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2024-06-28

関東おすすめ美術館山梨県編)

https://anond.hatelabo.jp/20240627230737

こちらで神奈川県がまとめられていたので、何か貢献したいと思った。山梨関東に入れていいのか問題

個人的美術の好みでは日本近代洋画が一番好き。特に未来派と超現実派が好き。

山梨県立美術

山梨県の美術館を語るならば当然ここは外せない。

日本随一のミレーを中心としたバルビゾン派コレクションを誇る。その他にも日本代表する木版画家の萩原英雄コレクションや、近藤浩一路野口小蘋、米倉壽仁など、県内関係作家を中心に良い作品を多く持っている。

ミレーはいつ行っても見られるが、その他の特別展コレクション展には当たり外れがある(ように感じる)ので、事前にホームページ確認して、好みの作品が出ているか確認することをお勧めする。

繰り返しになるがミレーはいつでも見られる。

韮崎大村美術館

ノーベル賞受賞者大村智氏のコレクションを中心とした収蔵品を展示している。

基本的には近代日本洋画が中心で、梅原龍三郎とか三岸節子とかもある。

南アルプス市美術

旧名取春仙美術館。郷土出身役者版画家名取春仙の作品を中心とした美術館だったのだが、少し前に山梨県美の偉い学芸員だった方が館長に就任し、館名も建物リニューアルされた。

その後は特別展も含め小規模ながら面白い企画が増えたように思う。国内外の版画を中心とした企画展が比較的多い印象。ミロとかピカソとかも来てた。

中村キース・ヘリング美術

アメリカのポップアーティストキース・ヘリング作品を所蔵、常設展示している日本唯一の専門美術館。北杜にある。ポップアート好きなら外せない。

余談

ここを目当てに山梨に来ても後悔しない、という意味で諸手を上げてお勧めできるのはこのあたり。清里とか山中湖の方とか、観光客向けの小さな美術館みたいなのは山梨県はかなり多いんだけど。

あと思いつくところでは笛吹にある笛吹市青楓美術津田青楓の作品を中心とした小さな美術館。閉館の噂が出たり消えたりしてるので行くなら早めに行った方がいい)。

都留にあるミュージアム都留(旧増田美術館が移転統合して入った。増田誠は油彩画、石版画家最近刀剣に力を入れている印象がある)あたりだろうか。

あとは北杜平山郁夫シルクロード美術もあるので、好きな方は面白いと思う。

余談の余談だけれど、以前、北杜清里現代美術という、ヨーゼフ・ボイスジョン・ケージオノ・ヨーコも参加したフルクサスなんかの作品資料を大量に集めた、美術館のような研究機関のようなマニアには多分たまらない美術館があったのですが、運営者の方が体調を崩されたのを契機に閉館してしまった。あの資料、まとめてどこかに移されているといいのだけれど。

2024-06-08

横浜トリエンナーレへの批判を読んで(前半)


文字数制限にかかるようなので、前後に分けて挙げます。)


前置き


第8回横浜トリエンナーレ野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのとき感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています


今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやか感想を述べたに過ぎない」と述懐しています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。魯迅感想短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想もつならば、それで満足です。


人は物事に触れて感想を持つものだと思いますSNS批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というもの自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。


野草』と「文の国」


今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います


今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成るものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的もの追憶的なもの観念的なもの象徴的なもの風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特雰囲気をもった作品集です。


これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります


そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味キュレーター解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレット文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」


しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論余地がありえますが、言葉芸術距離がそう遠いものでないことは確かです。


さらテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきますキュレーター中国出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文文字芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。


作品との対話


いっぽう、日本一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭ものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたか展覧会からあなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。


では、「芸術アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から芸術アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいもの芸術なのか?」とか「言語表現芸術無関係か?」といった問題ゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。


鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります批判ひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要展覧会であったと言えるのでしょう。


友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉時代なのでしょう。考えずして何が現代芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日ちょっと芸術に触れてみよう、子ども芸術に触れさせてみよう、デート美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」


しかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。


私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います


過去トリエンナーレ


ここで、ちょっと過去トリエンナーレを振り返りたいと思います


私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています


2014年の第5回「華氏451芸術世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家芸術家がいか体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治であるという意識が出てきていたためかもしれません。


2017年の第6回「島と星座ガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権さなかにあって、政治右傾化懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)


2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続


きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います


いわゆる「政治性」


今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術政治であることの何が問題なのかとか、政治生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーター中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。


しかに、今回の展覧会ではヨーロッパ戦争に関連する展示や国粋主義者移民反対デモ映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつ世界見立てて、このような出来事遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます


そのデモ映像ひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別デモが行われていますヘイトクライム危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。


思い返せば2014年2017年はかなり「政治的」な展示があったと思いますしかし今回、キュレーター日本問題ひとつも指摘しませんでした。日本美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれ事件もそう遠い昔のことではありません。日本美術表現自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっと自由表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパ安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります


しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品なかに普遍性見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。


ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会なかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅木版画という簡易で複製可能芸術を通じて、民衆文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争撮影した写真が展示されていたのは、芸術政治問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います


(後編へ続きます。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093350


2020-08-05

anond:20200805155830

平安貴族として生まれ藤原道長てぇてぇとか書いて後世の日本語表現に大きな影響を与えた上に文化人みたいな扱いを受ける人生を送って見たかった

おまけに木版画で大量印刷なんかしてみて俺なんかやっちゃいましたか?って朝廷に報告とかしたかった

2018-02-02

日本都市大観(昭和15年

東京市名物

すし、天麩羅蕎麦、鰻、鳥、牛肉おでん豆腐料理かに料理川魚料理どぜう、麦とろ、貝料理

東京市土産

浅草海苔佃煮、鮒すずめ焼、海老おにがら焼、福神漬最中羊羹饅頭甘納豆、たまだれ、梅干飴、瓦せんべい

くず餅、団子、桜餅、おこし、あられ和菓子洋菓子、麺麭、下駄、中形浴衣、洋傘、版画木版画、装身具、玩具類、小間物類、文房具

2017-06-27

https://anond.hatelabo.jp/20170624235903

トラバブコメをいただいたので、勝手ながら浮世絵を勧めてみる。

変な話だが、鑑賞と制作だったら、制作から入ったほうが鑑賞も楽しくなるように思う。

例えば、葛飾北斎富嶽三十六景の、有名なところで赤富士と言われる夜明けに朝日で赤く染まった富士山凱風快晴

グレートウェーブと呼ばれる、神奈川沖浪裏。

あれを見て、思うのだ。

あれは、北斎が描きたかった富士山じゃない。

北斎が描きたかった真の富士山なんて、この世に一枚もない。

それは、制作を齧ってみるとひしひしと感じとれること。

知っての通り、オリジナル浮世絵には原画というものが残っていない。

そもそも絵師が描くのは線画だけ。

それを版元、つまり出版社企画担当に渡して、それを板木屋、彫師という職人渡り、板に張り付けられてしまう。

板に貼りついた絵ごと、彫ってしまうので、原画は木屑と共にこの世から消えてしまってるわけ。

絵師というか、画工っていうイラストレータ地位というのはそれほど高くなくて、彫師が勝手アレンジすることだってある。

そもそも芸術家として心から沸き起こるもの表現するんじゃなくて、売れるものを描くのが至上命題

彫り終わると、それがすなわち線画のコピーが出来るわけで、そこから「ここを赤、ここを青」って具合で、絵師の指示が入る。

具体的な色を塗るとかでなく、文字で書き入れる程度。

そんで、また色の版が出来上がって、今度は摺り師と呼ばれる職人の手に渡る。

そして、絵師立ち合いで、色合わせを行って、微調整されたら出版、という流れ。

で、その手の浮世絵解説書なんてのだと、初摺りは手がかかってるけど、そのあとの後摺りは手抜きで改変されてるとかって書いてあり、実際初期ロットと後期ロットは色が違うってんだけど、いざ制作してみるとそれだけじゃないように思う。

明らかに自己主張がある。

摺り師の「俺上手いだろ?真似できないだろ?」

っていう自己主張をビンビン感じる。

いざ木版画を始めてみると、100人中99人はそれを目指す、ある種の技術方向性というのがあって、それが超絶レベルで、過剰なまでにそれに拘ってるのがよくわかる。

彫師と摺り師の自己主張だけじゃない。

時代流行ある意味で街の声さえも作品に取り込まれてるのが、ありありとわかる。

初摺りであっても、本当に北斎が描きたかった富士山じゃない。

彫師のエゴを、摺師のエゴを、江戸流行りを、それを引き算してやる。

北斎自身ねじくれた自尊心を解析する。

北斎という人はいい歳して「自分が一番!」と天狗になったり、「バカにされるのは嫌だ!」忙しくぐるぐる同じところを回っていて、とてもかわいい

少なくとも、自分にはそう感じられる。

ちょっと大胆すぎる実験的な試みも、「褒められたい!」という意識が見え隠れする。

それを差っ引いてあげて、初めて、あの絵の本当のコンセプトが見えてくる。

いつか、本当の北斎の心を、自分表現したい。

あるいは、摺師、彫師、版元、江戸空気北斎とのジャズセッションがあの作品だったとしたら、今度は自分北斎セッションが出来る。

なんて楽しいことだろう。

技術が追い付いたら、いつかそれをやりたい。

前置きが長くなってしまったが、そろそろどうやって浮世絵制作を学ぶか書いてみる。

いざ木版画を学ぼうとしても、浮世絵方式木版画を教える教室ほとんどない。

なにをもって浮世絵方式というのか難しいけれども、木版画においてかつてスタンダードだった、世界で最も優れてた技術体系と断言できる。

なんで今スタンダードじゃないか

その答えはわからない。

俺も知りたい。

で、そもそもその技術継承した人というのが少なく、浮世絵職人がやってる版画教室、あるいはその流れを汲むとする版画家の版画教室は知りうる限りで以下の通り。

作品展など、見に行って雰囲気を感じるとよいと思う。

朝香伝統木版画教室

所在地東京

現役彫師が教える版画教室

当然ながら彫りに詳しい。

第七回 朝香伝統木版画教室作品展 2017年6月26日7月2日

竹笹堂

摺師が教える版画教室京都だが、関西を中心に出張講座や通信講座もやっている。

今年の作品展情報不明

五所菊雄の主催する版画教室

五所菊雄という版画家で、摺師の内川又四郎氏(ポールジャクレー作品を摺ってた人)から学んでる。

東京近郊で複数教室を持ってる。

HP展覧会情報が載ってる。

まちだ版の会 木版画展 2017年9月12日9月17日

NHK文化センター 川越教室木版画講座・作品展 2017年8月21日8月27日

東京芸術大学

野田哲也が浮世絵の流れを汲む、とされてる。

作品を見ても全然そんな風に感じやしないんだけど。

入学すれば学べるんじゃないかなと思うけども、ちょっとハードルが高すぎる。

作品展というか、芸大卒業制作をみることは出来る。

野田哲也の師にあたる小野忠重の著書は浮世絵技法を知るうえでお勧め

実際、浮世絵制作面白い

毎年、数人は浮世絵制作沼に沈んでると想像される。

いったん情報収集を始めると、先に沈んだ先輩とつながれるので、芋づる式にオタと出会える。

有名なところだと、独学で浮世絵制作者に転身して、大学企業との共同研究までしてた元ジャズマン(最近亡くなられた)。

職もビザもなく、浮世絵への情熱だけで日本にきて、浮世絵で飯食って浮世絵で家建てて浮世絵子供育てたカナダ人

そのへんは浮世絵バカ一代の二代巨頭で、ほかにもごろごろ、まあいるわいるわ。

みんな平気で仕事を捨て、家族を捨て、学歴を捨て、浮世絵制作沼へ沈んでいく。

自分なんか、趣味範囲で、まだ片足だけだが、いつか完全に沈みそうな気がして怖い。

なにが楽しいって、楽しいんだからしかたない。

子供の頃にハンコを押すのが楽しかった経験がないだろうか?

コピー機がある今だとありがたみがないが、同じものが何回もつくれるというのは、楽しい

フォトショップ原画書いて、3Dプリンターで版木制作、色のレイヤープリンターで版木塗って印刷ってのはどうだろう

意見はごもっとも。

浮世絵というのは、つまり、人力カラー印刷にすぎない。

いまだってコンビニカラープリントが80円ってのに、当時はかけそば一杯の値段だったっていうから江戸時代印刷技術スゲーって思う。

小学校でやるようなローラーで油性インクを塗る油性木版と違って、水性の絵具で摺りあげるのだが、特徴をいくつか。

まず、ベタが綺麗に決まる。

まるで、フォトショでみたいにね。

グラデーションがかけられる。

うん、フォトショみたいにね。

色を重ねて混色が出来る。

赤の上に青を重ねると紫になる。フォトショレイヤーを乗算モードにしたのと同じ。

浮世絵の目指すところは、フォトショイラレで書いた絵。

前段のほうで書いた、誰しもが目指す技術というのは、きれいなベタ、滑らかなグラデーション計算されつくした重なり、つまりフォトショイラレ

そういうことなら、原画だってフォトショイラレでつくったほうが、出来上がりイメージはしやすいだろう。

今日はここまで。

本格的に、道具の用意、構図の学び方等々の話に入れずに力尽きてしまった。

勢いに任せて書いているので、話の構成おかしいのはご容赦いただきたい。

2017-04-20

201702xx_清宮質文と版画の魅力

今年の1~2月中の群馬県館林美術館企画展

多分1時間程度でまわれたと思う。

とにかく静謐雰囲気が特徴の木版画が多かった。

版木の木目を巧みに生かしていた。

ちなみに「清宮質文」で「せいみやなおぶみ」と読むらしい、初見でよむのはなかなか難しい。

2016-12-05

http://anond.hatelabo.jp/20160914220045

版画の色彩というのはちょっと異常なものだ。

デジタル塗りのような均一な塗りが可能なうえに、デジタル塗りのようなグラデーションも作れる。

正しくは、塗るのではなく摺るということが大きく影響する。

擦り重ねでわかったと思うけど、浮世絵場合、赤の上に青を摺ることで、紫になるし、黄色の上に青を摺ることで緑になる。

透明水彩と同じ性質を持つ。

同じ原料で絵具を作る日本画は思いっき不透明

赤の上に青を重ねれば青、黄色の上に青を重ねても青。

しかし、版画になると違う。

透明水彩性質に早変わりする。

"ばれん"という道具に秘密があり、不透明なはずのポスターカラーを使って同じことをしても、かなり同じように透明な性質再現される。

小学校で使う偽物なんかじゃなく、本物のばれんの話だ。

ヨーロッパ人が「こんな青色みたことねぇ!絵具なに使ってんだ!?

ビックリしたのは、ヨーロッパ発明された顔料、プルシャンブルーでしたというのは、有名な話。

ところで、本物の"ばれん"って、一枚7万とか10万とかするんだぜ?信じられるか?見た目はただの鍋敷きなのに。

均一な塗り、均一なグラデーションレイヤーの乗算、言ってみればイラレに近い。

デジタル絵と志向性はかなり似てるね。

君の名は」よろしく、空気や風、雨、空、水、そういう形のないもの積極的に絵の中心にもってこようとしたのもそのころの浮世絵元祖だね。

人物が主で背景が従ではなくて、まったく逆に雨が主で、人物は従、空が主で人物は従、そういう絵がわんさと発明された。

北斎という努力型の超人と、広重という天才の働きは大きいことは認めるが、デジタル塗りに近い木版画特性によるものが大きいと俺は思う。

2016-09-25

浮世絵の人ですが

浮世絵増田ですけど、世の中の人

これと

http://www.kk1up.jp/archives/n76465.html

瞬殺した浮世絵木版画初音ミク 歌姫東海道 初音未来」の第二版予約受付が決定!職人による手作りのため限定100枚 | 1UP情報局

これ

http://www.3331.jp/schedule/003500.html

をみて、どっちが上手いとかわからんものなの?

2016-09-07

http://anond.hatelabo.jp/20160903074101

せっかく浮世絵というキーワードが出たので、少し浮世絵見地からコメントを残す。

事実浮世絵美人は一重瞼が圧倒的に多い。

その前に、この文章のなかでいう浮世絵とは、江戸明治期の大衆画、木版画ということで話を進める。

本当は浮世絵定義でそれこそ一冊の本が出来上がってしまいそうなので、たぶんみなが一番あたまに浮かぶ絵として、そういうことにする。

おそらく、浮世絵美人で一番名前が売れたのは、歌麿のものだと思う。

https://data.ukiyo-e.org/tnm/images/C0027082.jpg

他方で、役者絵などは、二重が多い。

https://ja.ukiyo-e.org/image/mfa/sc147410

https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/kunimasa005/kunimasa005_main.jpg

役者歌舞伎ということで自動的男性になるわけで、女性男性という違いが大きいので、これをもってどうとはいえないが、とりあえずそれを覚えておいていただき、次の話に移りたい。

(もう少し言えば、役者絵も理想化して描く場合と、写実的に描く場合と、個性デフォルメを強くして描く場合とがあり、話が違ってくる)

他方で、現代漫画である

男性キャラは、イケメンキャラ糸目である

四乃森蒼紫や流川楓を思い浮かべてほしい。

イケメンキャラというよりは、クール糸目熱血漢、優男=パッチリおめめでふと眉、という図式である

藍染惣右介などわかりやすく、当初の優男の時から、敵役に回りクール性格に変わると目が細くなった。

ここで、仮説を提案したい。

「二重、ぱっちり目は美人を示すアイコンではなく、快活な性格を示すアイコンである

と。

そして、現代においては、快活で明るい女性が求められている(=二重、ぱっちり目)が求められている。

個人的には、セクシー系にはぱっちり目は合わないと思う。

逆に、ぱっちり目でセクシー系も合わないように思う。

そりゃ、セクシー系の壇蜜だってキティちゃんグッズくらい買っててもおかしくないだろうし、ぱっちりおめめの橋本環奈だってアブノーマルハードコアセックスくらいしてかもしれんが、その容姿にふさわしいキャラというものを、われわれは求めている。

再び、浮世絵の話に戻ろう。

その仮説を検証しながら、浮世絵世界での美人の変遷について語ろう。

まず、元号明和時代浮世絵が単色や二色摺りから、多色摺りへ変化したとき絵師鈴木春信である

イニシャルはH.S、ドSでHは鈴木春信と覚えてほしい。

多色刷りという技術的な革新もさることながら、女性像も革新的だった。

一言でいえば、ロリである

江戸時代女性像というのは、それ以前の髪を下したスタイルから、結ったアップスタイルに変化した時代だ。

アップスタイル女性社会進出象徴であり、いなせで粋で大人女性萌えていた。

そんなところに、春信はロリである

服装や髪形だけみれば立派な大人、でも体型はドロリ

教科書的には、はかなげな女性を描いたことになってるらしいが、端的に言えば、ロリハードコア凌辱される絵である

女性糸目である

幼児ポルノは持ってるだけでお縄であるので、持っていないしURLを張り付けることも出来ないが、ハードコアロリ裏ビデオには、おめめパッチリの二重美少女よりも、糸目の薄幸少女がよく似合うと思いませんか!?

春信の絵は、物語性が強く、その絵の場面に至るまでの物語や、続きの物語想像させられる。

そこに、例のエロである

薄幸そうな少女に、極太のデカものがぶち込まれてる絵を一度みてしまうと、エロくない絵をみても

「このあとされちゃうんだろうなぁ」

と思ってしまう。

いくつか、お気に入りの春信の春画アドレスを貼っておく。

スタンダードデカちんにされちゃう

http://okunoin.up.seesaa.net/image/IMG20no.189.jpg

レズプレイであったり

https://data.ukiyo-e.org/mfa/images/sc149258.jpg

春信の時代のものは、春画でも相当お高くて(一般に、春画のほうが安い。芸術自分を騙せば100万でも買えても、エロパロのために何十万もは出す人は少ないんだろう)、春信の浮世絵を買うなら春画おすすめだ。

続いて、鳥居清長。

ロリから反動からか、長身美人を描いた。

https://data.ukiyo-e.org/mfa/images/sc226102.jpg

たぶん8頭身、下手したら9頭身くらいある。

女性を一人だけ描くことはせず、かならず複数女性が絵に並ぶ。

群像劇のような表現を狙ったんだと思う。

自分は、清長が描く美人がけっこう好きだ。

体型も、表情も、健康的な感じがする。

まだこの時代も一重で糸目だね。

続く

2016-09-01

浮世絵バカ列伝

http://anond.hatelabo.jp/20160830190925

意外と多くのブックマがついた。

皆が浮世絵に興味をもってくれてうれしいような、浮世絵ではなくて浮世絵にハマってる自分面白がってるだけなのでそんなに嬉しくもないような。

資料アップしてもいいんだが、どうせなら自分なんかよりももっと浮世絵にハマったとんでもない人間たちを数名紹介する。

最初横綱級の男、何度かネットでも騒がせているイギリスまれカナダ育ちの男性

ネットで話題になったゲームキャラ浮世絵プロジェクトで彫り摺りを担当した男性

その経歴がすさまじい。

簡単にはこちらの記事にもあるが↓

http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/cover/foreigner/080909_mokuhanga1/

簡単に言えば、ある日浮世絵にハマり、39歳で日本移住して独学で浮世絵の復刻をはじめたそうな。

その前から何度か日本を訪れては木版画用品を買い漁ったり職人のところに突撃を繰り返していたらしいが、居てもたってもいられずに日本移住というあたりが凄い。

日本移住して最初の本格的な作品は、100枚揃いの浮世絵を、10年かけて彫り、摺りあげたというぶっ飛び具合が桁が一つ違う。

ちなみに、上の記事浮世絵に捧げた彼の人生のうち、過激記事にできないところを上手に隠している。

誇張ではなく、もっともっとヤバい

記事のなかのあんな思慮深く落ち着きのありそうな男ではなく、かなり沸点が低い。

唯一、自分が互角にガチオタトークが出来た人間だ。

彼の方向性と、自分方向性はかなり似てる。

まず、彼はコレクターでもある。

彼は浮世絵とそれに続く伝統木版画気持ち悪いほど愛しているが、オリエンタリズムには興味がないし、歴史も興味がない。

美術品としてのいくら価値があるとかいうことにも興味がなく、単純に「綺麗だから欲しい」、その延長でコレクションをしてる。

不思議もので、「浮世絵が好きで、職人になりたい!人生を捧げたい!」という人はけっこういるのだが、そんな人たちが浮世絵を買ってるかというと、ほとんど買ったりしていない。

版画作りが楽しいから入った人、彫りや摺りの技術に感動した人、という人が多いような印象である

一方で、浮世絵を買っている層はというと、描かれているもの歴史的な背景について熱く語ったり、江戸文化風俗について興味があるとか、あるいは一種財テクなのか有名な絵だから買うという人が多い。

単純に、絵の美しさだけに心奪われて、おかしくなってついには技術面にも興味が出てしまったのは、彼と自分くらいかもしれない。

もし好評なら二人目、三人目の浮世絵バカを紹介していくけど、どうですかね?

2015-08-16

http://anond.hatelabo.jp/20150815210249

たとえば北斎も肉筆だと

http://fast-uploader.com/file/6995210605446/

こういう写真かよ!っていう絵を描いているんだ。

なんで生首?

うーん、ほら、生首の絵の扇子で扇いだら涼しくなりそうじゃん(笑

単体ならっていうのは、透視遠近法みたいな絵がないっていうことかな?

有名な冨嶽三十六景は70代の作品だが、30代で既にたとえばこんなやつがある。

http://fast-uploader.com/file/6995210740539/

カンペキだね。

これと似たような構図を年代順にならべてやる。

40代

http://fast-uploader.com/file/6995211010479/

かなり透視遠近法に忠実。

消失点は水平線の彼方にある一点透視

枠の中に時間を切り取ったカメラのような絵。

70代

http://fast-uploader.com/file/6995211188891/

これ、よくみると、消失点が1点にならない。

左右の橋の梁の平行線を伸ばしてぶつかる消失点は水平線の彼方、両脇の屋敷屋根平行線を伸ばしてぶつかる水平線は橋の下かその少し奥。

これが、忠実な一点透視だったらつまらない作品だったとおもわん?

絵の中に動きがあるのは、ちょっと崩れてきてるおかげ。

80代

http://fast-uploader.com/file/6995211441686/

もう解説不可能

ぱっとみ同じ構図の一点透視のようで、二点透視にも見え始め、仰ぎ見てるようにも見えたり見下ろしてるようにも見え、ってことは三点透視かとおもいきや、そもそも透視図法(平行線がいつか交わる)じゃなくて投影図法(平行線はどこまでも平行)なんじゃないかと見える。

番手前の人物にフォーカスを合わせるとそういう絵になり、その奥の人物にフォーカスを合わせても絵としてなりたち、人物を辿ってるうちに奥に奥にと視線誘導され、そのたどる先には富士山

多重視点に近い技法

多重視点というのは、「ピカソの絵は右から見た絵と正面から見た絵が合成されていて」みたいな説明をされるあれ。

ピカソ作品はそれだけじゃなくて、いろんな意味で工夫させすぎてて、話が脱線してしまうので、わかりやすキリコ

http://www.geocities.jp/syu_58jp/we2/1.JPG

この絵のようなやつ。

これを分析すると、消失点が狂っており

http://www.geocities.jp/sakushiart/bizu/251.JPG

遠近法的に忠実に描くと、

http://www.geocities.jp/sakushiart/bizu/252_4.JPG

こうなる。

人物やモノ画中にたくさん配置して、奥のモノ、人物は小さく、手前の物を大きく描くことで絵の中の遠近を表現するっていうのは、基本ではあるが、

それをやめて、横一列に均等に配置することで、絵にリズムが生まれ

1905のホドラーという画家作品がこれだ。

https://cakes.mu/posts/7599

これについても、似たようなことを既にやってる北斎

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-94-64/otyaken_suki69/folder/1050996/44/47018044/img_8?1382279701

なんというリズム感。

次、北斎富士をバックにシャチホコがある絵

http://yukiwochannel.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_f71/yukiwochannel/E6B19FE688B8E381AEE4B88DE4BA8C-7fa87.jpg?c=a319

これ、どこがおかしいかわかる?

シャチホコってさ、近くで見ると当然巨大じゃん。そうしたら、本当は

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0a/The_Great_Wave_off_Kanagawa.jpg

波をシャチホコに置き換えたら富士山はこのくらい小さくないと絵としておかしい。

この構図になるのは、望遠レンズズームで覗いてるという設定の絵だっていうこと。

望遠鏡!そんなのおかしい!」って?

いや、まあ北斎からね。科学技術マニアだし。

http://pds.exblog.jp/pds/1/201011/22/10/b0111910_1061561.jpg

http://tenkijuku.com/qa/kisyoudai/hugoku.jpg

当然もう残っていないけど、百二十畳の巨大な紙に、高いところからみないとなんだかさっぱりわからん巨大な絵とか描いたっていうんだ。

そういう高いところからみないとなにを描いているんだか本人もわからない絵というものは、「この座標でこの角度で線を曲げて」っていう座標の概念がないとどうやっても描けないわけで。

北斎というと、80過ぎてるのに110歳くらいまでの人生設計(当然自分画力について)を立てる貪欲さで、当時の平均寿命の倍くらい生きてるのに死ぬ間際に「まだまだ描きたりねぇ(意訳)」といって死んだというエピソードが有名なので、描いて描いて描きまくったというイメージが強い。

しかし、その実際は、それプラス数学物理幾何学も絵に応用して、古今東西、みたこともないものだろうと文献調査だけで描き(中国くらいならまあ、古代インドとかどうやって描くんだよ!!見たことないはずの象を右からも左からも正面からも後ろからもかけるとか、どうかしてる。)、漫画効果線やトーンのかなりを発明し、その後の絵画歴史発明された技法をその100年前に実験しつくし、鎖国時代なのに西洋の銅版画や油絵解説書をつくり、中国画の技法日本画技法も操り、いうなれば、異星人。

写実的な絵の話からすこし話が逸れたな。

まあつまり、線遠近法北斎より少し前の時代に入ってきたんだが、カンペキ理解をしたのが北斎

自在に使いこなし、それを捨て去り、違う境地、もう前衛芸術実験のようなレベルに高めたのが北斎

そのネクストジェネレーション広重、その次が国芳

その後は幕末文明開化西洋画が入ってきて、もう一回遠近法ブームが起きて、

日本画はもう古い!これから西洋画!遠近法!陰影表現!」

みたいなムーブメント

油絵が始まり浮世絵(版画)の絵師たちもそれに近い木版画を作った。

初めてやったのは小林清親って人で、水彩画風の版画、ついには油絵風の版画まで辿り着くが、結局彼の画風はいわゆる浮世絵的な絵に戻る。

https://www.google.co.jp/search?q=%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%B8%85%E8%A6%AA&es_sm=122&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0CAcQ_AUoAWoVChMIg9bKrtGrxwIVYcamCh0Kcgg-&biw=1920&bih=955

写実的(性格遠近法、陰影表現)ってのは、いちどはそれに熱中する麻疹みたいなもの

おっと、また今回も北斎の話しかしてねぇや。

追記

その後の時代だと、吉田博、川瀬巴水とかが水彩画のような木版画で有名だが、小林清親浮世絵の構図、モチーフ水彩画手法油絵手法で再構築した感じなのに対して、吉田博、川瀬巴水洋画木版画しましたって感じだから浮世絵日本画の子孫じゃあないと思う。

吉田

https://www.google.co.jp/search?q=%E5%90%89%E7%94%B0%E5%8D%9A&es_sm=122&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0CAcQ_AUoAWoVChMI4bGkztGrxwIVwh-mCh1rBg6P&biw=1920&bih=955

川瀬巴水

https://www.google.co.jp/search?q=%E5%B7%9D%E7%80%AC%E5%B7%B4%E6%B0%B4&es_sm=122&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0CAcQ_AUoAWoVChMI97yT-NGrxwIVCSOUCh3qogIQ&biw=1920&bih=955

2015-05-06

限定商法について思う

浮世絵にはまった増田です。

突然だけど、ビックリマンシールを集めるように、浮世絵を集めるようになってくれないかなと思う。

子供でも版画の美しさはわかる

ビックリマンのなにがすごいって、ただただ美しいいからというだけでブームを作ったこと。

シールに遊び方があったというわけじゃない。

しか「貼られたら貼りかえせ!」と書いてあったが、そんな遊びをしてるやつはいなかった。

コミックアニメが展開したけれど、あくまシールの人気にのっかっただけ。

コミックアニメの人気にシールがのっかったのではなかった。

子供でも、美しいものは美しいとわかるいい例だと思う。

今にして思うと、ビックリマンシールって、どうみても浮世絵役者絵だと思う。

ポージングや、レイアウトなんかがズバリ

大きく見栄を切り、枠のなかにタイトルがバシっと入る。

背景は描かれず、幾何学模様やキラキラさせたり。

加えて、旧ビックリマンシールって、今の平板印刷じゃなくて、アキバ売られてるイルカの絵と同じシルクスクリーンだった。

インクの盛り上がりが気持ちいい、一種の版画だった。

浮世絵は意外とお買い得

余談だけど、浮世絵大判が35×25だとして、ビックリマンシールが5×5cmとすると、大きさにして35倍。

ヘッドの封入率が約1/40 。

今売られている復刻浮世絵は、ヘッドシール以上に凝った細工がしてあるので、

35×40×30円=42000円

くらいまでは適正価格だと言えなくもない。

復刻浮世絵は1枚あたり1~2万円、なんとお値打ち

いや、4万もしちゃったら子供は買えないから、1枚1000円くらいじゃないと無理だけどさ。

版画家限定商法をやめたほうがいいと思う

特に現代木版画だと「限定○部」みたいな売り方してるけど、あれはやめたほうがいいと思う。

木版画って、ビックリマンシールと同じで、手にとって、生で見ないと美しさがわからない。

それでも、高級品として額にはめて壁に飾られたいのか?

それで本望なの?

一枚あたりの価値高まるのは理解できる。

でも、それって、希少だから貨幣価値が高まったというだけで、作品芸術性が高まったわけではないでしょう?

限定商法衰退史

手軽に聞けるウォークマンラジカセが普及して、高級オーディオは衰退の一途を辿った。

そこでオーディオ業界は取るべき道を誤った。

限定生産で、付加価値を高めるという方法だった。

結果は今の通り。

ミーハー金持ちと、狂信者だけという有様。

いい音を多くの人に届けていれば、そうやって品質アピールしていけば、もしかしたら生き残れたかもしれないのに。

木版画市場も同じ一途をたどると思う。

印刷技術が発達して、写真ディスプレイで見るぶんには区別がつかなくなった。

高級品として額に入れて紫外線をさけてアクリル板を挟んで飾ることを推奨するような売り方をする理由がわからない。

そもそも、市場は死んでる。

ネームバリューのある作家以外は、限定部数にしようがしまいが、ヤフオクでの値段は知っての通り。

財テクとして買うんだったら、絵なんかじゃなくて株券でも買うだろ。

常識的に考えて。

反論もあるだろうけど

ビックリマンシールが廃れた原因が、公取委指導でヘッドカードの封入率が上がり、レア度が下がったからという意見がある。

自分はそうは思わない。

レア度が下がったからではなくて、封入率が高くなったことで原価を圧迫して、シールクオリティが低下したからだ。

まとめ

限定商法というのはいずれ終わる。

流行りモノ好きと信者しかついてこなくなるからだ。

流行りモノ好きが飽きたら、信者から搾り取るものがなくなったらそこで終了だ。

田中義剛が、

「発想の転換であえて少なく作る」

みたいなことを言っていたが、ぜんぜん同意できない。

ここ十年くらいは、

品質がいいだけじゃ売れない」とかなんとかで、ブランディングが人気のように思う。

高く売るまではいい、品質がいいのなら。

でも、肝心な「多くの消費者」に届けることを放棄したら、終わる。

聞いてるか版画業界、聞いてるか音楽業界、聞いてるか衣料業界、聞いてるか食品業界

2015-04-12

エウリアン擁護する

http://anond.hatelabo.jp/20150410101845

エウリアンにはついて行くな

秋葉原などの繁華街絵葉書無料で配っているお姉さんたちがいる。

しかし、ついうっかりお姉さんから絵葉書をもらってはいけない。

言葉巧みに画廊へと連行されて、気が付くと大して価値もない絵(というか版画)を、何十万ものローンを組まされて買う羽目になる(絵画商法)。

ちょっと待ったーッ!!!

エウリアンにも新社会人にも全く興味はないんだけど、版画への冒涜は許さん。

君が代過剰反応する左翼のように、どんな文脈だろうと、どんな事情があろうと、版画をdisられるとプッツんしてしまう。

エウリアンの売る版画というものがどんなものか知らないけれど、これだけは言える。

生でみなければ、版画の魅力はわからない。

否、

 触ってみなければ魅力はわからない! 

断言するけど、江戸時代浮世絵から最近現代作品に至るまでの伝統木版画、これを見たことがある日本人ほとんどいない。

美術館でみたとか、いうけれど、そんなものノーカン

そんなものは、世界の車窓からDVDをみて海外旅行に言ったと言ってるようなもの

本当に伝統木版画は、手にとってみないと意味が無い。

和紙の質感!どんなに拡大しても粒子が見えてこない無断階のグラデーション!摺りによって出来た凹凸!

筆の筆圧まで再現した微妙ラインや色の乗り!

まず、床や机において窓から差し込む斜めからの光のもとでみて堪能。

夜の灯り、仄暗い部屋であたたかみのある間接照明で鑑賞。

テレビ番組映像や、窓から差し込む車のヘッドライトが絵の面を瞬間的に照らした瞬間も美しい。

入ってくる光の方向、光の種類によって、表情が変わる。

そして、やっぱり手に持って鑑賞だ。

パンツが見えそうで見えないグラビアを、下から覗いてみえないはずのパンツを見ようとする、アレを浮世絵でやるとすごい。

ちょっとだけ見える。見えないはずのところが本当に見えてくる。

目の錯覚しかありえないんだけど、紙のたわみと、光の加減で、ときどき本当にみえてくる。

うわぁぁんってなる。

ぶっちゃけ浮世絵美術館、あんな一般展示なんかやめてしまえ!!

額やショーケース越しでしか見れないなら、触れないんなら、カラーコピーで十分だろ!

額装やショーケースに入れる職員の目しかしませられないなんて、時間無駄文化財無駄

触らせないんなら燃やしてしまえ!

よさが微塵も伝わらないのに飾ってみせる価値が有るのか?

1億円と書かれた小切手を飾って見てるようなもんだろ。

小切手は使わないと価値がない。

木版画は、触らないと価値がない。

医学とか物理学とかは、100年前と今では大きく違うけど、絵は、たいした進歩してないだろ?

ぶっちゃけ、1万5000年前のラスコーの壁画と、そのへんの美大生の絵のどっちが上手いかって言ったら、芸術とかよくわからん俺にはどっちが上かわからん

でもね、印刷という技術を手に入れた、触れることが出来る!その素晴らしさ!

俺ね、江戸時代浮世絵価値は認めるよ、でもさ、浮世絵のいいところって、ライブ感なわけ。

絵師が描く、描いた絵は板に貼り付けられて、その上から刀を入れられて紙ごと彫られてゴミとなってしまう。

絵師の絵を活かすも殺すも彫師次第。

それから、色の指定があって、色の数だけまた彫りがあって、そんで摺師が摺って、試しに作ったものに対して、あーでもないこーでもないっていうディスカッションがチーム内でされたわけ。

色の調節をして、時に柄を変えて、セッションによって出来上がる。

売りだしたあとの、町の人々の評判さえも取り込んで、みんなが主役のライブだったわけ。

俺、音楽はよくわかんないけど、たとえしょぼいバンドの小さなライブハウスでのライブでも、有名フィルの録音にも負けない感動があるでしょう?

しょぼいバンドレベルじゃねーの。

一番有名どころだと、北斎あたりだと思うけどね、もうね、ヤバいの。

元々が天才しか努力しまくったらこうなるってやつ。努力ってのが普通努力ってんじゃないの。

だいたいにおいて、他派の画法を学んで破門されたあたりからだけど、もう何でもあり。

大和絵も漢画も銅版画も油絵も、手段を選ばず学んでるようで、見りゃ誰でもわかるんだけど、もうホントヤバい

すべて独学で。本読んで覚えたってより、ひたすら描いて描いて描きまくって吸収したという感じで。

貧乏理由が、お金を封筒でもらったまま中身の確認もせず、支払いの時には「その封筒からもってけ」くらいに無頓着だったからという馬鹿

掃除をすれば、「ここにあった蜘蛛の巣どこ行った?(描きたかったのに)」くらいの馬鹿

誰よりも自信家で、本が売れたのは俺の挿絵が良かったからだ!と言って作者と喧嘩する傲慢な一方で、猫がうまく描けないっていう理由で80歳で悔し泣きをする馬鹿

30回画号を変えるってのがもうよくわからん。たとえば漫画家が30回名前を変えてデビューするとかないだろ。売れっ子新人に戻るってことだろ。馬鹿かと。いや馬鹿だよ。

そんな絵中心のわけのわからない生活を、88歳で死ぬまで続けちゃうってのがもうね。

例えば、水木しげる週刊少年ジャンプで週刊連載をしてて、CG(北斎コンパスや定規やらも使いこなしてるようで、幾何学や製図も知ってる様子。当然おそらく独学)を使いこなし、ありとあらゆるジャンルを書き分け(春画から、行ったことのない中国古典小説挿絵まで)、30回新人デビューとかしてたら、人間じゃないだろと。

なにが妖怪になりたいだ、お前もう妖怪だよ、と。

で、そんな北斎の線ときたら線の始まりから終わりまで、この線以外じゃダメっていうカンペキ。筆の入り、筆の終わり、太さ細さ、もうすごい。線が凄いってわかるってことは、彫師が凄い。フリーハンドじゃアリエナイような精密で、コンパスや定規ではありえないような強弱があり、油絵なら何度でも塗れるだろうし鉛筆なら何度も消せるし、CGなら何度でも書き直せるけど、最小限の輪郭線で森羅万象を切り取ってる。

写真を目指してたんじゃないだろうか。

写真というものがなかったので、目指してたというのは変な話だけど、露光時間調節やピントズレに近い表現があって、写真を目指し、写真を超えたなにか他のステージに足を踏み入れようとしてた、ように思う。写真なんかなかった時代に。

で、それがわかるっていうのは、彫師がすげぇ。

摺師がすげぇ。

俺がこの数ヶ月で買い集めた70枚ほどのほとんどは復刻だけどさ、復刻もまたライブなんだよ。

摺る工程を見せてもらったわけ。

濃い絵の具を数種類用意するだけで、都度混ぜて薄めて版木に塗り、摺る。

なんということだと思わないか?同じものをたくさん作るなら、同じ濃度に調節したプレミックスを作っておくべきだろう?

やっぱり木版画ライブ

絵師と彫師と摺師だけじゃないの。

版木を作る職人、紙を漉く職人、紙にドーサを塗る職人、絵の具を作る職人、バレンを作る職人、数えきれない職人たちのライブ木版画

から響いてくる!

で、ライブが存続するためには、絶えず誰かが買わないとダメなわけ。

たまに1千万でお買い上げってんじゃ、ダメなの。

仕事がないと、職人は消えちゃうの。

材木から板を作る職人は消えちまったそうだよ。ただ板を平らにするだけじゃダメらしい。

バレンを作る職人も消えかけらしい。

からさ、エウリアン木版画を扱ってるかどうかはしらんけど、なりふり構わず売るということは少し理解できる。

だって、1ファンとして、こんな見苦しく匿名掲示板で見苦しく宣伝してるけどさ、どうせ中の人だろ、ステマうぜえって思われてるんだろうけど。

売れないと文化死ぬんだ!

日本中の浮世絵美術館燃えることより、職人がいなくなることのほうが損失はずっとずっとずっとデカいんだよ!

復刻浮世絵なんて一万円そこそこで買えるんだよ!

数万円となった山桜の版木を何枚も使うわけだし、キャリア何十年の職人が一月かけて彫るだけで、いくらの人件費だ?

キャリア何十年の摺りの職人が、今では手に入らない材料自作した絵の具で、人間国宝が作った紙に摺る。

一枚200枚やそこらは売れないと滅びるだろ。

お願いだから買ってやってくれよ。

俺がビルゲイツだったら、もっと買ってやれるんだけど、安月給なサラリーマンじゃこれが限界なんだよ。

財布に入ってる1万円札、あれに1万円の価値があるのか?あんな小さな銅版画にわくわくするか?

日本人なら和紙木版画サイズだってお札よりずっと大きい!

せっかくだから文句を言いたい。

千円札富士山わからんでもない。写真を銅版画にするなら許せる。

5千円札、2千円札屏風絵を銅版画にするとか、絵巻物を銅版画にするとか馬鹿なの?オマージュにしたって、もうちょっと工夫しろよ。

100万円札を和紙で作れ!木版画で作れ!一枚一枚違う味があって味があるだろ!

偽造されてしまう?

偽造けっこう!本物と見紛うような彫りと摺りの技術世界中に溢れれば、日本銀行の信用がどうなろうと、人類幸福絶対量は増加する!

木版画紙幣の発行は無理でも、一つの可能性として、造幣局で木版技術に関わる職人を世話してやってはくれないだろうか。

造幣局に一人くらい、材木から板を作る職人がいたり、絵の具を調合する職人がいたっていいだろう?

多少脱線しましたが、そういうわけで、ちょっとだけエウリアン擁護してみました。

終わり。

追記

考えてみればライブって凄いよな、芸術家って、基本的に俺が俺がじゃないか。

版画作家なんてものは、絵も彫りも摺りも自分で、俺が俺が。

当然だけど、絵も彫りも摺りも極めることなんか出来ない。

それが、分業制、買う客の声も含めて、一人一人が主人公、思いがけない方向に転ぶ面白さ。

今でも、現代作家が版画にするために専門業者に頼んだりはするけれど、基本は作家意思が優先で、作家作品という域を出ない。

やはり、売れないことには、ちまたに溢れないことには、あれがいいこれがいいと話題の中心が木版画にならないことには、木版画未来はない。

音楽としてどうかはわからないけど、AKBの会いにいけるアイドルという路線は、一つ評価したい。

あれが、理想の姿。

巷に日々木版画が溢れ、あれがいいこれがいいと、皆が好きに意見を言う。

町の人々の意見を取り入れ、流行の先端を走り、絵師や彫師摺師が腕を振るう。

まらんじゃあないか。

2015-04-01

浮世絵の魅力を伝えられなくて辛い

浮世絵が海を渡ったとき、あれをみた西洋人の心境を想像する。

とんでもないもの出会ってしまったとしか言えない、凄い衝撃であったことは間違いない。

科学技術については日本西洋に劣っているが、アートについてはヨーロッパ日本が上だと言ったのは誰だったろう。

ヨーロッパ人が土人に敗北宣言するというのは凄いことだ。

ちょっと日本のほうが凄いっていう程度じゃない。

もう、周回差つけるくらいぶっちぎってたということだ。

絵とか興味なかった俺でもわかる。

北斎広重に比べたら、ダヴィンチフェルメールレンブラントもぜんぜん勝負にならない。

ブラックベリーiPhone5くらいの差がある。

そんな浮世絵が、茶碗の包み紙として新聞紙みたいな使われ方をしてたのだものヨーロッパ人は驚くわな。

版画だよ?木版画

英語でウッドカットプリントとか、ウッドブロックプリント

プリント、つまり印刷

それが、油絵をぶっちぎった。

自転車マン島TTに勝つくらいにとんでもない。

さて、それがさ、今でも復刻版が1〜2万で買える。

破格に安い。

わかりやすく例えると、川瀬巴水大正昭和作品を買うと100万する。

ところが、版木が残ってるので、本人の死後に最近摺ったものもある。

これは超安い。

2万くらい。

ぶっちゃけ最近摺ったもののほうが色は綺麗。

色褪せがないし、大正昭和の染料顔料は今でもだいたい調達出来るし。

初期のほうが版木がへたってないからなんとやら、というけど、あれは嘘。

新版画は1000枚以上摺ることを前提の浮世絵技術で作ってるんだ。

そう簡単には版木へたらん。

オリジナルの100万と後摺りの2万の差額の98万は、歴史ロマンの差が97万くらい。

復刻版の浮世絵お金のかかり方ときたら凄い。

まず版木をつくるのが高い。

今では1枚数万円する山桜の柾目の板が何枚も必要

職人が一カ月かけて彫らないといけない。

摺りも当然職人

江戸時代の染料顔料を今手に入れるとかなり高い。

そこまで手間暇とお金をかけて、巴水なんかよりずっと安い。

お買い得だし、買ってあげることが、彫りの職人を後世に残すことにつながる。

江戸時代当時の作品なんか集めたって、職人技術継承には伝わらない。

買いまくるしかないだろう。

フェルメールレンブラント過去の人にしてしまった、浮世絵という芸術の頂点を、手元に置くことが出来る素晴らしさ!

と、いろんなところで熱弁をふるってみたんだが、なかなか伝わらない。

うそう、こないだ、

「(国立新美術館に)いっしょにルーブル美術館展観に行きませんか?」

って誘われたんだ。

フェルメールの有名な絵がきてるとかで。

おい、女、こないだ印象派が好きとか言ってたじゃないか。

なんで今更フェルメールなんだよ。

iPhone6ユーザーが今更ブラックベリーみにいくようなもんじゃん。

と言いたかったが抑えた。

それから浮世絵の摺りの実演会と、CLAMP原画展が隣接して催されていて、CLAMP原画展のほうに行きたいとかいう女もいた。

目、大丈夫か?

と思ったんだが、その時も抑えた。

どうしてみんなわかんないの?

 
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