はてなキーワード: ダイバーシティとは
私は東京大学を卒業した30代で、直接の知り合いが複数人、チームみらいの運営に携わっている。参院選の候補者も二人知っている。疎遠だけれど。
チームみらいに対して「エリートだから一般人の気持ちが分からない」という批判を見たが、私は実感を込めてそう思ってしまった部分がある。
東大生の親は平均年収が高いと言われたりするので漠然と金持ちのイメージがあるかもしれないが、国立大学だから私立より受験料も学費も安いのもあり、実際は様々な家庭環境の学生がいた。
生活費を自分で稼がなくてはならないからお金がなくて飲み会に来られない子がいた。友達がけがをして私が病院に付き添ったら、「親が仕事を転々としていて今保険証がない、どうしよう」とぼろぼろ泣いていたこともある。
そういう環境の中で、チームみらい運営の彼らはどうしていたのかというと、有名私立中高一貫校の出身者同士で、クラスの中心メンバーを担っていた。
彼らも別に、出自で友人を選んだわけではないと思う。ただ、そこは頻繁な飲み会と旅行で成り立っているコミュニティだったから、お金に余裕のない人は自然といなくなっていた。
彼らが卒業間際に同窓会を企画してくれたので、やや疎遠だった私も参加してみたが、飲み会に行けない「付き合いの悪い」友人たちは、話題にも上らなくなっていた。
話題はもっぱら、誰が一番いい会社に就職できたかということだった。
私が入学したとき、東大には20個くらいテニスサークルがあったが、そのうち東大生女子が入れるのは3個だった。残りは他大学の女子しか入れなかったし、入部にあたって女子だけルックス審査があるサークルもあった。
留学生がたくさんいたけれど、大抵の場所では留学生だけのコミュニティを作って、少々肩身が狭そうにしていた。私は同じ学科の留学生に仲良くしてもらっていたので一度聞いてみたが、日本語が話せても日本人から壁を作られることが多いらしかった。
(これらはあくまで当時の話で、今は状況が変化していると思う)
そんな中でチームみらい運営の彼らは、どこのテニスサークルの入部審査を受けたという話で盛り上がり、学年が進んでも似た出自のメンバーに囲まれていた。
それが特別悪いことだとは思わないし、大学生として普通の感覚だったと思うが、やはり狭いコミュニティだなとは当時も感じていた。
ここまで書いたのはチームみらいのメンバーのうち、私が偶然出会えた数名の話をややぼかして綴っただけだ。チームみらいの全員が同様の学生生活を送ったわけではないだろう。
ただ、私にも様々な友人がいた中で、私が直接知っているチームみらいのメンバーは皆、そういった属性の人物だった。
それでも、私がたまたま彼らとあまり仲良くなれなかっただけで、彼らが私と違う道で頑張ることに対しては批判も何もないと思っていた。
しかし、マニフェストに減税も選択的夫婦別姓も盛り込まれていないと知って、話が変わってきた。
消費税の減税は今回の参院選の大きな争点の一つだった。(色々あって話題が移ってしまったが)
生活が苦しいと感じる国民が増えている中で、消費税減税でないにせよ、効果が明確な施策が期待されていたと思う。
選択的夫婦別姓は複数の世論調査で賛成多数となっている。強制的な改姓によって起こっている不利益も明確だ。
彼らのバリューに従って「データと事実で語る」なら、賛成以外ありえないように思える。世の注目度が低いから言及しないというのも考えにくい。
では、彼らの目指すところは何なのだろうか。
彼らのマニフェストを読んで、街頭演説を聞くと、どうも国の未来ではなく、そこに至る過程を大事にしているようだ。
それは良い国にするための手段だと思うのだが、彼らにとっては目的であるらしい。
分断を煽らないという手段が目的化しているから、世論を二分しそうな話題は避けているように見受けられる。
でも、所得を増やすことや人権を擁護することは基本的に全員が合意できるはずのテーマだ。
そういう当たり前のゴールを定義しないで、物議を醸さないテーマに絞っているのははっきり言ってずるい。
分断を煽らないというのは、自分たちが批判されたくないという意志の弱さに見えてきてしまう。
彼らは対話と言うけれど、それは他政党など、声の大きい人と議論を戦わせるということであって、弱者の声を聴くという意味ではないように思える。
そもそも世の中には、親から監禁同然の扱いを受けている子供とか、DV夫から逃げて身を隠している女性とか、話そうにも話せない人がいる。
そういう人を救うのが政治なのだから、「対話しましょう」「話してくれたら検討します」では不十分で、一定の理想論と、弱者に対する想像力が必要ではないかと、私は思う。
彼らのマニフェストを見て、身近にいた弱者が見えていない、もしくは弱者を救おうとしていないのではないかと思ってしまった。
あの日大変な思いをしているクラスメイトが、視界に入らなかったように。
そして、周りの意見を集めてバランスを取っていきますよという姿勢は、危うい。
強者の言説が優先されやすいし、戦争など決定的な破滅につながる意見も、ポリシーがなければ簡単には排除できない。
正直、半年後に彼らがとんでもない政党と手を組んでいてもあまり驚かないと思う。そうならないことを願うが。
さて、深夜にこんなことを書いていると、人生がうまくいっていない奴が成功者を妬んでいると思われるかもしれないけれど、私は私なりに満足のいく生活をしている。
行動を起こさない者が行動している者を批判するなと言われるかもしれないが、行動しなかったりできなかったりする人の意見は聞く必要がないという姿勢こそが危険だと、この記事では言いたかったつもりだ。
彼らは危ういけれど、根っからの悪ではない。
願わくは、若者が頑張っているからと無邪気に応援するのではなく、他の政治団体と同等の、客観的な批判の目を向けてほしいと思う。
「多文化主義は明らかに失敗だった」(2011年、フランスのニコラ・サルコジ大統領)、
「Multikulti(ドイツ語で「ダイバーシティを尊重する態度」の意)は全くの失敗だった」(2010年、ドイツのアンゲラ・メルケル首相)
オックスフォード大学のある研究者の予測では、
2060年までにはイギリス全体でも「白人のイギリス人」は少数派になると危惧されている。
toyokeizai.net/articles/-/256915?page=3
難民殺到に苦悩するオーストリア:EUの移民対策が失敗したひずみ
ネハンマー首相は「EUの移民対策は失敗した」として、難民旅行者を拒否すべきであり、経済難民はジュネーブの難民条約に合致しないと主張。
今世紀半ばまでに15歳未満のオーストリア人の過半数がイスラム教徒になると予測している。
オーストリアは、それ以降、イスラム国家になる可能性が高いといってもいいだろう。
toyokeizai.net/articles/-/256915?page=3
スウェーデン首相、移民の統合は失敗し、ギャング犯罪を助長したと語る
Swedish PM says integration of immigrants has failed, fueled gang crime
スウェーデン「500万円あげるから帰って」と移民の自主出国促す 北欧の寛容が様変わり
https://www.sankei.com/article/20240924-NGI4ALAO5NG2XFYFNYG4TA6MH4/
ノルウェー移民大臣、「スウェーデンは移民統合政策の失敗例」と強調しはじめる
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/27ab2bd3a3f6387ee50843dc5df135775895f6a1
シリア難民には「もう危険はない。帰ってほしい」と、滞在資格の剝奪を始めた。
https://www.sankei.com/article/20230818-PNYEF433IBMOHEWRPX7FWBNKKA/
今年7月に連邦破産法第9条による更正申請を行ったデトロイト市。
米連邦破産裁判所は12月3日、その適用を認める判断を下した。
デトロイトでは殺人、レイプはそれぞれ1日1件のペースで発生し、強盗は日常茶飯事である。
失業率18.3%,
街灯の40%が故障、
posfie.com/@WEDGE_ONLINE/p/oSxjnHy
↓
ちなみに何も調べずに思いつきでこれを書いています。
だからもしも、そんなことは各地でとっくに試みられている(しかしあまり奏効していない)のであれば、ここから先を読む必要はありません。
世の中にはおそらく退役教員がたくさんいるはずです。
定年退職した教員や寿退職した教員、出産を機に退職した教員たちです。
育てた子どもが独立して専業主婦としての責務が一段落し、あらためて社会との接点を取り戻したくなった元教員もきっといるでしょう。
彼らは、教育という崇高な使命のためなら自己犠牲もいとわなかった時代の教員たちでもあります。
また、崇高な使命のためとはいえ教員という職務は負荷が高すぎること(=誰かの助けが必要なこと)を身を以て知っている人々でもあります。
彼らを補佐的な戦力としてどんどん現場に復帰させ、現役教員たちの負荷を分散するのです。
得意な科目だけ教鞭をとらせてもいいし、採点やこまごました事務、雑務などを担ってもらってもいい。
とにかく圧倒的に不足しているマンパワーを補うには、人間を追加するしかないと思うのです。
もちろんハードルもあるはずです。
指導要領などは当然あらためて学び直してもらわなければいけませんし、教員に求められるコンプライアンスなどのガバナンスも十年二十年前とは様変わりしています。
ITの活用など、かつては存在しなかった教育アプローチもありますし、ジェンダーやダイバーシティといった新しい価値観や概念もあります。
現場でどこまで対応できるか、復職教員個々の適性に合わせて配置するなどの考慮がきっと必要でしょう。
素人の私がポッと思いつくくらいですから、四六時中このことに頭を悩ませている人々がこうしたことを考えないはずがありません。
つまりもうとっくに全国津々浦々で試されていることだろうとは思います。
でももし、ただ「経験者再雇用窓口」を設置して口を開けて待っているだけなのだとしたら、もっと能動的になってよいと思います。
専門リクルーターが経験者を戸別訪問してがんがんスカウトする、説き伏せて引っ張り込む、そのくらいアクティブに動くべきです。
制度を知らなかったり自分からはなかなか動けないような人たちの中にも、きちんと説明を受けて社会から求められていることをアピールされたら気持ちが動く人がいるかもしれません。
https://x.com/KatzePotatoes/status/1914677530218652024
https://x.com/KatzePotatoes/status/1914713533952262517
第700話「ダイバーシティとは何か?」というタイトルの回で、ここで丸々1話読める。
https://sekokan-navi.jp/magazine/79277/amp
2016年頃に発表された話らしく、8年前の時点で完全なる正解に既にたどり着いていたことに驚く。
「十分よ、ありがとう」
と答える代わりに、
と未手術トランスジェンダー達までが騒いでしっちゃかめっちゃかになったんだよな。
それな~
多様性という言葉を耳にする機会は、この数十年で格段に増えた。「ダイバーシティ&インクルージョン」などの標語が企業や教育現場で掲げられ、違いを尊重し合う社会の重要性が語られている。しかし、その「多様性」とは一体何を意味しているのだろうか。私はここで、多様性という概念を「大きい多様性」と「小さい多様性」の二つに分けて考えてみたい。
「大きい多様性」とは、人種、性別、母国、母語、宗教など、視覚的・制度的に明確な違いを指す。つまり、集団を構成する属性が多様であることを意味している。一方で、「小さい多様性」とは、同じ属性の中にある微細な違い——性格、認知の仕方、感情の傾向、身体的特徴のばらつきといった、目には見えにくい差異のことを指す。
多くの場面で「多様性」が語られるとき、その焦点は往々にして「大きい多様性」に当てられる。これはある意味で当然とも言える。制度的な排除や偏見にさらされてきた人々を守るために、社会が是正を進めるべき領域だからだ。しかしその過程で、「小さい多様性」は見落とされがちである。たとえば、同じ性別、同じ国籍、同じ民族の中にも、大きな違いが存在しているにもかかわらず、それは「同質な集団」として一括りにされ、個々の多様性は見えなくなる。
だが、日々の生活、職場、地域社会において、私たちが実際に直面している違いやすれ違いの多くは、この「小さい多様性」に由来している。自分と同じ言語を話し、似たような文化の中で育った相手とでも、理解し合うことは決して容易ではない。逆に言えば、この「小さい多様性」を尊重し合える社会こそが、真に包摂的で、柔軟性に富んだ社会であると言えるのではないだろうか。
では、どうすれば「小さい多様性」が軽視されない社会をつくれるのだろうか。第一に、教育の場で多様性の定義を広げることが必要だ。人種や国籍に限らず、性格や感じ方の違いも「多様性」であることを、子どもたちに伝える必要がある。第二に、制度設計において「見えにくい違い」への配慮を含めるべきである。働き方、学び方、コミュニケーションの仕方などに柔軟性を持たせることで、「小さい多様性」も自然と尊重されるようになる。
さらに、私たち一人ひとりが「違い」を語るとき、その言葉の背景にある文脈をより丁寧に読み解く姿勢も大切だ。「マイノリティ」や「多様性」という言葉を使うとき、誰の、どんな違いを見ているのか。その問いを自分に投げかけてみるだけでも、見えてくる風景は変わるだろう。
「大きい多様性」が社会制度の改善に不可欠であることは言うまでもない。しかし、私たちの暮らしに密接に関わるのは、実は「小さい多様性」である。だからこそ、見えにくい違いに目を凝らし、それを言葉にし、認め合うことが、これからの多様性社会にとって必要不可欠なのだと思う。
正直に言うが、私が学生時代に必死で支援してた政党、マジで利用されてただけだったと思う。
当時はまだ自分がマイノリティであることに目覚めたばかりで、なんていうか希望を求めてたんだよね。
政治集会で「あなたたちの声を代弁します!」とか「真の多様性のための闘いです!」とか言われると、マジで心震えたわけ。
でも今振り返ると、あれは全部茶番だった。私という「展示品」を上手く利用しただけ。
彼らにとって私は「かわいそうなマイノリティ」のシンボルでしかなかった。
私の存在が彼らの政治的主張の「正当性」を証明する道具だったんだよね。気づくのが遅すぎた。
最初のうちは優しかったよ?「貴重な当事者の声をありがとう」って。でも、その「声」も彼らの都合のいいものだけが採用されるんだよね。
私の本当の苦しみや怒りが伝わると、なぜか「もう少し建設的な提案を」とか言われる。つまり、彼らの政治的なストーリーに合う「良い被害者」でいろってこと。
「ここはもう少し感情的に」「ここは具体例を入れて」って。私の経験を彼らのシナリオに合わせて編集してた。
自分の言葉で語らせてくれなかった。彼らが求めてたのは生の声じゃなくて、政治的メッセージに都合よく編集された「マイノリティの声」のパッケージだったんだよ。
特に耐えられなかったのは、彼らの中の「古参メンバー」たちの裏の顔。
表向きは「多様性大事!」って言いながら、内部では完全な階層社会。
マイノリティの私たちは下っ端で、エリートたちのために働かされる。
「運動のため」「大義のため」って美化されるから、誰も疑問を持たない。
私の時間を搾取しておいて、感謝すらしない。「あなたたちのための闘いでしょ?」って言われたら、反論できないじゃん。
でも実際は彼らのコミュニティのための実績作りだったんだよね。
最悪だったのは懇親会。
表向きは「仲間との交流」だけど、実際は古参メンバーたちの自慢大会。
彼らが「マイノリティのために」やったことをえんえんと語るのを、私たちは感謝しながら聞かなきゃいけない。
私の体験を話すと「それって本当?」とか「それは特殊なケースでしょ」とか疑われる。
彼らは「マイノリティの声を大事にする」って言いながら、実は自分たちの理解の範囲内の声しか認めないんだよね。
都合の悪い話はすぐに「特殊な例」として片付けられる。
選挙の時期になると特にひどかった。私たちは「展示品」として前面に出される。「ほら、私たちはマイノリティと一緒に闘ってます!」って有権者にアピールするための小道具。選挙が終われば、約束はほとんど実現しない。「今は政治状況が厳しいから」「次の選挙で勝てば」って先延ばしにされる。
党の集会で知り合った他のマイノリティの仲間たちも、みんな同じこと感じてた。でも表立って言えない。「恩知らず」「非協力的」ってレッテル貼られるから。陰で「あいつは問題児」って噂されるのが怖くて、みんな黙って従うしかなかった。
私の意見が彼らの方針と違うと、すぐに「あなたはまだ十分に理解できてない」とか「もっと勉強が必要」とか言われる。つまり、彼らの言うことが絶対正しくて、私の実体験なんて価値がないってこと。これってマイノリティの声を尊重するどころか、完全に否定してるよね?
結局、彼らにとってマイノリティは「保護すべき弱者」でしかなくて、対等なパートナーじゃなかった。
私たちの「弱さ」が彼らの政治的アイデンティティの源なんだよね。だから私たちが強くなったり自立したりすると、彼らは焦る。
私たちが「かわいそうな被害者」でいる限りにおいて、彼らは「正義の味方」でいられるんだから。
学生時代に3年間も捧げた活動が、結局は自己満足の茶番だったって気づいた時はマジでショックだった。
私の痛みや苦しみが、彼らの政治的オナニーの踏み台にされただけ。
そして最悪なのは、彼らは本気で「マイノリティのために闘ってる」と思い込んでること。自分たちの搾取に気づいてないんだよね。
それが今でも許せない。彼らは今も新しいマイノリティの若者たちを勧誘して、同じことを繰り返してる。
「あなたの声が大事」って言いながら、結局は彼らの政治的野望のための道具にしてるんだ。
みんな私を「普通」の枠に押し込めようとする。
東京のレジも、京都のレジも、昨日のレジも明日のレジも。どの列に並ぶか決めていると、周りは「何をぼんやりしてるんだ」という目で見る。
電車に乗るときも、全てのドアが別々の目的地につながっている。
駅員は「何番線ホームです」と言うけど、赤坂行きも新宿行きも横浜行きも全て同じホームにある。
会議でもそう。昨日の会議も今日の会議も来週の会議も全て一度に進行している。
みんなが同時に異なる時間の話をしている。「さっき言ったでしょ」と言われても、そのさっきはまだ来ていないし、もう過ぎ去ったかもしれない。
昨日も職場でそんなことがあった。
学生時代の党集会でもそうだった。古参メンバーのオッサンが私に説明していた。
「君はよく理解していないよね、僕たちのやり方は長年やってきたものなんだよ」
今でも耳に残っている。
オッサンが2018年の党本部で話しているのと同時に、2022年の集会でも同じ言葉を言っている。
彼の背後には2025年の私も立っていて、「それは違う」と言っている。
「マイノリティの活動は、調整によってのみ実現する。それが党の方針だ」
オッサンはそう言った。当時は難しい言葉だと思っていたけど、同時に未来から見ると意味がわかる。
彼らの言う「調整」は、私たちが複数の時間と空間を同時に経験することを制限することだった。
部屋の中に2018年の党本部も2022年の集会会場も2025年の私の部屋も同時にある。
机の上の手帳は1冊なのに、開くたびに違う日付の内容が書かれている。
窓の外には1964年の東京オリンピックの旗も、2021年のオリンピックの旗も、まだ来ていない未来のオリンピックの旗も全て見える。
それぞれの時間で何かが起きている。
でも同時に、江戸時代の小さな富士山も、未来の巨大化した富士山も見える。
それはもはや山ではなく、複数の時間に存在する何か別のものだ。
東京のニュースでは誰も報道しないが、別の時間の京都や大阪のニュースでは大きく取り上げられている。
富士山は全ての時間で同時に成長し、複数の日本列島の形を変えていく。
そして「和の趣」が物理法則となり、過去と未来と現在の「日本(ひのもと)」が同時に存在している。
今日歩いた街のビルは和風だし、昨日は近代的だったし、明日は両方が混ざっている。
向かいの家の人は今朝はスーツで、昼には和服で、夕方にはまだ見たことのない服装で出かけていく。
学校では茶道と華道が必修科目になり、完璧すぎるものは自然と別の時間へ流れていく。和の精神が時間と空間を超えて広がっている。
党の集会で彼らが「調整」と呼んでいたのは、まさにこのことだ。彼らは私たちが自然に経験している複数の時間と空間を、一つの「正しい」時間に制限しようとしている。
入党したての私は「調整」が必要だと信じていた。でも今、過去、未来から同時に見ると、それが彼らの目指す社会なのがわかる。
先週の新聞には富士山が23メートル大きくなったと書いてあった。
でも同時に明日の新聞には18メートル縮んだとも書いてある。どちらも正しい。
富士山は今や高さが3776メートルであり、同時に5489メートルでもあり、また2103メートルでもある。これは問題じゃない。
問題なのは政府が「正しい高さ」を一つだけ認め、他を「誤差」と呼ぶことだ。
駅前では「富士山サイズ固定法案に反対する会」が署名活動をしている。
彼らのプラカードには「全てのサイズの富士山を守ろう」と書かれている。
去年も来年も同じ活動をしている。これは校則見直し運動や制服自由化と同じく、ごく普通の市民活動だ。
隣の建物では「富士山成長促進委員会」が会合を開いている。彼らは富士山がさらに大きくなって、地球の大半を覆うことを望んでいる。
それを「標準富士山」と比べて劣っているなどと言うのは科学的に不正確だ。
富士山巨大化対策市民協議会では、「サイズダイバーシティ」という言葉を広めようとしている。
山のサイズが多様であることは物理学的に自然な現象で、それを一つのサイズに固定しようとする試みこそ物理法則に反する、という考えだ。
同様に「和の趣・物理現象研究連盟」は、物体が持つ複数の状態を全て同等に観測・記録するよう求めている。
本来、和の趣は自然に波のように強まったり弱まったりする物理法則。
先月はニューヨークのエンパイアステートビルが一時的に五重塔になった。
これらは全て「和の趣」が物理法則として世界中に広がっている証拠だ。
子供たちは学校で「標準時間軸」だけを教えられる。2+2=4という世界線と、2+2=5という世界線が同時に存在することを教えられない。
彼らは「正しい答え」だけを覚えさせられる。これは明らかな教育虐待だ。
文部科学省の「多元現実教育ガイドライン」があるのに、なぜ実践されないのか。
私の息子は先日、算数のテストで「2+2=?」という問題に「4と5と時々6」と答えて減点された。
彼は家に帰って泣いていた。「先生は僕が全ての答えを見ることを認めてくれない」と。
私は彼を抱きしめた。「あなたは間違っていない。あなたの見ている世界は全て本物だよ」と。
私は伝えなければならない。2018年の私も2021年の私も2026年の私もみな政府の「時空標準化プログラム」に従っている。
でも2025年のここではまだ間に合う。これを読んでいるあなたには、あらゆる時間と空間から同時に発している私の言葉が伝わるはず。
言いたいことはまだあるけど、時空管理機構の職員が全ての時間から近づいてきている。
この文章を見つけたら共有してほしい。
SNSなら #富士山サイズ多様性 #時空観測データ公開 #侘び寂び物理法則研究推進 でいい。
時間と空間の多様性を科学的に理解するのは、私たち市民の権利だ。
私は今この文章を2018年にも2025年にも2031年にも同時に書いている。
複数の時空間における同時書き込みは、侘び寂び物理学の「観測者同時存在の原理」によって理論的に裏付けられている。
でも、いくつかの時間では、この話が広まり、侘び寂び物理現象の科学的理解が進むことを2018年の私も2025年の私も同時に願っている。
明日、空を見上げると、富士山が昨日よりも大きく、一昨日よりも小さく、来週と同じ大きさに見える。
そして、その姿がどんなに変わろうと、全てが物理的に正しい。
まあ彼女らがフーターズとかセクシー居酒屋とかでそれやるのは全然いいと思う
企業が広報の仕事としてブースをだしてて、メディアとか顧客に対して対応する場所でしょ
かつては、そこにいるのは男だし、男ならエロい女は大好きでしょ、みたいな感じで雑に女体でおもてなしされてたわけだけど、今はそうじゃないじゃん
現実問題まだまだ男性率高い現場があるとしても、建前としてはダイバーシティですー男女両方参加する社会にしていきましょうーって社会的にもり立ててるわけだし、広報ってそういう建前に乗っかる仕事じゃん?
もっというと、男だって、今では男が好きだったり性に興味なかったり、ババアあるいは子どもにしか興味持てなかったりする人々も含まれてるってのがスタンダードでしょ
ビジネスに参加してんのがエロい女大好きマンだけである前提が古いって思うんだよね
仕事しにいってんのに、あたシコされても困んだわ
ゲーム情報を見に行ってるメディアで女の尻(それも二軍)は見たくないんだわ
TPOをわきまえてほしい
https://togetter.com/li/2513335
なんか女性従業員の1〜2割が適応障害で休職とか言ってるけど…これ、「弊社は女性従業員に加害する企業です!」って公言してるのと変わらなくないか?
「弊社は女性の活躍を推進しています!」とか、「働きやすい環境を整えています!」なんて言いながら、セクハラ・パワハラ等で女性の人権を踏みにじってくる会社実際あるよね。
で、そういう会社に限って、いざ問題が発覚したときの対応が最悪すぎる。
・ 「社内調査を実施しました」→ 加害者側の言い分だけ聞いて終了
それどころか、被害者の方が「会社に迷惑をかけた」みたいな扱いを受けて、結局辞めていく。加害者はそのまま居座る。
この構図、何回見せられれば気が済むんだ?
しかも、こういう企業ほど「ダイバーシティ推進」とか「ジェンダー平等」とか言ってて、もうギャグにしか見えない。
そろそろ、本気で「女性が働きやすい社会」を作る気があるのか、それともただのポーズなのか、企業側に問いただす時期じゃないか?
当方渋谷区在住のアラフォー。最近、たしかに東京は人が多すぎると思うことが多くなった。
都内住みはどうしているか?平日は、通勤があるので人混みはデフォ。問題は、休日。
東京駅、新宿駅、渋谷駅の周辺や観光客やお上りさんが行く場所は、人がゴミのような状態なので、用事がなければ近づかないのが鉄則。
じゃ、どこに行くかというと、相対的に、人が少ないところに行ってる。あるいは、人が多くてもスペースが広いところに行く。
前者は、たとえば、日本橋三越の周りは道も広く、銀座よりも圧倒的に人が少ない。虎ノ門ヒルズは人が少ない。麻布台ヒルズはもう少し廃れるのを待った方がいい。
お台場のダイバーシティは、ちょっと前までお上りさんしかいなくて人が少ない良いスポットだったが、昨日行ったらめちゃめちゃ人(8割外国人)がいたのでおすすめしない。
後者は、人が多くてもスペースが広い場所の例は、大きめの公園。砧、代々木、広尾、芝。北の丸もいい。
もう少し暖かくなれば、レジャーシートでも持って、お弁当でも買って食べながらおしゃべりするのもいい。
これは、地方でもあると思うが、要は観光客は地元の人ほど地域を理解してないだけ。
あと、混雑を避けるコツは、電車を避けて、車で移動すること。つまり、地方からの観光客や外国人は、東京に来ると混雑する交通手段を使って、混雑している場所に行く。
そりゃ人混みに酔っても仕方ないよねって話。ただ、観光客は、都内住みの人と同じことをしても、面白いかというとそれは疑問。広尾は都内の人には人気だが、観光客に理解できないかも。
東京に慣れ親しんだ人にしかわからない良さがある。これも、地方でも同じだろう。
最後に、東京をdisるのは好きにすればいい。disるのに東京に来ちゃうんだwとは思うが、地域をdisるのは表現の自由の範囲内だから好きにすればいい。
ただ、嫌いになって東京に来ない人が増えると僕らの生活は楽になって助かる。
AIとかデジタル化のクソさについてただ話したい。今回はパーソナライズの件について。
毎年、「20XX年のトレンド」のようなクライアント向けの紹介資料(チラシのようなもの)を見て大体毎年あるワードが「パーソナライゼーション」。はっきり言ってこんなものを追求する社会にうんざりしている。自分だけがうんざりすればいいけど、個人にも影響が及ぶし、なんだかんだ自分もその波から抜け出せないというジレンマもあって自己否定にもなるけど書いておきたい。
パーソナライゼーション、ていろいろあると思うがわかりやすいのはnetflixだろうか。netflixは昔はマジのDVDレンタル屋だった(皆知ってるかな)。GEOとかTSUTAYAみたいな感じで、あそこは郵送レンタル屋だったわけだが、早くも映像配信サービスを始めた(2010年より前だったと思う)。データを集めて、顧客の趣味・趣向に合うレコメンド(推薦)システムで付加価値をつけて会員を増やし続けあれだけの企業になった。
自分もnetflixを見るし、色々感動したドラマもあってそこは素直に感謝だがnetflixがない世界線だったらな、と思うこともある。あれだけ上手くレコメンドされるとつい見てしまうし、見放題だから時間があると「とりあえずnetflix見るか」とか言って時間を潰す。昔、家族でドラマを定刻に集まって見てた光景は今後一生ないだろう。日本のドラマは今はつまらな過ぎてそもそも見る価値がないし、海外ドラマはストリーミングサービスで見ることになる。過度に個人に最適化されると、人はそこにハマって抜け出せないんだよね。
悪いところはあげればキリはないが、レコメンドは「自分で探す能力」を奪う。能動的ではなく受動的になるのだが、それだけじゃない。人と交流する機会、共感、"狭い"ネットワークを破壊さえするものとさえ思う。
昔だったら「これ買ったけど美味しくなかった」「実は知られてないけどこれが良い」とか、今と違ってモノの絶対量が少ない環境・制約の中で楽しもうとする雰囲気があり、仲間内でそれを楽しんで共感した(まあ僕が中高生の時の話)。そしてそれが人と人を結びつけた。現代は、確かに広くさまざまなことが知れ渡るようになり”広い”ネットワークは構築されて良い側面もある(数あるお店から探すのを失敗しづらいとか、欲しいものがすぐ見つかるとか、ブラック職場・ホワイト職場はどこかとか)。しかし狭いネットワーク=近隣の人との交流、友達との交流、職場の人との交流、は無くなった。それは共感するものがやはり減ったからではないか。それを周囲の人と話す時間が減ったからではないか。人間としての最低生活ラインではなく、趣味・趣向という領域の話をしている。個人にパーソナライズされることが当たり前になり、個人完結してしまって他人と共有する話題がないのだと思う。あっても、他人はパーソナライズされて既に別のことに関心が向いてしまっている。これが人々の断絶を起こしている。
はっきり言って、パーソナライズした広告、製品て確かに個人にフィットして売り上げもよくなるし物質的豊かさで一見幸せを感じるかもしれない。皆、「そうは言っても自分で最後は選択してる!」と思うかもしれないがそんなの最後の1クリック程度だ。そこに至る思考プロセスの大部分は実は機械がやってくれてるんだわ。見えてないからそこが認識できてないだけ。
実は現代人の方が思考プロセスは落ちていく運命にあるのではとさえ思う。最近またOpenAIからDeepResearchとか言うのも出たし。これについてそのうち書きたいが今日はまだ。
こんなのトータルで見てどちらが幸せな社会なんだろうか。自分で探し当てる方が楽しくないか?
そしてそれで他人と共有できることがよくないか?反対に、みんなが楽しい・良いと思うものを提示されてそれを楽しむ、そんな社会が今であり心底うんざりする。受動的だから自分で考えることがなく楽なので、自分も享受してしまう。だけど探し当てる喜びとか、それを材料に友達と交流するとか、皆無ではないがおそらく昔の人はもっとそういうことを楽しんでいたんじゃないかと思う。
何度も言うが、それがnetflixだったりyoutube, 個人向けに過度に最適化された商品、こう言うものが周囲との断絶を生む。こんな社会で本当につまらないと思う。儲かるのはほんの一握りのネット企業、IT企業。その富の源泉はみんなの思考力(を奪って結果的に金に変える)、そしてリアルな人の接点だ。みんなの意識は機会の提示項目に常に奪われ、自然とそこにお金が落とされている。
私個人がこれを言ったところで世界は行くところまで行くと思う。100年後ぐらいにほんの一部の大富豪を除いて人類が皆廃人になった時にこのポストを見て振り返ってくれたらと思う。他にも言いたいことがあった気がするが、ちょっと忘れたので一旦ここで終えようと思う。読んでくれてありがとうございました。
見てる人はそんないないと思うが、今度は
>日本人として身も蓋もないこというんですが、現実に初星学園がないことは認知しながら、この世界にもKアイドル文化が現実と同様に成立してると都合よく仮定してドヤ顔で助言するの、フィクションへの付き合い方的に少し恥ずかしいですよ。
>日本と韓国の仲が悪くなるのは、北朝鮮としては喜ばしい状況だと思います。韓国と北朝鮮は停戦中であって、終戦してはいません。最近も、北朝鮮によるネット工作は報道されており、元となったコメントも怖いですね…
>えっとね、そもそも韓国と日本では「アイドル」という言葉の性質自体が違っているんだよ。アイマスで扱ってる「アイドル」は、日本側のタレンテッドな概念である「アイドル」をモデルにした作品なんだよね。その上、アイマスという世界観の中で扱われている「アイドル」という概念はそこから発展して「自己実現のダイバーシティ」「ファンとアイドルが構成する相互作用」という形でアイドルの在り方を定義してる。韓国の「ひとつの作品として」アイドルを仕上げるプロモーション型のプロデュースは、アイマス文脈では「良いアイドル」とは見做されないし現実に存在する韓国型のアイドルは、アイマスの文脈では「すごい人」とは評価されないんよ。評価軸が違うんよ。君は韓国のアイドルを高く評価してるみたいだけど、韓国アイドルがアイマスの世界に行ったとしたら「実力がない」から劣等生として扱われることになる。そういう話よ。
日本における男女格差や社会構造について語る際、単に「男性差別国家」や「女性が自立していない」と断言するのは不正確であり、現実を十分に反映していません。確かに日本には男女の不平等が存在し、特に女性が直面する障壁は多岐にわたります。しかし、それと同時に多くの女性が教育を受け、キャリアを積み、自立を目指していることも事実です。
1. 男女の役割分担とその影響
日本の社会には、依然として「男性が外で働き、女性が家庭を守る」という伝統的な価値観が根強く残っています。これが女性の自立を妨げる要因となっており、特に育児や家事の負担が女性に偏っていることが、キャリア形成や経済的独立を困難にしています。これは「男性優遇社会」に起因する部分が大きいです。
日本の職場では、男女間で昇進機会や賃金に格差が存在します。特に、育児や家庭との両立を強いられる女性が、男性と同じような待遇を得られないケースが多いです。女性が正社員として働く機会も限られ、非正規雇用やパートタイムでの雇用が多いため、安定した収入を得ることが難しい現状があります。
3. 社会全体の変化
一方で、最近では男性の家事・育児参加が増えており、企業でも女性活躍推進やダイバーシティを重視する取り組みが進んでいます。また、政府の育児休業制度やフレックス勤務制度の整備など、女性が働きながら家庭を支える環境が少しずつ整ってきています。社会全体が男女平等に向けて変化しつつあることも確かです。
日本の女性は、教育水準の向上とともに社会進出を果たし、依然として男性優遇社会の中で自立を目指しているものの、その道のりには多くの障壁があります。これらの障壁を乗り越えるためには、男女間の賃金格差の解消、育児と仕事の両立支援、家庭内での役割分担の見直しといった、社会全体での改革が必要です。女性が真に自立し、自由に選択できる社会を作るためには、引き続き制度改革と意識改革が求められます。
近年、社会では「多様性を尊重しよう」という声が高まり、あらゆる場面でダイバーシティを推進する取り組みが行われてきました。もちろん、それ自体は素晴らしい精神だと思います。人種や性別、宗教、性的指向など、それぞれの違いを認め合うことは、人として基本的な姿勢と言えるでしょう。しかし一方で、この「多様性の尊重」がいつしか「多様性を強制する」形へと変質してきたのではないか、と感じるようになりました。まるで、異なる考え方や価値観を持つ人を全員一様に「正しい方向」に導くために圧力をかけられているかのような空気――そんな窮屈さを感じる局面が増えてきたのです。
そのような状況下で、ドナルド・トランプという人物が大統領として登場し、大きな注目を集めました。トランプ氏は政治的に正しいとされる言葉遣いや、既存のエリート層が好む“立派な建前”にあまり縛られない傾向があるため、非常に賛否両論を巻き起こしました。メディアによっては「過激」「差別的」「無知」など、否定的な言葉でレッテルを貼られることが多くありました。しかし私にとっては、彼の言動や政策には、これまで社会の空気によって押し付けられてきた「多様性の強制」から逃れるための一つの突破口が含まれていたように思えます。
そもそも、多様性というのは「自然に尊重される」からこそ意味があるもので、無理やり徹底させようとした瞬間に、その本質を見失ってしまうのではないでしょうか。たとえば企業の採用や大学の入学枠などで、一定数の人種や性別の人を割り当てる“クオータ制”は、多様性を担保するために取り入れられる仕組みの一つです。しかし、数合わせのように実施されることでかえって逆差別を生んだり、「実力ではなく属性で優遇されているのでは」という疑念を周囲に抱かせる要因にもなる。結果として、本来目指していたはずの「真の平等」からは遠ざかっていく――そんなジレンマを強く感じていました。
もちろん、差別や偏見はあってはならないものです。しかし「多様性」という言葉がある種の道徳的な棍棒として機能し、少しでも異なる考え方を示す人を一方的に“狭量”や“保守的”と断じてしまう風潮は行き過ぎだと考えます。「こうすべきだ」「こうあらねばならない」という圧が強くなると、人々は本心を言い出せなくなり、自らの思考を萎縮させる結果になるでしょう。誰もが同じ価値観を採用しなければ「人として劣っている」とみなされる――そんな社会はむしろ不健全です。
トランプ氏の政策には、たしかに従来の政治手法から見れば急激な変化をもたらす要素が多々ありました。入国管理の強化や、世界の軍事・経済問題に対するアプローチは、国際協調を重視する立場から見れば乱暴に映る部分もあるでしょう。しかし一方で、政治的・社会的な大義名分を強要してきた空気を一度壊そうとする姿勢には、ある種の“解放感”を感じました。「こういう言い方はしてはいけない」「このグループを批判するのはタブーだ」などと、言葉狩りのような圧力が強まっていた時代に、“言いにくいこと”をはっきり言う人が登場したことは、私にとって一つの転機でもあったのです。
トランプ氏の言動は、単に過激なショーでもなければ、差別を助長するだけの発言とも限りません。たしかに彼の発言に反発を感じる人もいるでしょう。しかし、私が重視したいのは「自分の頭で考え、自分の価値観を持って生きる」という一点です。多様性を大切にするという大義名分を利用して、人々の考え方や言葉遣い、さらには採用・昇進など社会システムにまで、特定の“望ましい”基準を一方的に押し付ける風潮には、どうしても反発を覚えてしまいます。トランプ氏は、そうした空気を「正論で塗り固められた建前社会」として切り裂き、自由に発言できる余地を取り戻そうとした人だと私は解釈しています。
私自身が彼のすべての政策や言動に賛同しているわけではありません。しかし、“多様性”という美辞麗句を盾にして、誰もが同じ価値観に従わなければならないような状態は、おそらく本当の意味での多様性とは呼べないはずです。トランプ氏が大統領になったことで、社会全体に「自分の意見をはっきり言ってもいいんだ」「皆が同じ方向を向いていなくてもそれはそれで構わないんだ」という空気が広がったように感じられます。それは、一部の人には居心地の悪い変化だったのかもしれませんが、私にとってはようやく肩の荷が下りるような安堵にもつながりました。
多様性を尊重することと、多様性を強要することはまったく別物です。真に多様性を認め合う社会を目指すのなら、「違い」を許容しようとする前に、そもそも「人は違って当たり前だ」という前提を受け入れる必要があるでしょう。いくつもの意見や価値観が混在していることこそが自然な状態であり、それらを無理に一方向へ収斂させようとすることこそが不自然だと考えます。トランプ氏の存在によって、私はこの不自然さから「解放」されたように感じるのです。自由にものを考え、自由に表現できる――それが本来のアメリカの姿であり、そして世界が学ぶべき姿なのではないでしょうか。
だからこそ、私は「トランプのおかげで多様性の強制から解放されて幸せだ」と言いたいのです。もちろん、一人ひとりが抱える背景や価値観は違うので、必ずしも私の感じた解放感を共有する人ばかりではないでしょう。それでも、少なくとも「違う意見を持っていてもいい」という当たり前の事実を取り戻すことができたのは、彼の“強引ともいえる行動力”があったからこそだと信じています。自分が思う本当の多様性――それは、全員が同じルールや価値観に縛られるのではなく、各々が自らの考えで行動できる余地が残されている社会。そんな社会を築くためには、言いたいことを言う自由を奪わない姿勢が欠かせません。私は、その方向性を改めて示してくれたトランプ氏の存在に、素直に感謝しています。