はてなキーワード: いちはやとは
https://www.mhlw.go.jp/content/11920000/000850768.pdf
児童福祉法第25条(要保護児童発見者の通告義務)
要保護児童を発見した者は、これを市町村、都道府県の設置する福祉事務所若しくは児童相談所又は児童委員を介して市町村、都道府県の設置する福祉事務所若しくは児童相談所に通告しなければならない。ただし、罪を犯した満十四歳以上の児童については、この限りでない。この場合においては、これを家庭裁判所に通告しなければならない。
② 刑法の秘密漏示罪の規定その他の守秘義務に関する法律の規定は、前項の規定による通告をすることを妨げるものと解釈してはならない。
児童虐待の防止等に関する法律第6条(児童虐待に係る通告)
1 児童虐待を受けたと思われる児童を発見した者は、速やかに、これを市町村、都道府県の設置する福祉事務所若しくは児童相談所又は児童委員を介して市町村、都道府県の設置する福祉事務所若しくは児童相談所に通告しなければならない。
2 前項の規定による通告は、児童福祉法第25条の規定による通告とみなして、同法の規定を適用する。
3 刑法の秘密漏示罪の規定その他の守秘義務に関する法律の規定は、第1項の規定による通告をする義務の尊守を妨げるものと解釈してはならない。
立憲民主党の塩村文夏とか、米山隆一だって、政党をコロコロと変えているじゃん。
たとえば塩村文夏は維新政治塾→みんなの党→民進党→国民民主党→立憲民主党だし、米山隆一は自民党→維新の会→立憲民主党というふうに渡り歩いている。
塩村の場合、以前は沖縄に米軍基地の必要性を強く主張していたし、靖国神社への参拝をアピールしていた。(参考 https://ksl-live.com/blog27468)
さらに、塩村は国民民主から立憲民主に移って、国民民主から除名処分を受けている。
(後に2党は合流するが、塩村はそれと事情が違う。彼女は選挙対策のため、自分だけが逃げ出して、いちはやく立憲に移ろうとした)
米山なんて、過去には自民・維新から出馬したことがあり、完全に外様だ。今はすっかり変節して、立憲民主党にいらっしゃる。
こんな人達が先輩議員をやっていて、偉そうにリベラルづら、ポリコレ仕草をするのが立憲民主党だ。いったい、どういう神経で今井るるを攻められるのか?
(中央公論平成26年9月号に戸部良一・帝京大学教授が「日本は何のために戦ったのか 戦争の理念と『政治戦』」と題して、大東亜戦争について書いておられます。とてもいいと思いました。
開国以来日本外交は英米という二つのアングロ・サクソン国との関係を基軸に、これら二国との関係を調整することを基本にして、外交政策をつくってきました。東アジアから欧米諸国を駆逐し、自分が東アジアの盟主になるというような政策をとったことは、一度もありません。日本の歴史や外交史を読めば、簡単なことです。
では、「あの大東亜・太平洋戦争は?」 となるかもしれません。「自衛の戦争」と無理してこじつければ、そう言えない部分もないこともないでしょうが、しかし、ろくな外交をしないでおいて、つまり戦争を避けるような外交をしないでおいて、追い込まれ、「ハイ、自衛のためです」の主張には、賛成しかねます。 かと言って、アメリカは完全に日本との外交交渉に誠実であったとはいえません。
極東軍事裁判の判決のようなアメリカの言い分が100%正しいわけではありません。連合国側が広めたこの理屈が世界に流布していて、こまります。かといって、日本が100%正しかったという主張にも、うなずけません。もし、軍部とくに陸軍があれほど政治に横槍をおさなかったなら、日本の外交はアメリカと戦争などをしていないでしょう。中国問題をかたずけていたでしょうし、ドイツとの同盟なども結んでいなかったでしょう。陸軍は自己のメンツのために日本を犠牲にしたのです。
故リチャード・ストーリという有名なイギリスの日本史家は、「日本外交は明治以後優秀であり、軍部が口出ししていなかったら、あんなことにはなっていない」と言っています。こうした国際的規模の大きな誤解のもとは、ナチ・ドイツと日本を同じものとして考えるからです。
日本は中国と戦争をする意思はなく、また昭和12年に偶発し拡大する中国との争いをやめ、中国から兵を引きあげたかったのです。ましてや、アメリカとの戦争などは、ぜひとも避けたかったのです。アメリカもドイツとは戦争がしたく、それゆえ当初は日本との戦争を避けたかったのです。
日本は大いなる野望ともち、まず中国との戦争からはじめていき、やがてその野望達成の必要上ナチ・ドイツと同盟を結び、ドイツは欧州を、日本は東アジア全部を支配するため戦争をした。日本については間違いの解釈をしています。アメリカは正義の保安官で、町の秩序をみだす日本という悪漢を二丁拳銃で打倒したという西部劇です。
専制全体主義国家は暴力と脅迫と大虚偽宣伝にみちあふれていました。日本は違います。)
日本の「鬼畜米英」は戦争が始まってから言い出された言葉で、最初に鬼畜米英の考えがあって、その考えにしたがって政策目標が作られ実行されたわけではありません。国民の間には英米への強い好意がありました。東アジアでは、日本がもっとも英米への好意が強かった国でしたし、今でもそうではないかとと思います。
昭和12年(1937年)7月7日盧溝橋での偶発的些細な事件では、日本も中国も拡大する意図はなく、そのまま停戦して終わりにしたかったのです。しかし、日中双方の停戦の意図にもかかわらず、拡大し、大げんかになり、ついにアメリカとの戦争になりました。
アメリカとの戦争になるまで、つまり昭和16年12月まで、4年と5か月もあります。アメリカと戦争したければ、もっと早く、対中戦争で体力を消耗するまでに始めています。なぜそんなに待つ必要があったでしょうか。また、もしそうならば、対米衝突を避けるために、日本が提議して日米交渉などする必要もありません。日本は中国全土を占領しようとか、東アジアから英米の勢力を駆逐するというような、大それた考えや予定などもっていませんでした。東南アジアの植民地を解放しようという崇高な考えで戦争をしたのではありません。対米関係が悪化し、アメリカから経済的に締めつけられ、南方の天然資源のほうに眼が向いていったのです。最終的に南方の天然資源確保のために英米仏蘭と戦い、これらの地域から英、仏、蘭を追い払いました。その結果、戦後これらの国々がふたたびその植民地に支配者として帰ろうとしましたが、東アジアの人々の激しい抵抗にあい、不可能になりました。
もし、こうしたことがなかったなら、アジアの国々の解放は、フィリピンは別かもしれませんが、ずっと遅れていたのは間違いありません。
ライシャワーも「ザ・ジャパニーズ」で書いていますが、日本は東アジアにあって他の国々と違う国なのです。理由は歴史的経験の違いです。東南アジアの国々と、歴史上たえず専制国家であった中国とそれを手本とした朝鮮・韓国と、封建制度を発達させた分権的な、しかしながら、統一された社会としての日本という経験の違いがあります。また西洋帝国主義の挑戦にいちはやくうまく応じて独立を維持した日本という違いがあります。また明治以後日本だけ豊かになり、敗戦後もいちはやく日本だけいちはやく復興しそのうえ豊かになった日本という違いがあります。また戦後一時的な占領をのぞくと、西洋諸国の植民地になったという経験ももちません。ヴェトナム、インドネシア、ビルマなど、植民地になった国々と人々がどんなにみじめな政治や生活を強いられたかという、経験をしたことがありません。
日米交渉において、アメリカから経済的に締めつけられと書きましたが、こう書くと、「じゃあ、悪いのはアメリカだ」という意味でもありません。そこには交渉過程における相互のやり取りというものがあります。アメリカとしては、そうでなかったら取りにくかっただろう強硬な手をうつことができたからです。
イギリス、フランス、オランダとしては、日本に負かされ、かつ植民地を失い、大変不愉快だったでしょう。
なお、日本は南方の天然資源確保・・・といいましたが、ナチは東欧とソ連に一方的に襲いかかりました。日本はそんなことしていません。万一アメリカからの資源買いつけに支障が出た場合にそなえて、事前にオランダと商業ベースでの購入をのぞみ、交渉をしています。この交渉はまとまりませんでした。
万が一のインドネシアへの進出のため、また英米の中国援助の道を封鎖するため、フランスとはヴェトナムへの進駐を考えて交渉します。この交渉には軍事的圧力をちらつかせ貫徹しますが、これにたいしアメリカは石油の輸出禁止と在米資産の凍結という厳しい手段でこたえます。このアメリカの予想外の反応に近衛はびっくり仰天。そこでルーズベルト大統領との直接会談を提案します。それは軍部が対米交渉の障害になっているから、軍部の頭越しに話し合い、交渉をまとめよう考えたからです。この直接首脳会談には、アメリカはハル国務長官などが強く反対し、この提案を拒否します。
さて日中戦争ですが、これが中国で拡大し、英米との雲行きがあやしくなり、対決を避けようとして、対米交渉を提議し、日米交渉がワシントンで開始します。その交渉がまとまらなかったのは、日本にも大きな責任があります。しかし、「それは日本だけの責任だ。アメリカは悪くない」と一般に考えれていますが、これは大間違いです。ハル国務長官の態度にもみられるように、アメリカにも大きな責任があります。ハル国務長官には、アメリカの学者にも同じ意見がありますが、「だいたい戦争を避けるため、日本との交渉をまとめるつもりがあるのですか」と言ってもいいぐらいのところがありました。
日本は昭和にはいると、右翼的国粋主義の風潮も強くはなりますが、ドイツとは違い、多くの組織が併存しており、どの一つの組織も他の組織を圧倒するとか、ましてや他の組織を滅ぼしていくということはありませんでした。そのときそのときの事情や都合で、ある組織あるいは政治勢力の意見が強まったり弱まったりしていました。日本の場合は、偶発戦が拡大していくにつれ、その戦争遂行上戦時体制ができ、陸軍の要望が聞き入れられていき、陸軍が威張ったのです。決して陸軍は他の組織を吸収したわけではありません。一部の軍事費をのぞくと、法案も予算案もすべて国会を通過しなくてはなりませんでした。そういう意味で国会は機能していたのです。意外だと思われるかもしれませんが、軍部は議会や世論を気にしていたのです。
陸軍に反対したからといって、消されるとか、強制収容所おくりになるということはありませんでした。強制収容所もないし、ゲシュタポなどの恐ろしい暴力警察もありませんでした。日常生活については、もっと具体的なものを当時の新聞とか記録とか小説などで、実際の日本人の日常の暮らしを知る必要があると思います。(たとえば田辺聖子の小説や思い出。向田邦子の小説。芹沢光治良の「人間の運命」も面白い本です。)
日米交渉の難点の一つは、中国からの撤兵問題でした。陸軍も東条も中国から撤退はするが、それには二、三年は必要だと言い張ったのです。ナチと違って、中国全土を占領するとか、中国国民を奴隷化するというような主張は、100%ありません。アメリカは二、三年の期間は不満で、二、三か月の以内の撤兵を主張しました。ここに陸軍の横暴があるのです。すぐ撤退しては、陸軍の印象が悪いのです。負けたようで格好よくないというわけです。
大東亜共栄圏思想ですが、日本が中国全土を占領するとか、中国人を奴隷化するというような考えではなく、日中戦争が拡大したから、その説明の一つとして喧伝されたのであり、日中国民の平和友好といったムードがその本質であり、具体性のないものでした。当時もやはり、日本人は根底に日本人の中国にたいする「シナ(中国)コンプレックス」をもっていたのです。
東条は陸軍の「行進」の先頭で旗をもっていましたが、「俺についてこい」と陸軍を引っ張っていたのでなく、陸軍というおみこし担ぎ運動で、その集団行動行進で、たまたま旗手をつとめていたにすぎません。もちろん、それで得意になっていたわけですが。といって、東条に責任がないわけではありません。
日本の場合、いくら東条などでもある一定以上の文化・教養があったわけです。それを、ナチも日本も一緒にしてもらっては困ります。
この教養の差は、例えば敗戦の受けいれかたにも、大きな違いとなって表われます。日本の場合は、これ以上の負担を国民に強いるのはいけないという、コンセンサスがありました。ポツダム宣言の受託については、その内容の具体的な確認とか、「これでは国体が守れないではないか」といった意見の違いで、受諾がおくれただけであり、基本線は敗北やむなしでした。
東条でさえ対米交渉の妥結を希望をしていました。彼は10月中旬近衛に代わって総理大臣になりますが、東郷という、軍部の考えに抵抗した、超ハト派の、言葉をかえれば「強硬なハト派」の人間を外務大臣にして、交渉を継続します。(東郷は昭和20年4月成立の鈴木内閣という敗戦・終戦のための内閣で、外務大臣として、敗戦・終戦のために尽力します。彼は東京裁判では有罪。禁固二十年の判決。)
東条は反英米主義者でもありませんでした。中国との戦争で泥沼にはいってしまい、戦線を縮小する勇気、そこから撤退する勇気、をもたなかったのです。これがため、大事になってしまいました。昭和7年から大平洋戦争勃発までの駐日アメリカ大使のジョセフ・グルーという人は、知日家、親日家でしたが、日記で「日本人は何か困難があると、(それを解決しようとしないで)回れ右をしてしまう」と書いています。
日本は「勝った、勝った。悪いシナを懲らしめた」という形にもっていけなかったわけです。戦線を大幅に縮小する勇気が必要でした。
中国も内部に大問題をかかえており、また、日本を一方的に大陸から追い出すほどの力をもっていませんでしたし、また、英米もそこまで中国を援助する必要は感じていなかったのです。中国が協定を守らないので困っているという点では、英米も日本と同舟でした。
陸軍は英米と大平洋方面で戦うための軍隊ではなく、大陸での権益を守るため、(ということは、間違いなく、日本の帝国主義的政策と関係しますが)、の軍隊であり、その対象は一貫してソ連でした。
また、よく誤解されることは、「日本は日清戦争とか、日露戦争とか、あるいは満州事変のあとから、大規模な軍隊を中国大陸に駐屯させていただろう」ということです。これもよくある誤解で、昭和12年の日本と中国の偶発的事件が拡大するまでは、中国大陸に少しの軍隊を駐留させていただけです。
・どこまで実話なんだろと思ってみたらほぼほぼ実話やんけ 映画じゃなくてすごい豪華な再現VTRやんけ
・つまらなくはないが特筆する楽しさもなかった…何でサブスク入ってるのにわざわざ映画館に行くのかって新鮮なもの今までみたこと無いものがいちはやく見たいから行くんだけど今回は得にそういうのなかった
・俳優さんたちの演技すご
・旦那さんから偽グッチ貰った使用人さん、警察のガサ入れの時にも偽グッチを大切そうに?抱えてて「だいぢなのは…気持ち…だよね!」ってなった
・偽ブランドのシーン、下妻物語のパチモンにぶちギレるブランド元のシーン思い出した
(オリンピック OR 五輪) (from:AbeShinzo)
「もしトルコが五輪を射止めることに成功すれば、私は世界で一番最初にお祝いを申し上げたい。しかし、もし日本が五輪を射止めることに成功したら、どうかエルドアン首相、世界で一番最初に祝っていただきたい。」と語りかけたトルコ。...
安倍晋三 (@AbeShinzo) May 14, 2013
2泊6日で地球を一周する強行軍。今日から、各国首脳が集まるロシアのサンクトペテルブルグへ向かいます。続けて、オリンピック・パラリンピック招致の勝敗を決する地、ブエノスアイレスへ。東京招致を勝ち取るべく、最後まで全力を尽くします。
安倍晋三 (@AbeShinzo) September 4, 2013
ロシアのサンクトペテルブルクから、2020年オリンピック招致決戦の地、アルゼンチンのブエノスアイレスへ。...
安倍晋三 (@AbeShinzo) September 6, 2013
安倍晋三です。朝早くにすみません。ブエノスアイレスより速報です。つい先ほど、東京が2020年の五輪開催地に選ばれました!!本当にうれしい。 この心からの喜びを、皆さんとともに、分かち合いたいと思います。...
安倍晋三 (@AbeShinzo) September 7, 2013
ブエノスアイレスでの東京オリンピック招致に向けた私のスピーチ動画です。 私の思いのたけを込めた、渾身のスピーチです。
安倍晋三 (@AbeShinzo) September 11, 2013
「まだ7年もある」ではなく、「もう7年しかない」という気持ちで、しっかりと準備を進めていきたい。本日、2020年オリンピック・パラリンピック東京大会の準備のための推進室を立ち上げました。...
安倍晋三 (@AbeShinzo) October 4, 2013
約束を守る旅。異例ではありますが、トルコに半年で2回目の訪問。2020年オリンピック開催が東京に決定した際には、イスタンブールをおしていたエルドアン首相は、約束を守って、真っ先に私に駆け寄り、祝福してくれました。次は、私が約束を...
安倍晋三 (@AbeShinzo) October 28, 2013
キャメロン英国首相と首脳会談を行い、日英の安全保障分野の協力強化、経済、オリンピックに向けての協力等について合意しました。今日の夜ギルドホールでスピーチします。
スーパービバホーム豊洲店前にて秋元司 @akimoto_tsukasa候補の応援演説会。東日本大震災のとき、いちはやく南相馬市に入りレポートを書き復興支援法の中味に反映させた秋元さん。東京オリンピックにむけ、若い行動力が必要です。
安倍晋三 (@AbeShinzo) December 7, 2014
2020年東京オリンピック・パラリンピックの会場となる新国立競技場の姿を、今日、決定しました。世界最高のバリアフリー、日本らしさを取り入れた設計となっており、ここが世界の人々に感動を与える舞台となることが、今から楽しみです。
安倍晋三 (@AbeShinzo) December 22, 2015
昨日、平昌オリンピック・パラリンピックの選手の皆さんを、官邸にお招きしました。日本中にたくさんの感動と勇気を与えてくれた皆さんに、感謝状をお送りしました。東京オリンピック・パラリンピックは、いよいよ2年後。世界中にたくさんの感動が生まれる素晴らしい大会にしたいと考えています。
安倍晋三 (@AbeShinzo) April 26, 2018
半世紀ぶりの東京オリンピック・パラリンピックがだんだん近づいてきたことを実感しました。
安倍晋三 (@AbeShinzo) May 11, 2019
「健康長寿社会の実現」たけみ敬三候補「東京をつよく、優しく輝く街に」丸川珠代候補いよいよ来年、東京オリンピック、パラリンピックの開催を控えた東京都では、今回の参議院選挙に自民党きっての行動力を誇る二人が立候補しております。
安倍晋三 (@AbeShinzo) July 8, 2019
世界柔道選手権が行われている日本武道館で、東京オリンピックから新たに加わる種目の男女混合団体戦を観戦しました。日本チームがフランスとの決勝を制し、圧巻の優勝でした!
安倍晋三 (@AbeShinzo) September 1, 2019
来年は、新しい国立競技場でのコンサート、東京オリンピック・パラリンピックなど、2020年という節目の年にあたり、世界中に嵐を巻き起こしていただきたい。一層のご活躍を心より期待しております。
安倍晋三 (@AbeShinzo) November 30, 2019
「復興五輪」と言うべき本年のオリンピック・パラリンピックなどの機会を通じて、世界の多くの方々に、復興しつつある被災地の姿を実感していただきたいと思います。
安倍晋三 (@AbeShinzo) March 11, 2020
本日、ギリシャのオリンピアで、2020年東京オリンピックの聖火採火式が行われます。26日には、福島から聖火リレーが始まる予定であり、オリンピックの成功に向けた機運を高めていきたいと思います。
安倍晋三 (@AbeShinzo) March 12, 2020
このほか、来年のオリンピック・パラリンピック開催に向けて、今後、アスリートや大会関係者等の入国に向けた措置を検討していきます。
安倍晋三 (@AbeShinzo) July 22, 2020
本日IOCトーマス・バッハ会長よりオリンピック・オーダーの最高章にあたる金章をいただきました。
安倍晋三 (@AbeShinzo) November 16, 2020
私は本章をオリンピック・ムーブメントに貢献し、倦むことを知らず、TOKYO2020を待ち望み、成功させようと勇んでやまない、すべての日本人になり代わる思いで頂戴いたしました。
安倍晋三 (@AbeShinzo) November 16, 2020
池江選手、本当におめでとうございます。「自分がすごくつらくてしんどくても、努力は必ず報われる」。白血病から復帰し、オリンピックの代表へ。ここまで重ねてこられた努力は本当に並大抵のものではなかったと思います。
安倍晋三 (@AbeShinzo) April 4, 2021
もう10数年前の記憶だから美化されているかもしれないけれど、進研ゼミの会員用のサイトがあって、そこにぶっ飛ぶほど面白いゲームがあった。
会員用のサイト自体は今でもあると思う。まず大元のページにアクセスして、自分の学年を偉ぶ。会員番号とパスワードを打ち込むとマイページが表示されて、自分で家具をおけるマイホーム(?)から、無料のマンガやゲームを選んで遊べるっていうシステムだった。
当時家には古びたパソコンが1台しかなくて、当然勝手に触ることは許されておらず、母親が帰って来てから夕飯を作るまで、たった30分かそこらの間しかパソコンの前には座っていられなかった。起動の遅さに苛立ちながらパスワードを物凄い速さで打ち込んで、いちはやく自分のマイページにアクセスしようとしていたのを覚えている。
限られた時間、初めてのパソコンゲームだからこそ面白いと感じたのかもしれないけれど、今でもたまに、「あのゲーム」をプレイしたくて堪らなくなる時がある。まるで禁断症状みたいに同じワードで検索したり、とっくに退会した進研ゼミの会員番号を思い出そうとしてみては、何やってるんだって我に返って虚無感に襲われる。
何度検索しても引っかからないし、もうサイトは見れないし。パソコンゲームがやってみたくて、自分が一種の幻覚を見ていたのかもしれないとさえ思うんだけど、誰か覚えてないかな。
・ネコが主人公で、1人で星に住んでいる。自分の星にはペンペン草が生えていて、家には調合室と操縦室(?)がある。
・何となく算数の要素が取り入れられていて、「割合について理解する」事を建前に、母親にゲームを許してもらった記憶がある。自分の星のペンペン草や他の星の特産品(?)を拾って、ちょうどいい割合で調合すると新しいアイテムが生まれる、ような感じ。
・他の星が沢山あって、新たな星を開拓するには特別なアイテムを調合しなきゃいけなかった。(ような気がする)
・アイテムがどんどん豪華になっていく。ダイヤモンドとか、よく分からない名前の宝石とかも調合できたような気がする
思い出したらまたやりたくなってしまった…。
このゲームってまだ進研ゼミのサイトにあるの?虚偽申告してでもチャレンジに登録し直してもう一度やりたい。記憶が美化されていただけでもいい、もう一度遊んでみて、「やっぱつまんねぇな」でもいいからさ。
コロナで在宅勤務推奨、できるだけ外出しないっていう通達が出た。
弊社はもちろん在宅勤務をいちはやく取り入れていますよ!みたいなアピールを外部向けにしてる。
でも誰も在宅勤務しない。
そしてその状態を見て上の人たちは、
「皆会社好きなんだなぁ」って笑ってる。
ここで気付いた。
「推奨」って、すすめるけどあとは自己判断ですよ。ってことなのか。
在宅勤務を1日だけやってみた勇者達が数人いたけど、
って言われてた。
その人達とても真面目で社内の評判もいい人たち。
在宅勤務しろって言ったじゃん。
他の会社もこんな感じ?
在宅勤務は建前で、皆会社いってるの?それとも本当に在宅勤務できてるの?
多くの人はこちらのWikipediaの記事を参照していると思われる。
この記事も踏まえた上で、実際に主だった芸人を「活動開始時期」や「人気が出た過程」で並べ、あらためて世代分けを考えてみたい。
まず画期としては1953年のテレビ放送の開始が挙げられる。この時期に人気があったのは落語家や喜劇俳優であり、またコミックバンドも人気があった。上の表で言えばいとこい・ダイラケあたりが該当する。いわば「第0世代」であろうか。
次にやってくるのが「演芸ブーム」で、1963年開始のテレビ番組『大正テレビ寄席』を中心に数々の演芸番組が放送され、その勢いが1970年ごろまで続いた。一般にこの時期に人気が出た芸人が「第一世代」と呼ばれる。「寄席」をテレビでやるので落語・漫談・漫才・コント・コミックバンドなど幅広い芸人が登場した。てんぷくトリオを筆頭に三人組が多かったので「トリオ・ブーム」とも呼ばれた。1970年代はドリフと萩本欽一のコント番組が人気を二分した。やすきよもこの世代に含まれる。
続いて、1980年に放送された『花王名人劇場 激突!漫才新幹線』『お笑いスター誕生!!』『THE MANZAI』などが立て続けに高視聴率を取り「漫才ブーム」となった。このブーム自体は二年ほどで終息するが、若手漫才師がアイドル的な人気を得て「漫才」のイメージを変えたり、吉本興業が東京に進出したりするきっかけとなった。1981年から1989年まで続いた『オレたちひょうきん族』が『8時だョ!全員集合』の視聴率を超え、出演していたビートたけし・明石家さんま・山田邦子らは一躍スターとなった。たけし・さんまにタモリを加えた「BIG3」を中心に、漫才ブームやひょうきん族から出てきた芸人を「第二世代」とみなすべきだろう。
その次が「第三世代」と呼ばれる芸人たちで、お笑い養成所出身の若手が、小劇場のライブで腕を磨き、夕方番組や深夜番組をきっかけに人気を得て、ゴールデン帯で「バラエティ番組」を持つ、といったキャリアを踏むのが特徴である。とんねるず・ダウンタウン・ウッチャンナンチャンがこの世代の代表格となる。一般に「第三世代」は80年代デビュー組で区切るようだが、個人的には似たようなキャリアから早めにブレイクしたナイナイやロンブーあたりも含めるべきではないかと思う。
次に来るのが「ボキャブラ世代」である。1992年から1999年まで続いた『タモリのボキャブラ天国』は、当初は視聴者投稿型の番組だったが、徐々に芸人のネタ見せ番組に移行。この番組を登竜門に「キャブラー」と呼ばれる芸人が続々と登場した。吉本興業が首を突っ込みそこねたらしく非・吉本芸人が多い。またボキャブラ終了とともに一時的に低迷した芸人が、2000年代に復活するあたりも共通している。先述したとおり、ナイナイ・ロンブーなどを第三世代に含めるとすれば、この「第四世代」は爆笑問題・くりぃむしちゅー・ネプチューンあたりが代表格となる。
2000年代に入って「M-1グランプリ」が始まったことで「お笑いブーム」が醸成された。また同時期に『爆笑オンエアバトル』『エンタの神様』『笑いの金メダル』『爆笑レッドカーペット』などのネタ見せ番組がスタートしてお笑い人気に拍車をかけた。賞レースを目指してストイックに芸を磨く若手芸人と、多数のネタ見せ番組により短期的な人気を得た「一発屋」が混在し、芸人のレベルは底上げされたものの、数としては飽和した感がある。2010年にM-1グランプリが終了するとブームも終息し、多数の「ひな壇芸人」を出演させてトーク中心に作られる低予算の番組が増加した。(2010年までの)M-1でブレイクした芸人と「ネタ見せ番組」によって登場した芸人が「第五世代」といえるだろう。
2010年代になると、第二世代・第三世代がフェードアウトし、第四世代と第五世代がバラエティの「司会」の座を奪い合う群雄割拠の時代に入った。第五世代は図抜けた存在はいないものの層が厚いので、2000年代デビュー組の多くがつかえて中堅に留まっているように思える。そんな中で、霜降り明星および彼らが「第七世代」と称する2010年代デビュー組が既に台頭してきている。この場合は2000年代デビュー組が「第六世代」とされるわけだが、2000年代デビュー組は遅咲きになりそうなので、おそらく2000年代デビュー組と2010年代デビュー組をあわせて「第六世代」と呼ぶようになるのではないか。2020年現在、芸人の主戦場はYouTubeになりつつある。後世から振り返れば「第六世代」は「YouTube世代」と括られるのかもしれない。
読書という荒野 (NewsPicks Book) 単行本 – 2018/6/6 見城 徹(著)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07D9D1QVM/
今をときめく幻冬舎の編集者、箕輪厚介氏による自社の社長アゲの一冊である。
元々、箕輪氏は双葉社で勤務していたが、その頃に見城氏にアプローチをかけ、『たった一人の熱狂』という書籍を編集した。
その際に見城氏に見初められて幻冬舎に転職し、その後、数々のヒット作をつくる。
つまり、元々この見城徹という男は箕輪氏にとって恩人のような存在であり、本書はいわばその「黄金タッグ」とでも言うべき二人による共同制作本なのだが、悲しいかな、文章は読みにくく、何とも昭和臭の漂う精神論やモーレツ主義が垣間見られる何とも言えない言葉が羅列され、かつ見城氏の既刊とも内容の被りが多く新味に乏しい。
つまり、純粋な編集能力や書籍の質という観点から言えば、高く評価することが難しい一冊であり、手に取った多くの方が後悔することになるであろうと予想される。
それでは、なぜこれだけ話題になり、勢いよくベストセラーへの道を突き進もうとしているのか。
そして、どうして箕輪氏の手がけた本は次々と売れていくのか。
そこには、彼がホリエモンから学んだ一種の戦略(スキーム)が存在する。
箕輪氏は「箕輪編集室」(通称”みのへん”)という名前で、自身のコミュニティを持っている。
そのコミュニティでは、箕輪氏を慕う約1000名の会員が月額でそれなりの会費を集い、イベント等に参加し、そして箕輪氏が手掛けた書籍をいちはやく贈られている。
メンバーたちは、書籍が発売される前に予め本をもらい、読み込み(あるいは読まないでいる方もいるかもしれない)、そしてAmazonに一気に星5個のレビューを書きまくる。TwitterなどのSNSでも盛大に感想を発信し、あたかも「大波が来ている」かのような演出に貢献する。
他のレビューで、この本を「News Picksメンバーにだけ向けた内輪本」と表現されていた方がいるが、非常に的確な指摘である。そもそもとして、この書籍は第一義的には自前のコミュニティメンバーに読ませることを意識してつくられているのだから。
さらに、箕輪氏の周辺にいるファンなども早い段階でAmazonの予約を入れ、人気ランキングを一気に押し上げる。
かくして、箕輪氏の担当した本は世に出た瞬間に、恰も「超話題作」であるかのような堂々たる風評を追い風に、勢い良く売れていく。
書店も利益を最大化したいもの。初速が良く「売れている」本は目立つように置き、堂々と展開する。
そして幻冬舎お得意、特大新聞広告などの宣伝と一気呵成の大増刷である。数万部を世に送り出して、「大ヒット!!」という流れをつくっていってしまう。このあたりの既成事実の作り方というか、本の勢いの出し方と売り伸ばす力は幻冬舎という版元が誇る最強の武器であり、出版不況の中で確実に結果を出しているのだから凄いとは思う。
かくして、クオリティとは無関係に、書籍のイメージと評判は肥大化し続ける。
そして、「どうやらこの本、人気らしいぞ」という噂に釣られた方々までもが買い求め、そして多くは失望していくわけである。
こうした「売り方」最優先のテクニックに走った商売をいつまで続けていくのだろうか。
根本的な編集能力を磨かず、ひたすらに勢いと話題性だけに頼った本づくりは、どこまで寿命が保つのだろうか。
これから箕輪氏のつくった本を手に取りたいという方は、冷静に立ち読みなどを通して内容と、そのクオリティを冷静に見極めた上で購入されることを勧めたい。さもなくば、期待した分だけ失望も大きいかもしれないから。
https://www.hatena.ne.jp/register
「ソーシャルブックマークサービス」というやつです。
みんなで色んなURLを共有したら便利じゃね?というものです。
要するに「Yahoo!知恵袋」や「教えて!goo」と同じQ&Aサービスです。
大昔に人気だったサービスです。
ちなみに、はてなアンテナの強化版サービスが「大チェッカー」です。
簡単に言えば、
みんながそれぞれ「自分が興味のあるウェブページの一覧」を作れば、
自動的に「みんなが興味のあるウェブページの一覧」も出来るんじゃね?
それって集合知じゃね?
という感じです。
ブックマークを追加するページにいきましょう。
上のメニューバーの「追加・アプリ」というリンクです(スマホ版なら左メニューの「ブックマークを追加」)。
場合によっては、記事に「はてブボタン」が付いていることもあるので、
それをクリックすれば「エントリーページ」と呼ばれる画面に行くことができます。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20180906/k10011611431000.html
エントリーページです。
そのページの情報と、そのページをブクマするための追加ボタンと、みんなのブクマコメントが並んでいます。
タグ機能こそがはてなブックマークの最重要機能と言っても過言ではないです。
コメント欄にはページに関する補足情報などを入れておくと良いでしょう。
ちなみに、「b.hatena.ne.jp/entry/」という文字列を覚えておけば(IMEのユーザー辞書に登録するとか)、
ブクマしたいURLの先頭にそれを付けることで、いつでもエントリーページを表示させることができます。
上のメニューバーの「ブックマーク」というリンクです(スマホ版なら左メニューの「マイブックマーク」)。
たとえば「増田」「はてブ」「解説」などとタグを付けておけば、
「あのはてブの使い方を説明していた記事、確か増田で見たんだけど何だったかな〜」
検索欄にキーワードを入力してサジェストっぽく表示されるのは、
普段はこれだけで十分です。
検索ワードを入力した状態でエンターを押せば全文検索になりますが、いまいち性能が悪いです。
ドメイン部分をクリックすれば同じサイトの過去のブクマが見られます。
「http://b.hatena.ne.jp/my/20180906」というURLで日別のブクマも見られます。
見るべきページは三つあります。
いわゆるホッテントリです。
http://b.hatena.ne.jp/hotentry/all
単純なusers順のランキングではなく、一日くらいでぐるぐると入れ替わっていきます。
ホッテントリに並んでいるのは要するに「万人向け」の記事なので、ここばっかり見てるだけではつまらないです。
ちなみに「過去の人気エントリー」リンクからどんどん過去へ遡ることもできます。
http://b.hatena.ne.jp/entrylist/all
3users以上の記事が「最初にブックマークされた時間順」で並んでいます。
ホッテントリよりも流れが速くてバリエーションも豊富ですが、そのぶん好みに合わない記事も多いです。
自分のブックマーク→左メニューの「お気に入り」というリンクです。
http://b.hatena.ne.jp/my/favorite
このページでは「お気に入り」に入れた人のブックマークを見ることができます。
長くブクマをやっていれば、「自分と同じ記事をよくブクマしてるな」とか
「こいついつも1getしてるな」みたいな人が、何人か思い浮かぶと思います。
(最近はコメントしか見られないので、無言で1getしてる職人を見逃してしまうのが残念ですが)
そういう人をお気に入りに入れておけば、自分好みの記事をいちはやく見つけることができるというわけです。
ホッテントリに飽きたら新着エントリ、新着エントリに飽きたらお気に入り、という感じで、
「タグ」「タイトル」「本文」から検索できて、ブックマーク数や検索期間も指定できます。
たとえば「5年前のはてな匿名ダイアリーの100users以上の記事」なんかを検索することができるわけです。
みんなが真面目にタグを入力していたら、「増田」でタグ検索するだけで十分なはずなのですが、
残念ながらタグを入力しない人が多いので、「増田」タグのついてない100users以上の記事があるかもしれません。
そうなると本文検索とかも併用しなきゃいけなくなるので、みなさん、タグは入力しましょう。
また、URLで検索するとドメイン単位での「新着エントリ」「人気エントリ」を見られます。
エントリーページの上のほうにあるドメイン部分をクリックしても見られます。
はてな匿名ダイアリーならこうですね。
b.hatena.ne.jp/entrylist?url=https%3A%2F%2Fanond.hatelabo.jp%2F
こちらの「人気エントリ」は、ホッテントリとは違って単純なusers順なので、
いわば「そのウェブサイトの歴代人気記事ランキング」になっています。
どちらの検索結果もRSSを吐いているので、RSSリーダーを今でも使っている人なら、
好きなキーワードの検索結果のフィードを登録してみてもいいかもしれません。
(標準でそれに近いことをやってるのが「関心ワード」ですね)
ただし筆者ははてブアプリを利用していないので使い勝手は知りません。