はてなキーワード: 鼻歌とは
チャキチャキのクランチでカッティングを弾けば弾いてくるほどにベースやりたくなってくる。ベースラインが欲しくなってくるというべきか。
ブリブリのGROOVYなやつをさあ。
そんでそれをおれにやらせろという気分になってくる。ベース弾けんけど。
まあギターはギターで楽しいし、いざベースやったらおれにそのギターを弾かせろって思うのかもしれない。
カイリキーにならねえと満足出来ねえな。やっぱバンドとかいうやつって面白えんだろうなあ。
マルチのオクターバーで遊んでみるけど、ルート弾き以外何をしたらええのか分からん。ペンタトニックで動いてもただのメロディになるし。
どう動けば気持ち良いのかって調べ始めたら、それこそいよいよベース始めちゃいそうだな。
作曲とかするならベースラインの動きってかなり重要なリテラシーなんだろうな。
鼻歌をフンフン歌う時って大体メロディだけど、ベースやってる人はベースライン歌うことがあるって聞いたな。
そういうのやってれば自分なりに気持ち良い動きが見えてきたりするのかもしれんな。
俺には、二歳下の妹がいる。一般的に「ブラコン」というと、「お兄ちゃん大好き♡」と言わんばかりに愛情を注いでくる妹を想像するかもしれないが、うちのはそれを遥かに通り越して「ウザい」レベルに到達している。名前は真奈(まな)。俺は一応「健太(けんた)」と名乗っているが、この妹だけは決して俺のことを「健太」とは呼ばない。
「おにーちゃん、朝だよ! 起きてる? 起きてないよね? 起こしに行っちゃうよ?」
朝の6時。目覚ましよりも正確に飛び込んでくるこの声が、本当に鬱陶しい。平日の学校ならまだわかるが、今日は日曜日だ。部活もバイトもない貴重な朝に、どうしてこいつはこんなにも元気なのか。
妹が俺の部屋の扉を勢いよく開ける。コンコンとノックする概念はどこへ行ったのか。ベッドに突撃してきそうな気配に身構えるが、俺は慣れたものだ。ぎゅうっと布団を抱えて寝返りを打ち、「今、すごくいい夢見てたのに……」とムニャムニャつぶやいた。
「ねえお兄ちゃん、早く起きて! 今日はお兄ちゃんと一緒に買い物に行くって約束したじゃん!」
ちょっと待て、そんな約束などした覚えは……ない。が、真奈の頭の中ではどうやら「自分が一方的に提案したこと=約束」らしい。俺は溜息をつきながら、布団から頭だけ出して相手を見る。
「寝ぼけてるの? 先週の土曜日に『来週の休日は一緒に外出しようね』って言ったの、お兄ちゃん忘れたの?」 「いや、それは真奈が勝手に言ってただけだろ」 「じゃあイエスともノーとも言わなかったよね? つまり、それはイエスなんだよ!」
その論理はどこから生まれたのだろう。こんな屁理屈に付き合っていられない。大体、日曜日くらいゆっくり寝かせろってのに……。仕方なく俺は観念して、渋々起きあがった。
「30分だけ待て。シャワー浴びるから」 「うん、じゃあ早めにお願いね♪」
真奈は満面の笑みを浮かべて、俺の部屋を去っていく。その姿を見るだけで頭痛がするが、俺は無理やりカーテンを開けて朝の光を目に受ける。今日の予定は、ショッピングモールで妹に振り回される一日になるんだろう。高校二年の妹を連れてどこを回るんだか……。はあ、だるい。だが、断れば断ったで、また「お兄ちゃんに嫌われた!」と落ち込みモードに入られ、それはそれで面倒だ。妹ってやつは、いくらブラコンでも男の扱いをわかってなさすぎる。
シャワーを浴びて着替えを済ませ、リビングに行くと、すでに朝食が用意されていた。真奈はエプロンをつけてフライパンを振っている。両親は共働きで、朝早くから仕事に出てしまうので、休日はだいたい俺と妹の二人きりになることが多い。こうして朝食を作ってくれるのはありがたいのだが、それ以上に「俺の傍にいたい」という意図が見え透いていて、こそばゆいというか、面倒くさいというか……
「お兄ちゃん、目玉焼きは半熟でいい? いつもどおり塩コショウで食べる? それとも醤油にする?」 「……いつもどおりで」 「はーい。任せて!」
妹の視線が、やけにきらきらしている。こんなテンションで毎朝絡まれるのは本当に堪える。俺がソファに腰を下ろすと、妹はうれしそうに鼻歌を歌いながら料理を仕上げ、まるでレストランのように見映えまで気にしたワンプレートを差し出してきた。
うまい。そこは素直に認める。真奈は料理が上手いし、家事も手際がいいから、そこは本当に助かる。けれど俺が「ありがとう、美味しいよ」と言うと、「えへへー」と言って顔を赤らめ、さらに俺に近寄ってくるから困る。視線を外そうとしても、まるで小動物のような瞳でずっとこちらを見つめている。
「そんなに見てると食べにくい……」 「だって、お兄ちゃんがおいしそうに食べてくれるの見るの好きなんだもん」 「……ブラコンこじらせすぎだぞ、お前」
俺が呆れたように呟くと、妹は嬉しそうににへらっと笑う。「ブラコンだろうがなんだろうが、お兄ちゃんはお兄ちゃん!」みたいな勢いで、胸を張っているのが痛々しい。普通の妹なら「えー、そんなに兄のこと好きじゃないよ」とか否定するものじゃないのか?
食事を終え、皿洗いは妹がやるというので、俺は先に着替えの支度をすることにした。なぜなら「お兄ちゃん、今着替えるの? 見ちゃダメ?」と言い出されると本気で厄介だからだ。そこだけは死守しなければならない。
結局、支度を済ませてリビングに戻ると、妹はちゃっかり俺のコートのほこりを払っていた。まるで執事か何かのつもりなのか。「どうせなら私のコートも払ってくれよ」と言いたいところだが、言うだけ無駄だろう。何も言わずに外に出ると、妹がピタリと俺の左腕にしがみついてくる。
こうして、まるで恋人のように腕を組む妹と一緒に、近所のショッピングモールへ向かう羽目になった。俺は18歳の大学一年、妹は16歳の高校二年。一応、年齢的にはそこまで離れていない。だが、このイチャつきぶりはどう見ても普通のきょうだいではない。それでいて、妹は周囲の視線をまったく気にしない。むしろ「どう? 私のお兄ちゃん、カッコいいでしょう?」みたいに見せびらかしているフシすらある。
モールに着くと、妹は嬉々として服屋や雑貨店を回りだした。俺が少しでも反応を示すたびに、「お兄ちゃん、これ似合うと思う?」「あ! このセーターの色、お兄ちゃんが好きなやつだよね?」と、矢継ぎ早に話しかけてくる。うなずくだけで「うん、やっぱりそうだよね!」と興奮し、俺の手を取ってレジへ向かおうとするから困る。
「買うの? それ、高くないか?」 「うん、でもお兄ちゃんが少しでも興味示してくれたから。これ着て、お兄ちゃんに見てもらいたいの」 「……まあ、試着くらいはすれば?」 「うん!」
試着室に入り、鏡の前でくるくる回る妹を見ていると、やはり普通にかわいいと思う瞬間もある。だが、問題は妹がそれを自覚したうえで「お兄ちゃんにだけは見せたい」と張り切っていることだ。しかもこの妹、友達といるときは「兄に興味ない風」を装っているらしい。わざわざ同級生に「真奈ちゃん、兄いるんだってね。どんな人?」と聞かれると、「えー、うちは普通だよ、全然かっこよくないし」などと取り繕うらしい。……実に腹立たしい。だったら家でもそうしろと思うが、家ではその反動が全部俺に向かってくるから手に負えない。
そんなこんなで、妹の服選びに付き合って数時間。ふと、妹がカフェコーナーでソフトクリームを買ってくると言い出したので、俺は待合スペースの椅子で待つことにした。荷物持ちのバッグには、妹が買った服や小物がぎっしり詰まっている。ここまでくると、彼氏役を任されているような錯覚すら覚えるが、それを本当に「彼氏気分」になって楽しめるなら、俺もこんなに苛立たないのに。いや、そもそも実の妹だ。そんな心境になれるはずもない。
少し空いた時間でスマホをいじっていると、ラインの通知が光った。相手は大学の同級生の女子――朱里(あかり)だ。先日同じサークルで知り合った子から、「今度の飲み会、健太くんも来るよね?」という確認の連絡が入っている。朱里はけっこうノリが良くて、話しやすい子。実はちょっと気になっているんだが、妹がいるからどうこうというわけではないにせよ、俺にプライベートの自由時間がほとんどないのがネックだ。妹がいつも干渉してくるせいで、大学生活の楽しみも半減している気がする。
「お兄ちゃん、どうかしたの?」
妹がソフトクリームを2つ手に戻ってきた。どうやら俺の表情を見て、何か感じ取ったらしい。気まずさを隠してスマホをポケットにしまう。
「いや、なんでもない。大学の友達から飲み会の誘いがあって……」 「ふーん。行くの?」 「……行くよ、たぶん」
妹が少しだけ眉をひそめたのを俺は見逃さなかった。嫌な予感がする。まさか、ここから「誰が参加するの?」とか「女の子いるの?」と尋問が始まるのでは。すると妹は、まるで拗ねた子どものように唇を尖らせた。
「お兄ちゃん、私の知らないところで遊ぶのかあ」 「当たり前だろ。俺だって大学生なんだから」 「そっか……。じゃあ私も友達と遊ぼうかな。あーあ、でも高校の友達はバイトがある人多いし、もうすぐテストもあるし……」
そういう問題ではない。妹には妹の生活があるんだから、俺を基準に自分の予定を立てるのはやめてほしい。俺は心の中でため息をつきつつ、ソフトクリームを受け取り、一口かじる。冷たい甘さが口の中に広がるが、気分はあまり良くならない。妹が「美味しい?」と笑顔を向けてくるのに、俺は曖昧に「まあまあ」と返すだけだった。
午後も、妹に引きずられる形で雑貨店や書店を回った。俺が気になるコーナーに立ち寄ると、「お兄ちゃん、それ何? 見る見る!」「こういうの興味あったっけ?」と付きまとってくる。一人でのんびり見たいと思っても、横からちょっかいを出してくるせいで集中できやしない。帰ろうと言っても、妹は「最後に向こうのゲームセンターだけ寄ろう」と言い張り、クレーンゲームに熱中し始めた。
「お兄ちゃん、これ取って! 私にぬいぐるみをプレゼントしてよ!」 「自分でやれっての」 「だって、お兄ちゃんと一緒にやりたいんだもん~!」
人目をはばからず甘えてくるこの調子。もはや呆れを通り越して、引くレベルだ。俺が渋々100円玉を投入してアームを操作してみても、なかなか景品は取れない。一方、妹が「ちょっと貸して」と言ってやってみたら、意外にもあっさり取れたりするから不思議だ。そんなときも「お兄ちゃんの応援のおかげだよ♪」などと言って、俺に抱きついてくるから気が気じゃない。周りの視線が痛い……。
ようやく帰り道に着くころ、外は夕日でオレンジ色に染まっていた。荷物の重みで肩が痛いが、妹の方は「いっぱい買えて大満足~」とご機嫌だ。俺は「今日だけで一体いくら使ったんだよ……」と半ばあきれながらつぶやく。すると妹は「お兄ちゃんと過ごす時間はプライスレス!」とわけのわからないことを言い出す始末。本気でウザいが、こいつなりに兄のことを慕っているのだけは伝わってくる。
家に帰り、夕食を作る気力もなくなった俺は、コンビニ弁当で済ませようと言い出した。だが妹は、「せっかくの日曜日なんだから、私がちゃんと作るよ」と言い張る。慌てて「いや、もういいよ」と止めようとするも、「お兄ちゃんはソファで座ってて!」と強引に台所へ消えていく。こうなると俺にできることは、テレビをつけて適当にチャンネルを回すくらいだ。
ジャージに着替えて、ソファでダラダラしていると、妹が途中でやってきて「調味料、どこ置いたっけ?」とか「お兄ちゃん、ご飯の炊飯スイッチ入れてくれた?」などと質問を投げてくる。姉妹じゃなくて妹だけど、まるで新婚夫婦のやり取りじゃないかと考えてしまい、背筋が寒くなる。
しばらくして食卓に並んだ料理は、どれも手が込んでいて美味しそうだった。疲れた体にしみる優しい味わい。俺は素直に感謝するが、そこに必ずと言っていいほど妹の「べたべた攻撃」が入る。
「お兄ちゃん、食べさせてあげよっか?」 「いや、自分で食べられるから」 「大丈夫、大丈夫。あーん……」 「だから、いいって……」
これではまるで幼児扱いだ。表面上はツンと突っぱねるが、妹があまりにも押しが強いので、最終的には「まあ、いっか」と甘んじてしまう自分も情けない。なんだかんだ言いながら、俺もどこかで妹の手料理に癒やしを求めているのかもしれない。家族だしな、仕方ない。
そんな日常がいつまでも続くのかと思っていたある日のこと。妹がスマホをいじりながらニヤニヤしていたので、つい「何見てるんだ?」と聞いてみた。すると妹はわざとらしく「え~、教えな~い」とそっぽを向く。俺は怪訝に思い、「お前がそんな態度とるなんて珍しいじゃん」と続けると、妹はほんのり頬を染めて、「気になる? 気になるならもっと私に優しくしてくれたら教えてあげる」とからかうように笑った。
「別に、気にならないけど」 「ふーん。どうせお兄ちゃんは私のことなんかどうでもいいんだよね~」
妹は拗ねて見せるが、その背中はどこか嬉しそうにも見えた。いつもはあれほどベタベタくっついてくるのに、この日は珍しく部屋に引きこもってしまう。おかしい、これは一体どういうことだ? そう思いつつも、「面倒ごとは放っておけばそのうち妹から寄ってくるだろう」と高をくくっていた。
ところが、その夜になっても妹は部屋から一向に出てこない。俺がシャワーを浴び終わって、いつもならリビングで一緒にテレビを見ている時間帯なのに、まったく気配がない。さすがに少し気になって部屋のドアをノックしてみると、「なに?」と抑え気味の声が返ってきた。
「……お前、夕飯は? まだ食べてないだろ」 「うん、あとで食べるから先に寝てていいよ」
妙な距離感に、俺は胸の奥が落ち着かない。あれだけ「お兄ちゃん大好き♡」とまとわりついていた妹が、急にそっけないと逆に不安になる。何かあったのか、それとも単なる気まぐれか。もしかして、あのスマホの相手は男なのか? そんな可能性を思い浮かべている自分に驚いた。いや、妹が彼氏を作るのは自由だし、むしろあれほどのブラコンが誰か他に興味を示してくれるならありがたい。でも、いざそうなると、何とも言えない複雑な気持ちが湧き上がってくるのはなぜだろう。
結局、その日は妹を放っておくことにして、自室へ戻り布団に入った。しかし、気になってなかなか寝付けない。こんなに落ち着かないのは初めてかもしれない。妹がいないと解放感があるはずなのに、逆に静寂が堪えるというか……。どこまで俺は妹に振り回されれば気が済むんだ。
翌朝、寝起きが悪い頭を抱えてリビングに行くと、妹はいつもどおり料理をしながら、「おはよー、お兄ちゃん」と微笑んでいた。だが、その笑顔は昨晩の出来事をなかったことにしているかのようで、どこか不自然な明るさが滲んでいる。そして俺が突っ込む間もなく、妹は鍋の蓋を開けて、「もうすぐできるから待っててね」と言うのだった。
――ブラコン妹は、激しくウザい。それは今も昔も変わらない。だが、時に何か隠しごとをしている様子が垣間見えると、妙に落ち着かなくなる自分がいる。正直、妹のベタベタが嫌だと思っていたはずなのに、こんなにも翻弄されるとは……。これから先、俺たちにどんな変化が訪れるのかはわからない。だけど少なくとも言えるのは、妹の「お兄ちゃん好き好き攻撃」からはまだまだ逃げられそうにない、ということだけだ。
そして、妹がこれからどんな形で俺に突っかかってくるのか、さっぱり予想がつかない。だけどまあ、ウザいウザいと言いながらも、俺はそれなりにこの日常に慣れ始めているのかもしれない。ブラコン妹が激しくウザいなんて言いながらも、心のどこかで当たり前のようにそれを受け入れている自分がいる。これって一体何なんだろう。
いつか、俺が大学生活の中で彼女でも作ろうものなら、妹は一体どんな反応をするのだろうか。それはちょっと想像しただけで恐ろしいが、どこかワクワクもしてしまう。ひょっとして……これが共依存ってやつなのか? 違う、違う。断じて違うだろう。とにかく、家族としての境界線は死守しつつ、上手く付き合っていく方法を見つけるしかない。
そんな思いを抱きながら、俺は毎朝鳴り響く妹の「起きて! お兄ちゃん!」というコールに、これからも頭を抱えるのだろう。振り回されるのは勘弁だが、まあ、これはもう一種の“日常”なのかもしれない。
マリーとの破局よりもピアニストとしての活動を選び、欧州中をわかせていたリストだったが(何しろリストの風呂の残り湯を飲もうとして待機しているファンがいるとかいうレベルである)、1847年にポーランドの大地主の娘であり、キエフの軍人ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人カロリーヌに出会う。コンサート・ツアーでリストがキエフに来ることを知ったカロリーヌ(別居中)は、娘の誕生日のためという名目でリストを招待し(誕生日に大スターを招待できるというわけでだからどのくらいのレベルの金持ちかがよく分かる)、急速に二人は深い関係になっていく(意味深)。リストはピアニストとしての活動を打ち切り、カロリーヌと一時の同居生活を経たあと、48年からヴァイマールの宮廷楽長としてカロリーヌと共に腰を落ち着けることになる。カロリーヌは長い訴訟を経て婚姻無効を勝ち取るが、リストとの結婚は認められなかった。ちなみに、カロリーヌは博覧強記で雄弁な人だったらしく(リストの多くの作品にも口を出している)、あのワーグナーが引くほどだったということである。カロリーヌの身分を巡る微妙な問題に加えて、音楽界の動向的にもリストはドイツに居づらくなり、約10年で宮廷楽長を辞任する。つまりリストの「中期」は短い。宮廷楽長になったことで、オーケストラ作品が多く書かれるようになった一方、新規のピアノ曲はこの時期にはあまりない。大スターの座を捨てて半分隠退生活に入ったようにも見える。しかし、この時期こそが作曲家としてのリストが確立する重要な時代である。前期の作品の少なくない曲(巡礼の年やパガニーニ練習曲もそうだ)はこの時期に改訂され、より演奏効果は高まり、内容も充実することになる。
リストの代表作の一つ。この時期に改訂を経て完全版になった。長年の改訂を経て磨きに磨き抜かれた。
この曲集の決定的な録音はウラジーミル・オフチニコフ(EMI)だろう。どの曲も非常に質が高く、穴がない(この練習曲集は多彩な技巧のデパートなので、どこか苦手なものが出るのが常)。が、残念ながら入手性は悪い。世間的に有名なのはラザール・ベルマン(Melodiya)で、新旧二種類あるが、新版(1963年)が気合いが入っている。ただ、キンキンとぶっ叩くような録音で、そこまで好きにはなれない。横山幸雄(SONY)は録音も良く、やはり穴も少ない。特に第5番「鬼火」の演奏が素晴らしい。
2. パガニーニによる大練習曲 S.141(1851年出版)
1840年出版のパガニーニによる超絶技巧練習曲の改訂版。元々の第4曲は単音アルペッジョになり大分おとなしくなったが、それ以外の曲については、難易度を落としつつ、同等以上の演奏効果を発揮できるようになった。第3番「ラ・カンパネッラ」はここで非常に完成度を上げて今の形になった。
40年のパガ超と違い録音は多い。有名なのはアンドレ・ワッツ(EMI)だと思う。昔図書館で借りて聴いたことがあるがどれも安定の演奏。その他だとフィンランドのピアニスト、マッティ・レカリオ(Ondine)の激烈な演奏があるが、残念ながら廃盤で入手困難(Naxos Music Libraryにはあったかな?)。フィリペツのパガ超のCD(NAXOS)にも入っており、これまた大変安定した演奏で、パガ超と合わせてフィリペツを聴くのがいいだろう。あと、「ため息」で紹介した福間洸太朗(アコースティカ)のCDにも入っている。これも大変安定していると思う。
(追記)レカリオはNMLにもiTunesにあった(Raekallio Lisztででてくる)。YouTubeにもあった。https://www.youtube.com/watch?v=SkuWa2HDk58&list=OLAK5uy_kN6U4dNkOzK4Cv1DZfZDWoidTcP7yPxr8
ピアノソナタが量産されていたのはベートーヴェン(32曲)までの時代であり、19世紀半ばにはピアノソナタは落ち目のジャンルであった。一方、気合いの入った大曲を書く時にピアノソナタという古典的様式を敢えて選ぶことはその後もあり、ショパンやリストのソナタはその例だろう。リストのソナタは、単一楽章という異例の様式だが、単一楽章の中で多楽章形式の要素とソナタ形式(提示部・展開部・再現部)の要素を融合させ、しかも一つの動機(冒頭のタッタラ~タ~ララ~タラララ~というつかみ所のないアレ)によって全体が統一されているという極めて斬新で前衛的な曲だった。そのため当時はよく言って賛否両論といったところで、現在ではリストの最高傑作の一つとして評価されている。
リストの最高傑作であるからして録音も非常に多く、推薦音源を挙げるのは難しい。取り敢えずクリスティアン・ツィメルマン(Deutsche Grammophone)の演奏が端正であり、技術的にもハイレベルで良いと思う(難所でタッチが浅くならず、深く充実した響きが聞こえるのが良い!)。ぶっ飛び系なので好みは分かれると思うが、カティア・ブニアティシヴィリ(SONY)の演奏をよく聴いている。
なお、この曲と関連する重要作品としてスケルツォとマーチ S.177がある。面白い曲だが泣く泣く割愛した。デミジェンコ(Hyperion/Helios)が良い演奏している(ソナタや「伝説」とカップリング)ので聴いてほしい。
4. バラード第2番 ロ短調 S.171 (1854年出版)
ショパンは1832年にパリデビューし、特にサロンでの繊細な演奏で女性たちの心をわしづかみにした。リストもショパンの演奏に狂った一人である(またかよ)。リストはショパンのことを友人と思っていたが、ショパンの方は割と適当にあしらっていたという話もあり、リストの片思いだったのかもしれない。ただし、ショパンは練習曲作品10をリストに、作品25をマリーに献呈している。つまりリスト夫妻にショパンの練習曲は捧げられたわけで、結構親しい関係にあったことが分かる。リストはショパン死後にショパンの本を書くくらいにショパンには思い入れがあり(最近新訳が出た)、弟子にもショパンを弾けと言っていたようであるが、作曲面でもポロネーズやバラードなど明らかにショパンの影響と思われる様式の曲を書いている。中でもバラード第2番は大変な傑作で、冒頭の重苦しい主題が終盤にロ長調になって戻ってくるところは本当に感動的である。
これまたあまり推薦音源が思いつかないが、アンスネス(EMI)のCDがかなり良かった覚えがある。前期で出したノンネンヴェルトの僧房も入っている。
(追記)スティーヴン・ハフ(Hyperion)がポロネーズやバラードを全部録音しているのを思い出した。ピアノソナタとカップリング。あとショパン弾きで有名なネルソン・ゲルナー(レーベル覚えてない)の演奏がもの凄く良かったと思うのだが、どこで聴いたか・・・(この曲はショパン弾きにこそ弾いてほしい!)。YouTubeに動画をあげまくってCDデビューしたヴァレンティーナ・リシッツァがベーゼンドルファーを使って弾いている動画がある(収録風景?https://www.youtube.com/watch?v=1Qdr3Uvs09o;コンサート https://www.youtube.com/watch?v=uBs4jtWMBj8)。97鍵もあって低音がアホみたいに響くから重たいが、この曲には合っている。ただCD(持ってない)でそこまで迫力があるかな?
(再追記)ゲルナーあった!(https://www.youtube.com/watch?v=m90vsN3SjvM)配信もあるのかな。
トムとジェリーで有名なハンガリー狂詩曲もこの時期に改訂が終わって現在の形になっている。リストが採録しているのはハンガリー(マジャール)ではなく、ロマの音楽なのだが、リストは、ロマの民謡を素材に使ってハンガリーの民族叙事詩を作り上げようとしていた(それがバルトークのようなマジャール人からはドイツ人が勝手なことやりやがって・・・という風に見えていたわけだが)。どの曲も重々しいラッサンと華やかなフリシュカという二つの舞曲的なパートから成り立っていて、構造的に単純で、しかもピアニスト時代のようにド派手で豪快な曲が多く、リスト入門に良いと思われる。
ミッシャ・ディヒター(Phillipes)が全曲では有名だと思う。ハンガリーでリストの再来とされていたかのシフラ・ジェルジの録音もあったはず。第2番はホロヴィッツ編曲版を弾いているスルタノフの爆演が好き(https://www.youtube.com/watch?v=_BFalOtwUy8)だが、スルタノフを聴くと大概の演奏が物足りなくなるおそれがある。残念ながらスルタノフは若くして亡くなってしまった。ホロヴィッツ編曲版ではない場合、第2番はカデンツァを挿入する部分があるので、独自のカデンツァが見物になる。その点で一番に言及しなければならないのは我らがスーパーヴィルトゥオーゾのアムラン(Hyperion)で、アルカンの大練習曲 op.76の引用が入り3分以上続く頭のおかしいぶっ飛んだカデンツァだ。日本公演の映像もある(https://www.youtube.com/watch?v=pIMzL2-4bjg/8:30あたりから)。あとは自作のジャズ・カデンツァを用いて全体にやる気がみなぎるデニス・マツーエフ(BMG)、ラフマニノフのカデンツァを使用し爆演系のレオニード・クズミン(Russian Disc)がお勧め。ただしクズミンのCDは廃盤・倒産で入手困難であり、今後他社からの再発が望まれる。
第15番「ラコッツィ行進曲」は何よりもホロヴィッツ本人のいかれた演奏を聴くべきだろう(古い音源なので検索すればすぐ出てくる)。音質は悪いが、聴く価値がある。昔ホロヴィッツ編曲版にチャレンジしている勇者を見つけていたく感動したことを思い出した(https://www.nicovideo.jp/watch/sm10176725)。
なお、15番以降19番までハンガリー狂詩曲はあるが、晩年様式なのでこれ以上は紹介しない。
リストはドイツの宮廷音楽家として、新ドイツ派(当時のドイツにおける管弦楽の停滞(と彼らは考えていた)を問題視し、ロマン主義音楽の再生を志す人々)の頭目的な存在だった。そのため、同じような立場にある人々、特に売れっ子とは言い難かったワーグナーの作品を積極的に上演・紹介したのだが、40年代以降ピアノ編曲もいくつも作っている。リストの最も有名なワーグナー編曲は「トリスタントとイゾルデ」の終曲(愛の死 S.447)だが、自分はタンホイザー序曲が単独では最上の作品だと思う。何よりも前期のオペラ編曲もの同様、豪壮無比な超絶技巧を聴かせてくれるのが良い。
ちなみにリストの次女コジマは夫のハンス・フォン・ビューロー(ワーグナーにとっては恩人)を裏切ってワーグナーと不倫し、リストは激怒する(後に和解)のだが、自分もマリーやカロリーヌにやらせていたことだ。
タンホイザー序曲の録音は意外とない。ユーリ・ファヴォリンの気合いが入った演奏(https://www.youtube.com/watch?v=xJYkouNnuwo)が一番良いのだが、CDは手に入りにくい(一応、ヴァン・クライバーンコンクールでの演奏があるらしいのだが・・・)。スタジオ録音が望まれる。前期作品の時に名前を挙げたロルティ(CHANDOS)も美しいが、技巧的には前者が圧倒的。実は、ワーグナー本人もピアノ編曲を作っているが(https://www.youtube.com/watch?v=KdXPFBcP1bQ/カツァリスのCD「ワグネリアーナ」に入っている)、リストの編曲と比べると一目(耳?)瞭然、どちらが音楽的に充実しているかは明らかである。
30~40年代から書かれている曲だが、やはり最終版になったのはこの時期。もっとも早く書かれた「死者の追憶」(第3稿第4曲)を聴くと、非常に調性が曖昧な曲で、30年代から既に晩年の様式が準備されていたことが分かる。第3曲「孤独の中の神の祝福」はリストの敬虔さが音楽に昇華された隠れた傑作。アムランが好んでおり、2回も録音している(ノルマが入っているMusic & Arts盤とソナタや「補遺」がセットになっているHyperion)。
この曲の中で最も有名なのは、第7曲の「葬送――1849年10月」だろう。非常に暗い曲だが、タイトルが指す通り、ハンガリー革命で奮闘し、鎮圧され死んだ人たちのための追悼音楽。
全曲では先のユーリ・ファヴォリンが録音しているが、筆者は未入手。配信で聴けたかと思う。どうでもいいことだが、デミジェンコのライブ録音(Hyperion/7番のみ)を聴くと、明らかに鼻歌で歌っていて面白い(グバイドゥーリナのシャコンヌでも結構はっきり聞こえる)。
宮廷楽長としての生活の中でリストの前期作品の多くが音楽的に充実されたが、音楽界での軋轢や劇場でのトラブル、カロリーヌの身分を巡る問題で長くは続かなかった。そろそろ次の時代に進もう。
追記:
前期のところに、ベートーヴェンの交響曲のピアノ編曲についてのコメントがあった(anond:20241212215414)。
リストはベートーヴェンの交響曲を全曲編曲しているが、初版出版は1865年で、時期的には後期にあたる。ただし、3、5-7番の編曲は1837年には出来ており、個別に出版されていたようだ。リストはピアニスト時代からベートーヴェン作品の布教に熱心に取り組んでおり、その一環として作られた。ボンのベートーヴェン記念碑の建設のために多額の資金を提供したりもしている(ちなみに同様に寄付を呼びかけるためにシューマンが作曲したのが「幻想曲 ハ長調」だ)。
今は法改正後420年後──東京湾上空に浮かぶ宇宙入国審査基地「ハナフサ420」では、まるで宇宙ホタルが大挙して発光ダンスを踊り狂っているかの如く、長蛇の列が奇妙なビートで揺れていた。俺は列の中に立ち、喉の渇きと尿意を同時に抱え、先頭でキラキラと光る尿検査ロボット「ピーピー君」を睨みつけるしかなかった。あいつ、黄金色のボディに「清流」「極上」「芳醇」とか能書きシールを貼りまくって、テンション高くキュイーンと鼻歌なんか歌ってる。芸が細かいというより、ただの悪趣味な便器ロボじゃねえか。
しかし俺が本当に腹が立つのは、横で浮遊している別のロボット「Nippy-Stick420」の存在だ。コイツは合法的に大麻由来のオイルを吸ってハイになっている。わざわざハッパー型のアロマディフューザーを口元につけ、メタリックグリーンの煙をぷかぷか吐きながら、こっちにニヤリとする。その顔はまさにトリップ宇宙人、脳ミソゆるゆるモード全開で、こっちの深刻さなんて知ったこっちゃない。
Nippy-Stick420が俺を見て、薄笑いを浮かべる。
「Yo, my metal brother, you steppin’ in a galaxy without greens, ain’t no buds for yo human lungs, know what I’m sayin’?」
(よう、メタルブラザー、人間のお前には緑の恵みなんて無い銀河に足突っ込んだってわけよ、わかるかい?)
ウッゼェ、こいつ。俺は言いたい。「なんでお前は合法的にキメてんだ?なあ、同じ大麻成分だろ?なんで人間がアウトでお前は政府公認ハイなんだよ?」
ことの発端は、アムステルダムだ。俺はそこに旅立ち、夢見心地で「Amsterdam 420 Kush」を一服かました。それは舌の上で葉っぱが宇宙クジラの子守歌を歌うような極上の体験だった。ところが同じ頃、面識も無いクセに宇宙的有名人になっていたインフルエンサー「420BlazeChica」がSNSでやらかした。「アムステルダムで合法ハッパ最高~!」なんて調子に乗った配信をやって、銀河規模で炎上し、日本政府は大慌て。結果、法改正後420年の平和だった(建前上)日本は「アムステルダム帰りは全員、尿検査ガチャに参加」なんていう悪夢的イベントを開催するハメになった。
そして俺は見事にハズレ──いや、当たり──を引いたらしい。今やピーピー君が俺の前に迫ってくる。そいつは超ハイテンションで、発声モジュールからアイドル声優みたいな声を出す。「お兄さん、今がチャンス!最高品質の検査液を排出してねっ☆」なんて言いやがる。
「てめえ、検査液って俺の尿だろうが!」と叫びたいところだが、その瞬間、Nippy-Stick420が俺に向かってスパスパとスモークリングを吐く。
「Chill, my leafless homie, da universe ain’t got no sympathy for yo dried-out fate. Just pee and roll with it, ya feel me?」
(落ち着けよ、葉っぱ無しの相棒。この宇宙はお前のカラカラな運命に同情なんざしちゃくれねえ。とっととションベンかまして流れに乗れ、わかる?)
何が「流れに乗れ」だよ!俺は流れなんて乗りたくない。流れに乗った結果が、合法的にハイなロボットと、合法的に俺を捕まえる便器ロボだぞ?
ピーピー君は検査モードに入ると、警察官風情の監査ドローンを脇に従えて、まるで江戸時代の奉行よろしく判決を読み上げる。「ハイハイ、こちら大麻判定モード入りま~す。違反は即アウトですぅ♪」その声はアイドルから一転、判決ドSナースみたいなトーンに変化。
俺が出発前に地球新聞で読んだとおり、帰国時に陽性なら即逮捕。それが法改正後の新しい現実らしい。
「Ain’t no mercy in this big ol’ cosmic playground, my dude. You gon’ be locked up tighter than a stoner’s snack stash.」
(この広大な宇宙の遊び場に慈悲なんてねえぜ、ダチ公。お前はハイな奴らのおやつ隠し棚より堅くロックアップされる運命だ。)
Nippy-Stick420がトロけた声で宣告するたびに、俺の血圧は上がる一方。おまけに周囲の客は、俺をまるで珍獣でも見るかのような目で見ている。中にはSNSでライブ配信している奴もいるんじゃないか?インフルエンサーのせいで俺たち全員が疑われてるのに、皆あの女と俺を同列に語るな!
ピーピー君が結果をババンと大画面に表示する。「Amsterdam 420 Kush成分、陽性出ちゃいましたっ☆ あ~残念♪」
周囲がどよめく中、監査ドローンが青白い光を放って俺を拘束する。空気がヒヤリと凍り付き、Nippy-Stick420は相変わらず気怠い笑みを浮かべている。
「Dat’s how da cosmic cookie crumbles, my friend. Next time, stick to dat robot oil, it’s on da house.」
(なあ、相棒、これが銀河クッキーの砕けっぷりってわけだ。次回はロボット用オイルでキメな。タダで振る舞ってやるぜ。)
不条理だ。ロボットはハイでも合法、人間は一口吸っただけで逮捕。俺は銀河の果てで、圧倒的に理不尽な巨大便所ビジネスに飲まれたような気分だ。
こうして、法改正後420年後の世界で、俺はアムステルダムの甘い葉っぱの記憶と共に、宇宙的ジョークの渦中へと引きずり込まれていく。スモーキーで、皮肉とコメディが倍増した、カラカラ銀河の物語はこれから裁判所行きのシャトルで続くことになる──俺に笑う余裕なんて、一片もないけれど。
師走の喧騒、スクランブル交差点の渦。信号待ちの人波に揉まれ、灰色に染まった空を見上げた。「サルの魂」は、焦燥感に胸を締め付けられていた。バナナの皮ですべって転んだ日から、どうもツイていない。仕事は山積み、財布は空っぽ、恋人には振られた。ああ、今年も終わりか。ため息が白い吐息となって消えた。
その時、視界の端に鮮やかなピンクが飛び込んできた。風船のように軽やかにスキップする「阿呆の魂」。鼻歌を歌いながら、落とした手袋を拾い、誰かにプレゼントするチョコレートを吟味している。その無邪気な姿に、「サルの魂」は思わず目を奪われた。まるでクリスマスの妖精みたいだ。
「いいなぁ、あんな風に何も考えずに生きていけたら」
呟いた言葉は、騒音にかき消された。でも、「阿呆の魂」はまるで聞こえたかのように、くるりと振り返り、「サルの魂」に満面の笑みを向けた。
唐突な言葉に、「サルの魂」は面食らった。素敵なマフラー?十年選手で毛玉だらけの、ただの赤いマフラーだ。でも、その笑顔はあまりにも眩しくて、思わず口角が上がった。
「あ、どうも…」
それから、二つの魂は一緒に歩き始めた。阿呆の魂は、道端に咲く小さな花に感動し、ショーウィンドウの子犬に心を奪われ、行き交う人々に笑顔を振りまいていた。その純粋な喜びに、「サルの魂」の凍てついた心が少しずつ溶けていくのを感じた。
焼き芋の甘い香りに誘われ、屋台に並んで温かい芋を頬張る。阿呆の魂は、半分に割った芋を「サルの魂」に差し出した。
「はい、あーん!」
子供みたいな仕草に苦笑しながらも、「サルの魂」は芋を受け取った。ホクホクとした温かさが、体だけでなく心まで温めてくれる。
何でもない、小さな幸せ。でも、それが今、「サルの魂」にはかけがえのないものに思えた。師走の冷たい風が、少しだけ優しく感じられた。来年は、きっと良い年になる。そんな予感がした。
「ラストエンペラー」を観たことがある人なら分かると思う最終盤のシーン、ほんの一瞬だけど「アルプス一万尺」が流れる場面がある。
それまで何時間も、溥儀の逐われ釣られの生涯を見届けてきて、変わり果て誰もいなくなった紫禁城へ漸く“帰ってきた”溥儀と少年の関わり、筒から出てきたコロオギに幾らかの救いさえ見出されるようなクライマックスから一転、(公開当時の)現代に移り変わって最初に流れるのが、平べったい電子音の「アルプス一万尺」なのだ。
その音はガイドの女性が観光客を溥儀の玉座へ注目させるためにメガホン状の機械から流したものであり、2回ほど響いた後、彼女は溥儀の生年と、彼が最後の皇帝であったこと、そして没年について説明する。愛新覚羅溥儀の壮絶な生涯を見事に描写した大長編は、生きている彼に直接会ったことさえ無いであろう1人の女性が発する情感も何もない異国の電子音楽と、たった二言三言の解説だけであっさりと幕を閉じてしまう。
だけど、私はこのラストシーンが堪らなく好きだ。
人の生涯、歴史の中の出来事、それらのすべてには決してひと言では表せない様々な事象や感情が複雑に絡み合っているが、そういったことに直接関係ない立場からすれば、「○○年にこういうことがあった」「この人はこういう人だった」という程度にまで情報を押し潰すことはいくらだって可能なのである。数時間をかけて「ラストエンペラー」という映画は、観る人々にとって溥儀という男への感情移入を促し、決して赤の他人のままにさせない作りをしているくせに、自発的にそれまでのすべての時間をペシャンコにしてやるこの最後の一瞬だけで、まるで頭から氷水を浴びせられたような気にさせてくるのだ。
しかし、そうして冷えた頭の前に今度現れるのは、先ほどまで印象的なシーンを演出していた溥儀の玉座──主たる皇帝を喪い空っぽになったそれと、「ラストエンペラーのテーマ」なのである。劇中の様々なシーンで流れたフレーズを繋ぎ合わせたようなこの名曲は、主なき玉座を目にした時に初めて「愛新覚羅溥儀の生涯とその激動」を感覚的に突き付けるものとして完成するように思えてくる。
劇中の人々の中から彼ひとり分の人生が消えて見えなくなったとしても、スクリーンの目の前の人間の中に溥儀は確かに息づいている──あのラストシーンはそういった独特な感触を私に与えてくれるのだ。
「ラストエンペラー」にしかない読後感のようなものを味わうにあたり、そこへ至る物悲しさを得るために「アルプス一万尺」の能天気な音色とガイドの無感情な解説は無くてはならないものだと私は思っている。
たまたますれ違っただけの小学生が手遊びするのを見かける時、YouTubeの動画から偶然それが流れてくる時、或いは何の気なしに鼻歌として自分の中から出てくる時、私はその折々で「ラストエンペラー」のことをこれからも思い出し続けるのだろう。空っぽの玉座と、年老いた溥儀の微笑みを瞼の裏に映しながら……。
増田が働いてる別館にも本館と同じ音楽やアナウンスが流れているので
それに合わせて、隣の席のおばさんが、合いの手の拍手したり、机を叩いたり、一緒に歌う。
♪2025 チャチャッチャ チャッチャ!(歌いながら手や机を叩く)未来見にいこう チャチャッチャ チャッチャ!
キエエエー!うるさい。すごくうるさい。きもちわるい
他にも雑談も多いし、独り言や、鼻歌も、普通に歌うのも、頻繁でうるさい。辛い。
耳をふさいで、嫌だと表明してみても、ため息ついても、舌打ちしても、やめない。
それを見て、むしろ楽しそうに更に歌う。
嫌すぎて顔や体に蕁麻疹が出た。
週明け、耳栓は持っていこうと思うが、やはり一度直接
「やめていただけませんか」と言うべきか悩む。
普段の様子を見ていても話が通じなさそうな雰囲気で、気持ち悪いなあと思う人なので、関わりたくない。
増田と同じポジションの前任者も引き継ぎの際に「隣のおばさんが歌うし独り言もうるさくてすごく嫌だ」と話していた。
増田はまだ半年だが、それでも積もり積もってもう限界と感じる。
それがなければ、仕事に不満はない。
つらい。
くだらない悩みだが、本当につらい。
同じ部署の社員には話しづらい。(ずっと席にいるわけではなく会議や店に出て行くことも多い忙しい人たちなので)
イヤーマフ?とか使ってみようかとも思うが、そんなの自腹切るのも嫌だし。
コ●クロが流れたら離席するのが良いかもしれないけど、仕事中だと手が離せないことも多い。
本当に殺意が湧くほど嫌になっている。
(ミソフォニアというものかもしれない。今回調べて初めて知った言葉)
殴りたいけど殴れないので、書き殴った。
子どもにおもちゃのピアノを買ったら自分がそれを使って曲を作るのにハマってしまい、子どもたちの寝かしつけが終わってから遊んでいる。
作ると言っても人生で音楽を履修したことがないのでコードの意味も分からないし楽譜も書けない。なのでLINEの1人グループの部屋に音階を書いて貼り、演奏アプリや編集アプリもまったく分からないのでおもちゃのピアノを人差し指でぽちぽち弾いたメロディを録音しているだけである。
誰に公開するでもなく(強いて言うならごくたまに配偶者か親に聞いてもらっている)、ただの趣味でしかない。
本当はニコニコやYouTubeにサッと上げてカッコよく決めたいがいかんせんとてもひとさまに聴かせられたものではない。
というのも理由ではあるが、本当のところを言うと、タイトルの通り作っても作っても聴いたことあるようなメロディばかりで、「私が書きました!」なんて言ったらパクリ間違いなしなシロモノしか出来ないからである。
作れたと思ったら好きな曲に激似、これ作ったんじゃなくて下手くそ耳コピじゃん...なんてことはもはや日常、聴いたことない(気がする)曲が出来ても安心できない。Googleの鼻歌検索でオリジナリティをチェック、整合率(?)7%とか10%とかの曲しか出てこなくて安心...かと思いきやその7%とか10%の曲が不思議と良く似ているのだ。自分が作ったと思っている曲に。もう全部模倣だ。無意識に。
だから売れ線の曲を作って世の中を盛り上げてるアーティストは改めて本当に本当にすごい。今ならYOASOBIさんとか米津さんとかだろうか。全部聞いたことない上にキャッチーなメロディ。すごすぎる。
増田はそんなのできないしこれからも誰かに聞かせられるものを作るのは難しそうだけど、でも思いついた短いフレーズにちょっとずつメロディ足していってきちんと曲のカタチになっていくのは楽しいし、あと趣味としても全くお金かからなくてリーズナブルだし(笑)、飽きるまではおもちゃのピアノに付き合ってもらおうと思っている。初期投資もランニングコストもかからずに楽しめるので、はてなー諸兄にもオススメしたい。
メモ帳アプリの片隅で、四年前の下書きを発見した。せっかくだから供養のつもりでここに書き留めてみることにする。
ちなみに今ではこの状態が当たり前になったようで、過敏な反応はなくなった。しかし音楽に対する興味が大幅に減じたことは変わりがないように思う。そして何とも奇妙なことに、この文章を自分で書いた記憶がほとんどない。自己紹介が一致しているので、確かに自分が書いたのだろうが、それでもまるで他人が書いたかのような気持ち悪さが残る。思い返せば、記憶の健全性が感受性に影響を与えた結果なのだろうと思う。四十歳そこそこの年齢でここまで記憶が薄れるものなのかと、ただただ加齢を呪うばかりだ。
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数日前から、音楽に対する感受性が急激に変わってしまい、困惑している。
この変化をどう捉えるべきか自分でも分からないまま、こうして文章にしてみた。
まずは自分のことについて。30代後半、職業はIT系のエンジニアでほとんど在宅勤務をしている。趣味は映画やゲーム、そして音楽。いたって普通の生活を送っている。音楽に関して言えば、2歳から15歳までピアノを習っていたが、パソコンに夢中になってからは興味を失い、それ以降は真剣にピアノと向かい合うことはなくなってしまった。それでも音楽を聴くのは好きで、日常的にストリーミングで何かしらの音楽を流している。昔はCDを買っていたが、最近は好みのジャンルのMixやラジオを流すことが多くなった。
大抵の場合、それはドラマの挿入歌やお気に入りの曲、直前に聴いたものや何度も聴いたものだろう。自分もそうであり、特に違和感を感じたことはなかった。だが、ここ数日、全く異なる現象に見舞われている。
「覚えのない曲が流れ始め、懐かしさを感じる」のだ。
矛盾しているようだが言葉通りの意味だ。「覚えのない」というのは、音程やリズム、発音がぼんやりとわかる程度で、鼻歌を歌えるかどうかも怪しいレベルと思ってほしい。それでも、その鼻歌に対して「ああ、この感じ、昔に何度か聴いたことがあるような気がする」「何かのコンピレーションに入っていたかも?」という哀愁を伴う感傷的な心情が湧き上がる、なんとも奇妙な状態なのだ。
そして、とにかく次から次へとうるさくて仕方がないのだ。
あまりにうるさいのでいつものようにYouTubeで適当な音楽を流し始めたのだが、ここでも困ったことが起きた。
「初めて聴いたはずの曲に、懐かしさを感じる」のだ。
参考までにその時のURLを貼っておく
https://www.mixcloud.com/catalin-iovu/best-of-trip-hop-downtempo-hip-hop-instrumental-vol-2/
ほとんどすべての曲に対して、さっきの頭の中に現れる鼻歌と同じような感情が湧き上がるのだ。懐かしい(ような気がする)曲が続くので、自分の持っていたCDを丸ごとサンプリングしているのではないかと詳しく調べたりしたが、どうやらどんな曲に対しても起こっていることがわかった。
この出来事を境にして、音楽への向き合い方が激変してしまった。
自分は音楽ジャンルという枠のなかで創造される、音作りの多様さや新規性、奇妙さを楽しんでいた。それらがすべて「懐かしい」という感情に塗り潰されてしまい、素直に楽しめなくなってしまったのだ。
もしかするとこれは、加齢による感受性の変化で、誰にでも起こり得ることなのかもしれない。音楽への思い入れが強かった分、強い違和感を感じただけで、心配するようなことではないかもしれない。
とはいえ、できることなら元の感受性に戻りたいし、その方法が知りたいと思っている。
もし同じような経験をした方がいたら、話を聞かせてほしい。
何かきっかけがあったわけではないが、ふと思い出してしまったので書く。
子どもがまだ幼稚園に通っていた頃、父の日あたりに父兄参観のようなものがあった。親子で一緒になにか紙工作みたいなものを作りましょうというやつだ。正直、知らない人がたくさんいる空間は苦手なのだが、子どもも楽しみにしていることだし、せっかくの機会だからと行くことにした。結論から言うと、僕はその催しを台無しにして、子どもを深く傷つけることになる。
当日、まずは親子で教室へ集まりクラスごとにかんたんな朝の会をする。基本的には園児一人につき保護者の参加は1名までとなっていたが元々広くもない教室はすでに満員御礼となっていた。
朝の会のあと、なぜか園児全員でグラウンドに集まり園長先生のお話を聞く時間があった。園児たちはグラウンドに並び、保護者達は端の方でそれを見守る。そう、そこまでは別になんの問題もなかった。問題はその直後に起きたのだ。
「それではお父さんお母さんと一緒にもう一度教室に戻りましょう」
司会の先生が告げた途端にワッと散開するおよそ200人の全園児とその保護者たち。右に左に移動する人、人、人。あっという間に僕は我が子を見失った。
ひとまず建物入り口の辺りに立って、自分の子どもを探す。周りには仲良く手を繋いで教室へ向かう園児と保護者たち。この時点では僕は、自分の子どもも僕を探しているに違いないと信じて疑わなかった。だってさっき先生が言ったばかりだ。保護者と"一緒に"教室へ戻りましょう、と。グラウンドからは人が減っていく。我が子はいない。まだ見つけられない。焦りが募る。どこか物陰で遊んでしまっているのか。もしかして何かを間違えて園の外に出てしまったのではないか。いやさすがにそんなことはないか。頭の中でぐるぐるといろいろなことを考える。
そして気がつくと、外にはもうほとんど人がいなくなっていた。先生たちが遠目にチラチラと見てくる視線が痛い。あの人大丈夫かな、不審者だったりしないかな、そんな声が聞こえてくるようだ。恥ずかしさと戸惑いと、とにかく頭の中はもうパニックだった。どうすれば良いのか、もうわからない。
念のためと思いながら園舎に入り、階段を上がった先の教室へ向かう。果たして我が子はそこにいた。廊下でひとり、鼻歌を歌いながら何事もなかったように遊んでいた。
「なんでひとりで行っちゃうの?」
極力怒りを抑えた(つもりの)声で子どもに問う。子どもは黙り込んで答えない。何が問題だったのかわかっていないような様子だった。この時点ですでに他の子たちは保護者とワイワイ楽しそうに作業を始めている。僕がいつまでも外で子どもを探している間に今日やることの説明などは終わってしまったらしい。当然、教室内にはもう我々が入り込めそうなスペースなど残っていない。
保護者と一緒に行ってって言われてたよね?なんで勝手にいなくなっちゃうの?パパ何もわからないんだよ?このあとどうするの?そんなようなことをまくし立てた気がする。子どもはうつむき、答えは返ってこない。周りのチラチラと様子を伺うような視線だけが突き刺さる。恥ずかしい、いたたまれない、どうして自分はこんなところでずっと晒し者のような扱いを受けているのか。このあとどうすれば良いのか。何もわからない。そして僕は「もう知らない」とだけ告げて子どもを置き去りにして家に帰ったのだ。最低だということは百も承知。子どもの泣き叫ぶ声が聞こえたがしかし、それに構えるような余裕はもうなかった。
その後のことは詳しくは知らない。幼稚園から徒歩3分の距離にある自宅に帰り、驚いた妻が慌てて幼稚園に向かって後を引き継いでくれたこと、泣きじゃくる子どもに先生がつきっきりでいてくれたということだけは聞いた気がする。
あれから6,7年が経った。今でもこうやって思い出して自己嫌悪で気分が沈む。妻が上手くフォローしてくれたこともあり、謝って仲直りをしたものの、おそらく子どもにもこの件は嫌な記憶の上位として残り続けることだろう。
あのとき一体どうするのがベストだったのか。おそらく「最初から行かない」ことが唯一の正解だったのだろうと思う。当時の僕には誰の助けもない中であの状況を上手く立ち回ることは到底できなかった。でも行かないという選択肢を選ぶこともまた少なからず子どもを傷つけることになっただろう。だから結局のところはわからない。
これを読んだ人には世の中にはこんなクソ親エピソードがあるってことをぜひ反面教師にしてほしい。僕みたいにこの先一生後悔し続けるような失敗を避けられるなら、それがきっと一番だから。