はてなキーワード: 頽廃とは
チバユウスケが死んだ。最近のミッシェル絡みの動き(LAST HEAVENの上映とか)からして長くないんだろうと思っていたので意外感はない。世界の終わりが砕け散り悲しみ見あたらねえし、灰になってもハートは残るのだ。
で、またぞろ巻き添えを食ってXのトレンド入りしたのが、20年前にMステでドタキャンかましたt.A.T.u.である。もはや当時のブームは忘れ去られ、穴埋めで2曲演ったミッシェルの知名度爆上げ(解散間近だったが)に貢献した、ようわからんロシアの噛ませ犬のような扱いを受けている。
否、受け続けている。それこそ20年近くだ。動画サイトができて当時の録画映像が投稿されては擦られ、アベが死んでは擦られ、何かのはずみでミッシェルの話題が持ち上がっては擦られ、そして今回また擦られ。今後も日本では延々、ウエノやクハラ、はたまた当人たちが死ぬたび擦られていくのだろう。そう運命づけられてしまったとしか言いようがない。
ミッシェルだけでなくThe BirthdayやROSSOも聴いてほしいと呟いているファンがいたが、俺は敢えて付け加えたい。t.A.T.u.も聴いてくれと。
俺は日本でt.A.T.u.ブームに火が付く前、単にТАТУと記されていたロシア盤を直輸入したくらいには当時、彼女たちのファンだった。もちろん日本盤も買った。それより前からミッシェルのファンでもあったので、あのMステの日は楽しみだった、はずだ。どういうわけか当日の記憶がないのだが。あまりの事態に、心の奥底に封印してしまったのだろうか。
シャポバロフという胡散臭いプロデューサーの指示(昨今本邦の芸能界を騒がせているアレコレにも通ずる問題をはらんでいるのではないかと昔から考えているが真相や如何)によるドタキャン演出、今で言う炎上商法であることは早くから知られていた。他国でもすでに同じようなことをやっていたのである。やらされていた、というべきだろう。不敵な態度の、同性愛を匂わせる危うげな少女デュオ。それはあからさまにギミックだったが、それでも俺は好んだ。音楽的には洗練されていたし頽廃的なMVは良かった。当時の推しキャラに例のバックハグポーズをさせた絵を描いたし、とある伝説の女性声優ユニットもやっていた。
そういうあれやこれやが20年前、一夜にして綺麗さっぱり吹っ飛んで、もはやt.A.T.u.が好きと人前で口にするのも憚られる存在になり果ててしまった。それが20年続いて、今日もXで「t.A.T.u.のチバへのお悔やみマダー?」などと言われている。
わかるかこの遣る瀬なさ。
さらに付け加えると現在、黒髪のユーリャはプーチン支持者で、相方のリェーナはロシアのウクライナ侵攻直後、白い鳩のイラストをインスタに投稿していた。そして昨年、ミンスクで久々に揃ってライヴを演った。そんなことを今どれだけの日本人が知っている? あの頃のタトゥシュキィたちも、昨年から少なからずウクライナの草生す屍と化しているかもしれない。
世界の終わりを聴くもよし。バードメンを聴くもよし。シャロンを、1000のタンバリンを、何故か今日はを聴くもよし。
よかったらそこに、Нас не догонят(Not Gonna Get Us)やЯ сошла с ума(All the Things She Said)を加えてやってはくれまいか。せめてそんな曲を歌っていた2人組のことにも、思いを致してはくれまいか。サンタクロースの死んだ朝にでも。
檄
われわれ楯の会は、自衛隊によつて育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。たとへ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲つた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起つたか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変わらない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。
銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だつた。創立以来二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。
われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停條約は、あたかもかつての五・五・三の不平等條約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。
こないだの人か。
https://anond.hatelabo.jp/20220702070421
もちろん正しさなんてものは、人間である以上は、一義的に決められないが、
今の日本は民主主義国家なので、「民主主義の視点からの正しさ」はあると思うよ。
「それに反発する人間の意見も封じ込めない」、ってのも民主主義だし。
「言い切る」ってことは独裁主義ってことになる。日本ではそんな状況ないと思うけど・・・?
2022-07-12
なんというか、具体例を挙げると
なにか八百長くさい・わざとらしいやり取りや行為を「プロレス」と呼ぶ → プロレスはそんな物じゃない!プロレスとはリングの上の神聖なうんぬんかんぬん
なにかふわふわした良く分からん文章や表現を「ポエム」と呼ぶ → 詩を馬鹿にするな!ポエムを蔑称で使うやつは教育を受けてないうんぬんかんぬん
こんなことはまあ良くある事だと思うしTwitterとかでも度々バズったりしてるが
もっと深刻なことでいうと
ある絵や映画とかを見て単純な感想をいう(あるいは性描写を単純に受け取る) → 日本の美術教育は実践的になっておらず無責任な大衆を大量生産しうんぬんかんぬん
不毛な議論を「宗教」「神学論争」と呼ぶ → 神学はれっきとした哲学の一分野でありその様な用法で使われることは日本の文化環境の頽廃うんぬんかんぬん
なにかの独裁的な様子を「北朝鮮」みたいと言う → 諸外国を引き合いに出すのは差別、日本なら日本の歴史で例えろうんぬんかんぬん
なにかの出来事に対して「どっちもどっち」「相対主義」をとる → 相対主義は日本の悪癖で、ガンダムやひろゆきの見過ぎの悪影響でうんぬんかんぬん
みたいな、用語その物への「雑」さによる、無数の人々の対立って常にあるわけだよな。
言葉狩りには至ってないが、用法が普及しきってしまっていて修正できない事への専門家のいら立ちとでもいうか。
相対主義を漫画やアニメで「理解」することとかはもっと深い問題だとは思うが。
でも実際、大勢の人間が「なんかこの絵よくわかんねーけどおもしれー、うわーおっぱいだー」「相対主義ってのは、そういうもんだろー」「神学論争うぜー宗教くせー、もっと現場にこいや」みたいな理解をして、そして毎年そんな人間が再生産されている以上、
「雑」とされる感性ってどこまで雑なのか、それこそ大衆の理解がなんで間違ってるって言えるのかということになるよな。
もちろん用語の使い方が差別的だステレオタイプ的だとか個別の問題にあるにせよ。
東大や慶応早稲田の偉い先生よりも、アニメ(制作者自身がどう考えてるかは別)や、ひろゆきが影響を与えているとして、
この国が資本主義・自由主義であり何を選んだり消費するかの自由がある以上、庶民の「雑」な意見と理解を、「間違い」って言い切る事は出来るのだろうか?
相対主義ってそんなに悪か?相対主義が原因の直接的暴力ってものがあるなら悪いと思うけど、無いなら、まあ最低基準かなみたいにしか思えない。
「相対主義のせいで人々が社会正義に参画せずー」みたいなことをいうなら、別に他にもいろいろもっと強力な参画しない理由がある訳だし。
というか全員が全員「相対主義の悪を理解してる」「正しい芸術の見方を知っている」国(義務教育でそう詰め込まれる国?)があるとしたらそれはそれで怖くないか?
なんというか、具体例を挙げると
なにか八百長くさい・わざとらしいやり取りや行為を「プロレス」と呼ぶ → プロレスはそんな物じゃない!プロレスとはリングの上の神聖なうんぬんかんぬん
なにかふわふわした良く分からん文章や表現を「ポエム」と呼ぶ → 詩を馬鹿にするな!ポエムを蔑称で使うやつは教育を受けてないうんぬんかんぬん
こんなことはまあ良くある事だと思うしTwitterとかでも度々バズったりしてるが
もっと深刻なことでいうと
ある絵や映画とかを見て単純な感想をいう(あるいは性描写を単純に受け取る) → 日本の美術教育は実践的になっておらず無責任な大衆を大量生産しうんぬんかんぬん
不毛な議論を「宗教」「神学論争」と呼ぶ → 神学はれっきとした哲学の一分野でありその様な用法で使われることは日本の文化環境の頽廃うんぬんかんぬん
なにかの独裁的な様子を「北朝鮮」みたいと言う → 諸外国を引き合いに出すのは差別、日本なら日本の歴史で例えろうんぬんかんぬん
なにかの出来事に対して「どっちもどっち」「相対主義」をとる → 相対主義は日本の悪癖で、ガンダムやひろゆきの見過ぎの悪影響でうんぬんかんぬん
みたいな、用語その物への「雑」さによる、無数の人々の対立って常にあるわけだよな。
言葉狩りには至ってないが、用法が普及しきってしまっていて修正できない事への専門家のいら立ちとでもいうか。
相対主義を漫画やアニメで「理解」することとかはもっと深い問題だとは思うが。
でも実際、大勢の人間が「なんかこの絵よくわかんねーけどおもしれー、うわーおっぱいだー」「相対主義ってのは、そういうもんだろー」「神学論争うぜー宗教くせー、もっと現場にこいや」みたいな理解をして、そして毎年そんな人間が再生産されている以上、
「雑」とされる感性ってどこまで雑なのか、それこそ大衆の理解がなんで間違ってるって言えるのかということになるよな。
もちろん用語の使い方が差別的だステレオタイプ的だとか個別の問題にあるにせよ。
東大や慶応早稲田の偉い先生よりも、アニメ(制作者自身がどう考えてるかは別)や、ひろゆきが影響を与えているとして、
この国が資本主義・自由主義であり何を選んだり消費するかの自由がある以上、庶民の「雑」な意見と理解を、「間違い」って言い切る事は出来るのだろうか?
相対主義ってそんなに悪か?相対主義が原因の直接的暴力ってものがあるなら悪いと思うけど、無いなら、まあ最低基準かなみたいにしか思えない。
「相対主義のせいで人々が社会正義に参画せずー」みたいなことをいうなら、別に他にもいろいろもっと強力な参画しない理由がある訳だし。
というか全員が全員「相対主義の悪を理解してる」「正しい芸術の見方を知っている」国(義務教育でそう詰め込まれる国?)があるとしたらそれはそれで怖くないか?
下記のエントリー(anond:20220701074807)で色々と書いてある点について。目下話題になっている「表現の自由」について。自分用の整理として。
目下話題の「表現の自由」は、いかなる意味で表現の自由なのだろうか。それは憲法21条1項に見られるような法的なそれだろうか。それとも、憲法21条1項のようなものとは異なった何かなのだろうか。たとえば、JAなんすんが制作した『ラブライブ! サンシャイン!!』のキャラクターを利用したポスターについて、絵の内容がが性的である※1という批判があった(なお、これや宇崎ちゃん欠缺ポスター事件の余波で、赤木氏らツイッター凍結騒動があったりした。覚えているだろうか?)。
ここで、抗議をJAなんすんが考慮して、ポスターを撤回したとする。すると、「誰の」自由が「誰によって」侵害されているのだろうか。侵害者をざっくりと抗議する者として捉え(本来、ツイッターで批判的な言葉を言っている者、電話をかけて意見を伝える者、付和雷同していたずら電話をする者、大量の手紙を送りつける等のいやがらせをする者等を十把一絡げに全部抗議者として捉えるのは適切ではあるまいが)、被侵害者をさしあたってJAなんすんとして、JAなんすんが抗議者に対して抗議をやめる(たとえば、ツイッターで「ポスターを撤回すべし」等の意見をつぶやくのをやめさせる)ように請求する法的資格を有する、というのが表現の自由主張の趣旨か。
はっきりいえば、そのような主張は法的には認められない。私人間効力の論点を見直すべきであるとしか言い様がない。ここで、抗議をやめるように要求する資格があると裁判所が肯定すれば、抗議者の表現に裁判所(=国家機関!)が介入することになり、それこそが表現の自由の侵害である。この構図において、憲法21条1項が保障する表現の自由の恩恵に浴するのは抗議者の側となるだろう。目下話題の「表現の自由」は、憲法21条1項とは異なる問題であると解するのが相当である・・・のだろう。
元々のエントリーでは次のような言明がある。
言いたかったのは、フェミニストはあくまで「女性の実質的な表現・言論の自由を高めるための環境づくり」を目指しているのであって、「表現規制派」というレッテル貼りは間違いだということ。フェミニストやリベラル派が目指すのは、あらゆる階級や属性の人が等しく表現の自由を行使できる社会だ。
これに対するブコメはこう言っている。
preciar おまえ等がぶっ叩いてきた作品のほとんどが女性の手になる物である時点で、ただの妄想というか開き直りでしかない/そもそも平等のために表現を規制しろと言う主張が「規制派」でなくてなんだ?恥に加えて知恵も無い
後段の「そもそも平等のために表現を規制しろと言う主張が「規制派」でなくてなんだ」という部分に注目したい。再びポスターを題材とする。「規制」という言葉を使うのは公権力ではないから不適切のように思うけれども、例のポスターに対する抗議は、ポスターを掲示することを抑制しようとする意図を有し、ある一つの表現を抑圧する行動である、という部分を問題として切り出すことにしよう。ここで想起するべきなのは、表現すべてがまったく自由(というより、放縦のまま)とされることなどあり得ないということである。たとえば名誉毀損的な言動は認められない。名誉毀損的言動をしている者を叱りつければ、それは一つの表現の抑圧には違いない。しかし、名誉毀損をされないというのも重要な利益であり、自己表現の利益と考量される対象となる(そうならないという人はいないだろう)。プライバシーも同様である。ノンフィクション『逆転』事件を想起すれば良い。前科を実名で暴露されない利益を重視する見地から、『逆転』における表現が抑制されている(この事件では、慰謝料の請求を裁判所が認めているから、公権力による「規制」ですらある!)。プライバシーの保護のために表現を抑制するべきであるという主張は「規制派」であろうか。
名誉毀損やプライバシーは具体的な個人の利益が問題となっているが、女性蔑視の問題はそうではないと思うかもしれない。しかし、番組準則のように、社会に薄く広く広がる利益保護(たとえば、放送番組の政治的公平性)を保護するために、表現を抑制する(番組編集準則であれば、放送局の自由)ということは、そうおかしな話ではない(なお、憲法学では、番組準則は、それへの違反が総務大臣による放送免許の取消原因になり得る等の効果をもつ限りで違憲であるとしている。)。たとえば、大阪府知事・大阪市長・橋下徹のトーク番組に対して、政治的に公平ではないという批判は、無論番組作りを抑制する可能性がある。実際、激しい批判を浴びて、大阪毎日放送は社内調査を行って検証したのである。これも「平等のために表現を規制しろと言う主張」だから「規制派」となるのだろうか?それはそれで一貫した立場ではある。それこそ「知恵も無い」と思うが。
なお、念のためにいえば、プライバシーも名誉権も日本国憲法は明文で保障していない。そのような利益であっても、憲法21条が保障する表現の自由にとっての対抗利益となることができる。憲法の明文で保障されていない権利は表現の自由の対抗利益になり得ないという考え方は、畢竟独自の見解に過ぎない。
選挙において「表現の自由」を掲げる政治家がいる。彼らの問題意識は極めて偏頗ではないか。日本の表現の自由をめぐる問題状況は深刻なものがある。ところが、こと選挙で「表現の自由」を旗印にする者の言動を見ていると、選挙運動の規制、公務員の政治的意見表明やストの広範な禁止、放送資源の分配問題、政府情報の保全・公開等々、様々な形で存在しているはずの問題状況が捨象されて、取り上げられているのは「マンガ・アニメ」の自由ということになっている。また、「アニメ・マンガ」だけを対象にしても、取り組む分野が偏っているのではないか。たとえば、これ(https://twitter.com/KenAkamatsu/status/1542366137979400193)には『国が燃える』事件が入っていないが、右翼の抗議は免罪されているのか。あるいは、最近の『「神様」のいる家で育ちました』も入っていないが、宗教団体からの抗議は免罪されているのか。上記は、批判としてはマージナルかもしれない(忘れていただけかもしれない)が、刑法175条の廃止等(ポルノの合法化;「有害図書」販売規制の廃止ないし合理化)を公約に入れていないのはどうしたことか。
「表現の自由」を掲げる政治家の言動を観察していると、一つ気づくことがある。彼らは、表現の自由を抑制している制定法を改廃するのではなく、規制の対象外となるように関係機関に働きかけを行って「免除」(制定法の外部で活動しているのだから、お目こぼしに近い)するという活動に主眼を置いているようである。念のためにいえば、そういった活動を政治家が行うこと自体は奇妙なことではない。問題は、「表現の自由」といった一般的・普遍的権利を掲げながら、規制の廃止を唱えるよりも、特定の表現に限って規制を免除するように(制定法の改廃ではなく)法執行機関に働きかけをしていることである※4。取締当局に働きかけをして有利な方針を引き出すという方向性は、自由にとって脅威であることに変わりはない。結局、働きかけをする人物の意向によって「自由」の内実が左右されることになるからである。「免除」の仕組みを動かす人物が特定の出版社や特定の作品群を代表している場合、その他の出版社・表現には「免除」を拒否するという形で脅威となる可能性が存在し続ける。政治家の言動をナイーブに受け止めてはいけない。
なお、私は実は「アニメ・マンガ」の中の特定の作品群のみを対象とした偏頗な政治運動自体がけしからんというつもりはない※5。しかし、「表現の自由」という看板は下ろしてもらいたい。
「表現の自由」を掲げる政治家ないしツイッターアカウントを見ていると、「エロ(・グロ・ナンセンス)」の自由を重視しているような印象がある。こういった表現一般について、公権力の介入を排除する防御権があるのは当然だ、という前提があるような気がする。しかし、「わいせつ(obscenity)」にあたる言論は憲法上の権利として保護されないはずである。憲法上の権利として保護されないということは、内容規制をしても合憲であるということになる。日本の最高裁の考え方もそうであろう:
なお性一般に関する社会通念が時と所とによつて同一でなく、同一の社会においても変遷があることである。現代社会においては例えば以前には展覧が許されなかつたような絵画や彫刻のごときものも陳列され、また出版が認められなかつたような小説も公刊されて一般に異とされないのである。また現在男女の交際や男女共学について広く自由が認められるようになり、その結果両性に関する伝統的観念の修正が要求されるにいたつた。つまり往昔存在していたタブーが漸次姿を消しつつあることは事実である。しかし性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、超ゆべからざる限界としていずれの社会においても認められまた一般的に守られている規範が存在することも否定できない。それは前に述べた性行為の非公然性の原則である。この点に関する限り、以前に猥褻とされていたものが今日ではもはや一般に猥褻と認められなくなつたといえるほど著るしい社会通念の変化は認められないのである。かりに一歩譲つて相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないとしても、裁判所は良識をそなえた健全な人間の観念である社会通念の規範に従つて、社会を道徳的頽廃から守らなければならない。けだし法と裁判とは社会的現実を必ずしも常に肯定するものではなく、病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医的役割を演じなければならぬのである。
「エロ」の自由を擁護していくとなると、「保護されない言論」の判例法理の桎梏をいかに除去していくかを考えるべきであろう。スウェーデンではポルノも出版の自由の対象とされていることに注意する必要がある。スウェーデンの憲法典の一部を構成する出版の自由に関する法律は、出版の自由を制限できる場合を限定列挙する。児童ポルノは出版の自由を制限できる場合に挙げられている※6が、ポルノ一般は挙げられていない。他方で日本の状況を考えてみよう。もはや何の修正もなく『チャタレイ夫人の恋人』は出版されているが、刑法175条自体は生きている。最高裁は判例を変更していない。捜査機関が取締りの方針を変更すれば、刑法175条でもって再び刑事罰が科されるであろう。他の成人向けのアダルト・ビデオにしても、マンガにしてもアニメにしても同様である。一般に「エロ」の表現の自由を目指していきたいのであれば、少なくとも刑法175条を廃止しなければならないはずである。しかし、この最大の桎梏の存在を認識していない者も少なくないように思う。もしかすると、このような規制状況はもはや動かしがたいので、所与としなければならないと考え、より低い脅威度のものを優先しているのかもしれない。あるいは、彼らが取り組んでいる「マンガ・アニメ」は実は「わいせつ」にあたらない物件のみで、ハード・コア・ポルノ的な「マンガ・アニメ」は眼中にないのかもしれない。しかし、それでは『チャタレイ夫人の恋人』や『悪徳の栄え』、あるいは『蜜室』に取り組んだ人々と比べてあまりにチャチな取り組みだと思う。
丸山眞男を引き合いに出すまでもなく、日本人は既成事実に弱いと指摘される。いったん規制されると大変だから、規制される前に対処する政治家が必要であるという言い分を聞くが、既成事実に屈服して「一端規制されると大変」な状況を強化しているのは誰なのだろうか。
※1 ここで「性的」として批判されているのは、単に裸体だとか性器が描写されているという意味ではなく、ほぼ女性蔑視的という意味に等しいことに注意するべきである。
※2 書いているうちに思ったが、リュート判決の構図に似ている。
※3 スウェーデンなどの欧州諸国ではポルノが合法化されている。スウェーデン等で購入したヌード写真集を日本に輸入して税関検閲に引っかかる、というのが税関検閲諸事件の流れだ。
※4 なお、児童ポルノ禁止から創作物を除去せよとの主張は、一般的な規制の問題として評価できよう。
※5 むしろ、出版社の利益を守るためと考えれば、個別の出版について規制をお目こぼししてもらう活動も大事だろう。だが、あくまで出版社の権益であり、表現の自由という共通財の問題ではない。
※6 日本で出版されている成人向けマンガ・イラストが児童ポルノにあたるかと言った事件があったのだが、スウェーデン最高裁はマンガの表現形態に十分配慮した判断を行っている(NJA 2012 s. 400. 翻訳もある。外国の立法255号[2013年]223頁)。このような判断を日本の最高裁がするかというと、全然しないだろう。
社会人になって数年。最近痛感するのが教養の有無と人生の充実の相関だ。
「年収が高く役職持ちな人はみな教養持ちだ」、といった次元が低いことが言いたいのではない。
教養のある人物はなんというか、充実感に満ちており有意義に生きていて感性も見た目も若い気がする。
趣味も多いし、フットワークも軽い。何歳になっても好奇心や知的探求心が衰えないのだろう。
少しでも気になった事があればその日の帰り道で専門書を買って熟読、海外だろうが平気で現地に赴いたりする。
常に勉強を欠かさないし、当人は「勉強」を苦を伴うものと思っておらず、むしろ楽しんでいるのだ。
類は友を呼ぶのか、周囲の家族や友人も相応に知的な人が多く、頽廃的だったり怠惰な人間はあまり見受けられない。
当然、教養のある人はそれ相応の社会的地位についていることも多い。
社会的地位を獲得した後に付け焼き刃で教養を身に付けたのだろうか?いや違う、幼少期からの習慣の積み重ねだろう。
こういった知的な態度を有する人たちに接すると、無教養・無学な自分はコンプレックスを非常に刺激される。
教養のある人達の会話はありきたりな雑談の途中で話題が予想しない箇所に飛ぶのだ。
姫路城改修から池田輝政の功績に飛んだり、クリミア半島からソルジェニーツィンの著作に飛んだり。
ベラスケスやらサルトル、後期コルトレーンの話が出たこともあったが、無学な自分ではちんぷんかんぷんだ。
こちらが話題に参加できないでいると「あ、興味ないよね〜。うんちく晒してごめんごめん。」とすぐに平謝りし、
それ以降はグッと敷居を下げた会話(ワールドカップやらジブリアニメ、近所の旨いラーメン屋の話など)を展開してくれる。
こういう出来事が何度かあると、彼らはそのことを覚えているようで配慮からかハードル高めな話をあまりしてこなくなる。
その「優しい配慮」が、かえって悲しいような悔しいような不思議な感覚を自分の中に呼び起こさせた。
上記の行動は、彼らの衒学趣味由来の嫌味や当てこすりだろうか?私にはあまりそう思えない。(ゼロではないだろうが。)
第一、こんな何処の馬の骨か分からん小僧にマウンティングしたところでなんの得もない。
なんというか彼らの「知」に対する基本的なスタンスは、自分のそれと一から十まで
まるで異なっていて、そのほころびに自分が勝手につまづいて痛がっているだけなのだろう。
痛がっている自分を見て彼らは「まずい!」と察し、ほころびを取り除くために
平易な話題にシフトしてくれいているのだ。その気遣いが余計に胸に刺さった。
加えて彼らの凄いところはジャンルの垣根を設けずに、気になったら徹底的に探究する姿勢だ。
自分は子供の頃から怪獣映画が好きなので彼らとの酒の席でシンゴジラの話題が出た際に、
第五福竜丸被爆事件からゴジラは誕生した、田子の浦港ヘドロ公害からヘドラが生まれ、
バイオテクノロジーの隆盛からビオランテが生まれた、シンゴジラは言うまでもなく津波と原発である、
といったような感じで社会問題とゴジラ怪獣の密接な繋がりを時系列で簡単に話した。
すると彼らは決してバカにする事などなく、「それでそれで」と少年のように目を輝かせて聞いてくれる。
「ありがとう。勉強になった。もう少し調べる。」とその場でアマゾンを使い、DVDと解説本の購入を済ませていた。
うーむ、この人たちには逆立ちしても敵わないなぁ、と帰りのタクシーで溜め息が漏れた。
(次に会った時には彼は初代ゴジラはもちろん、宇宙大戦争やらサンダ対ガイラまで鑑賞済だった。これには舌を巻いた。)
彼らは目の回る忙しさの合間を塗って絶えず教養を身に付けているのだ。多忙な彼らの何倍も時間を有している自分には教養がない。
自分も彼らのような「知」に対して極めて能動的な人間になりたいが、どうやったら彼らに少しでも追い付けるのだろう。
なんにでも興味を持つ知的探究心。古典から新書まで常に読書を怠らない継続力。そして読書で得た知見をすぐに実行してしまう行動力。
元増田です。
わたしが思いつくフェミニズムに対する反論は、「フェミニズムが拘泥する、あるジェンダーの表象(性規範が強化された身体)に対する批判は、その表象(イメージ)をタブー化する危険性がある」ですかね。
女性の身体を男性の欲望から解放するのだ、というスローガンへの拘泥が行きすぎると、はじめのほうは示唆的でも、途中から「頽廃主義」を嫌った全体主義的ナチスドイツ的になる。
まあ、これスゴい飛躍していて、わたし自身もまだ纏めていないんですが(消された別の増田によるとあなたはわたしらしいので、自問自答的な放言だと思ってください)。
ラノベの側からは、ラノベに対する批評を強化するのが一番だと思いますよ。わたしはラノベ詳しくないので、示唆しかできませんが。
様々な酷評がネットを覆っているが、致命的だと感じた部分を何点か。
(多くの方が酷評してるキャラデザはアリだと思っている。キャラクターは社会や歴史を描くただの駒なのだ。それでも石黒版ではキャラ描写が秀逸で魅力的だったことは確か)
メカがCGになり、数万隻の艦隊を描く作画上のハードルはかなり下がったはずだと期待していた。実際に描かれたのは普通のSFにありがちな芯の感じられないデザインの戦艦が重厚感、巨大感をまったく見せずに軽快に動き回り、戦術の深淵を感じさせない異常なハイテンポの戦闘であった。雰囲気が軽薄すぎる。
数万隻がダイナミックに関わる作品上の見せ場のはずが艦隊の遠景描写も近景描写も全く石黒版に及ばない。
クラシック音楽による重厚なBGMも、耳に残らないありがちなものに置き換えられてしまった。虚空に伸びる無数のビームの描写も消え失せ、もはや苦痛でしかなかった。
根本的にスケール感、質量感、雰囲気を描くことに失敗している。そのうえでSFとしてよりリアル、あるいは盛り上げるにはどうするべきかという改善を試みた形跡がまったく無い。
②背景美術の軽薄さ
前述の戦闘の雰囲気にも通底した問題だが、社会、文明、文化、生活、どのような世界にキャラクターたちが生きていてどんな雰囲気が漂っているのか、セリフに出さずとも背景1枚で多くを語ることが出来る。石黒版はそのあたりも実に巧みで、数百年続いたゴールデンバウム王朝の頽廃や、戦争に疲弊し制度や社会が麻痺していく同盟を実によく描いていた。
残念ながら、新作では帝国、同盟ともに最近のアニメやSFにありがちなものとなってしまった。同盟側は比較的現代社会に近いので新作の方向性としてこうしますよ、というのであれば受け入れられなくもないが、帝国側の描写は悲惨そのもの。西洋建築や文化に詳しいスタッフがいなかったのか?というくらい軽薄な、なんちゃってヨーロッパとミスマッチなSF、安っぽい貴族趣味的豪華さが同居した地獄となっている。貴族的近世的な文化と高度な星間社会との落差を石黒版では見栄え上は完全に近代的文明を感じさせない方法で乗り切ったが、新作ではどっちつかずの半端な描写となっている。
③単純に尺が足りてない
これは多くの方が言及しているが削りに削って再構成した石黒版でさえアムリッツァまで15話かけている。新作は12話かけて直前まで到達。尺が足りない。全く足りない。足りてないのを何かで補うわけでもなく、必要な描写をばっさりカットしていき、①や②で述べたようにそもそもすべてが軽薄。もちろん①や②が改善されないまま15話かけても駄作扱いだっただろう。(多くのひとが言うように世間的な評価にはキャラデザも当然影響している。私はあまり気にしないだけである)
大事な順に書いたので、①さえまともなら、他がグダグダだったとしても楽しんでみていたと思う。せっかくCGでいくらでも艦隊戦出来るのに活かせてないのは本当にツライ。そういう意味ではガンダムジオリジンはかなりうまくやっていると思う。艦隊戦やメカ描写に並々ならぬこだわりを注いでいることがよく伝わってくるし、アニメ版のガンダムを良い方向でリメイクしている。(オリジンはオリジンのアニメ化であって厳密にはリメイクではないという意見ももちろん承知している)
早くに両親を亡くしたことから、若くして莫大な遺産を受け継ぐ。
放蕩生活を送る一方、サロンを主催するなどして文化人と交流し、政界にも人脈を作っていく。
その集大成が1753年につくられた「ヘル・ファイア・クラブ」と呼ばれる秘密結社で、
修道院を豪奢に改装した会場に、貴族や政治家、聖職者、芸術家などが夜な夜な集まり、
悪魔崇拝の儀式を模して乱交に耽るなど、淫蕩と頽廃の限りを尽くしていた。
皇太子の頃のジョージ三世、後のイギリス首相ジョン・ステュアート、ロンドン市長を務めたジョン・ウィルクス、
サンドイッチの由来ともなったサンドウィッチ伯爵や、かのベンジャミン・フランクリンも参加者とされ、
政界の一大スキャンダルとしてバッシングを受けることとなった。
しかし、実際には酒を飲んで騒ぎながら政治を語りあう、普通のサロンであったともいう。
われわれ働く増田の会は、日本の保育園によって育てられ、いわば日本の保育園はわれわれの父でもあり兄でもあり、母でもあり姉でもある。その恩義に報いるに、このような忘恩的発言に出たのは何故であるか。
かえりみれば、幼きわれら増田は3年、あるいは保留児となったかも知れぬ過去を父母の加護により隠蔽し、入り得た保育園で一片の打算もない教育を受け、またわれわれも保育園を愛し、もはや園の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後ついに先達の知らなかった豊かさを知った。ここで流したわれわれの涙は山川純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に園の庭におしっこした。このことには一点の疑いもない。われわれにとって保育園は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛冽の気を呼吸できる唯一の場所であった。保育士諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなお、敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、保育園を愛するが故であると私は断言する。
われわれは失われた二十五年の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、保育の大本を忘れ、保育園精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は森元らに転がされ、五輪紋章の汚辱は払拭されずにただごまかされ、保育園卒園者すなわち日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。
われわれは今や保育園にのみ、真の保育、真の保育士、真の保育再興の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、待機児童の現状は自治体および日本国の行政不作為が問われる状況にあり、国の根本問題たるべき待機児童が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、待機の語義を永遠の諦めにすり替えることによって、親となった増田たちの魂の疲弊、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき保育が、早期解決すべき待機が、実質を重んずべき一億総活躍の美名が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。保育園は元号を平成に変えてから国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。待機は待機の本義を与えられず、女性活用も一億総活躍もその対象も明確にされなかった。われわれは失われた二十五年のあまりに永い保育園の眠りに憤った。保育園が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。保育園が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、保育園が福祉の本義に立ち、真の男女均等となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。しかるに、誤って目覚めたのは宮崎であった。
われわれは悲しみ、怒り、ついには憤激した。地方行政は自らは何もできぬという。しかし行政に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には増田らの民意からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的保育園の本姿である、という。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、保育園行政に関する財政上のコントロールである。日本のように人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする保育園は魂が腐ったのか。ゆりかごから墓場までの理想はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な遊戯所になって、どこかへ行こうとするのか。
われわれは二十五年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために共に死ぬのだ。保育園を真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。次世代の生命以上の価値なくして何の保育園であり一億総活躍だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。保育だ。われわれの愛する歴史と伝統の保育だ。これを骨抜きにしてしまったこの国に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に勃ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の増田として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。
増田 公威
聞けい。聞かぬか。そうか。
○谷口弥三郎君 私は問題が余程違いますが、人口政策の確立をこの際特に希望したいと存じておるのでございます。(「自由討議はそういうことを言うて貰わねばならん」と呼ぶ者あり)
我が國の人口の状況は、皆さん御承知の通りに、実に飽和状態になつておるのでございます。即ち國土の関係から申しましても、この戰争のために、敗戰の結果、四割三分強の國土をなくしておるのでございます。從つて只今のところでは、國土におきまして耕地面積が僅かに六百万町歩しかないのでありますから、これに生存するのには六千万ぐらいの人口でなければ、なかなか食糧問題その他に困難をいたして來るのでございます。それに拘わらず、昨年度のごときは、出生におきましては二百七十一万、死亡におきましては百七十五万というのでありますから、自然増加が百五十六万余になつておるのでございます。從つて現在におきましては、八千万人目を超えておるのでございますが、この状況で参りますというと、八千万どころか、昭和二十七年頃には、すでに八千七八百万というような状況になつて來るのでございます。これをこのままにして置きますというと、今後食糧問題その他について非常な困難がやつて参ると思いますが、これに対しまして、第二國会におきまして優生保護法というのができました。あれのお蔭によりまして、不良な分子の出生の断種手術によつて或る程度少くすることができると思いますが、これは余程うまく行きました場合に、僅か一年に五万人ぐらいの出産を防ぐ程度にしかならんのでございます。尚不良な分子に対しまして、又母性保護という立場からいたしまして、合法的に或る程度人工妊娠中絶を許すことになりましたが、これにおきましても実際の人口調節は我々の思うように多数には上つて参らんのであります。それで是非今後受胎の調節をやらなければならんと存じておるのであります。受胎の調節は併しこれは、やり方によりますと、現在方々で行われておるようなことをやりましたら、優秀な階級のみに行われて不良な階級には全然顧みられぬ。言い換えれば国民素質の低下がずんずん起つて來ると存じますのでございます。それで今後の人口対策といたしましては、或る程度のいわゆる不良な分子とか、経済的に無能力な者とかいうような方面に……この方面の者をよく調べて見ますというと、日本に約六百万人ぐらいの人々がおられるように思うのでございます。六百万人と申しますと、それは特にそれに適合する者でございまして、年齢から申しますと十七八歳以後五十歳ぐらいの婦人でございます。而もその方々はいわゆる生活能力に非常に困つておる、貧困で多産な者でありますとか、病弱な者でありますとか、或いは子供を持ちましてから間もない方々であるとかいうような方々をずつと調べて見ると、約六百万人ぐらいの人口になるのでございます。その六百万人の方々に受胎調節をいたしますというと、一年に約八十万人ぐらいの出生を低下することができるのであります。それには方法が特に必要でありまして、これに対しましては、例えば現在の助産婦に一定度の講習をいたしまして、そうしてそういう方々をずつと訪問いたしまして、勧告いたしまして、そうして受胎調節をやるように勧めるのでございます。そうしますと、助産婦は現在六万人ぐらいおりますけれども、そういう講習をしてから後の助産婦と申しますのは約四万人ぐらいになるのでございます。言い換えれば一人が百五十人ぐらいづつを担当いたしまして、そうして十分な受胎調節をいたしますというと、そうすると不良の或いは困つた家庭の出生を低下することができますので、即ち現在の八千万人口を先ずそのままに喰い止めることができると存じておるのであります。尤もこの方法は、或いは未婚者とか未亡人の方には、これは道徳的頽廃防止の関係上、絶対に行わないようにいたしたいと思います。又精神病の患者とか癩の患者とか申しますのは、これはいわゆる断種手術を行なつて、この方面の方には入つて來ないのであります。この方面に入る階級は前にも申しましたように、六百万人の或る程度の人のみに行なつて見たい。又この方法によりまして人口の急激な増加を防ぎますと共に、國民素質の低下を防ぐのが目的でございますが、その方法については新聞、雑誌、ラジオなどではこれは到底……そういうものを使うと却つて或る優秀な階級、特に子供を持つて貰いたいと思われるような階級の者に惡用される危險がございますので、これは是非とも或る一種の特別な指導者を作つて行わせたならば、必ず目的を達し得るだろうと思うのでございます。即ち今後の我が國の人口対策は量よりも質に重きを置かんければならんと思つておるのでございます。現在各地におきまして、或る方面から頻りとバース・コントロールをやるようにという示唆があるとかいうような話も聞きますが、これは非常に私共の考えでは危險であると思つておるのでございます。即ち前に述べましたような優秀な階級に行われる危險がございますので、不良の階級にこの方法を採ること、即ち国家は一日も早くこの対策をやつて頂きたい、政府は是非これを採用して、大いに速かにこの方面に十分な施策を行なつて頂きたいと思いまして、実はここに自由討議の時間を拜借いたしまして、私の平素考えておることを申上げ、皆さんの御賛同を得て、大いにこれが実施を一目も早く進めたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。(拍手)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/003/0512/00311150512011c.html
ハイハイ良く頑張りました
でもそれ以上やっても教養の乏しさがバレるだけだからその辺でやめとけ
事は企画の大小の話じゃないし
侘び茶人つーたら無一物の貧乏茶人のことだし
寂ってのは苔むした石のように歳を経て内側からにじみ出てくる美のことだよ
「お金が無くても物資が乏しくても人間は宗教や芸術をやる」けど、やっぱり先立つものがないと生きていけないし、大きな企画もできない、ということだろ。
名物一つが国一つと引き換えにされるような文化が頽廃的でなくて何だと言うのか。
金持ちがあえて侘びた風情を求めるのが「侘び寂び」なんだよ。
庶民はそんなもの気にしない。
派手で目立つだけであって決して一貫してメインストリームってわけではないでしょ