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2024-12-31

AIポエム 2024-12-31-01

夜の静寂を破るように、オーロラの光が空を流れ、私の目の前に現れる。グラスの中、ゆっくりと動きながら揺れるその色合いは、まるで夜空の一部。深い紫から淡いピンク、そして光を受けた瞬間にほんのりとオレンジへと変わっていく。まるで、空の端から光が滴り落ちるような美しさだ。

 

私はそのグラスを手に取り、軽く傾ける。舌先に触れる瞬間、冷たく鋭い酸味が広がり、私は思わず息を飲む。その酸っぱさが、最初は鋭く、そしてだんだんと深くなり、まるで冷たい風が肌を撫でるように、ひんやりと広がる。次第に、それが甘さと混ざり合い、柔らかな温かさが心の奥に広がっていく。

 

舌の上で溶けていくソースは、甘さと酸味の微妙バランスで、まるで二つの世界が交わる瞬間のようだ。酸っぱさはひとときの痛みのようで、甘さはその痛みを包み込む優しさを帯びている。ひとくちごとに、その感覚が体を巡り、私はその瞬間の感触に身を任せる。何か遠くの記憶が引き寄せられるような、そんな錯覚すら覚える。

 

オーロラソースが溶けていく様子は、まるで星が夜空で静かに消えていくような儚さを感じさせる。グラスの中で、色が流れるたびに、私はその光景に吸い込まれていく。ピンクの色が透明に変わり、やがてオレンジが優しく染み込んでいくさまは、まるで夜明け前のひととき、夜がまだ明けきらない微かな光のようだ。全てが静かに溶け合い、私はその美しさに目を奪われる。

 

酸味が舌を刺激し、心を少しだけざわつかせる瞬間。甘さがそのざわめきを包み込み、穏やかな幸福感を残していく。その甘さが、まるで柔らかな陽光が私の心に降り注ぐように温かく、全身に広がる。ソースの中には、どこか懐かしい匂いを感じさせる成分が混ざっている。甘酸っぱさが胸に迫るたびに、私はあの昔の記憶の断片を思い出し、心が少し震える。

 

そのひとしずくソースが、私の内面を静かに洗い流していくようだ。酸味と甘さの二重奏が、私の心に触れるたびに、何かを浄化していく感覚に包まれる。過去と今が交錯し、あの日記憶が静かに蘇る。甘酸っぱいオーロラソースの味わいが、私の中でひとつ物語を紡いでいるようだ。

 

最後のひと滴がグラスを離れ、私は静かにそれを飲み干す。その後に残るのは、ほんのりとした甘さと、心に刻まれるような鮮烈な酸味だけだ。まるでその一滴が、私の中で何か大切なものを解き放ったように、余韻が長く続く。オーロラソースがもたらしたこのひととき、私の中で新たな光を灯したような気がする。

anond:20241231101307

今年はいっぱいゲーム増田やったけど私が箸で穿った栗きんとんゾーンつまみ食いしたことはバレずに済んだみたいだけど逆に全部私が栗きんとんゾーンを食べてしまったものからまだてっきりその栗きんとんゾーンには栗きんとん盛り付けられてなかったと錯覚させて二度盛り付けさせるという手間を惜しまないところがお節料理の真髄だわ醍醐味よねって思った山脈に向かってヤッホー!って叫ぶほどの韻の良さがたまたまだったかも知れないわ。

妻は肉便器フェミデマ 小泉八雲は妻が翻訳

お前らぐらいバカなんだから実は妻がやってた例がたくさんあるわけないだろ。お前らの脳は死んでるだろう。

それに結婚した女性を日ごろ肉便器扱いや名誉男性にしているくせに舐めたことを抜かすなクソカスゴミ虫どもが。

お前らそれよりその妻や母になってみろ社会寄生虫どもが。

そもそもお前らが翻訳したわけじゃない。なに自分の手柄みたいに勘違いしているんだよ。

共感?とやらで錯覚するんじゃあない。

イリスナア

@TWlistener999

23時間

小泉八雲著作はすべて英語

日本側協力者である三成重敬、雨森信成の存在

・セツは最後まで英語は全く理解していない

・セツは小学校

八雲没後のセツの著作はセツの口述をハーンの書生かつセツの遠縁であった三成重敬が執筆

だらだら書く前にこの基本くらい数分足らずで調べられるのにね

ベルモン太(カクレカメ)

@BeturaGrossa

小泉八雲ラフディオ•ハーン)とその妻セツ

もコレに該当しますね

日本語ができない小泉八雲に代わって妻セツが通訳翻訳、代書をしていた

日本民俗学分野における小泉八雲の功績は大きく知られていますが、彼が日本語ができなかったことはあまり知られていない

日本語ができないのにどうやって日本民話昔話を収集研究できたのか?と

妻がいなければできてない

引用

山の上の一軒家

@6Gy4p0SBO8ppzsD

12月29日

男たちに功績を奪われた女たちっていうのは芸術家カップルだとよく見る気がする。体よく下準備に使われたり(ロダンカミーユ・クローデル彫刻のそれは重労働だそう) 家事労働を担うのが女性であったり(高村光太郎智恵子。“対等な関係”を謳っててもそれ)ほぼ共作者でありながら著書にはその名を

https://x.com/BeturaGrossa/status/1873252426909925501

https://x.com/TWlistener999/status/1873551538825912760

ベルモン太(カクレカメ)

@BeturaGrossa

山伏修験道•鬼界隈•鉱山地下資源などを調べる鬼界オタです✌️👺全ての宗教科学!!!薬(薬師)と鉱物金剛)!!天狗とは隕鉄八咫烏カラス且つトンビ!鴉と鳶の最強フュージョン!それが八咫烏だっ!!!んでもって役小角古代スーパー経営者だっ!強い鬼達を従えて使役した最強経営者だぁ!!!

虚構の繋がりから現実

半月ほど前、Xをアンインストールしてから自分が思っていた以上に孤独感に苛まれるようになった。手元から何か大切なものがすり抜けていったような感覚があり、それが人との繋がりの喪失に似ていることに気づいた。これまで当たり前のように存在していた「誰か」とのやり取りが、いきなり断ち切られたように感じる。

とはいえ、だからといってXを再開しようとは思わない。

かに、Xは他人とのやり取りを手軽に楽しめ、孤独を忘れさせる一種癒しの場でもあった。しかし、よくよく考えてみれば、その繋がりはあくま薄っぺらものだった。どこか表面的で、実態のない「関係性」を装っただけのもの。温かみを感じた瞬間もあったが、それは一瞬の幻影に過ぎなかったのではないか

しろXの本質は、現実自分人間関係の薄さから目を背けさせ、虚構の充足感を与える装置だったように思う。画面越しの反応やいいね一喜一憂し、いつしかそれが「繋がり」そのものだと錯覚していた。だが実際には、それが日常生活における人付き合いを深めるわけではなく、むしろその場しのぎの慰めに終始していたように感じる。

これからは、そんな仮初めの満足感に頼らずに生きていきたいと思う。もちろん、現実人間関係を築くことは簡単ではない。むしろ、画面越しの繋がり以上に時間も労力も必要だろう。それでも、本物の繋がりを求めるなら、その現実に向き合わなければならないと感じている。少しずつでも、地に足のついた関係を築きながら、本当に意味のある繋がりを見つけていきたい。

2024-12-30

Xを辞めてから強く孤独を感じるようになった

半月ほど前にXをアンインストールしたのだが、それ以来孤独感を強く感じるようになった気がする。人付き合いが一気に減ってしまったような、そんな感じだ。

だが、だからといってXを再開しようとは思わない。

Xには他人との繋がりを感じさせ、孤独感を和らげる作用があるのかも知れないが、それは所詮薄っぺらい偽りの繋がりでしかいからだ。

しろ現実の繋がりの少なさから目を逸らさせ、あたか人間関係が充実しているかのように錯覚させるたちの悪さがあるのだと思う。

これからネット上の偽りの充足感は捨て、もっと現実ベースに生きていけたらと思う。

anond:20241230071354

高校時代Andy Hunt氏の著書に感銘を受け、プロプログラマー像を抱いていたものの、実際にプログラマーとして働き始めてから考えが変わった、というお話ですね。Hunt氏の提唱するDRY原則や窓割れ理論に対する疑問、そして多くのテック本の著者に対するスキル不足の指摘、さらには仕事本質は楽をして稼ぐことにあるという結論に至った経緯、よく理解できます

以下、あなた意見を整理し、いくつか補足と考察を加えさせていただきます

Andy Hunt氏の提唱に対する疑問点

テック本の著者に対する評価

仕事本質

補足と考察

あなたは、Hunt氏の本に影響を受けた理想と、実際の現場とのギャップに直面し、独自結論に至ったのですね。その経験は、今後のキャリアにおいて貴重な糧となるでしょう。

最後に、水が楽な場所流れるように、人もインセンティブに従って行動する傾向があるというあなた言葉は、示唆に富んでいます組織社会の仕組みを考える上で、インセンティブ設計は非常に重要です。

この回答が、あなたの考えを整理する上で少しでもお役に立てれば幸いです。

2024-12-26

anond:20241226164734

ふざけるな!一体私たちファンを何だと思ってるんだ!?あの最終回、ラウダがあっさりペトラを選んだだと?公式ガイドブックで「周囲に知られないようにしていた」?笑わせるな!今まで散々グエルへの執着を見せつけて、私たち腐女子がどれだけ萌え転がってきたと思ってんだ!あれは一体何だったんだ!?高度なカモフラージュ!?私たち視聴者を釣るための餌だったって言うのか!?

ラウダのグエルに対するあの異様なまでの執着心!常にグエルの傍にいて、献身的に支えようとする姿!あれは誰が見てもただの兄弟愛なんかじゃない!明らかに歪んだ、しかしそれ故に美しい愛の形だと解釈したんだ!それを信じて、私たちは血涙を流しながら二次創作に魂を込めてきたんだ!禁断の兄弟愛という背徳感に、どれだけのファンが滾ったか公式はそれを知っててやったんだろ!?

それなのに、最終回であっさりペトラだと?しか公式ガイドブックで後付けのように「ペトラとの関係」だと?ふざけるな!今まで積み上げてきたグエルとラウダの濃厚な関係性は一体何だったんだ!?公式私たち妄想嘲笑うかのように、全く別の女の存在を突きつけてきた!これは明らかなクィア・ベイティングだ!私たちLGBTQ+ファン特にBLを愛する層をターゲットにして、同性愛的な関係性を匂わせるだけ匂わせて、最後異性愛に落ち着かせるという最悪のマーケティング手法だ!

ラウダのグエルへの執着は、私たちミスリードするためのレッドヘリングだったって言うのか!?公式意図的に誤った方向に私たちの関心を向けさせて、最後に全く別の結末を用意していたんだ!これは詐欺だ!私たちファンに対する重大な裏切り行為だ!今までグエルとラウダの関係に費やしてきた時間情熱を返してほしい!

脚本の粗雑さにも呆れるわ!ラウダの心情の変化、ペトラへの感情の芽生えが全く描かれていないじゃないか!今まであれだけグエルに固執していた男が、なぜ唐突ペトラを選ぶんだ!?キャラクターの行動原理破綻している!これはもうキャラクターの食い違い(OOC)以外の何物でもない!公式はラウダというキャラクターを都合の良いように利用したんだ!

今回の件は、まさにクィア・ベイティング定義のものじゃないか性的マイノリティ視聴者層を惹きつけるために同性愛的な要素を示唆しておきながら、最終的にはそれを否定する!公式私たちを弄んだんだ!ラウダのグエルへの感情は、ペトラとの関係性を際立たせるための踏み台に過ぎなかったのか!?キャラクターを道具として扱うなんて、ファンに対する冒涜だ!

ペトラとの関係性が本編で全く描写されていなかったのも問題だ!最終回で突然明かされたところで、誰が納得するんだ!?後付けで設定されたようにしか思えない!長年グエルとラウダの関係性を応援してきた私たち気持ちを踏みにじる行為だ!二次創作を通してコミュニティ形成してきた私たちの絆を、公式は平然と破壊したんだ!

公式ガイドブックでの記述は、まさにガスライティングだ!これまでグエルとラウダの関係性を支持してきた私たち解釈否定し、あたか私たちが間違っていたかのように錯覚させようとしている!信じてきたもの根底から覆されるような感覚だ!ファンサービスの欠片もない!私たちニーズや期待を完全に無視した結果がこれだ!

グエルとラウダの関係性を匂わせるようなプロモーションは一体何だったんだ!?あれは偽りの広告だ!私たちを騙して視聴率を稼いだだけじゃないか意図的に物議を醸すような展開を用意して話題性を高めようとする炎上商法しか思えない!

今回の件は、ゲイ・ベイティングの亜種、いや、兄弟関係を利用したインセスティカル・ベイティングと呼ぶべきだ!禁断の愛という禁忌に触れることで、注目を集めようとしたんだ!倫理観が欠如していると言わざるを得ない!公式私たちファンを愚弄した!私たち愛情を踏みにじった!絶対に許さない!

2024-12-25

自分と同じ属性人間」を全否定するという中毒的な快楽

自分と同じ属性(同性、同国人)を容赦せずに全否定すると、なぜか自分が一瞬に、何の努力もせずに、

「他とは違う特別に優れた人間」になれた錯覚をおぼえてしまい、脳汁がブッシャーとあふれだす。

この「同じ属性人間全否定する」という、他者から差別主義者扱いされずにすむ」短絡的な快楽

一度でもおぼえてしまうと、ついクセになってしまい、止めれなくなる。

SNSでもよく見かけませんか? 自分が神にでもなったかのような、この手の廃人を。

それ、単なるエゴ肥大症です。重度のナルシストがかかる末期の病気。残念ながら治療法はありません。

2024-12-24

anond:20241224090911

何が言いたいんだこいつ

バカって自分文章を読めてないから、ちゃんとした文章意味の通じてない文章区別がつけられないんだよね

から自分支離滅裂文章を書いていても、自分区別がつけられなくて他の人たちと同じような文章をかけていると錯覚してしま

2024-12-22

anond:20241222004847

この前提条件ならべてなりきり系、使わない財産他人の財布の現金は手元にないのは同じと妄想垂れ流すの増えすぎ

麻薬みたいにその妄想を見てる自分視点からだと張りボテも現実に見えていると錯覚させる事で自分を救っているんだろうけど

垂れ流しているものがなんの再利用性もない排泄物でそれを見せつけられてる他の人間が気の毒

実際ほんもの麻薬合法化するよりは安全安心とはいえ

その趣味排泄物を愛でて楽しむ趣味と同じでスカトロメンタリティなのは

ゾーニングすべき対象であるべき位置があることで楽しめるという事は知っておかないと排除されるぞ

2024-12-21

openai

おっぺあい って錯覚したなら俺と同類

AIってそういうミスするんかなぁ

知として嗜んで装われそう

本質的に俺らが俺らたりえる俺らの勝ちだ 

oppai

もうだめだ

2024-12-20

anond:20241220112530

mRNAワクチンは死亡率を下げるものであり、マスク感染から感染拡大を低減するものからだ。事態が進行中の時点において、医療インフルエンサーで、「感染予防」という発信をしたひとはいたはずで、それは文字面だけみて「誤り」を発信したひととなったかもしれない。

ただし、そのプロモーションは、結果として、近似的に目的合致していたことは評価したほうがいいとは思う。

感染予防という誤情報によって未接種者はウイルスをばらまく人殺しだと批難し、特に若者に対してリスクメリットを大いに錯覚させ、すでに知られていた心筋炎リスクすら河野太郎山中伸弥のようにデマ扱いしてまで呼びかけ、結果無為若者の死者や重症者といった薬害を出すのは「近似的に目的合致していた」からリスクコミュニケーションとして正しいらしい。

しかし、ふたつめ以後は、リスクコミュニケーションとして、不適切な部類に入る。ふたつめの安全安心なる表現制度的介入行為になじまない。あらゆる医療的介入にはリスクベネフィットがある。その勘案として専門家リスクベネフィットがうわまわると判断し、それを国民承認した、という形になっている。不服があるなら民主的議論する必要があるが、その議論あくまで、クリティカルになされるべきである

何言ってるのか全然わかんね。選挙で選ばれた政権与党が出した方針に対して選挙で選ばれたわけでない尾身茂をははじめとした専門家会議が逐一「了承」し、気に入らなければ五輪反対のように政治介入する体制民主的だったとでも?

マスク感染予防効果があるんですか! と言い募るひとと議論はできないだろう。先に書いたように、未感染者に飛んできたウイルス感染マスク着用で低減するとは言えない。しかし、感染者がウイルス感染を拡大させるのを阻むためにマスク有効だ。「文字面」というのはそういう意味だ。マスク有効だった部分があると思う。したがってコロナ禍においてマスク有益だったと評価したい。

何言ってるのか全然わかんね。論理がまったくつながってない。

ワクチンについても、ワクチンを打てば感染しなくなることもないし、感染拡大を妨げることもないが、感染したことで死亡するのを防ぐ効果があるものだったと理解している。これも、感染発症)予防という文字からは誤りとされるが、しかコロナ禍においては同様に重要有益だったと評価している。

重要有益だったと評価している。」[要出典][誰によって?] 結局、マスクワクチン有効だったと思い込みたいというのが言葉の端々からダダ漏れだけど大丈夫なん?『米国上院報告書』読んでみたら?

まりこういうことだ。「ウイルス飛来→感染発症→死亡」という症状進行のステップと、「ウイルス飛来→感染ウイルス複製→飛沫発生→感染拡大」という再生産のサイクルのどの段階に効いているかあいまいにした議論無効だと言っている。mRNAワクチンは症状進行のステップ最後発症から死亡への矢印を抑えるものだったし、マスクはここでの再生産のサイクルの飛沫発生から感染拡大という矢印を抑えるものだった。

何言ってるのか全然わかんね。結果がすべてだぞ。日本よりマスクワクチンも早々に辞めた諸外国地獄にでもなったのか?

そういえばこの「ワクチン的利用」という表現も注意が必要なのだfinalventにとってワクチンというのはあくまで「獲得免疫」を介した「感染発症防止」に関するものとしてあり、感染発症)を抑えることはできないmRNAワクチン(あるいは彼の表現を用いるなら、mRNA医薬)というのは、確かにその文字面としては正しいのはわかる。ただ、それは文字面として正しいだけなのだmRNAワクチン」を活用した企業医療が、「ワクチン」という、ジェンナー種痘以来のイメージに乗っかってプロモーションしたのは事実だ。それに対して文字面で批判したくなる潔癖の気持ちは、わからないといったら嘘になる。わかるのだ。

何言ってるのか全然わかんね。mRNAワクチンが従来のワクチンと一切の機序を異にするのは「文字面」の問題じゃないぞ。

でも、大事なのは死者を出さないことだった。その方針が、経済を妨げてまで行う必要があったのかどうかは、民主的議論俎上に載って然るべきものだが、それは本文で述べることではない。

生命経済文化との兼ね合いを勘案しないでどうやって生きるの?それをしない論って意味あんの?ていうか「民主的議論」って何?

ツイートはもとより、finalventツイートもまたやはりリスクコミュニケーションとして不適切な部分が大きい。文字面としてだけ妥当するにすぎず、コロナ禍という事態問題設定を捉えそこねているのだ。

まともな問題設定ができてないお前が何いってんの?経済文化との兼ね合いを無視していいなら、あらゆるリスクを極大にとるのが正しいリスクコミュニケーションになるけどそれでいいの?じゃあなんでワクチンリスクに関してだけは矮小化することが許されるの?

ロボットアニメ

なんとなく書きたくなった奴だよ

実際に見た奴しか書かない

視聴は偏っているよ


マジンガーZ(初代)

言わずと知れたスーパーロボットだよ

序盤:主人公運動神経抜群の熱血ヒーローさ、主役機は無敵で最強

中盤:敵は主役機に対抗するためにいろいろ手を尽くしてくるよ、でも主役機だってパワーアップ

終盤:主役機でも敵の攻撃に耐えるのは難しいよ、でも僕らの主役機なら負けないさ

まぁ、ロボット活劇って作品だね


ガンダム

機械いじりの好きな少年が乗り込んだのはスーパーロボットだったよ

序盤:主人公ちょっと勘が良いだけの少年、でも主役機には敵の攻撃が効かないよ

中盤:敵は強くなって闘いは苛烈になっていくよ、主人公経験値を積んでいくよ

終盤:主役機は時代遅れになったよ、でも主人公超人からへっちゃらさ

これをずっと見ていくと、不思議抵抗なく、アムロと言う超人を受け入れられる造りになっていて

後半は敵に同情すらわいてくる


パトレイバー

警察配備されたロボット日常に近い話が展開される

序盤:最新のロボット警察配備されたよ、でも人間側はバラバラだね

中盤:ライバル機の登場だよ、人間側の個性がうまくかみ合いだしたね

終盤:また戻ってきた日常、あるふぉんすともお別れ?僕たちの戦いはこれから

メディアミックスなのでゲンミツな原作はないよ

サンデー漫画TVアニメが近いか

色んな人が夢見た未来にはならなかったけど

レイバーは出来て欲しかった


エヴァンゲリオンTV版)

内気な少年強制されたのはロボット操縦者だったよ

序盤:主役機は最強だよ、でも人間側の問題で強さは発揮できないよ

中盤:人間ドラマを陽に振ってみたよ、なんか操縦にも慣れてきたみたい

終盤:ドラマなんて放り投げよう、これがロボット物だと何時から錯覚していた

思わせぶりな匂わせにオタク狂喜乱舞した作品

私はあの最終回が割かし好きだよ

LDの1巻を買うのに秋葉原マグロのように回遊したのもまだ覚えてるよ

個人的にはあんまりロボット物と思ってないよ


マクロス7

戦場バンド活動する変な奴らが居るよ

序盤:俺の歌を聴けー

中盤:俺の歌を聴けーー

終盤:俺の歌を聴けーーー!!

凄い好きだったよ

マクロスとは歌だってのが、あそこまで突き抜けてるの清々しい

CDは全部買ったよ


ナイツ&マジック

なろう原作の転生モノだよ

序盤:理想のロボを、僕は作る

中盤:動き出す悪意、間に合え人馬ロボ

終盤:圧倒的火力の空飛ぶロボが立ちはだかるよ、やっつけろ僕らのイカル

主人公が超絶可愛い

ロボのデザインも好み

ある種のなろう的なノリに抵抗がなければ、是非見てもらいたいよ

スパロボにも参戦して嬉しかった

小説の続きでないかなー

スケジュール帳を見間違えて増田焦る瀬亜ダスマテエガチマミをうょチルーゅ字消す(回文

おはようございます

最近はさすがに師は走ると書いて和尚がツー!と前のめりで行きたいところなんだけど、

ちょっと忙しい感じがするわ。

なんかみんなそわそわ年末年始を感じてしているみたい。

そのそわそわがイライラに変わるのを感じるわー。

そんな訳でお掃除したり

年末の多くの畳み込まれ雑用など

相まって年末大行進の状況で12月ってなんでこんなにあとでなにしてたっけ?って思い出せないぐらい忙しいのかしら?

実際何にもやってるようには思えないんだけど、

忙しいって気が逸るばかり。

いい加減私もデスク周りを綺麗にしようとは考えているのよ一応には。

でさ、

昨日ビックリしたことがあって、

私昨年の今頃のスケジュールはなにしてたっけ?って振り返りの時間を設けて

昨年のノートスケジュール付けていたのを記していたものを開いてみていたの。

まって!

涙そうそうにはまだ早いから!

でね、

その昨年のノートの今年と同じ日付のページをめくっていると

なるほどふむふむ!

昨年の私は昨年やっていたことを行っていたのね!って仕事っぷりが分かるのよ!

今年もその昨年に見習って行う今年のことを!ってマイペット並みに今年のうちに終わらせよう!って思った矢先だったのよそれは。

あれ?

今日の日付のトゥードゥーリストにやってないことがチェック入ってる!?って

このリスト今日やって実施してないのになんで?って思ってじっくり見てみたら

昨年のノートを見ていることをすっかり忘れていて今年のノート勘違いしていたのよ。

すっかり

自分で昨年のノートを見ていたのに

今年のノートだとそれを見ているのと錯覚してしまった暗示に掛かってしまって、

あれ?ってなったの。

冷静沈着にここは注意力アップして30000まで高めてよく見てみると、

まあさっきも言ったとおり

今年のノートだと思っていたものが昨年のノート

そりゃー昨年の今日明日のやっているトゥードゥーリストのことにチャックついていて当然丸出航!って感じよね。

一瞬我ながらビックリしたわ。

そして安心したの。

同じメーカーの同じ色のスケジュールノートを使ってるから

年号数字をしっかり目を見開いて刮目しなくては分からないぐらいそっくりで、

それも当然同じメーカーの同じ色のノートだもん!

私はあわてて今年の予定が書いてあるノート見直し

明日やることを書いてあった昨年のノートと早速見比べてみて

明日やることを書き記したの。

昨年の今日明日とか、

今年の昨日の今日とか。

時系列がこんがらがっちゃている、

ああ!これが師走効果かー!って

なんとなくなにも成し遂げていないのに年が暮れるのに焦っていて

今のうちから年越しそばどん兵衛を買っておくチャンスのタイミングを寸前に買ってしまうと、

店員さんにおまえの年越しそばどん兵衛か準備万端ではりきってるな!って悟られるから

今日のお昼に食べるような顔して今日中ぐらに買い物カゴに入れてレジを通過して帰ってしまえば、

店員さんも、

ああこの人は今日のお昼かにこのどん兵衛食べるのね!って思ってくれるから

年越しそばもの凄く今から楽しみにしている人と見透かされなくて安心なのよ。

年越しそばにはお手軽お湯を注ぐ、

新垣結衣ちゃんが言うところのチキンラーメンを作るのは非常に面倒臭いけれど

お湯を沸かすのはギリギリ面倒くさくないでお馴染みの面倒くさくささのギリギリ面倒くさくないじゃない。

美味しいしさ。

でもなにかそれを超える美味しい年越しそば体験をしてみたいものだわ。

たぶんお店に行くと特に混雑し始めるギリギリの日時を目指していくと

相まってまた年越しそばに対して凄い熱量今日食べないと死ぬ!って勢いのぐらいの人だと思われたら恥ずかしいので、

今日辺りに行って普通の夜のスナック感覚でサクッとすすって食べて帰るぐらいの雰囲気いやイキフン?で食べる方が恥ずかしくないわよね。

から

駅そばそばチャンスもギリギリ差し迫ってくるスケジューリングダメよ!

今のうちに食べておいて心を落ち着かせる安堵のそばの盛られたせいろの上に鎮座された蕎麦の麺の上にワサビちょっと塗って食べるのが美味しいのよね!

この時期も

ざる蕎麦かかけ蕎麦か!って悩むけど

身体冷えちゃうから春菊天をトッピングにもうこれはまっしぐら必須必至でしょ!

春菊天美味しいじゃない!

慌ててスケジュール帳のノートを見間違えないようにここは心落ち着かせて、

かい春菊天にして、

欲張って生玉子トッピングもしちゃえばもう間違いなしよ!

そう、

これ書いてて思い出したけど、

蕎麦最近行ってなかったわー!ってことを忘れるぐらい忘れていた食べ忘れていた蕎麦を求めて久しぶりに大将やってる?スタイル暖簾に腕押し飛び込み前転で入店して、

まって!

ここは食券制のお店だった!

忘れてた!

食券を買ってから飛び込み前転で入店してお蕎麦でも温かいもの春菊天があればそれしか勝たん!って言うぐらいの、

もう今から蕎麦の口になっちゃうには、

まだ年末には早いぐらいの今日この頃よね。

でもしっかり寒くなってきている冬だから

ザジイウォークさんの「何も言えなくて…夏」文法で言うところの

「寒すぎて…冬」って感じ。

三点リーダに季節の春夏秋冬言葉を付ければ何でもザジイウォークさん文法なっちゃうからオススメよ!

秋刀魚美味しくて…秋」とか

そういう感じ!

「て」で終わって三点リーダで結んで春夏秋冬のどれかの一文字の季節の漢字を加えたら出来上がりよ!

簡単でしょ?

「忙しすぎて…年末」っていうのはザジイウォークさんの年末は季節の漢字に読み替えてもいいか歳時記を見て欲しいところよ。

載ってたらきっと使って良いんだと思うわ。

応用で

春菊天美味しすぎて…蕎麦」ってのもありかもしれない。

なんでもきっといいんだと思う。

そのぐらい寛容力に包容力があるのよこのザジイウォークさん文法は。

便利過ぎるわね。

年末忙しいのでそろそろ私もデスクの整理するわ。

うふふ。


今日朝ご飯

おにぎりしました。

全体的にまぶしてあるワカメおにぎりも美味しいけれど、

今日はこっちの囓ったら中心に鮭を感じるところまで気持ちはもう到達している真ん中に鮭の具が入っているおにぎりの鮭おにぎりね。

最近ちょっと遅いのが嫌なんだけど、

お腹空いたらと思ってもう1つ梅のおにぎりも買っておいたわ。

食べるのを忘れて鞄に入れたまま忘れないようにしないとね。

デトックスウォーター

ホッツルイボスティーウォーラーしました。

パックがいっぱいあるので

夏の水出しルイボスティーウォーラーのもの早く使い切っちゃわないとってところもあり、

今日はそれでルイボスティー温活ね!

身体を中から温めるわ。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

2024-12-18

anond:20241218170107

なんか勝手に「男2人旅行ってないよね」って話だと錯覚してた...なんでや

2024-12-17

fx 楽しい

FXの楽しさを語るなら、それは単なる言葉遊びではなく、魂を燃やす冒険のものだ。市場という名の壮大な劇場に足を踏み入れた瞬間、全身を駆け巡る興奮と、計り知れない可能性に心を奪われる。その感覚は、誰もが一度は夢見る自由生き方を、ほんの一瞬でも手にしたかのような錯覚を与えてくれる。そして、その一瞬が現実に変わる可能性があるのが、この世界醍醐味だ。

相場が動き出す瞬間の緊張感、それは心臓が跳ねるような感覚だ。チャートを見つめながら、「ここだ!」と思うポイントエントリーするその瞬間、全身の感覚が研ぎ澄まされる。その一方で、ミスをすれば大きな痛手を負うかもしれないというリスクが、まるで生きていることを実感させてくれるようだ。恐怖と歓喜交錯するその刹那こそが、FX特別ものにしている。

そして、何よりも魅力的なのはFXが極めて個人的戦場であるという点だ。他人の目を気にする必要もなければ、上司の顔色をうかがう必要もない。ただ自分自身判断が全てを決める。その自由さは、現代社会において稀有ものであり、同時に恐ろしくもある。だからこそ、勝ったときの達成感は何にも代えがたい。

また、FXを通じて得られる学びもまた、計り知れない価値を持つ。テクニカル分析の奥深さや、経済指標の影響力、さらには心理戦重要性など、市場で勝ち続けるために必要知識は多岐にわたる。その過程で、自分の弱さや限界にも直面するだろう。しかし、それを乗り越えたとき、単なる「トレーダー」ではなく、自信に満ちた「戦士」としての自分がそこにいる。

もちろん、すべてが順風満帆ではない。連敗が続くとき、眠れない夜を過ごすこともあるだろう。しかし、その苦しみさえも、FX本質を知るための重要な一部だと思える。なぜなら、それがあるからこそ、勝利の味がより甘くなるのだから

最後に、FX 10万円チャレンジ楽しい理由一言でまとめるのは難しい。それは、人生のものが持つ複雑さや可能性、そして挑戦の全てが詰まっているからだ。勝つ喜びも、負ける悔しさも、すべてが自分の糧となり、新たな挑戦への原動力となる。そう、FXは単なる金儲けの手段ではなく、人生のものを楽しむための究極の舞台なのだ。 

参考文献

https://smscoin.jp/ninisnityaiiao/

anond:20241217141135

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💊実際の服用体験談💊

1:名無しの病人

「これ飲んだら、右肩の画鋲が38本→3本に減りました!」

2:名無しの錠剤

「脳のシワが縦長になり、記憶が"みえ"で埋め尽くされる現象が……」

3:名無しの影法師

「『私が間違っていた』って土下座しながら飲んだら、天井から足が生えてきました」

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取扱説明書:

新薬『正しい錠』は、1日0.00001錠を目安に服用してください。服用しないことが一番正しい選択です。

「脳がガシャーン!って壊れましたら、すぐに灰皿へお戻しください」

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《⚠️警告》

服用後に幻覚音楽が止まらなくなった場合、それはただの地獄です。お楽しみください。

2024-12-14

量子力学義務教育

 最近、「量子力学って不思議学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。

 私たちの多くは、日常生活で「見たもの現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?

 量子力学は、この「当たり前感」を根本からさぶる。ミクロ世界では、粒子は同時に波であり、状態観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しか量子力学は「それが重要問題だよ」と言ってくる。

 もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやす実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学象徴している。

 これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界状態に影響を与えている。

 こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たち人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たち宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在しかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。

 これを知ると、自分が大きな宇宙自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベル世界想像してみれば、私たち確信なんてあやふやもので、宇宙もっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。

 現代ネットメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているか真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事判断できるようになるかもしれない。

 もちろん、義務教育量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本実験動画簡単ワークショップ体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。

 こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さなから世界には不確定なものがある」「見ていないとき世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的世界理解できる大人へと成長できるだろう。

 人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間いかにちっぽけで、世界理解が限られているかがよくわかる。

 その「ちっぽけな存在である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これから時代必要姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育量子力学エッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。

 見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。

量子力学義務教育

 最近、「量子力学って不思議学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。

 私たちの多くは、日常生活で「見たもの現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?

 量子力学は、この「当たり前感」を根本からさぶる。ミクロ世界では、粒子は同時に波であり、状態観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しか量子力学は「それが重要問題だよ」と言ってくる。

 もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやす実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学象徴している。

 これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界状態に影響を与えている。

 こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たち人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たち宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在しかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。

 これを知ると、自分が大きな宇宙自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベル世界想像してみれば、私たち確信なんてあやふやもので、宇宙もっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。

 現代ネットメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているか真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事判断できるようになるかもしれない。

 もちろん、義務教育量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本実験動画簡単ワークショップ体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。

 こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さなから世界には不確定なものがある」「見ていないとき世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的世界理解できる大人へと成長できるだろう。

 人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間いかにちっぽけで、世界理解が限られているかがよくわかる。

 その「ちっぽけな存在である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これから時代必要姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育量子力学エッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。

 見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。

量子力学義務教育

 最近、「量子力学って不思議学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。

 私たちの多くは、日常生活で「見たもの現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?

 量子力学は、この「当たり前感」を根本からさぶる。ミクロ世界では、粒子は同時に波であり、状態観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しか量子力学は「それが重要問題だよ」と言ってくる。

 もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやす実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学象徴している。

 これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界状態に影響を与えている。

 こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たち人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たち宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在しかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。

 これを知ると、自分が大きな宇宙自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベル世界想像してみれば、私たち確信なんてあやふやもので、宇宙もっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。

 現代ネットメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているか真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事判断できるようになるかもしれない。

 もちろん、義務教育量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本実験動画簡単ワークショップ体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。

 こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さなから世界には不確定なものがある」「見ていないとき世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的世界理解できる大人へと成長できるだろう。

 人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間いかにちっぽけで、世界理解が限られているかがよくわかる。

 その「ちっぽけな存在である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これから時代必要姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育量子力学エッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。

 見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。

2024-12-13

さっきまで今日は金曜だと錯覚してた

脱力タイムズ見るの忘れてた〜とか思ってたら今日木曜じゃん

まだ1日あるじゃん

絶望だよ

2024-12-10

植物を育てたい人へのアドバイス

まず、普通ホームセンターで売られている観葉植物を買って育ててみましょう。

ポイントは「普通の」ホームセンターで選ぶことです。

まり植物売り場に力を入れていないような、小さなホームセンターがいいです。

どんなに小さなホームセンターでも、例えば、モンステラパキラ園芸種のアンスリウムセロームガジュマルサンセベリア…このあたりの品種が売られています

ホームセンターで売られている観葉植物なんて大したことないと思われるかもしれませんが、ホームセンターなどで大量に流通する品種というのは、

日本環境で、あまり栽培経験のない人が育ててもぐんぐん成長する、頑丈なスーパーエリート植物たちなのです。

値段もお手頃で、頑強なホームセンター観葉植物初心者の方が経験を積むのにピッタリ。

観葉植物ライフを楽しみましょう!

というのは嘘だ。偽りの虚無・虚像だ。こんなことを言うやつのことは信用してはいけない。

本当は、まず、行ける範囲で最も大きくてマニアック植物が揃っている植物屋にいくんだ。

東京ならオザキフラワーパークとか。無かったら植物園でもいい。

そして中を満遍なく歩き回る。端から端まで踏破する。

頭の上から足元から植物が襲ってくるだろう。

店の中なのになぜか植物を掻き分けるように進まないといけない場所もあるだろう。

そうやって歩きにくい店内を苦労して歩いていたら、どこかで魂が震えるような出会いがあるはずだ。

しかしたらそれは穴ぼこだらけの蟻植物かもしれない。

しっとりと濡れた毛深いシダ植物かもしれない。

誇らしげに壁に飾られたビカクシダかもしれないし、アンティークオブジェのようなユーフォルビアかもしれない。

堂々と値札を掲げた塊根植物かもしれない。燃え上がり噛みついてくるようなアガベかもしれない。腹をすかせた食虫植物かもしれない。

魂が震えて、その姿に目を奪われたら、とにかく買うんだ。

どんなにマニアックで、どんなに気難しい植物でも、どんなに高価でも関係ない。

見た瞬間魂が震える植物を見つけて、買う。それだけ。

それが、幸運にも育てやすいのなら問題ないが、やっぱり目を奪われるような植物はたいてい手間がかかる。

日本環境ベランダ一年中置きっぱなしにできるようなものは少ない。

から、まずは1年間、死ぬ気で環境を整える。

寒いのが苦手ならでっかい衣装ケースを買って、中にヒーターマットを敷いてやる。

湿度が好きな植物なら衣装ケースの中に水槽水槽用のヒーターを入れて温度湿度を与えてやる。

日光が好きなら植物育成ライトを買って毎日12時間照射する。

サーキュレーターも忘れずに。パソコン用のケースファンを使うのもいいぞ。

スイッチボットを組み合わせて光、温度湿度、風を全自動コントロールし、家の外からでも植物状態を数値で管理できるようにする。

過保護に、考え得る限り最高の環境を整えてやる。

そうやって工夫と苦労と心配を重ね1年、全ての季節を乗り越えたとき、思うだろう。

今の自分なら、大抵の植物なら育てられる。

もちろんそれは錯覚だが、そう思えたのならきっともうこちらの沼にはまっている

植物ライフを楽しみましょう。

2024-12-08

anond:20241208185209

楽しめる錯覚は楽しめばいいし

苦痛しかない錯覚無視すればいい

anond:20241208184654

鬱病3回繰り返してるけど不安苦痛も全てが脳の錯覚だと言い聞かせて最終的には知性で捩じ伏せた

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