はてなキーワード: ダダ漏れとは
mRNAワクチンは死亡率を下げるものであり、マスクは感染者からの感染拡大を低減するものだからだ。事態が進行中の時点において、医療者インフルエンサーで、「感染予防」という発信をしたひとはいたはずで、それは文字面だけみて「誤り」を発信したひととなったかもしれない。
感染予防という誤情報によって未接種者はウイルスをばらまく人殺しだと批難し、特に若者に対してリスク・メリットを大いに錯覚させ、すでに知られていた心筋炎リスクすら河野太郎や山中伸弥のようにデマ扱いしてまで呼びかけ、結果無為に若者の死者や重症者といった薬害を出すのは「近似的に目的に合致していた」からリスクコミュニケーションとして正しいらしい。
しかし、ふたつめ以後は、リスクコミュニケーションとして、不適切な部類に入る。ふたつめの安全安心なる表現も制度的介入行為になじまない。あらゆる医療的介入にはリスクとベネフィットがある。その勘案として専門家がリスクをベネフィットがうわまわると判断し、それを国民も承認した、という形になっている。不服があるなら民主的に議論する必要があるが、その議論はあくまで、クリティカルになされるべきである。
何言ってるのか全然わかんね。選挙で選ばれた政権与党が出した方針に対して選挙で選ばれたわけでない尾身茂をははじめとした専門家会議が逐一「了承」し、気に入らなければ五輪反対のように政治介入する体制が民主的だったとでも?
マスクは感染予防効果があるんですか! と言い募るひとと議論はできないだろう。先に書いたように、未感染者に飛んできたウイルスの感染をマスク着用で低減するとは言えない。しかし、感染者がウイルス感染を拡大させるのを阻むためにマスクは有効だ。「文字面」というのはそういう意味だ。マスクは有効だった部分があると思う。したがってコロナ禍においてマスクは有益だったと評価したい。
ワクチンについても、ワクチンを打てば感染しなくなることもないし、感染拡大を妨げることもないが、感染したことで死亡するのを防ぐ効果があるものだったと理解している。これも、感染(発症)予防という文字面からは誤りとされるが、しかしコロナ禍においては同様に重要で有益だったと評価している。
「重要で有益だったと評価している。」[要出典][誰によって?] 結局、マスクもワクチンも有効だったと思い込みたいというのが言葉の端々からダダ漏れだけど大丈夫なん?『米国上院の報告書』読んでみたら?
つまりこういうことだ。「ウイルス飛来→感染→発症→死亡」という症状進行のステップと、「ウイルス飛来→感染→ウイルス複製→飛沫発生→感染拡大」という再生産のサイクルのどの段階に効いているかをあいまいにした議論は無効だと言っている。mRNAワクチンは症状進行のステップの最後の発症から死亡への矢印を抑えるものだったし、マスクはここでの再生産のサイクルの飛沫発生から感染拡大という矢印を抑えるものだった。
何言ってるのか全然わかんね。結果がすべてだぞ。日本よりマスクもワクチンも早々に辞めた諸外国が地獄にでもなったのか?
そういえばこの「ワクチン的利用」という表現も注意が必要なのだ。finalventにとってワクチンというのはあくまで「獲得免疫」を介した「感染・発症防止」に関するものとしてあり、感染(発症)を抑えることはできないmRNAワクチン(あるいは彼の表現を用いるなら、mRNA医薬)というのは、確かにその文字面としては正しいのはわかる。ただ、それは文字面として正しいだけなのだ。mRNA「ワクチン」を活用した企業・医療が、「ワクチン」という、ジェンナーの種痘以来のイメージに乗っかってプロモーションしたのは事実だ。それに対して文字面で批判したくなる潔癖の気持ちは、わからないといったら嘘になる。わかるのだ。
何言ってるのか全然わかんね。mRNAワクチンが従来のワクチンと一切の機序を異にするのは「文字面」の問題じゃないぞ。
でも、大事なのは死者を出さないことだった。その方針が、経済を妨げてまで行う必要があったのかどうかは、民主的な議論の俎上に載って然るべきものだが、それは本文で述べることではない。
生命と経済や文化との兼ね合いを勘案しないでどうやって生きるの?それをしない論って意味あんの?ていうか「民主的な議論」って何?
元ツイートはもとより、finalventのツイートもまたやはりリスクコミュニケーションとして不適切な部分が大きい。文字面としてだけ妥当するにすぎず、コロナ禍という事態の問題設定を捉えそこねているのだ。
まともな問題設定ができてないお前が何いってんの?経済や文化との兼ね合いを無視していいなら、あらゆるリスクを極大にとるのが正しいリスクコミュニケーションになるけどそれでいいの?じゃあなんでワクチンのリスクに関してだけは矮小化することが許されるの?
散々擦られたネタかも知れないけど、まあやっぱり最大の特徴は「自分は騙されないぞ!」って意固地になってるってところだよな。
そんでもって、こういう人が一番に陰謀論に落ちる瞬間って、「うわ!騙されてた!」って感じた瞬間だな、と。
最近、地域の再開発説明会に参加してるんだけどさ、話が長いじいさんがひとりいるのよ。
で、そのじいさんっていうのは、「私だけが気づいている真実がある」って感じでずっと喋り続けるのだけど、周りからすればそんなことはわかった上での今の話し合いって感じで、いつも白い目で見られてるわけ。
普段ならいいんだけど、たまに本当にその人に感化されちゃう権利者さんとかがいて、そうなると周りは否定を始めないといけなくて、それっていわゆる「ないことの証明=悪魔の証明」なので、どうしても説明する側の根拠が弱く見えてしまう。
お察しの通りそうなればそのじいさんはますますエスカレートして、で、結局説明する側は持ち帰るっていう手段しか残らない。
そこまではいつもの風景なんだけど、この間の会合で、「あ、この人今フィルターバブルに落ちた!」って如実に感じる瞬間があった。
それが最初の「うわ!騙されてた!」って実感しちゃった瞬間だったわけ。
いつものようにそのじいさんが主催側に質問を投げかけてたんだけど、じいさんにしてみれば外堀を埋めるような感じで質問を投げてたっぽくて、それでいくつかの条件が揃ってしまったんだと思う。
それに対して主催者側が返答に詰まったと感じた瞬間に、じいさんの語調が明らかに気色ばんだのよ。
「そらみろ!わしはお前らの欺瞞を暴いたぞ!周りもよく聞け!これがこいつらの正体だ!」って、直接口にしたわけじゃないけど心の声が漏れまくってたわけ。
事実は全然違うのよ。理解がある人間は全部わかってるから、面倒くさいだけなので否定もしないだけ。
でもその沈黙さえも彼にとっては自らのたどり着いた真実を後押しする状況証拠としか感じられてない様子で、どんどんと目がキラキラしていく始末。
「相手が権威側である。」「我々の権利を食いつぶそうとしている。」「そのためにいろいろな手段で権利者を騙そうとしてる。」この辺り、陰謀論を疑うための事前条件が揃ってたってのもあると思う。
多分、自分が映画の主人公にでもなったような感じだったんじゃないかな。
抑えきれない高揚感がダダ漏れになってる感じで、ものすごく興味深かった。
この人の場合は「ネットで真実」ではなかったんだけど、自らが疑っているものに対して自分だけが真実にたどり着いちゃった系の啓示を受けとっちゃった感がすごいのよ。
これは素直にうわーって思った。
まぁとっくに向こう側に行ってただけなのかもしれないけど、こうやって人は自らが進んで陰謀論に飛び込んでいくんだなって瞬間を見れたのは正直貴重だと思った。
めでたくその人はバケ物化しちゃったわけだけど、これで今後の再開発が大きく足止めされることが決まったような感じなので、これからどうなっていくんだろうねぇ。
身バレしないように詳細は伏せたけどおそらくどこにでもある話なんじゃないかな。
普段から騙されないぞって意固地になっている人が、いざ「やっぱり騙されてた!」って感じてしまったときは、磁石のNをSで押し出すくらいに簡単に陰謀論側にすっ飛ぶんだなって瞬間を見れた貴重な経験でした。
みんなも気をつけてね。
自分の体験で言うと、そもそも若い時から内面はヤバい部分が確実にあった。
異性にちょっと好意を持たれただけで勘違いして距離を詰めてしまったり、
つまり若い時はそういう言動があったとして許される部分が多い。
問題はなにかというと、独身のままのおっさんは客観性を維持する機会が圧倒的に減ること。
結婚などして子供を持ったり家庭ができると自身のステージの変化が分かりやすく、かつそれが日常になっていく。
独身でも少なからずそう感じる出来事は増えていくが、家庭を持つほどの継続性はなかったりするから刷り込みが薄くてすぐ忘れる。
そうやって30代くらいから徐々に客観性を見失っていった積み重ねが、悪い意味で花を咲かすのがたぶん40~50代くらいなんじゃないだろうか。
簡単な話「他人に今どう見られてるか」すら意識できなくなっていくのだ。
なので狂っていくのではなく、本来どんな人でも持ち合わせるべき「他人に対しては隠すべき、我慢すべきもの」というのがダダ漏れになりやすいという事だと思う。
(ストーカー行為に走るとか社会的に明らかにヤバいレベルの狂い方についてはもはや別の要因では?とも思う)
一方で歳を取って独身でも変なクセがなく若い人からも慕われる人というのはいる。
自分となにが違うのか、そういう人を観察して分かるのは一見自己中に見えても案外ではないということだ。
自分の好きなように生きていると言いながら他者にとても気を配る人が多い。
そして割と重要なポイントなんだが、ファッションがその人に似合っている。
これはすごくオシャレとかってわけでもなく、ただ単にその人に合ってるなという見た目なのだ。
その人自身が自分の事をよくわかっているから、周りも安心できるのだと思う。
そして「自分の事は分かりたくない」という気持ちも少なからずあるような気がする。これもまた問題ではある・・・
十代の頃にはクセになっていた「自分を映すカメラが常に頭の斜め上にあって、そこからの映像を思い描く」を意識するようにしている。
喜悦がダダ漏れなのお前なんだよなあ
まあ現状認識としては(確固たる根拠はないものの)遠からずだと思うんだ。
野球のピッチャーやゴルフ選手がなることがある「イップス」にも似ている。そこまでひどくはないものの。
抜け出すのは簡単ではないのかも知れない。
ただ気にしないようにする、肩の力抜く、だけで良い方に転がりだす可能性もあるし、そんなんじゃ効き目ない可能性もある。
深刻な脳の病気としてのいわゆる精神病とは違うだろうけど、メンクリに相談するのは逆にアリだと思う。例えばだけど安定剤の頓服持っとけばお守りになるだろう。
大原則として「困難は分割せよ」ということがある。別の表現では「スモールステップを設定せよ」
つまり一度にあれもこれもとか、一気に何かを成し遂げようではなく、緩めの目標を設定していこうということ。
テンパった時に深呼吸できたらその日は自分にハナマルあげましょう、みたいなしょーもないやつ。
「以前はあれもこれも完璧にできてたのに、どうにか100%に戻さなきゃ」とか思い詰めると結局「大き過ぎるステップ」を置くことになる。まあまあぼちぼちまで戻せれば生きていくには十分だろ、以前だってそこまで切れ者だったわけでなし…という“意識の低さ”が重要だろう。
あと困り気味の現状をわりとダダ漏れに周囲に(あるいは信頼できる人に)開示しておくのもいいのかも。精神的に鎧をしっかり着込んで身を固めるのは本来いいことのはずなんだけど、それが逆効果になる場合がある。
まあ調子に乗って素人のくせに知ったふうなことを述べてしまったが、自己責任で部分的に参考にするなり笑って読み捨てるなりして貰えれば。
いい方向に転がればいいですな
サクッと調べたので間違えてるかもしれんが
会場図面を見ると割と厳しいだろうなぁと
これがかなり食ったんじゃ無かろうか
建ぺい率の食い合いになり、休憩所には屋根はつけられない、みたいな話になったのでは
結局、建築基準法的に屋根のない工作物パーゴラ建築にするしかなく
面白いのは、未着工の海外館、100%建たない、空き地に万博協会がおざなり休憩所を建てるだろうが
建ぺい率に余裕が出たのでこっちは屋根付きになる、エアコン完備、こっちにしか人来ねぇみたいな状況になるだろう。
まぁそんな事はどうでもいい、俺が気に入らないのはデザインに機能美も根拠も無い
石を吊るしてどう命が輝くのか、未来なのか、
本来であれば全体統括のデザインマネージャーが居て、各種のパビリオン、施設、床材の色まで目を光らせ、全体の調和を図る、その指針になるのがイベントのテーマ
ところがそういうものがまったく機能してねぇのよ、それぞれのパビリオンや施設が好き勝手、バラバラのパッチワーク。
さらにそれぞれのデザイナーは万博テーマなんて歯牙にもかけない。無視
ねぇのよ
「めっちゃデカイ石を吊るしたら映えね?凄くね?見たことねぇべ」
助平心が全部透けて見える
万博のテーマに沿ったデザインで来場者の利益を最大に考えたらこんなデザインにならない
なーんも考えてない
んな事は全員わかってる
ラノベの魅力というのはある種の時代性と限定性だと思うんですよね。
特定の時期の特定の界隈以外ではあまり評価されていないようなものほど、ラノベとしての良さがある。
時代を超えて評価される作品は単なる「名作文学」でしかなくて、それはライトとは呼べないと思うんですよ。
『ライトノベルの定義』なんてものは、どうせあと30年もして5chも滅んでしまったら皆忘れてしまうでしょう。
その昔、そんなネットミームがあったという思い出の中に消える。
この「思い出の中に消える」という部分こそがラノベのラノベらしさだと思うわけです。
ある種の時代性と限定性とさっき言ったばかりなんですが、たとえば人類全体の中で感染症が途切れることなく飛び交い続けるかのようにいつも誰かが罹患している中二病があったとしたら、それは個々人の感覚では「アーサー王がめっちゃ好きだった限定的な時代」として存在すると思うわけです。
人類の中にいつからかずっとアーサー王伝説は存在するんですけど、それはいつの時代においても子供時代に憧れる英雄譚でしかなくて、大人になったらごく一部の人間を除けば自然と卒業するような物語だったと思うわけです。
魔術師に導かれ伝説の剣を引き抜いた若き王、奇跡と魔術と剣と聖杯、魔女の陰謀、集う仲間、崩れ去る絆、誰もが一度は憧れるような殿堂入り中二ストーリー。
どれが一番好きとは言わないんですが、ラノベの本体は読後に読者が綴る怪文書だと思っております。
子供部屋に籠もって妄想たくましく自意識をこじらせた者たちが、インプリンティング効果やウェルテル効果で電波ゆんゆんになって書き上げる承認欲求ダダ漏れのレビュー。
遊びの本を読んで、特に責任もないままに、勢いだけで一気に書き上げて、翌朝になって恥ずかしくなって消そうとするも、レビューにいいねがついているので消さずに残す。
そういった諸々に宿る安易でジャンクな薄っぺらさこそが最もライトな文芸なわけです。
小学館含む原作者側がどれだけ振り回され、心労を負ったか、という点にフォーカスしているのか日テレ版で言うところのラリーの詳細が多い。
漫画家の芦原妃名子先生がご逝去されたことについて、改めて、先生の多大な功績に敬意と感謝の意を表するとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
重箱隅つつきなのはわかりつつ。報告書冒頭にはまずこれがあるべきですよね。
(日テレ版は報告書本体のリンク元であるプレスリリースには同様の記載があるが、肝心の報告書冒頭には記載していない)
日テレの2人目の対応者って上司やったんかよ!!!いやそんな気はしてたけどさ!!!
そもそも小学館側はきちんと担当部署だけでなく、各社員と上司を明示していてこの時点で日テレ版より分かりやすさが違う。
特に問題はないという意見を示しつつ、気になる点として、第 2 話脚本中に若い男女のメッセージのやり取りをメールでさせていることについて、今どきは LINE が普通ではないかと指摘したり
「今時のJKは短大よりも専門学校だ」という議論をできるドラマスタッフが、今時の男女のメッセージやり取り事情に精通していないなんて…。
また併せて飼っていたハムスターの逃走範囲に関するセリフについて、原作漫画の 100M 以内との吹き出しの記載を 200M 以内に変更した点にも疑問が呈された
(略)
ヒンズー教徒が多いインドでベリーダンスをするという点に疑問を呈した
(略)
またダンスの動画についても、初心者に過ぎない田中さんのダンスが動画で評判になるほどのものではあり得ないこと等の理由を詳細に説明して、日本テレビの補足説明中の提案を認めなかった。
日テレ版では省略されていた「ツッコミどころの多い辻褄の合わない改変」の具体的な例をきちんと書いてくれてますね。
「めっちゃ打ち合わせして議論してより面白くなるよう頑張ったんすよ」アピールしてた日テレさん、これも全て改変の意図がきちんと伝わらなかったの一言で済ますの?
社員 A は、上記の 10 月 2 日の日本テレビ社員 Y 氏あてメールで、本件脚本家に関して次のように問いかけている。
「確認なのですが、芦原さんが描き下ろした 8~10 話は基本的に変更無しで使用してほしい、という話は●●さん(本件脚本家。原文は実名)に伝わっていますか?●●(社員 B。原文は実名)から●●さん(日本テレビ社員 X 氏。原文は実名)にもお電話差し上げたのですが、そのお話しは●●さん(日本テレビ社員 Y 氏。原文は実名)に伝わっていますでしょうか?」
以後のメールで日本テレビ社員 Y 氏がこの点について回答した形跡はない。また本件脚本家によると、同氏は一切聞かされていないとのことである(本委員会質問に対する回答)
都合の悪いメールは読まなかったことにして無視、切羽詰まるとよくあるよね~(あるなよ)
10 月 5 日 16 時 45 分、芦原氏は社員 A に第 3 話脚本のシーン 50 で演じられるダンスが「ハリージ衣装でドラムソロを踊る」ことになっているが、これを「普通のドラムソロ」に変更するように日本テレビ社員 Y 氏に急ぎ伝えるよう要請した。
芦原氏が問題としていたのは、同シーンでベリーダンスを田中さんがステージで踊る際、演出では「ハリージ衣装でドラムソロを踊る」こととされていた点であり、芦原氏は、社員 A に対して、ハリージ衣装でドラムソロを踊ることは、ベリーダンスの歴史的、文化的背景としてあり得ないので日本テレビ社員 Y 氏に確認してほしいと求めたのである。芦原氏の求めを受けた社員 A が同日 19 時 50 分ショートメールで、日本テレビ社員 Y 氏に対し、芦原氏からの依頼として、「ハリージ+ドラムソロ」はダンスの監修者が OK しているとは思えないので確認してほしいとの依頼があったことを伝えた。
これに対して日本テレビ社員 Y 氏は社員 A に対して直ちに、ダンス監修者には「OK 頂いている」という認識であるが、改めて確認すると返し、同日 23 時 35 分にダンス監修者から OK の確認が取れたと連絡してきた。
しかしこの時、実際にダンス監修者が OK と言っていたかという点には疑問が残る。
(略)
ところが、後日、芦原氏は、「ハリージ衣装でドラムソロ」はあり得ないことを認識した。芦原氏は、日本テレビ社員 Y 氏(なお、撮影は 10 月 10日を予定していたが、日本テレビ社員 Y 氏は社員 A からの 10 月 5 日の問い合わせに撮影済みであると虚偽の発言をしていた。このことでも芦原氏は不信感を募らせていた)の対応に不信を募らせ、間違った有りようのダンスが公に放映されることを看過できず、ダンスの監修者の名誉のためにも撮り直しをするか、それができないなら番組 HP や DVD への釈明文掲載等を日本テレビに要求するように社員 A に依頼した。
3話リテイクの経緯詳細。
日テレ版では、
2023 年 10 月上旬、ドラマ撮影時に撮影シーンを巡って本件原作者が A 氏に対して不信感を抱く事案があった。A 氏は、C 氏より送付された本件原作者の意向に従って当該撮影内容としたつもりであったが、本件原作者はそのような趣旨では依頼していない認識であったため、C 氏に確認を依頼した。
C 氏を通じた本件原作者の撮影シーンに関する問い合わせに対し、A 氏は既に当該シーンは撮影済みである旨回答を行ったが、実際の撮影は 5 日後に予定されており、そのまま予定通り撮影が行われた。
その後、これらの経緯を本件原作者が知ることになった。A 氏によると、まだ撮影していない旨を回答すると本件原作者から撮影変更を求められるのは確実であると思ったが、A 氏は当該撮影シーンは客観的にも問題ないものだと思っていたこと、及び当該シーンの撮影のために 2 か月にわたってキャスト・スタッフが入念に準備を重ねていたため、撮影変更はキャストを含め撮影現場に多大な迷惑をかけるので避けたいと思って咄嗟に事実と異なる回答をしてしまった。このことは反省しているということであった。
と、「撮影前を撮影済みと嘘ついちゃいました、てへぺろ☆」なことしか書かれてないけど、その前に「ダンス監修者の了承が本当にあったのか?」という日テレ担当者の信頼度をさらに下げる一幕があったんじゃねーか!!!!
まさか「今から変更したらみんなに迷惑かけちゃう…」という我が身可愛さで嘘付く人でも「ダンス監修者の了承はきちんと取っていたに違いない」と信じてるの?
そしてどういうつもりで削ったの?(一応、読み落としたかと思って日テレ版を「ダンス監修」で検索してみたが見当たらない)
この間、社員 J が 7 月 27 日に日本テレビに送信した契約書案に対して同社から 9 月 26 日に修正案が戻された。
その中では、改変についての原作者の承諾に関し、小学館提示の原案では小学館と原作者双方の同意が必要としたものを、日本テレビは、日本テレビとして合意を得るべき相手を小学館に限定する修正依頼があった。
原作者の承諾は不可欠であるため、小学館を介して原作者の承諾を得ることに修正し、社員 J は部内の承諾を得たうえ、10 月 23 日に日本テレビに送った。
うーんこの。日テレが原作者をどう思ってるか本音ダダ漏れなの草でしょ。
社員 A のメールは貴重な記録であるが、社員 B は大抵、日本テレビ社員 X 氏と電話で交渉したようであり、文章になった資料の提出はなかった。
本委員会において認定根拠としえたのは、社員 A への LINE メッセージである。日本テレビ社員 X 氏との電話交渉についてもより詳細な記録があれば事実経過の理解に役立ったと思われる。また、膨大な業務をこなしながら、日常行うのは大変かもしれない。
しかし交渉過程の記録はビジネスの鉄則である。記録がなければ、万一担当者に事故があればその成果は継承されない恐れがある。
多くの会社では、日報・日誌等で経過を報告し、上司・同僚と共有するのが普通である。そこから問題点の指摘を受けることもある。
当方男。
「ずっと好きだった」という平成に流行った歌がある。かつてクラスのマドンナに憧れていた若者だった男が、歳を重ねた彼女に酒席で再開し、酔って絡みながらナンパするという歌詞だ。当時、結構流行って、ずっとラジオから流れていたので記憶している人も多いと思われる。
これが実に苦手だった。とかく苦手だった。
いやだってさ、「すきだったんだ『ぜ』」だよ。「すきだった」というかつての気持ちの吐露でもなくて、現在進行系でまだ熱い気持ちを持っていますという「すきです」でもなくて、「だったんだぜ」だよ?! 女々しいにも程があるわ。あわよくばワンチャン狙ってまーす、って気持ち(=著しい性欲)がダダ漏れで、サブイボが、やばい。
それで、むかし好きだったんだけど、べつに今はそうではないですよぉー的な匂わせをしておいて、その上でボソっと、それであの日、キミのがボクにしたキスの意味ってなに? だよ!? だよ!? だよぉおおおお!?
いや、これはもうれつにキモいとしか言えない。普通に好きだったんなら、正直に「好きです。あの日から忘れたことありません」って言えばいいし、久しぶりに会うことになって、たまたま当時を思い出したんなら、過日の美しい思い出にして黙って彼女の今を尊重すればいいし。
にもかかわらず、それであの日のキスってなに?だよ!? どう考えても、当時のロマンチックだった(かもしんない)、彼女の若気のいたりのきもちをくすぐって、なんかいい感じにもっていきたいって下心全開じゃんけ。利己的な遺伝子に思考ルーチンが支配されとる。
全編こんな感じで、もうねっとりとした固形じみたギトギトのポマードが臭いすぎて、ぐぎゃぁみたいな気持ちで当時は過ごしていたんだけど、冷静に考えると、このニヒたキモさって、多分歌詞が徹底的に男目線で書かれているからなんだよね。一方的にマドンナ扱いして、キレーだったよなぁ、今もかわいいぜみたいに、とにかくねっとりマドンナに迫ろうとする心情。それが肌を敏感チキンにさせる。
──────と、これまでは夏に冷房が死んだ時にもしかしたら涼を取るのに役立つかもしれない曲、というだけだったんだけど、実は今日、コペルニクス的大回転があって、ついにこの曲の愉しみ方が分かったかもしれんと電撃が走ったのだ。
男がイライラする男って、実は女子ウケが良い=かわいいのでは!?
もしかして、この曲の女々しさにイライラするのではなくて……女々しさにクネクネする男を可愛がるのではないかと。
今までは、脳みそが下半身に半分以上めり込んでいるような態度に、同じ男である自分を重ねてあんぎゃぁーーーってなっていたけど、実は、そんな男を「ふふっ、男って本当にバカね」by 想像上のマドンナとなって、アホでマヌケで五大欲求に素直な永遠のチェリーボーイを愛でるのがこの歌詞ではないかと。滑稽なような、烏骨鶏なような、だんすぃーの愛らしさが表現されているのではないかと。