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リベラルに関するkurokuragawaのブックマーク (5)

  • アメリカが正気を回復するための集会、対立煽るメディアを批判 (gooニュース・ニュースな英語) - goo ニュース

    国際ニュースをご紹介するこのコラム、今回は間もなく投票開始の中間選挙を目前にアメリカは正気を回復したのだろうか、という話です。珍しく私が直接、現場に行って見て来ました。「ニセモノ」ニュース番組のコメディアン司会者が呼びかけた「ニセモノ」政治集会に何十万人ものアメリカ人が集まりました。そこで何よりも批判されたのは、民主党でも共和党でも茶会運動でもなく、24時間ニュースの埋め草として憎しみや対立を煽るメディアでした。「sanity (正気)」を取り戻そう、理性ある政治対話をしようと求めるコメディアンの訴えにニコニコと拍手する人たちに囲まれながら、これこそ私が好きなアメリカだと思いを新たにしました。(gooニュース 加藤祐子) ○素晴らしい秋の一日 ジョン・スチュワートの集会の開始を待つ人たち。舞台の後ろに連邦議会議事堂。この4時間後には、集まった人数はこの10倍近くに。10月30日早朝、ワシン

    アメリカが正気を回復するための集会、対立煽るメディアを批判 (gooニュース・ニュースな英語) - goo ニュース
    kurokuragawa
    kurokuragawa 2010/11/03
    「「正気を回復しよう」、「理性や分別ある対話をしよう」、「怒鳴ったり叫んだりせず、穏やかに話し合おう」、「あなたとは意見が違うが、だからといってあなたをヒトラー呼ばわりはしませんよ」」nice.
  • 保守派の「茶会」に対抗、無党派層が「コーヒーパーティー」結成 米国

    米ニュージャージー州ウッドブリッジ(Woodbridge)で開かれた草の根政治運動「コーヒーパーティー(Coffee Party)」の会合で配られた、「コーヒーパーティーは現実主義」と書かれたステッカー(2010年10月18日撮影)。(c)AFP/Edouard GUIHAIRE 【10月28日 AFP】バラク・オバマ(Barack Obama)政権の政策に反対する米保守派の市民運動「ティーパーティー(Tea Party)」が来月2日の米中間選挙を前に注目を集める中、これに真っ向から対抗する草の根運動「コーヒーパーティー(Coffee Party)」がじわじわと支持を広げている。 ティーパーティー運動とは、2008年のオバマ大統領の当選直後に発足したオバマ政権批判の急先鋒で、「押し付けがましい」政府を阻止し「良識があり憲法を順守した保守的な自己統治」を目指している。名称は、1773年に当時

    保守派の「茶会」に対抗、無党派層が「コーヒーパーティー」結成 米国
    kurokuragawa
    kurokuragawa 2010/10/29
    飲み物としては紅茶が好きだけど「コーヒーパーティー」を応援します
  • ZAKZAK - リベラルと保守派「逆だった。驚きだ」と調査の米教授

  • 大江健三郎という病 - 池田信夫 blog

    第2次大戦末期の沖縄戦で、日軍が住民に集団自決を命じたという記述が、今年の検定で教科書から削除するよう求められた。その理由として文部科学省は、沖縄の慶良間守備隊長だった赤松嘉次元大尉の遺族らが大江健三郎氏と岩波書店を相手どって起こした訴訟をあげている。大江氏は『沖縄ノート』(岩波新書)で次のように記す:新聞は、慶良間諸島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男[赤松元大尉]が、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。[...]かれは25年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想までもいだきえたであろう。(pp.208-211、強調は引用者)。といった独特の悪文で、たった一つの新聞記事をもとにして、赤松大尉を(ナチの戦犯として処刑

  • リベラルの攻撃性 - 国家鮟鱇

    ⇒■相対主義と気遣い −ARIAから見るリベラルの形成−(ロリコンファル) 正直アニメの話は全くわからないんだけど、 なんでリベラルを名乗る人達が常にこうむやみやたらに攻撃的なことが多いのか正直よく分からない というのは、俺も前々から持っている疑問。 典型的なのが先日のNHKでの討論番組での、話し合いが大切といいながら、相手の話を聞かない。話の邪魔をする人(リベラルと呼べるのかわからないけど)。外部から見れば奇妙な行動に見えるけど、これを単に批判してもしょうがない。彼、彼女の中ではそれで矛盾していないのだろう。なぜそうなるのかを考えるべき。 で、結論から言えば、やはりそこには「絶対的」なものがあって、そこから外れるものは認めない(というか見えない)のだろうと思う。 彼らの言う「話し合い」とは、彼らの許容範囲内での「話し合い」であって、それ以外のものは「意見」ではないのであろう。「意見ではな

    リベラルの攻撃性 - 国家鮟鱇
    kurokuragawa
    kurokuragawa 2006/07/09
    偏狭な人たちがリベラルと呼ばれている不思議
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