はてなキーワード: アサド政権とは
アサド政権においてシリアのクルド系難民は主にトルコに難民として流入していたが、日本に来ているクルド人の問題とはほぼほぼ関係ないぞ
シリアのクルドはトルコに逃げた難民か、反アサド勢力の一つとしてPKKやアメリカの支援を受けていたシリア民主軍がいるが、今回のアサド政権崩壊においては用を為さずにむしろアサドに一部協力をしていたという情報がある
どのみち本筋ではない
狙い目だったね〜。
ロシアは動けないとしても、代わりにイランがなんとしても支えるかと思ったが。ちょうど幹線道路を塞ぐ形で米軍基地があり、イラン-イラクが干渉できないようにされていたという話を聞いた。
アサド政権に勢いがあったときのイドリブのHTS勢力の掃討で、トルコの仲介で停戦合意が成立したが、結局、ウクライナで動けないときにトルコに後ろを刺される形になった。
でもこれからどうするつもりなんだ?
HTSってISIS系列でしょ?このあとHTSとシリア民主勢力とクルド勢力とラタキア中心とするアサド政権残存勢力で血みどろの内戦を繰り広げる未来しかみえないのだが。
ロシアはロシアでシリアの楔がとれたとのと、中途半端な停戦するとこうなるという教訓にしてウクライナは徹底的にやるという結論になるとおもうのだが。
どう着地させようとしてるのか全然見えないんだが。
特に左派はパレスチナ応援アピールのパレスチナ国旗マークやスイカアイコンを掲げながらどうして無関心でいられるのだろうか
アサド政権はこの10年でサリンなどの化学兵器を用いた大量虐殺や、多くの対立者を刑務所に送り片っ端から死刑にするなど、数十万人のシリア人を死に至らしめており、冷戦後で見ても最悪の指導者だったが日本では岩波がアサド政権のプロパガンダを垂れ流したりしていた影響なのか、状況がよく理解できていないようだ
今回のシャーム解放機構による宗教や民族や外国に依存しない政権打倒はそれこそ韓国のデモなんかよりもよっぽどすごいことで、ロシアとイランとヒズボラの弱体化が生んだ奇跡とも言うべき出来事なのだが…
[追記]
そもそもシリアの事を知らない人が多いようなので、端的にわかりやすく識者のアカウントをいくつか紹介しておきます。信頼できる人、留保がいる人、プロパガンダな人と色々いるので見比べるといいと思う
〈信頼できる人々〉
アサドとプーチンを追ってきたジャーナリスト。シリアについてフラットに一番詳しいと個人的には思っている
・石田昌隆
リベラル写真家。中東には以前から詳しく、特定のイデオロギーに偏っていない貴重なリベラル
・直立演人
・露探【円谷猪四郎】
・内藤正典
トルコをメインとするイスラム学者。トルコについては信頼がおけるがシリアに対してもトルコ寄りの視点なのは留意しないといけない
・異常者
イスラエルを中心とした中東事情に詳しい現地人物。視点としては基本的にイスラエル寄りだがイスラエル全支持とまではいかない
〈信頼出来ない人々〉
・青山弘之
アサドべったりのプロパガンディスタ。アサド政権と深い関係を築いていた
https://news.yahoo.co.jp/expert/authors/aoyamahiroyuki
・青木健太
・篠田英朗
シリアやスーダンは招待してるという点をみれば「政治的な理由ではない」というのは長崎市長の本心のように見える。リテラシーが高いはてなの人々には説明するまでもないだろうけど、両国ともロシアとつながりが深く、アサド政権は特に露軍の協力なしには政権を維持できないし、化学兵器まで使って市民を虐殺してる。それを招待しているのだから、「政治的な理由ではない」のだろうよ(あるいは長崎市職員一同ただの無知かもしれないが)。しかし、対外的に(対国民にむけても)納得を得られるような形でそれを表現できているかというと、全くそうはなっていない。外交の権限がないのに外交の真似事をやってるからこういう中途半端で無責任なふるまいになる。
イスラエルは批判されるべきだし、ロシアと同列の扱いもそれ自体はまったく不当ではないが、
「政治的な理由ではない」「式典を厳粛な雰囲気の下、円滑に行いたい」では対外的な理解も譲歩も尊敬も、何も得られないんだよ。
それどころか「G6」の「いや政治的理由でしょ」という批判にまともに反論できない。だからイスラエルの非道を強調して「イスラエルが呼ばれないのは当然だ」という点に日本人の意識がむいてしまう。そもそも大半の日本人はスーダンで何人死のうが気にも留めてないし、シリア大使とイスラエル大使が仲良く並んで参列したところでしったことじゃないんだよ。でもダブスタクズ野郎が部分的には理のある批判を向けてくれば感情的な反発が生じる(外務省もこの辺の国民感情の機微をよく理解してない節があるが…)。で、結果誰が得する?中露でしょ。本当に愚かな自殺点だよ。もちろん米国からみても日本との関係悪化は対中競争にマイナスだし、やや古い言い方だが「第三世界」からどうみられるかという点でも大いに失点だが、これはもういまさらという気もする。
右か左かの問題じゃなくて、「とりあえずアメリカだけが悪い事にしとけば全て解決」という思考停止が問題なんだと思う。
全部じゃないけどある種のリベサヨは、「戦争に反対している」というポーズをとりながら実は戦争そのものには反対してなくて、とにかく「アメリカの悪口を言いたい」それだけなんだよ。
しかしあいつらはアメリカが戦争でやった事だけはボロクソ貶すがロシアその他の国が同じ事をもっと大規模にやってもスルーか擁護する。
本当に戦争そのものに反対してるならどちらも平等に批判するはずだ。
だが、アメリカが学校や病院を誤爆で空爆すれば大騒ぎするが、ロシアやアサド政権が学校や病院を故意に狙って空爆してもスルーか擁護か、果てはなぜかアメリカのせいにする。
べつに「アメリカは誤爆しただけだから許してやれ」とは言ってない。
よって、ましてや故意に民間人を狙って虐殺したならもっと激しく批判されるべきだ。
つまり彼らが批判するのは「戦争」ではなく「アメリカ」なんだよ。
普通に考えて、特定の国家に対して異常な憎悪を燃やす人間が大勢いるのは、「戦争」に向かう第一歩だよ。
しかしクソなのはネトウヨだけどそれ以上のクソの上に「ヤベー」のはリベサヨの中の反米極左だよ。
マトモなリベサヨはヤバくないが反米極左はネトウヨよりヤバい。
ネトウヨどもの韓国や中国に対するヘイトスピーチは非常に醜く擁護する余地はないが、とはいえ奴らは「中国ともう一度戦争しよう!韓国を再び植民地にしよう!」とはけっして言わない。
なぜネトウヨが嫌韓嫌中になったかというと、韓国や中国が、過去の戦争や侵略の事で日本に反省を求め続けるのが「非常にしつこい」と感じてるからなんだよ。
加害者側がどう感じようが正当な主張だけどな。
しかも加害者側が「もう戦争も侵略もこりごりでござる」ってなったんだから、しつこく批判してきて正解だったわ。
他の国の極右やネオナチにつきものだけど日本のネトウヨにだけは無いのが「拡張主義」だ。
今ロシアがやってるように、過去に一瞬でも自国の領土だった土地は全て我が国が取り返す権利があるとして周辺国を威嚇するのがたいていの国の右翼なんだが、日本のネトウヨだけは、韓国中国の非常にしつこい(だが正当な)謝罪要求にウンザリしてて、
あんな国々を侵略してまたしつこく批判されるのは二度とゴメンだと考えてて、拡張主義の発想そのものが無いのが特徴なんだよ。
そこいくと反米極左は「チェ・ゲバラが、日本は原爆落とされてなぜアメリカにやり返さないんだ?と言った!」とかそういう話が大好きだよな?
そこまで行かなくとも、暴力を伴うヤベー動きをする危険性があるのは、ネトウヨよりも反米リベサヨの方だよ。
あとリベサヨのアホな勘違いは、これはそこまで反米極左でもないマトモなリベサヨでもやりがちな間違いなんだが、
ネトウヨはアメリカ嫌いだし、欧米とか白人とかキリスト教とかまとめて嫌いだぞあいつら。
ネトウヨは自由・人権・民主主義・反差別といった「近代西洋の価値観」に反発してるからネトウヨなんだよ。
上から目線で価値観を押し付けられてるように感じて嫌なんだよ。
だから「アメリカから押し付けられた憲法を変えろ」と主張してるんだし
ネトウヨが中国や韓国を嫌うのも、リベサヨが考えてるような「白人様に媚びへつらいアジア人を見下してる」とかの理由とは全く逆で
同じアジア人でありながら中国人や韓国人は家畜化された日本人と違ってデモとかで激しく自己主張したりいろいろ意識が「西洋化」してるように見えるから気に入らないんだよ。ネトウヨにとっては。
以下のくだりが、とても印象的だった。
その時にわたしの出身地の名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。
その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分も神戸出身でさ」と言われた。
恥ずかしい話、「神戸出身だから」と言われて私は何も分からなかった。
私は自分が地震と津波の被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。
「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。
その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
ひとの災害経験というのは、ほんと様々で、一概にかわいそうな被害者としてのっぺらぼうな面をみるわけにはいかないよね。
自分だけが被害者面していたかも、という気づき。こういうちょっとワンクッションおいて、時間が経って考えること、こういうのが大切なんだと思う。
ただ、被害者という言葉で共通項を見出したとしても、阪神淡路大震災を経験したひとと、東日本大震災を経験した増田がこうして、何かのきっかけでお互いの体験の共通部分に触れようとしたときでさえ、お互いが経験したものの奥行や背景は全く違う。でもそれは、もっと言葉を交わさなければみえてこないもの。
多分、増田は上記の言葉を交わしたとき、その手前でふと立ち止まって考えたんだと思う。
ひるがえって自分の親戚の話。自分語りをトラバに混ぜるのはなんだかな、と思うところもあるが、テーマの性質上書かせてもらう。津波から数日後、東北のもっとも大きな漁港のひとつで、親戚が経営していた漁業関連会社と生産工場が全滅したとの一報を受けた。一方、杜の都に住む息子娘世代は全員無事だったという朗報にほっとしたことを思い出す。
しかし、それよりも震災から半年くらい経って、父が一言つぶやいた言葉のほうが忘れられなかった。
他界した親戚一家は、さかのぼると、昭和8年の津波の前から漁港で生計を営んでいた。1933年の津波で多くの財産を失った親戚は一から再建する際に、同じ場所でやり直すのはやめるべきだと再三にわたって、周囲から助言されていたという。しかし、結局、同じ場所で人生をやり直し、次世代が引き継ぎ、そして次第に事業規模が大きくなり、津波の記憶が遠ざかっていくなかで、そのまた次世代の方々が財を成し、地元の名士として羽振りよく、親族のなかで存在感を持つに至る。そんななかで、半世紀以上前、東京に出て行った東北の令嬢が結婚前の父と出会う。
大切な令嬢(大地主の長女)をどこの馬の骨ともわからないよその県の小作人の末っ子風情に嫁がせるわけにはいかない、という大反対の嵐。本家筋からなにから親戚中の冷たい目線。結局、結婚は許されて、父は母の家系に婿として入ることになるのだが、その時に受けた屈辱を忘れられないらしく、東日本大震災で全滅した親戚に対して、天罰、という言葉で自身のつらみを含ませて表現したのだった。
父にとっては、かわいそうだね、では決して片づけられない感情。
個人的には、なにより、貧しい者も栄華を誇った者も等しくなぎ倒した大津波の、客観的な、物理的な力に圧倒せざるを得なかった。
たとえ、誰と震災の経験の話をするとしても、このようなパーソナルヒストリーの違いによる温度差は避けることができない。そう思っている。
震災を経験していようがいまいが、あるいは同じく焼け出された隣人でも同じではない。大地震大津波の破壊力を前には、あの家は無事だった、無事でなかった、そういうさまざまな経験がそれぞれにあるにすぎない。
こうしたファミリーヒストリーな視点でそれぞれの思いがある一方で、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
という上司の言葉。そして、「やっと気づいた」という言葉。このつながり方は、大変興味深い。「あの年は~」というのは個々の経験の違いを超えた、歴史を振り返った俯瞰的な総括を含んでいるからだ。1995年という時代、そういったマクロな視点での気づきをもたらすのも災害だ。
そして、それが何かの理由で、自分自身のファミリーヒストリーや神戸出身者とのちょっとした会話と結びついたのだとすれば、それは自分のある意味「かわいそうな」私的な思いを、歴史の一コマのなかに着地させようとする、そういう覚醒だったのかもしれない。
実をいうと、よりマクロな視点で、それぞれの災害にはそれぞれの社会的な背景があり、その脆弱性が被害を増幅させている、という視点を最初に提起したのは、阪神淡路大震災だった。
1990年代以前は、災害被害者というのは、災害管理の文脈で救援対象として、比較的ステレオタイプに捉えられていた。しかし、その認識を大きく変え、都市の社会構造の脆弱性に関心が高まったきっかけが1995年の震災だった。こう書くとなにやら上から目線風だけど、阪神淡路大震災が自分が仕事として防災の世界に入るきっかけを作った。
神戸の都市としての成り立ちは、明治の初め、神戸港が開港された時から始まる。以降、港湾労働者が多く流入、低所得層が脆弱な埋め立て地や条件の悪い内陸部へ集住するようになる。他方で、20世紀の鉄道の時代に入ると、阪神間の交通網が充実し、六甲山ろくに高級住宅地が開発されるようになる。高度経済成長期には六甲の開発で切り崩した丘陵地に住宅地を建設、その残土で海岸が埋め立てられ、工場用地や港湾建設が進められていく。おりしも公害問題が深刻化した時代、都市の生活環境はますます深刻化していった。そんななか、オイルショックを契機に産業構造の転換という時代の変わり目を迎え、神戸の産業のシンボルであった造船、鉄鋼は停滞してゆく。それは関連する神戸の零細地場産業を苦境に陥らせ、今度は人口流出が起こり都市部の空洞化が始まった。都市部に残っているのは、流動性の低い層つまり高齢者、低所得者ばかりとなった(インナーシティの形成)。
これに対して1980年代、神戸市の政策的な対応としては、財政問題の打開が先行した。バブル前の当時の考え方では、大規模開発こそが地域経済の再生をもたらすと信じられていた。埋立地の利用による、ポートラインラド、六甲アイランド建設、物流機能強化のための明石大橋建設、最先端技術産業の誘致、ニュータウン建設など、新たな付加価値の創出が事態打開の切り札だった。
その一方、社会の脆弱層への支援、行政による市街地の再生は後手に回っていた。
オイルショック後の産業構造の転換で取り残された低賃金労働者の町、老朽化の進んだ木造住宅密集地域、長屋建ての住宅の占める割合の多い市街地(長田区のスラムのようなオールドタウン)は新陳代謝が進められなかった。地震対策の上でも洪水対策の面でも取り残された街となった。どのような地域であったかは番町地区で検索をしてほしい。
このような経済格差や脆弱性が生み出された、マクロな構造変動のなかで襲ったのが1995年の大地震であり、被害が社会経済的に脆弱な人々に集中した。暴力団員が懸命に救助活動していたエピソードを覚えている人もいるだろう。そういう街だった。
社会学的な視点でみれば、この地震の教訓として、被害が高齢者、低所得者に集中したのは、ある意味、歴史的必然だ。格差が生み出された背景などのマクロな政治的・経済的な動向と切り離せないということだ。
そして、このような格差や脆弱性という切り口でみる構造分析は先月発生したトルコとシリアの大地震でも、当てはめることができる。
このように、可哀そうな存在というのを社会学的に脆弱性として構造的にとらえる、ひとつのきっかけは、やはり他の災害を知るということであるし、昔の災害を知るということだと思う。
パーソナルヒストリーとしてお互いに触れあうことで、お互いに違うバックグラウンドにあることがうすうすわかってくる、それもまた、大切な気づきなのだと思う。
また、パーソナルなコミュニケーションが、例えばまさに「通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね」みたいな会話、これが実はマクロな特性を知るうえでも、その人のパーソナルヒストリーをしるうえでに、もっとも重要なエントリーポイントだったりする。仕事上、ひとから話を聞くときにいつも気に留めていることでもある。
だから、トルコとシリアで現在進行形の震災について全体状況を大きな視点理解している国際機関よりも、よりミクロな視点で、特定の家族や地域の人たちにコンタクトがとれる小規模のNGOや支援団体に私自身は微力ながら支援金を送付している。たまたまシリア難民支援をしている人と知り合いの知り合いくらいの関係でSNSでつながっていたのがきっかけだ。アサド政権が物資を止めてしまう現状も現地の声としてより関心を持つようになった。そのほうが確実に、受け取った人の顔がみえ、困っている状況がミクロにもマクロにもわかってくる。自分が支援したお金が支援先の一家族あたりの支援額(しかも第一バッチ)の1/4にも満たないことを知る。こういうことも大切だと思う。
そのように、何かをきっかけに、他の災害に対して接点を持つ機会を大切にしたい。
というのは、居酒屋のトイレの洗面所とかで何気なくかわす会話、とか想像していたのだけど、そういうのが大切だよね。そういうのが心の残って覚えている、ということがさ。もちろん完全にひとのことを理解するなんてことはどんなに会話を交わしてもない。でも覚えてさえいれば、そのなぜか覚えていた思いを何かにつなげることができる。その「きっかけ」というのはとても大切に思う。
災害を忘れない、というのはそういうことだと思うので。