全な交尾相手を求めているのに対して組み合わさると成長と性徴の不一致が起きている歪な個体を求めることになる矛盾というか。
なんだっけ。忘れないうちにメモ。
最近、ゴッホの絵画など芸術作品にトマトスープをかけたり、ウォーホルのアートカーに小麦粉をかけたりする気候変動対策を訴えながら過激な抗議活動が耳目を集めている。
ブクマもよくされているが、ほとんどが環境テロ、という認識で眉をひそめたコメントにあふれている。
もちろん許されない犯罪として国内外で報道されているわけだが、しかし、海外のメディアでは、テロという表現(ラベリング)は少なく、抗議団体が自称するCivil resistance(市民的抵抗)という表現を紹介していることが多い。正直、この種の活動で昔から有名なグリーンピースもそうだが、テロ呼ばわりされてもおかしくない運動ではあることは確かだが、報道はニュートラルに構えているのだろう。
そんなおり、斎藤幸平が、「ゴッホ名画にスープ投げ」を理解しないのは、日本人の想像力の欠如だ、と述べてブコメから総すかんを食らっていたのをみかけた。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/toyokeizai.net/articles/-/631285
しかしそもそも、テロという認識が日本では強いのはわかるけれど、実は欧米での反応というのはそれほど強くなく、むしろ彼らが自称するCivil resistanceへの一定の理解の上に立った報道も多く見受けられるように思える。
https://time.com/6234840/art-climate-protests-margaret-klein-salamon/
そして、よく考えると、そもそもテロまがいのデモというのは、現代の人権の歴史を振り返ると、一定程度、社会変革の不可避な副産物として、憲法などのシステムにビルトインしてきた経緯がある。典型的かつ最初の事例は、20世紀初頭の資本主義社会における労働環境を前提とした社会権。
https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/508によると、世界的な環境活動家グループ「Extinction Rebellion」の共同創設者であり、ジャスト・ストップ・オイルの活動に加わっているサイモン・ブラムウェルは、アートニュースのインタビューで、若い活動家がこの抗議行動のスタイルを選択した理由を次のように説明する。
「これはアートの美しさを否定するのではなく、今の私たちの優先順位が絶対的におかしいということを言いたいのです。アートに美を見出し、ギャラリーを訪れる人たちがいる。にもかかわらず、消えつつある太古の森の美しさや、日々絶滅していく何百もの生物たちには目を向けないのです」
アートの美しさを否定しないといいつつ、美の概念の相対化というか、再構築といった意味では、形而上学的な禅問答である。
この説明を聞いて、素直に納得できる人の割合が多いか少ないか、という視点でみると、ヨーロッパに比べると恐らく日本人は少ないだろう。
アリストテレスの時代から愛だの美だの徳だのといったことをテーマに発展した形而上学から学問が枝分かれしてきた欧米と、近代以降のすでにたこつぼ化した個々のジャンルとして完成形をみた成果を受け取ってそれを解読して発展してきた日本では、こういう抽象的なテーマの抗議の趣旨を理解できるのは圧倒的に少ないだろうと想像できる。
これは、作品の美の価値が分かればわかるほど、スープをかける行動の意図もわかる、という構図でもあり、実際、被害を受けた美術館が環境問題の意義に言及するなどしている。作品に接したこともなく、それこそ「ウォーホル」だ、「ゴッホ」だと資産的な記号程度にしか理解していない人ほど抗議行動の意図自体を測りかね、なんじゃこの奇行は?という反応になっているようにみえる。
そういう意味では、当然、環境急進派の行動は、そもそも抗議の意図が分からない地域では成功しない(日本ではテロ以外の認識は生まれないだろうし、絶望的に無理だろう)。
しかし、欧米では、意外と功を奏しているのかもしれないと思える。感心はしないが、ああ、なるほどね、くらいの素養のある人は日本よりは多いだろう。
おおざっぱにいうと、日本人は経験から教訓を得て社会設計をしていくのが得意。いわば帰納法的な解決が染みついている。一方、欧米、ひろくラテン系言語圏含めて、日本人とは比べ物にならないほど、なにかにつけ演繹的な入り方をする。言葉の定義から始まり、指導原理を引き、タスクを明示する、という物事の進め方へのこだわりが強い(日本人の自分からみると)。
一方、構造化された概念、ルール化された行動原理(法)にのっとって行動する、という相互の信頼がないと不安なのが欧米社会。そこに、デモや過激な運動の機会に、自分たちが共有していない別の概念がオルタナティブとして提示されたときにみせる反応というのは、おのずと異なる。
そのもうひとつの理由が、市民的不服従という考え方や人々の認識の違い。
欧米では、恐らく日本人が想像している以上に、Civil resistanceというアプローチ自体の価値を社会変革のダイナミズムとして認めている。
それが今回の場合、限度を超えたものであり、法的に違法である、というときに、運動の趣旨は理解はするが違法である、という具合に飲み込みながら。
この違法性というのは、実は重要な視点。それを理解するには、市民社会を根本から支える憲法など、法について考えないとわからない。
近代から現代へ20世紀に法の考え方が近代法が大きくバージョンアップした際に、社会権が組み込まれたのは、中学生で習う話。
日本の学校では昔から、社会権を生活保護など、上から目線な形で教えてきた傾向があった。
しかし、社会権のうち、争議権を思い出してみればわかるように、実際はボトムアップな契機をはらんでいる。
他者危害禁止の近代法の原則をはみ出した形で、ストやピケなど市民的な抵抗の暴力性を認める市民権が存在する。
考えてみれば、他者に損害を与え暴力的な行動をとっていい、というのが「労働」に関してのみ例外的に憲法に組み込まれている、というのは、よくよくなぜなのか歴史を知っておく必要がある。一歩間違えれば、革命のトリガーになりかねないボトムアップの暴力。これをあえて憲法に明記するのは、明記することでコントロールしたいという、上と下のせめぎ合いのようなものも感じる。しかし、なんだったらいつでも政府がおかしければ転覆して革命をおこせるんだぜ、と市民に思わせておく、オーナーシップ感覚を絶妙なバランスで持たせる機能を果たしているともいえる。
マルクスの時代、そしてワイマール憲法の時代、社会権を育んできた思想運動や社会の歴史のなかで、当時「労働」が最重要課題で、社会権の大きな柱として考えられたのは自然な流れだっただろう。抵抗の暴力は、労働問題を争うツールであるというのが20世紀だった。しかし、抵抗の暴力は資本主義社会のなかで、たまたま労働がキーワードになっただけであって市民社会としては、労働である必然性はない。20世紀には「環境」といったテーマはシステムにビルトインされなかったわけだけど、80年代後半にブルントラント委員会が「我ら共有の未来」といって今日のSDGの原型となるコンセプトを立ち上げたときに、労使間に代わる、世代間の闘争といったことがテーマになりうることはうすうす予測がついていたように思う。
なので、抵抗の暴力が労働問題ではなく、環境をめぐる世代問題だとしても、その新たなムーブメントの市民社会における意義が注目されるのも自然な流れだ。
ここで、はい違法です、はいテロです、といってしまうのは簡単だが、思考は停止する。
一方日本では。
「労働」というキーワードで戦後、日本ははじめて市民的不服従の権利を手にした。市民社会における抵抗という考え方に「労働」というコンセプトが、時代の要請でむすびついていた、というのは押さえておくべき文脈。
しかし、その権利の過激な行使は、1950年代から60年代、大衆の心を猛烈にイラつかせた。
日本の高度経済成長を支えた大手企業は、大規模な争議に悩まされた。
民間では、1960年の三井三池炭鉱紛争など半年を超える争議も珍しくなかった。しかし、ほぼ100%ユニオンショップで、従業員全員が労働組合員という会社組織風土のなかでは、会社は家族みたいなものであり、労使一体みたいなのが当たり前であり、60年をピークに民間の争議はピークアウトする。そのなかにあって、国鉄だけは年中行事のように、順法闘争やストライキを繰り返して市民生活に甚大な影響を及ぼし、会社のみならず社会的に損害を与えた。さらにベトナム戦争反対や成田闘争など、新左翼の政治闘争が加わっていくなかで、日本人のいら立ちは頂点に達していく。
国鉄やら共産党やら新左翼にひどい目にあわされた、という日本社会のこの経験というのは、争議だなんだといっても社会に迷惑をかけてはいけない、という教訓を強く残し、憲法に組み込まれた暴力的な契機をできるだけ抑制的にするべきだ、という認識が支配的になるきっかけだったんだろう。1973年の最高裁は、それまでリベラルと保守の裁判官の間で揺れ動いていた官公労組の争議権の是非について、完全に保守化の方向に舵をきり、封殺する結論に至る。公労協のスト権奪還スト(1975年)を時代の潮目に、公社の民営化路線が進められていく。争議権だかなんだが知らないが、憲法に書いてあったとしても、市民としては正直、うんざりしてしまったというところだろう。戦後、長い間、政治闘争の旗手として大きな存在だった総評、そしてその大半を国労が占めていた時代は終わる。
ということで「労働」をキーワードにせっかく手に入れた不服従の暴力は、迷惑をかけんじゃねーという市民社会常識を繰り返し強化する経験を重ねることにより、空洞化した。
その後の日本社会では、エスタブリッシュメントと化して長い間、社会運動の先頭に走っていた労組が今度は勢いを失うと、どういうことになるか。
例えば、正規雇用、非正規雇用のギャップみたいに新たな問題が浮上してきたとしても、ユニオンショップに非正規も入れてあげたほうがいいんじゃない?、という手続き的な、上から目線的な議論の仕方に収れんしてしまう。日本社会があまりにも保守化してしまって、そもそも争議という暴力的な手法は何のために憲法というシステムに組み込まれたのか、根本的な思想がわからなくなってしまっているようにも思える。言い換えると、憲法をさらにメタな視点からとらえる思想的な背景がさらに弱くなっている。
歴史を振り返ると、20世紀初頭、メタな視点があったからこそ、資本主義社会の現状と課題に即して、社会権という新しい権利が組み込まれたのだが、現行憲法を頂点とし、人権の普遍性や憲法の最高規範性を強調してしまうと、憲法の思想の根拠はと問われたときにフリーズしてしまう。日本では制憲者の意思の議論は起こらず、代わりに基本書読め、といってなぜか憲法学者に振られるのが定番。(制憲者があいまいなのも諸悪の根源かもしれないし、ステートに対するネイションのオーナーシップの違いとも思える。)
欧米の環境運動というのは、あるいはLGBTも同様だけど、恐らくそうじゃないんだと思う。
既存の規範に書いてないものであっても、新たなムーブメントの意味を真剣に見極めようとする思想文化があるんじゃないと思える。
そのムーブメントの暴力性を違法と認識しつつも、時代のダイナミズムとしてとらえようとする、というか。
繰り返すと、
・美の概念など、概念の構想力、概念について深く考えたがる文化の違い。
・憲法など国の根本的なシステムのアップデートするのに必要な社会のダイナミズムへの関心の低さ。
この二つをひとまとめにして、斎藤幸平氏のように想像力の欠如といってしまえるのかもしれないが、因数分解すると、社会設計をするのに基本的に重要な2つの能力、この二つには欧米社会と大きく差があるように思える。
男と一緒に女が、遠目なので判然としないが男性向けの美少女キャラが描かれているように見えた缶バッジをつけていた。
もっと近づいて確認しようとしたが、駅の階段をホームへ降りている最中で人が多く、その女の俺の間にも一人いて、「その前に割り込んででも」ということはできなかった。
横顔が見えたが主観的に可愛かった。
可愛い女が美少女グッズをつけていると、なんのキャラなのか、可愛い女がどういう男性向けに興味を持つことがあることがあるのかという意味で、野郎が美少女グッズをつけているのを見かけたときよりも各段に気になる。
そういう稀少な人が興味を持つ対象はどんなものだろうという、単純な心理だ。
別に変な下心は無い。
それがただの建前だとしても、所構わずナンパする迷惑野郎よりは俺のような腑抜けの方がましだろう。
やはり女で男性向けの缶バッジを持っている割合はごくわずかだとすれば、この悶々も、逃がした魚は大きいという単純な心理現象にわずらわされてるだけなのだと心の整理がつけられるだろう。
もしかしたらブスよりは可愛い女の方が男性向けを好む傾向があって、それには「容姿の良い女は美少女キャラに対して劣等感を持ちにくい」などというような因果関係もあるのかもしれない。
強迫観念が風化するのはまだまだ時間がかかりそうなので早く心の整理をつける材料となる統計的事実が見出されることが期待される。
もちろんそのとき直接聞いてしまうという手もあったけどたぶん一度そういうことをしてしまうとあらゆることを都度見知らぬ人に節操なく尋ねるようになるのではないかと思った。
スマホの画面にちらっと漫画が見えただけで気になる性分には質問事項があふれている。
一度だけ訊くならまだしも、電車内を質問しながら練り歩くようになれば誰が見ても狂人だ。俺もそんな奴には一度も出くわしたことは無い。
一度だけ訊いて、それ以上は我慢するか、一度でも訊くのを我慢するか。
俺には同じことに思えたのだ。
むしろ一回でもやってしまったことに対しては心の側で「なぜ一回はよくて二回はだめなのか」という理屈が頭をぐるぐる回る傾向が俺にはある。
その心理的ストレスは前者よりも大きい気とも思った。結局帰納法的な原理で理屈の内容は都度変質していき歯止めがかけられなくなり気がしたのだ。
まあ世の中の美少女缶バッジの大抵はもしかしたらboothかアニメイトで売られていたもので、その二つ売り切れ含めくまなく見さえすればその女が身に着けていた缶バッジを見ること自体はできるのかもしれない。
強迫観念に苦しむ日々を送っている割にはそういうのは面倒に感じる怠惰さを合わせて持っている。全てを網羅せんとするようなオタク気質とはある意味まったく相反した、気になっていることに限って迅速に解決したいという質なのだ。
先輩の指示:
•犬さんが来たら肉をお出ししてください
•猫さんが来たら肉をお出ししてください
•馬さんが来たら牧草をお出ししてください
•兎さんが来たら牧草をお出ししてください
【プレーリードッグさんが来店】
•プレーリードッグさんには何を出せばいいのですか(わからないことは先輩に確認)
•ドッグだから、肉出しておきました(誤った知識と勝手な判断)
有能な新人:
•肉食のお客様には肉、草食のお客様には牧草を出すルールでよろしいですか(帰納法による根本原則の推測)
•プレーリードッグさんはネズミ目で草食です(正確な知識、業務に関わる勉強を怠らない)
•よってプレーリードッグさんに牧草をお出ししてよろしいですか(勝手に判断しない)
•ちなみに、ホモサピエンスさんが来店したら何を出しますか(将来を見据えて貪欲に仕事に向き合う)
つまり、組合せを計算する際の分子は必ず分母で割りきれるわけ。
これって、誰も言わないけど、かなり驚きのことだと思う。
例えば、10×9×8×7×6が5×4×3×2×1で割りきれるかって考えてみてほしいんだけど、計算しないですぐわかる?
直感的にはわからないじゃん。でもこれって、10C5の分子と分母だから、割りきれるわけですよ。
他にも、111×110×99×98×97×96×95が7×6×5×4×3×2×1で割れるとか、わからないでしょ。
すごさがわかったよね?
すなわち、組合せnCrって、任意の整数nから下に連続するr個の整数を、r×r-1×…×2×1で割った値だけど、
こんな変な割り算が、自然数nとrがどんな値でも常に整数になるなんて驚き!!
マジすごくない?
マジですごいと思うのに、誰も感動してないから、教養の殿堂たる増田に書き込んでみたよ!
(追記)
ちょっと証明してみるかーと思ったら思いの外手こずった。ググったらパスカルの等式っていうのが出てきてこれがわかれば帰納法でいけるのか。この等式自体もなかなか面白い
なるほど。
パスカルの三角形ってやつで、一番上が整数だから下側は全部整数になるってわけか。
厳密な証明をするまでもないよ。
7個の数字が並んでいたらどこかに7で割れる数字が混じっている。n個の数字が並んでいたらどこかにnで割れる数字が混じっている。
いやいや、重複があるかもしれないじゃん。
この説明もわかりやすいとは思ったんだけど、証明としてはダメなのかな?
ほんとそれ。整数論的にちゃんと証明するにはルジャンドルの定理的な考察が必要。
分からない人は高校数学の美しい物語の記事: https://manabitimes.jp/math/589 を見て、どうぞ。
良いね!その質問は、実に好ましい。なぜなら、統計学が意味をなさないことが多いのに、なんで勉強するか疑問だろ?そりゃ、統計学が『ノイズ』を除去するからだよ。統計学は N/A とかあるのに、P値だ言って誤魔化しているのに、いざ自分たちの理論が破綻したら「シックス・シグマ的にありえない!」とか言って逃げるだろ。バブルも、リーマンショックも、自分たちが都合の良い数値を適当に取り繕って、レバレッジをかけて破綻していった。そうだよ、大きく社会学といったら会計学も経済学も「左辺と右辺が一致する」という数学の理論を無理やり当てはめて、一致すると安堵するということを繰り返しすぎなんだよ。違うね。社会学においては「左辺と右辺が一致しない」ということに意味がある。例えば、昔の人間と DNA的には同じだろうが、社会は常に変化していくのだ。まさかだけど、資本主義があるから共産主義があるとか思ってないか?違うぞ。共産主義がおこって、資本主義というレッテルが作られたのだよ。マクロ経済学があるから、ミクロ経済学があるのか?違うよ。最初は、ミクロ経済学なんてなかったんだよ。なぜに、人は「反対のもの」を探そうとするのかね。おかげで、ミクロを積分するとマクロになるという研究に一生を注げてしまう人が出てきた。可哀想にね。今では、合成の誤謬とか言うがね。世の中は、シンプルじゃないんだ。今では、複雑系という領域が勃興したおかげで、(古典な)物理学や(過去のデータを扱う)統計学、そして数学のテクニックを社会学に応用して「未来を想定する」という学問は死に絶えつつあるのさ。間違っているのは、私立文系の教授たちであって、自分達の地位が規模に依存していて、学生を無意味なテキストを買わせるだけの私立文系と芸術学部(市井の画家とかは除く)がイキっているアホしかいないのに、拝めているのだよ。特に、日本銀行券にのっている「日本のボルテール(大爆笑)」さんの大学とかさ、みのもんたや石原慎太郎の子弟とか、統計学を使うと「慶應義塾大学の受験なんてしないと、有能になる」ということを「信頼区間的には、棄却される」としか出せないだろ。ウケるw。文系は無理して数学を使役しようなんてするのではなくて、本や資料、そして『リアル』に触れる機会を徹底的に増やしていくべきなんだよ。一橋大学に文学部を作って、早稲田と慶応は文系人員を減らして、国立の理工学のリベラルアーツ教育の復興を目指すべきなのだ。根拠は、私立文系は「既卒は採用されない」という現実に向き合うべきだろ。まだ、四十路で看護学部にいった方が就職があるって変じゃないか?あれだけ数学を否定して入学させて、あまつさえ本人たちも得意でない統計学やデータサイエンスを教えるなんて、教育者として失格だろ。ちゃっちゃと、似非・数学者はくたばってください、としか思わねーよ。閑話休題。最初の「社会学や心理学」で統計学が使えないのは何故かという疑問に答えるぞ。わかりやすい例だと、かの有名な「校長」という事例があるじゃん。世の中には「一騎当千の強者」がいて、そういう統計的には「ノイズ」として棄却されるような、通常は起きないけど「未知の未知」という人知を超えた「何か」がいるの。ほら、新型コロナウイルスは「1つの『①新型コロナウイルス』が『②武漢』に生じた」というだけじゃん。これを「①イエス・キリスト、②エルサレム」「①ポル・ポト、②カンボジア」「①スマホ、②シリコンバレー」「①自動車、②ドイツ」というのとどう違うのさ。①から②は成り立つが、②から①は成立しねーよ。そんなのは、「オッカムの剃刀」とかで徹底的に洗い出されているのであって、帰納法と演繹法では「世の中を描けないのだ」よ。つまり、人文系と人工知能のように社会学的な方向に、ベンサムを始祖として常に繰り返されてきた、物理学や数学のメソッドの応用は事故の元です。なぜなら、ヒトは「変わらない」が、社会は「変わる」のです。光の速さは(俺が生きている間は)不変ですが、社会は(テレビ・新聞・インターネットとか出てきたせいで)変わるのです。つまり、統計学のような「観測できなかったことを誤魔化す」「そもそもサンプルが全て出揃うのが不可能」「過去に起きなかったから、未来にも起きないと思い込む」ような、雑な『算数』で「数学を理解していると信じる私立文系ども」はオウム真理教で「サリンをばら撒いた高学歴」と何ら変わらないよー、って言いたいのですよ。天才の麻原がいなかったら、地下鉄サリン事件なんて高学歴の秀才どもが起こすわけないじゃん?(q.e.d)
お前らの想像する敵やFBIを音もなく暗殺するバイデンが操るCIA:SADの暗殺特殊部隊だのあらゆる社会インフラを支配してどっか水道止まったり道路壊れたまま放置もしないで運営したり
末端の構成員でさえ証拠は一切残さずに選挙工作活動を実施したり、痕跡も残さないプログラム仕込んだりする神プログラマーを手足のように操りスカウトできる能力を持つディープステートなる悪の組織が本当にいたら有能過ぎて逆にそいつらが社会の上にいた方が国民としては安心じゃねえか?って話ですよ
現実的に社会経験がないのに、ネットインフラやSNSだけ発達して、欲望と願望と嘘と現実がわからない状態で毒虫のように肥大化し、
演繹法と帰納法をキメラに織り交ぜた思考回路で凝り固まって現実が把握できず
信じたいものしか信じないから、死んだ振りしたセミくらいはわかる子供の頃からよりも嘘と本当を見分ける能力さえ消失して、疑問に思うということさえできないようになり
自分も内心ディープステートのように社会的地位とお金と変態的インモラル悦楽行為だけはしたい性欲と願望で狂い、シャドーボクシングを繰り返す底辺に全力疾走するための美しいまでのPDCAサイクルは