「1981年」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 1981年とは

2024-12-26

増税生活が苦しいって言いながら2年連続で90万円超、1981年以降で3番目に高い水準ってどういうことやねん

みんなほんまは生活全然苦しくないんちゃうか?

こんなん完全に増税してもみんな文句言うけど誰も実際は苦しまへんやんってそうなるパターンやんけ

2024-12-19

1曲の中で曲の雰囲気がガラッと変わる曲

Bohemian RhapsodyQUEEN

1975年発売、バンド代表する曲であり、時代代表する曲でもある。

ハードロックプログレッシブロックオペラを融合させたような組曲となっている。

ミュージックビデオ重要性を世間に知らしめた最初期の曲でもある。

https://www.youtube.com/watch?v=fJ9rUzIMcZQ

Fool in the RainLed Zeppelin

1979年に発売されたアルバム『In Through the Out Door』に収録されている曲。

バンド自体ロックバンド歴史の中でもハードロック代表しているのだが、この曲はハードロックとはかけ離れている。

シャッフルビート風で始まり中間部で突如サンバリズムが始まるという斬新な曲となっている。聞いてみるのが良いだろう。

https://www.youtube.com/watch?v=I57nIP0vc44

季物語/寺尾聰

1981年に発売されたアルバム『Reflections』に収録されている。このアルバムは大ヒットしてミリオンセラーになった(それまでにミリオンセラーとなったアルバムは3枚しかなかった)。

「二季」という表題単語の通り、この曲の前半部分は冬、後半部分は夏のことを言及した歌詞となっており、曲風も歌詞の内容も対照的となっている。

前半部分は遠くにいる別れた恋人のことを想うようなメロウな曲風であり、後半部分は官能的であけすけな逢瀬を描いていてレゲエ風となっている。

https://www.youtube.com/watch?v=jmquxRbIM20

結詞/井上陽水

1976年に発売されたアルバム『招待状のないショー』の最後に収録されている。「むすびことば」と読む。

こちらもメロウアンニュイな曲調からまり、途中でアップテンポのカッティングギターを織り交ぜた中間部があり、最後の元の曲調に戻る、という複雑な構成をしている。

初期の井上陽水氏のストレートな歌い方がまだ残っている時期である

https://www.youtube.com/watch?v=0yHlPAY5HzE

Paranoid AndroidRadiohead

1997年に発売されたアルバムOK Computer』の2曲目に収録されている。

メンバーは、ザ・ビートルズHappiness is a Warm Gunのような組曲を目指して作成したようであり、極めてプログレッシブな曲である

当時のアルバムの曲には厭世的かつ攻撃的な歌詞が多く、この曲にも皮肉や投げやりな内容が見受けられ、不吉でネガティブな印象の曲となっている。

https://www.youtube.com/watch?v=fHiGbolFFGw

 

他にもあればぜひ紹介してほしい。

ずっと1981年1983年まれが狂ってるだけ

数年前までは「40歳で気が狂う」説が今年に「45歳で気が狂う」説になってて、これはたぶん数年後には50歳で気が狂う説になってるから、つまり結局は同じ人たちが常に狂い続けてるだけだな。

https://x.com/jiro6663/status/1864620544064409940

酒鬼薔薇聖斗秋葉原通り魔加藤光市母子殺害事件大阪姉妹殺害事件マック中学生刺殺事件の「伝説世代」が少年時代から中年になってもずーっと狂い続けてるだけ。

anond:20241219140126

俺が1982年生で満42歳なので今回の犯人は一学年上の1981年生だと思うぞ

ずっと1981年1983年まれが狂ってるだけ

数年前までは「40歳で気が狂う」説が今年に「45歳で気が狂う」説になってて、これはたぶん数年後には50歳で気が狂う説になってるから、つまり結局は同じ人たちが常に狂い続けてるだけだな。

https://x.com/jiro6663/status/1864620544064409940

酒鬼薔薇聖斗秋葉原通り魔加藤光市母子殺害事件大阪姉妹殺害事件マック中学生刺殺事件の「伝説世代」が少年時代から中年になってもずーっと狂い続けてるだけ。

2024-12-16

今日の疑問:アメリカ人の子供が1人で公園で遊べなくなったのはいから

アメリカで「子どもが1人で公園で遊べなくなった」と感じられるようになったのは、法律のものというよりも、社会的文化的な変化が大きな影響を与えています。この変化は主に1980年代から2000年代にかけて徐々に起こったものです。

 

1. 1980年代: 子ども安全に対する不安の高まり

事件の影響

1980年代には、いくつかの衝撃的な誘拐事件児童虐待事件報道され、親たちの間で不安が広がりました。例えば、1981年に起きた6歳の男の子アダム・ウォルシュの誘拐殺害事件は、多くの親に衝撃を与えました。この事件は、全米失踪児童センターNational Center for Missing and Exploited Children)の設立や、子ども行方不明になった際に警察が迅速に行動する制度アダム法(Adam Walsh Child Protection and Safety Act)」の基盤となりました。

メディアの影響

テレビニュース犯罪ドラマ子どもへの危険を強調し、外で子どもを1人にすることへの恐れを助長しました。

 

2. 1990年代: 過保護育児スタイルの登場

ヘリコプターペアレンティング

1990年代以降、「ヘリコプターペアレンティング」と呼ばれる、子どもの行動を常に監視する育児スタイルが広まりました。この傾向は特に中産階級以上の家庭で顕著でした。

法律厳格化

子ども放置する行為が「ネグレクト育児放棄)」として扱われるケースが増えました。一部の州では、子どもが1人で外出したり遊んだりすることを問題視する法律通報制度が整備されました。

 

3. 2000年代以降: 子ども自由に対するさらなる制約

社会監視文化

スマートフォンソーシャルメディアの普及により、他人の行動がすぐに記録・拡散されるようになり、「他人の子育て」への干渉が増加しました。例えば、公園で1人で遊ぶ子どもを見かけた大人警察児童保護サービス通報するケースが増えました。

フリーレンジペアレンティング反動

子ども自由に育てる」という考え方を支持する親もいますが、その一方で「危険放置している」と批判されることもありました。一例として、2015年にはメリーランド州で、10歳と6歳の兄妹が1人で公園いたことで児童保護サービス通報される事件がありました。

 

4. フリーレンジペアレンティング法の登場(2018年以降)

•このような過保護の風潮に対する反発として、2018年ユタ州で「フリーレンジペアレンティング法」が成立しました。この法律では、十分に成熟した子どもが1人で公園に行くことや遊ぶことはネグレクトではないと明示されています。他の州でも類似議論が続いています

 

結論

 

子どもが1人で公園で遊べなくなった時期を明確に特定するのは難しいですが、1980年代から2000年代にかけて、事件報道育児スタイルの変化、社会監視文化の発展がこの傾向を加速させました。法律も影響しましたが、主に社会価値観の変化が大きな要因です。

 

powered by ChatGPT

2024-12-09

anond:20241208220342

コピペ引用なのここまで明確に示してるのになんで内容の不満が俺に向けられてんだよ

だってけが多いなっておもったのによ

NHK朝ドラ 実在する人物を描いた作品一覧

1964年うず潮

作家林芙美子モデル

原作放浪記」「うず潮」など。

1966年おはなはん

原作者・林謙一の母、林ハナ(旧姓:深尾)がモデル

林謙一「おはなはん

1977年いちばん星

昭和流行歌手第1号で日本初のレコード歌手

佐藤千代子がモデル。「あゝ東京行進曲」が原作

1978年おていちゃん

女優 沢村貞子の半世紀。

沢村本人の「私の浅草」「貝のうた」が原作

1979年マー姉ちゃん

漫画家長谷川町子の姉、長谷川鞠子がモデル

長谷川町子の役は、田中裕子が演じた。

サザエさんうちあけ話」が原作

1981年本日も晴天なり

NHKアナウンサー作家近藤富枝モデル

1984年心はいつもラムネ色

上方漫才代表する漫才作家秋田實モデル

わろてんか」では藤井隆が演じている役。

秋田實関連書籍

1986年はね駒

女性新聞記者草分け、磯村春子モデル

1987年チョッちゃん

黒柳徹子の母、黒柳朝自伝エッセイ

チョッちゃんが行くわよ」が原作

1990年凛凛と

早稲田テレビジョン開発者川原田政太郎モデル

発明家でもあり、特許取得数は60にも及ぶ。

1994年春よ、来い

戦争を乗り越え、大学に進学し脚本家として成功した後、

最愛の夫を見送るまでが描かれている。

原作である脚本家橋田壽賀子モデル

1997年あぐり

美容師草分け的存在で、

女優吉行和子の母、吉行あぐりモデル

原作梅桃(ゆすらうめ)が実るとき

2000年オードリー

本作の作者である脚本家大石静モデル

DVD未発売。

2003年てるてる家族

作詞家作家なかにし礼の妻で、

女優いしだあゆみの実の妹、石田ゆりモデル

原作てるてる坊主の照子さん

2006年芋たこなんきん

ソフト化されていない。

小説家随筆家田辺聖子自伝ドラマ

田辺本人のエッセイなどが原案

楽天少女通ります私の履歴書

2010年ゲゲゲの女房

漫画水木しげるの妻、武良布枝モデル

原案は、妻布枝の自伝エッセイ

ゲゲゲの女房 人生は…終わりよければ、すべてよし!!」

2011年カーネーション

ファッションデザイナーコシノ三姉妹」の母、

小篠綾子モデル。「コシノ洋装ものがたり」

2014年花子とアン

児童文学翻訳で知られる、村岡花子モデル

村岡恵里(孫)「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」が原案

2014年マッサン

ウィスキー製造技術者ニッカウヰスキー創業者

竹鶴政孝とその妻リタ夫婦モデル

竹鶴夫妻 関連書籍

マッサンとリタ ジャパニーズウイスキー誕生

2015年あさが来た

炭鉱事業大同生命創業に参画、銀行女子大学

設立した女性実業家広岡浅子モデル

吉川智映子「土佐堀川 広岡浅子の生涯」が原案

2016年とと姉ちゃん

暮しの手帖編集者大橋鎭子モデル

大橋鎭子著書「「暮しの手帖」とわたし

2016年べっぴんさん

子供服を中心とするアパレルメーカー

ファミリア」の創業者のひとり、坂野惇子がモデル

坂野惇子著書「子供服にこめた「愛」と「希望」」

2017年わろてんか

吉本興業創業者吉本せいモデル

吉本せい関連書籍お笑い帝国を築いた女」

2018年まんぷく

チキンラーメンカップヌードル開発者で、

日清食品創業者安藤百福の妻、仁子がモデル

関連書籍チキンラーメン女房 実録安藤仁子」

2019年なつぞら

アニメーション時代考証担当した

アニメーター小田部羊一の亡き妻奥山玲子がモデル

漫画映画漂流おしどりアニメーター奥山玲子と小田部羊一

2019年スカーレット

女性陶芸家草分け神山清子がモデル

自然釉薬を使った陶芸第一人者

ドラマ内の陶芸作品は、神山から借りた作品

緋色のマドンナ 陶芸家神山清子物語

2020年エール

作曲家古関裕而とその妻で歌手金子モデル

古関著書「鐘よ鳴り響け」

2020年「おちょやん」

松竹新喜劇活躍した女優浪花千栄子モデル

関連書籍昭和日本笑顔にしたナニワのおかあちゃん女優

2023年「らんまん」

植物学者、牧野富太郎モデル

牧野富太郎関連書籍

2024年ブギウギ

ブギ女王といわれた歌手笠置シヅ子モデル

笠置著書「歌う自画像 私のブギウギ伝記」

2024年「虎に翼」

日本初の女性弁護士の1人であり、

初の女性判事及び家庭裁判所長の三淵嘉子がモデル

三淵嘉子関連書籍

2025年あんぱん」

漫画家やなせたかしの妻、小松暢がモデル

関連書籍アンパンマン誕生までの物語

2025年「ばけばけ」

小泉八雲パトリックラフカディオ・ハーン)の

妻・小泉セツがモデル

関連書籍思ひ出の記」小泉節子

2024-12-02

1年に2回オリジナルアルバムを出したアーティストを集めています

例えば

スピッツ

1991年に「スピッツ」と「名前をつけてやる」をリリース

B’z

1990年に「BREAK THROUGH」と「RISKY」をリリース

松任谷由実

1978年に「紅雀」と「流線型’80 」をリリース

1979年に「OLIVE」と「悲しいほどお天気」をリリース

1980年に「時のないホテル」と「SURF&SNOW」をリリース

1981年に「水の中のASIAへ」と「昨晩お会いしましょう」リリース

1983年に「REINCARNATION」と「VOYAGER」をリリース

他にも色々探したんだけどあまり見当たらない。

ていうかユーミンすごい。

他にそういうアーティストいる?

2024-11-27

高学歴芸人、増えすぎ

ざっとWikipedia検索して、記事存在してなおかつ出身大学記載があるものをまとめただけなので、なんならこの20はい

これだけいても「高学歴芸人」といえばロザン宇治原なのだからファーストペンギンは偉大とわかる


2024-11-08

デルタゾーンに潜むフォックスを読んだ

1977年から1981年まで週刊アフタノーンで連載されていたバトル漫画デルタゾーンに潜むフォックスを読んだ

久々の良作だった

主人公狐火

元々ハンドボールをやっていたこから玉投げに特化した攻撃をいくつも使いこなす姿はかっこよかった

ライバルの天下治との決戦は盛り上がった

みんなにもおすすめしたいのでどうぞ

http://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=4271

2024-11-03

日本プロレス史上最も重要試合10選【追記あり

試合の内容の是非というよりは、後世に残した影響の強さを重視して選出しました。

力道山vs木村政彦 1954年12月22日 蔵前国技館

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』でもお馴染みだが「プロレスとは何か」を深淵の底に落とした試合である。この試合真実に関しては諸説あるが、ともかく力道山木村シュートで潰したことは単純に眼前の事実である。「プロレスとは八百長ではなかったのか?」日本プロレス史における「プロレスとは何か」という問いへの解答がこの一戦で全て分からなくなってしまい、今もその謎が解けたとは言い難い。また、当時のプロレス界は柔道出身が多かったものの、木村がこのような形で潰されたため、もし木村が勝っていたら今のプロレス界は柔道系譜もっと強くなってまるで違う別物に変わっていた可能性が高い。当時の日本の強さの象徴といえば柔道であり、その柔道プロレスが上回ったのだから当時の衝撃たるや、である。少なくとも逆水平チョップという技がこれほどスタンダードな技として使われる(アメリカなどはナックルが主流)のは間違いなく力道山の影響だろう。

アントニオ猪木vsモハメド・アリ 1976年6月26日 日本武道館

わずとしれた世紀の凡戦であるが「猪木・アリ状態」が発生しただけでこの試合人類史に残す価値のある試合である。この辺はあらかた語り尽くされているので多くは書かない。また、試合を実現させる猪木マジックとも呼ぶべき「巻き込み力」はエネルギッシュだった昭和の世相を反映していると言えよう。

タイガーマスクvsダイナマイトキッド 1981年4月23日 蔵前国技館

初代のタイガーマスクデビューした試合で、今見ても全く色褪せない。漫画キャラクターが実現するメディアミックスという手法も新しかったが、マスクを被った佐山の才能は20年ほど時代を先取りしていた。四次元殺法とも評されたその戦いぶりは軽量級レスラーに偉大な影響を残した。

ジャイアント馬場vsスタン・ハンセン 1982年2月4日 東京体育館

選手としてはピークを過ぎて会社内での立場も危うくなってきた馬場が、自身レスラー生命の生き残りを懸けて行われた一戦。ハンセンはこの当時、選手として全盛期であったため馬場は殺されてしまうのではとさえ言われていたが、試合開始直後に放った16文キッククリーンヒットし、会場の空気が一気に馬場一色となった。この試合引き分けという不透明決着に終わるも、馬場はその人気再沸騰で会社内でのイニシアチブを取り戻すこととなる。レスラーリング上でこそ輝きを取り戻すという、レスラーの原点を示した一戦。個人的には倒れているハンセンの左腕をガッツリ踏み潰すキラー馬場が滲み出た瞬間が一番アツい。

アントニオ猪木vsマサ斎藤 1987年10月4日 巌流島

公私ともに何もかも上手くいかず、自暴自棄になっていた時期の猪木が行った一戦(元々の発案者は藤波であったとも言われているが、なぜか猪木がやることに)。猪木巌流島に立てられたリング上で時間制限、ノールールレフェリー無し、無観客試合という前代未聞の試合に付き合えるのはマサ斎藤くらいしかいなかった。後年、この試合を振り返るマサ斎藤インタビューがあるのでこちらも読んで欲しい(https://number.bunshun.jp/articles/-/842688)。試合は2時間を過ぎたところでマサ斎藤裸絞めで失神し、猪木勝利した。観客を排して一切のしがらみを捨て、レスラー純粋に二人のためだけに試合をしたらどうなるのか、という後年でも見られない極めて前衛的な試合になったと言える。

武藤敬司vs高田延彦 1995年10月9日 東京ドーム

プロレスを守るためにプロレスをした武藤と、プロレスを強くするためにシューティングをした高田一騎打ち新日本UWFインターの対抗戦として行われたこ興行のメインイベントは、新日本4勝、UWFインター3勝で迎えられた。高田としてはこの試合に勝てば4勝4敗で終われるが、この試合武藤の保持するIWGP王座がかかっていたため、4勝4敗でもベルトが動いた分UWFの方が上を取れるという状況であった。お互いのスタイルをお互いが貫き合い、武藤の持つドラゴンスクリューという極めてプロレス的な技が、高田の多用するキックへのカウンターとして機能することが勝敗を分けた。最後も足4の字固めというプロレス代表する固め技で武藤ギブアップを奪った。戦いのスタイルが全く違っても、そのスタイルを両者がいかに主張できるかで試合面白くなる、ということを示した貴重な一戦。

橋本真也vs小川直也 2000年4月7日 東京ドーム

橋本の1勝3敗で背水の陣を敷くべく「負けたら即引退」を掲げて小川へのリベンジを臨んだ一戦。この二人のシングルマッチで一番面白いのはやはりこの5戦目である橋本ジャンピングエルボーを炸裂させて小川の肩を脱臼させるも、その後の三角絞めで腕を取った際に外れた肩を偶然嵌めてしまうという珍事も小川に味方し、最終的には小川がSTOの連発で橋本をKOした。完敗した橋本は本当に引退するも、折り鶴兄弟(詳細は省略)の助力もあり復帰。最終的には小川とタッグチームを組み、親友となった。戦いの末に友情が生まれるというジャンプ漫画でありそうな展開は現実でも起こるという、プロレスフェイク無しを魅せつけた一戦。

長州力vs大仁田厚 2000年7月30日 横浜アリーナ

既に引退していた長州をなぜか大仁田ストーキングとも言える言動を繰り返すことで呼び戻すことに結果的成功し、大仁田お家芸である電流爆破デスマッチが実現した。プロレスは「ネバー・セイ・ネバー」(絶対に無いということは絶対に無い)という矛盾を孕んだ言葉まやかし大仁田の執念が証明してみせた一戦。試合長州勝利。なお、この大仁田長州へしつこく対戦を要求する様子は当時のプロレス番組で放映されており、それをレポートする真鍋アナウンサーとのやり取りも「大仁田劇場」として注目された。最初大仁田から理不尽な扱いに「サラリーマンって大変だなぁ」とファンに同情されていたほどだったが、最終的に真鍋大仁田へ「電流爆破、見たいです!」と直言するまで成長し、この試合の実況も大仁田に傾倒する内容で行った。

渕正信vs蝶野正洋 2000年9月2日 日本武道館

2000年はプロレス界激動の年だった。6月全日本プロレスから選手クーデター同然に大量離脱し、残った選手川田利明渕正信の2名だけとなった。全日本はなんとかして起死回生を図らなければならず、鎖国状態にあった同じ老舗団体である新日本プロレスとの交流に活路を見出した。8月11日、渕がスーツ姿で新日本リングへ上がり「(鎖国状態にあった)壁をぶち破りに来ました」と話し、新日本現場監督である長州力と固い握手を交わしたところへ抗議しに現れたのが蝶野だった。乱闘しかけようと興奮する蝶野だったが、渕は冷静に受け流し、蝶野が落とした帽子を「蝶野忘れ物だ!」と帰ろうとする蝶野へ投げつけるシーンが完全にプロレスファンの心を掴んだ。これを受けて行われたのが全日本リングでの二人のシングルマッチである。結果は蝶野勝利であったが、全盛期をとうに過ぎた渕が堂々とした態度とマイク第一線を張ったおかげで全日本は辛うじて生き残ることができた。いつ誰がどんな形で主役を張らなければならないかは分からない、運命の数奇というものプロレスにはあり、渕は突如訪れたその大役を果たすことができたから今も全日本という団体は存続している。

三沢光晴vs小橋健太 2003年3月1日 日本武道館

一方、全日本プロレスを大量離脱した選手たちによって旗揚げされたプロレスリング・ノアは、旗揚げして1年足らずで日本テレビの中継がつき、ほどなくして日本武道館興行が行われるなど、ハッキリ言って順風満帆だった。試合クオリティも高く、当時の2chプロレス板で「ノアだけはガチ」というフレーズも生まれた。この試合三沢小橋花道から場外マットへタイガースープレックスで投げ飛ばすという荒業を敢行。実況していたアナウンサーが「死んでしまう!」と絶叫した。しか最後小橋バーニングハンマーを繰り出して逆転勝利ベルトの価値、そして団体価値というものをどうやって高めるのか、を方舟に乗ったレスラーが探し求めて辿り着いたのがこの試合である。純プロ路線でありながらその究極系を突き詰めた結果という意味において、選出すべき試合であることは間違いない。

以下、選外

ジャックブリスコvsジャイアント馬場 1974年12月2日 鹿児島県体育館

この当時、最も権威のあったNWAヘビー級ベルトを日本人で初めて戴冠した試合

ザ・ファンクスvsブローザー・ブロディジミー・スヌーカー 1981年12月13日 蔵前国技館

全日本プロレスで開催されたこの年の最強タッグリーグ戦の優勝決定戦で、ブロディ親友であるハンセンセコンドに帯同。場外戦にもつれ込んだ際、ハンセン試合ラリアートで介入し、ブロディスヌーカー組の優勝をアシストした。この暴挙馬場が怒り狂い、試合終了後にハンセン乱闘を繰り広げ、前述のシングルマッチへ発展する。

三沢光晴vs川田利明 1999年1月22日 大阪府立体育館

故意事故か、川田三沢に対して垂直落下式パワーボム通称三冠ボム)を敢行した試合勝利した川田だったが、試合中に実は腕を骨折しており全治3ヶ月となった。

本田多聞泉田純vsハヤブサ新崎人生 1999年2月13日 後楽園ホール

ハヤブサFMW)、新崎人生みちのくプロレス)というインディー団体レスラーでもメジャー団体ベルトを巻けることを証明した試合。この当時のインディー団体立ち位置は非常に弱いもので、これを覆すのは至難の業だった。この両名はインディー団体の中でも頭2つ抜き出た存在で、全日本プロレスの至宝を獲得することに成功した。なお、このコンビは米マット界でも活躍しており、日本代表するタッグチームと呼んで良い。

ザ・グレート・サスケvsスペル・デルフィン 2003年11月2日 有明コロシアム

犬猿の仲となり、顔を合わせるのもNGであった二人のシングルマッチが、みちのくプロレス創立10周年という大舞台で実現。ホーム戦であったサスケが敗れ、試合後のマイクで弱音を吐いたところ、客席より「みちのくプロレス50年化計画はどうなるんだ!」という野次勇気づけられ、顔を上げたサスケは「みちのくプロレス永久に不滅です!」と改めて宣言した。客もまたプロレスを作り上げる1人であることを明示した試合である

伊藤竜司vs葛西純 2009年11月20日 後楽園ホール

デスマッチの「やれるところまでやる」をやり切った試合。頭の中に引退がチラついていた葛西後楽園ホールバルコニーからテーブルダイブ攻撃を浴びせるなど、デスマッチ限界を攻めた試合となった。30分1本勝負のところを29分45秒で葛西勝利し、この年の週刊プロレス大賞ベストバウトを受賞した(デスマッチが受賞するのは極めて珍しい)。試合後のインタビュー葛西現役続行宣言したことからデスマッチというジャンルにおいて次の時代への扉を開けたワンマッチであったと言えよう。

前田日明vs坂田亘 1995年5月20日 控室

今もなお語り継がれる衝撃映像のアレだが、そもそも試合ではないことと、別に重要ではないため選外。

追記

10選じゃなくて10戦にすればよかったなぁ。でも検索に引っかかりにくくなるからいか

全日本プロレス軽視では?

⇒そういうつもりもなかったが、全日本は良くも悪くもプロレスというものを護ろうとして頑張っていた保守団体なので、地道な積み重ねをしていて変革が起きる瞬間というのが限られていたので仕方ない。逆に全日本があったか新日本ハチャメチャでも許されたのだと思ってるし、ハチャメチャし過ぎた結果、何度も会社ごとハチャメチャになりかけていた点をプロレスファンは忘れていない。選外には全日本が多いのでご容赦を。

最近試合/◯◯の試合が無い

自分最近試合を追いきれていないのもあるが、どちらかといえば後年振り返ってみて「アレがあったからだよなぁ……」と思わされる要素があるかどうかで選出した。タイガーマスクがいなければ今のジュニア戦線はヘビーの焼き直しかルチャのマネごとレベルになっていた可能性もあるし、渕があそこで全日本崖っぷちで踏みとどまらたから後々の団体交流戦の活性化が生まれたのだと思う。歴史を紐解いた時に外せないかどうか、って感じ。例えば「猪木vsホーガン」みたいな試合事件としてはとてつもなく大きなものだけど、じゃあアレが後年に何か影響を与えたかって言ったら、そういう種類の話ではないので。

総合格闘技戦について

自分桜庭和志には胸熱した世代ではあるものの、さすがにPRIDEリングでの試合を選出するのは違うだろうと思った。そもそもアレは総合格闘技という競技たまたまプロレスラーと柔術家がやっていただけである桜庭が勝ったのはもちろん嬉しかったが「プロレスラーは強いんです」と言われたのは複雑で正直、気持ちとしては受け入れ難かった。それは桜庭個人総合格闘技という競技に向かい合って努力した結果であって、プロレスラーというもの一般化してしまうのは危険なのでは……と思っていたら翌年、普通に永田ミルコに負けていた。

女子プロレスは?

女子女子で深いジャンルなので、もうそこまで踏み込んじゃうと10選じゃ足りなくなるので恐くなって考えるのを止めました。そもそも女子はそこまで詳しくないので。というわけで、これを見ている増田! 書かないのか!?しかないぞ、俺達がやるのは!

・信彦じゃなくて延彦な

正直すまんかった、正直ポカした。

2024-11-02

80年代以前(1989年まで)で最も重要コンピュータゲーム10

○選シリーズも下火になってきたところで投下するよ。


元ネタ1:

https://anond.hatelabo.jp/20241012181121

元ネタ2:

https://anond.hatelabo.jp/20241026213447


最初ファミコンだけで10選を作ろうとしたけど、方針を変えた。なぜならファミコンの初期にはアーケードから移植作が多く、それらはどちらかというとアーケード作品として評価すべきだからだ。

ついでに他のハードも含め、80年代以前のコンピュータゲームすべての中から選出することにした。なおシリーズ物は一作のみとする。ゲーム史のカンブリア紀におけるレジェンド級の作品を見て行こう。


(追記)

コメントでの指摘を受け、ポートピアジャンルグラフィックアドベンチャー修正


1.ポン(1972年/アタリ/アーケード

アメリカアタリ社が開発し、世界で初めて商業的に大ヒットをしたゲームコンピュータゲームが一大産業として成立する道を開拓し、これをきっかけとしてアメリカアタリ時代が花開くことになる。

日本では翌年にタイトーセガがポンのコピー品を作り、これが日本初のゲームとなった。


2.ブレイクアウト1976年/アタリ/アーケード

アタリのヒット作第二弾。いわゆるブロック崩し。これのリメイク版にあたるのがアルカノイドで、現代に至るまで古典的ゲームの一つとして知られている。

日本ではタイトーナムコ正規ライセンスを持って生産していたが、それ以外にも日本の多数のメーカーがこれを模倣したようなゲームを作り、のちに日本ゲーム産業が花開くきっかけとなった。

いまでは有名なメーカーが、正規ライセンスもなしにコピー品を作っていたという、大らかな時代でもあった。後にタイトーが、これをもとにスペースインベーダーを作ることになる。


3.スペースインベーダー1978年/タイトー/アーケード

初の日本メーカーによるオリジナルの大ヒット作であり、日本で初めて社会現象を巻き起こしたゲーム。それまでゲームに縁のなかった日本お茶の間にまで、コンピュータゲームを知らしめた作品

日本アーケード史上最大のヒット作といわれ、喫茶店スナックテーブルがこのゲームテーブル型筐体に置き換えられるほどだったという。

数が減るごとに動きが速くなる敵、敵がこちらを攻撃してくる緊張感、たまに出現して撃ち落とすとボーナスの入るUFOなどアドレナリンの分泌を促す仕掛けが満載で、ゲーム面白さの本質が詰まっている。


4.ゲーム&ウオッチシリーズ1980年/任天堂/ゲーム&ウオッチ)

単独ゲームソフトではないが、シリーズまとめてランクインとする。

初の大ヒットした携帯ゲーム機で、特に低年齢層を中心に爆発的にヒットした。当時のゲームセンターは不良の溜まり場で子供には出入りしにくく、据え置きの家庭用ゲーム機もあったが値段が高く、

そんな中で比較的安く買えてどこでも手軽に遊べるゲーム&ウオッチは子供向けのゲーム機としてうってつけであった。

横井軍平代表作の一つであり、シャープ提携して電卓技術で作られた玩具。この横井軍平シャープのタッグは、のちにゲームボーイを生み出すことになる。


5.パックマン1980年/ナムコ/アーケード

ナムコの躍進のきっかけとなった作品にして、日本アーケードの大ヒット作第二弾。

敵の種類ごとに異なる思考アルゴリズム、敵との強弱関係を逆転させるパワーエサ、緊張を緩めるコーヒーブレイクなどゲームを飽きさせない工夫が随所に施され、その工夫の数々は多くのクリエイターに影響を与えた。

日本のみならずアメリカでも大ヒットを飛ばし日本ゲーム世界通用することを知らしめた。80年代ゲームの中心地がアメリカから日本に移っていく、その象徴となる作品


6.ウィザードリィ1981年/サーテック/Apple II

ウルティマとどっちを選ぼうか迷ったが、こちらを選択

ウルティマと共に、すべてのコンピュータRPGの始祖と言っていい作品。もともと机上で行われていたTRPGであるD&Dコンピュータ上に移植するというアプローチで生まれた、他のゲームとはだいぶ出自の異なる作品

ゲームシステムの多くはD&Dに由来しているが、移動画面と戦闘画面の切り替えによって進めるゲーム進行、コマンドを選ぶことで進める戦闘システムなどコンピュータRPG基本的システムが完成されており、

ウルティマと共に、後のドラクエFFに大きな影響を与えた。堀井雄二坂口博信もこのゲームをやり込んだという。


7.ゼビウス1983年/ナムコ/アーケード

スペースインベーダーギャラガと続くシューティングゲーム系譜を完成させた作品

シューティングゲームフォーマットを決定付けた作品であり、これ以降に出たすべての縦シューは(あるいは横シューも)、このゲームの子である

また初めて隠れキャラ採用した作品として知られ、ゲームにおける「隠し要素」の祖ともいえる。

グレーのグラデーションで描かれた光沢のある敵のデザイン航空写真のような森、海、道の風景は、真っ黒な背景に簡素グラフィックゲームが多かった時代に圧倒的なクオリティを誇っていた。

何度でも繰り返し遊びたくなる仕掛け、背景の物語神秘性と相まって、多くの人を熱狂させた。


8.スーパーマリオブラザーズ1985年/任天堂/ファミコン

説明不要宮本茂の生み出したゲーム黎明期最高傑作の一つである

その画期性はググればいくらでも出てくるのだが、改めて分析しても同時代の中で突出した存在である

どこまでも広がる世界解放感、至るところに隠されたアイテムボーナスステージ、操作に習熟するごとに感じられる上達の喜び、初心者が楽しみながら悔しがりながら上達できるレベルデザイン

どこを取ってもオーパーツのようなゲームであり、いまだにゲーム古典的教科書の一つである

アーケードから移植作が多かった時代に、この作品は「ファミコンしか遊べない大ヒット作」であり、これ以降ゲームの主戦場アーケードから家庭内に移ることになる。(ゲームセンターに風営法適用されたことも影響している。)


9.ドラゴンクエスト1986年/エニックス/ファミコン

ウィザードリィウルティマを元に、日本人にはとっつきにくかったRPG日本人向けに大幅にアレンジして生まれ作品

これ以前にも日本メーカーからRPGはいくらか出されていたが、ドラクエの爆発的ヒットを元に、日本独自RPG=JRPG市場開拓されることになる。

とっつきにくい要素を排除するために、元のTRPGにあったリアリティを大きく削ぎ落したりしているため、当時のTRPG界隈などから批判も受けたようであるが、そうでもしなければこのゲーム国民作品になることはなかっただろう。

反面、そのあまりにも日本向けに特化しすぎたアレンジが仇となり、海外展開にはあまり成功していない。

ドラクエが生み出した(時におかしな)JRPGの「定番」「お約束」は数知れない。その影響はゲームだけに留まらず、西洋ファンタジーを題材とした漫画ラノベ等にもおよび、今日に至るまでその影響を与え続けている。


10.ゼルダの伝説1986年/任天堂/ディスクシステム

宮本茂最高傑作第二弾。スーパーマリオとはまた違った方向性世界の広さを表現した、知恵と工夫と探索のゲーム

このシリーズは極めて神がかったバランスの上に成り立っており、簡単模倣できる作品ではないため、直接のフォロワーとなる作品はあまり現れてはいない。

しかゼルダシリーズの魂とでも呼ぶべき、閃きと発見の楽しさは形を変えて多くのゲームに受け継がれている。それはダンジョンの中のちょっとしたパズルや謎解きだったり、アイテムの入手によって切り拓く道だったりするだろう。

近年のインディーズ市場において、ゼルダシリーズから影響を受けたようなゲームが多数見られることからもその影響力の大きさが伺える。



◆◆◆


以上、10選終わり。

以降は選外となった作品


Tennis for Two1958年/ブルックヘブン国立研究所/非売品)

世界初のコンピュータゲームと呼ばれるものの一つ。オシロスコープアナログ機器で作られたゲームであり、正確にはコンピュータゲームと言えるのかも分からない。

研究所見学者に大評判だったが、その後忘れ去られ、後のゲームには影響を与えていないという。時代を先取りしすぎた作品


平安京エイリアン1979年/東京大学理論科学グループ/アーケード

学生サークルが開発し、商業的に成功した作品。いわば同人ゲーム草分けのようなものである点に着目したい。アマチュアが作ったゲームで初めてヒットした作品といっていいのではないか


ローグ(1980年/マイケル・トイ, グレン・ウィックマン/Unix

ローグライクと呼ばれるジャンルの始祖となった作品D&Dから影響を受けて作られた探索ゲームであり、実はウィザードリィウルティマよりも古く、最古のコンピュータRPGの一つに数えてもいいかもしれない。


ウルティマ1981年/リチャード・ギャリオット/Apple II 他)

コンピュータRPGの始祖の一つで、ウィザードリィと共に後のドラクエFFに大きな影響を与えた。2D見下ろし型のフィールドマップは、このゲーム元祖である


ドンキーコング1981年/任天堂/アーケード

正直10選に入れたかったが、宮本茂多すぎやろと思って外すことにした。

宮本茂の初のヒット作にして、後に世界的大スターとなるマリオデビュー作。コンパクトな画面に詰め込まれジャンプアクションで、後のスーパーマリオにつながるようなアイディアが、すでに多数詰め込まれている。


ポートピア連続殺人事件(1983年/エニックス/PC-6001/mkII)

グラフィックアドベンチャーの傑作で、堀井雄二の原点。原作PC版だが、どちらかというとファミコン版の方に着目したい。

コマンドを選んで進めるというファミコン版のスタイルドラクエの原点ともいえ、このゲームの開発で得た知見はドラクエの開発に大いに影響したことだろう。


テトリス1984年/アレクセイ・パジトノフ/Electronika 60)

最も知られているのはゲームボーイ版だが、最初に作ったのは旧ソ連科学である

ゲームボーイ版の方は「ゲームボーイ史上、もっと重要ゲーム10選」に選出されているのでこちらはあえて原作をチョイス。純粋パズルでこれだけ人を没頭させるものは他にないだろう。


三國志1985年/光栄/PC-88他)

光栄歴史シミュレーションゲーム。この2年前に「信長の野望」が発売されており、歴史シミュレーションゲームとして最初にヒットしたのはそちらであるが、俺は三國志の方を評価したい。

これは歴史のifを楽しむゲームであり、人材登用のシステムによって史実では敵だった人物を部下にするなどして、夢のドリームチームを組むという楽しみ方ができる。

歴史を題材としたゲームでありながら歴史を大胆に改変してもいいという発想が大きな魅力につながり、こうした発想は現在歴史物のゲームにも影響を与えている。


ハングオン1985年/セガ/アーケード

世界初の体感ゲームにして、セガ体感ゲームシリーズ第一弾。バイク型の筐体にまたがり、身体を傾けて操作するバイクレースゲーム

ゲームの主戦場アーケードからファミコンに移る中で、そのアーケードしか実現不可能臨場感が注目された。こうした大規模なギミックは、後にアーケード復権する鍵の一つとなる。


ザナドゥ1985年/日本ファルコム/PC-88他)

ドラクエ以前の日本RPGで大きくヒットした作品日本PCゲームで最も売れた作品とされ、ファミコンともアーケードとも異なるPCゲーム市場を先導した。


悪魔城ドラキュラ1986年/コナミ/ディスクシステム

コナミ代表するシリーズの一つとなった作品任天堂メトロイドと合わせ、メトロイドヴァニアと呼ばれるジャンル形成フォロワーが多数現れている影響力を評価したい。


アウトラン1986年/セガ/アーケード

セガ体感ゲームシリーズの一つで、リアル系ドライブゲーム元祖。車を運転すること自体の楽しさに焦点を当てたゲームで、ドライブの楽しさが存分に盛り込まれている。


ファイナルファンタジー1987年/スクウェア/ファミコン

スクウェア本領が発揮されるのは90年代だと思うのでここに入れるかも迷ったが、初代が売れなければスクウェアが潰れていた、という点で重要作品



80年代末期は、シリーズ物の二作目、三作目がヒットの中心であるため、ここまでとする。

PCエンジンやメガドライブからも選出したかったが、ここに挙げたものに並べる作品がなかった。

2024-10-28

anond:20241028205437

この文章最初から間違っている(再掲)

anond:20241028205437

1981年、父の死後、 真っ先に葬儀に駆けつけてくれた 田中角栄氏の助言で政界を目指すも 田中派ではなく中曽根から立候補

 田中角栄を裏切る。

石破は田中角栄を裏切ってなんかいない。

田中派に既に候補がいたから、田中角栄が「石破を預かってくれ」と別派閥に頼んだ

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/83504?page=4

田中角栄元総理の「木曜クラブ事務局にいる石破茂氏を擁立しようとなった。

角さんからミッチー宛に電話があり、例のダミ声で「みっちゃん、石破のせがれ預かってくれんかね。頼むよ。」という感じだった。中選挙区ですでに田中派には平林鴻三代議士がいたかである

石破、権力得た途端に安倍化したけど裏切り歴史国民が追加 [NEW]

1981年、父の死後、 真っ先に葬儀に駆けつけてくれた 田中角栄氏の助言で政界を目指すも 田中派ではなく中曽根から立候補

 田中角栄を裏切る。

1993年 非自民細川連立政権が成立。 自民党が野党に転落すると、 立て直しに四苦八苦する森喜朗幹事長に 「私はね、政権与党にいたいんです。自民党の歴史的使命は終わった」 と捨て台詞をはき離党届。

 自民党を裏切る。

小沢一郎を「真の改革者」と称賛して新進党結成に参加するも、小沢一郎党首に選ばれると、自分の考える政党と違うと総選挙前に離党。

 小沢一郎を裏切る。

自民党に復党するも誰も相手にされず、伊吹文明が「石破君は仕事のできる人だから」と情けをかけて伊吹派に入れてあげるも、その後に入閣すると「閣僚派閥に属するものはいかがなものか、派閥は旧態然としていると思いますよ」の捨て台詞伊吹派離脱

 伊吹派を裏切る。

麻生政権閣僚を務めていながら、支持率低迷で総選挙が近づくと総理官邸に乗り込み、「後任は麻生さんが指名すべきだと、私は思うわけです」と謎の論理を展開して麻生おろしに加担。

 麻生太郎を裏切る。

民主党から政権奪還を目指した自民党総裁選で安倍晋三総理を争い、敗れて幹事長に在任期間中地方選挙連戦連敗。

 自民党支持者を裏切る。

安保関連法担当大臣を任せたいと言われるも、面倒くさそうなので、屁理屈をこねて固辞。代わりに受けた地方創世担当で実績を残せないどころか既得権益配慮して加計学園問題地方見殺し

 地方を裏切る。

自民党総裁任期延長問題で総務会で吠えまくるが、誰にも相手にされず、

 派閥政治否定してたのに石破派水月会を結成。

⑨森友問題加計学園問題自衛隊日報問題新聞テレビに連日出演して、安倍政権自民党を背後から撃つ発言しまくり、マスコミ安倍おろしに加担。

 安倍晋三を裏切る。

2024年統一教会問題だけでなく裏金脱税問題まで明るみになった自民党。立候補者は全員壺の信者なんやかんや石破がマシだと思われていたが、おまえもかとピュア国民を裏切る。

さら奇跡的に党首になったと思えば手のひらを返したように安倍仕草連発。国民を完全に裏切る。

anond:20241028103607

anond:20241027121611

そのまんまやん。ちなみにワイは、

うんちしたのはだれよ!

作:ヴェルナー・ホルツヴァルト 絵:ヴォルフエールブルッフ 訳:関口 裕昭 出版社偕成社 税込価格: ¥1,430 発行日:1993年11月 ISBN:9784039611307

もっちゃう もっちゃう もうもっちゃう

作・絵:土屋 富士出版社徳間書店 税込価格: ¥1,540 発行日:2000年01月 ISBN:9784198611347

さつまのおいも

文:中川 ひろたか 絵:村上 康成 出版社童心社 税込価格: ¥1,430 発行日:1995年06月 ISBN:9784494005635

ノンタンおしっこしーしー

作・絵:キヨノ サチコ 出版社偕成社 税込価格: ¥660 発行日:1987年08月 ISBN:9784031280303

うんこ

文:サトシン 絵:西村 敏雄 出版社:文溪堂 税込価格: ¥1,430 発行日:2010年01月 ISBN:9784894236691

みんなうんち

作:五味 太郎 出版社福音館書店 税込価格: ¥990 発行日:1981年02月 ISBN:9784834008487

おならうた

原詩:谷川太郎 絵:飯野 和好 出版社絵本館 税込価格: ¥1,540 発行日:2006年06月 ISBN:9784871101585

うんちっち

作:ステファニーブレイク 訳:ふしみ みさを 出版社あすなろ書房 税込価格: ¥1,320 発行日:2011年11月 ISBN:9784751525470

うんぴ・うんにょ・うんち・うんご

作:村上 八千世 絵:せべ まさゆき 出版社ほるぷ出版 税込価格: ¥1,540 発行日:2000年10月 ISBN:9784593593521

うんこしりとり

あたりかな

2024-10-26

週刊少年ジャンプ史上最も重要マンガ25選(改訂版)

anond:20241012181121週刊少年ジャンプ史上最も重要マンガ20

↑を書いた増田です 適当に書いた増田がしばらく見ないうちにブクマめっちゃ伸びてて派生増田もめちゃくちゃ出ててビビった。ただのおじさんの与太話にいろいろ意見をくれてありがとう

みんなのコメントの中には恥ずかしながら読んでなかった作品もあったくらいで、今週はネカフェKindle50%還元セールでいろいろ読み返してました

選考基準について少し補足すると、ジャンプという雑誌の在り方への影響度がとにかく重要だと考えてます。売上とか人気とか社会的影響考慮はしてますが、あくまで付随する要素に過ぎません。

ブコメやXで結構言及されてたのを見て思ったのは、選評を雑に書きすぎて自分の考える重要性が伝わってないところが多かったのと、20選だとさすがに網羅出来てないなということ。もともと個人的メモ書き程度に書いたものだったのですが、色々な意見を取り入れた25選にして、一人一作縛りもなくして、選評ももうちょい見栄えするようリライトしてみました。これが現時点でのベストだと考えているので、もう異論は取り入れません。

1.ハレンチ学園 作:永井豪 1968年創刊号 - 1972年41号

月2回刊で始まった少年ジャンプ創刊号わず10万5000部しか出なかった。その9年前のサンデー創刊号が30万部、マガジン創刊号20万5000部だったことを考えると、その始まりが実に静かなものだったことがわかる。

そんな中、大家永井豪が描いたこ作品の絶大な人気がジャンプの売上に大きく貢献したことは言うまでもないが、それ以上に重要なのは、この時点で「読者が面白いと思うことなら何だってやる」という編集部方針は明確であったこである

過剰ともいえる性描写教職への徹底的な批判からなる本作は、当時の基準でも極めてラディカルで挑発的な作風であり、批判に晒され続けた。しかし、競争原理に基づき、常に読者の方を向いた雑誌を作るという編集部意向が、この作品を存続させた。後に「アンケート至上主義」という形で現代まで続くことになるジャンプの強固なアイデンティティは、本作の成功とともに形をなしたのである

2.男一匹ガキ大将 作:本宮ひろ志 1968年11号 - 1973年13号

頭文字D湾岸ミッドナイトのようなクルマ系のマンガが下火になったのは、若者が誰もスポーツカーに乗らなくなったことが原因のひとつであるという。頷けるところもあるが、じゃあ不良、ヤンキー番長と称されるような若者なんてもっと絶滅危惧種なのにどうして彼らをカッコいいものとして描くマンガは何作も出続けているんだ?東リべのような大ヒットも未だに出ているのに。

思うに、我々の脳には義理人情、泥臭さ、そして熱さを欲する部位が生まれつき備わっているのだ。そしてこうした要素を最も効果的に表現しうる分野が不良漫画であると見抜いたのは本宮ひろ志最初であった。

ストーリーは完全にご都合主義で、キャラクター一貫性もまるでない本作は、しかし「男の強さ」を描くという一点のみにおいて全くブレることはなかった。どんなに反社会的人間でも、腕っぷしと強靭精神と仲間への思いやりさえあればクールに映るという価値観は、フィクションにおいての(もはや誰も意識すらしなくなった)お約束として今なお残り続けている。

3.こちら葛飾区亀有公園前派出所 作:秋本治 1976年42号 - 2016年42号

ジャンプ国民マンガ雑誌とみなされる要因はどこにあるだろうか?40年間一度も休載することなく駆け抜けた秋本治デビュー作は間違いなくその一つであろう。

当初は型破りな警察官両津勘吉ドタバタを描くコメディとして始まった本作は、その時代サブカルチャー政治経済情勢を積極的に取り込むことで、高度経済成長期以降の近代化していく日本風景を余すことなく取り込んだ作品となった。

浮世絵江戸庶民たちの風俗を映し出す史料であるように、こち亀が織りなす物語昭和から平成にかけての日本人の最大公約数的な心象風景を巧みに映し出した。いまや日本から失われつつある中流庶民日常を、我々は全200巻からなる亀有の小さな派出所日常にしみじみと感じ取るのだ。

4.リングにかけろ 作:車田正美 1977年2号 - 1981年44号

もともと硬派なボクシングマンガとして始まった本作は仁義兄弟愛をベースにした極めて現実的作風で、決して圧倒的な人気作とは言えなかった。しかし、あしたのジョー下位互換になるくらいなら無茶苦茶やってやる、という判断のもと路線変更し、過剰さと大袈裟さを極めたことで人気を博し、史上初の最終回巻頭カラーとして、ジャンプ史にその名を刻むこととなる

───という、教科書的な本作の功績だけが、本リストに入る理由ではない。重要なのは本作が男一匹ガキ大将(=根性と漢気)、侍ジャイアンツ(=超人能力)の要素を意識的に再生産していることである車田正美を源流として、ジャンプ的な文脈を後世の作品が重ね合わせることでより濃くしていく流れが明確になる。我々の知るジャンプは全て車田正美以後なのだ

5.コブラ 作:寺沢武一 1978年45号 - 1984年48号

時代作家に比べ、寺沢武一デビュー作の視座は群を抜いて高かった。スペースオペラ世界観から引用した本格的なSFアイデアの数々。高い等身で描かれ、まるで映画のようなポージングセリフ回しで魅せるセクシーな男女たち。幾度もの休載はさみつつも、本作はユーモアとカッコよさと強さをコブラという一人の男の中に共存させるという偉業を成し遂げた。

登場人物も読者も無垢10代の少年でなくてはならないという近視眼的な幻想と、ジャンプ作家絶対コンスタントに週刊連載をしなければならないという既成観念を、葉巻を加えた気障な宇宙海賊サイコガン──精神力をエネルギーに変えるアイデア寺沢が生み出したものだ──は易々と破壊したのである

6.キン肉マン 作:ゆでたまご 1979年22号 - (週プレNEWSで連載中)

リングにかけろ確立したバトルマン路線を、当時の少年たちが大好きだったプロレスに絡めることでさらなる高みへ導いた作品。いわゆる「友情努力勝利」という実際にはジャンプ編集部の誰も公言したことのないらしいパブリックイメージ単独で築き上げた。にもかかわらず、本作は国民作品とはみなされておらず、犯罪的なまでの過小評価に甘んじていると言わざるを得ない。マジでなんで?絵が下手だから嶋田SNSの使い方が下手だから

キン肉マンマンガとしてではなく文化的重要なのだと主張する類いの人間がいるが、そいつらの目と脳にはクソしか詰まっていない。ゆでたまごは絵の巧拙クオリティ関係しないことを証明し、あらゆる世代の男たちにマンガ熱狂する勇気を与え、信じがたいほど面白い作品を描いた。この作品を嫌う人たちもまず冷静になり、理解しようと試みるべきだ。

7.Dr.スランプ 作:鳥山明 1980年5・6号 - 1984年39号

鳥山明訃報を聞いた日、Kindleで買ったまま放置していたDr.スランプの1巻を読んでみた。久しぶりに読む本作はきっと悲しいほど古く感じるだろうと思っていたが、実際のところiPadの画面に映るペンギン村の住人達は今も新鮮味をもって感じられた。

本作は後にDBドラクエで知られることになる鳥山明がその才能の枝葉を伸ばし始めた作品である───と書けたらどれほど楽だったろう。枝葉どころかこの時点で大樹の幹である

言語以前の本能領域に鋭く迫り来る現実味を携えた絵は存在するが、そうした絵を毎週16ページのマンガで成立させる人間鳥山明以外には存在しなかった。頭の中にBlenderが入っているかのような立体的なデフォルメは、我々の住む現実世界とは違うところにもリアリティというもの存在しうることを示し、「マンガのための絵」であった劇画調を衰退させる最大の要因となった。

8.キャプテン翼 作:高橋陽一 1981年18号 - (キャプテン翼WORLDでネーム連載中)

Jリーグ創立の流れを生み出したともされる本作がサッカーマンガ界に残した遺産はなにか?もしかたらこのような問いの設定自体が誤っているようにも思える。高すぎるキャラクターの頭身、大真面目に繰り出される荒唐無稽な技の数々が目をくらますかもしれないが、高橋陽一が一貫して表現たかったのはひたむきな少年たちが織りなす爽やかな青春であって、こうした要素は他作品にも見られるものだ。彼がサッカーという題材を選んだのは単に「野球マンガはありふれているから」という理由だ。本作は期せずしてサッカーマンガというジャンルの中心に祭り上げられたに過ぎないのだろう。

それでも、我々はこの巨星に感謝するほかない。この作品が無ければサッカーを始めていなかったであろう日本中、いや世界中の少年たちが、みな大空翼という一つのアイコンに夢中になっていたのだ。マイナースポーツひとつに過ぎなかったサッカーメジャークラスに引き上げ、軍国主義に基づく根性論を相対化し、ひたむきにボールを追いかける楽しさを私たちに初めて教えてくれたのはこの作品だったのだ。

9.北斗の拳 作:武論尊原作)、原哲夫作画1983年41号 - 1988年35号

元増田を書いたときブコメ欄は「ぼくのはじめてのジャンプ」にまつわる涙なしでは語れない思い出たちで溢れかえったわけだが、はてブに入り浸る層の平均年齢を考えれば当然のことである

自分のようなおじさんにとって涙なしでは語れない系マンガの筆頭に位置するのが北斗の拳である1980年代中盤というのは、親しみやすいポップ路線と男臭い劇画路線がちょうどクロスオーバーする時期であった。今のメインストリームがどっちかは言うまでもないが、自分にとっては線が太くてむさ苦しい絵柄こそが少年ジャンプ原風景だった。

強くてカッコいい大人の男が弱肉強食戦場で己の命を懸け闘う...そんなジャンプ初期から続く系統の最高到達点かつ袋小路が本作である。このようなマンガ流行時代は二度と来ないとわかっているからこそ、特別な輝きを放ち続けるのだ。

10.きまぐれオレンジ☆ロード 作:まつもと泉 1984年15号 - 1987年42号

かわいい女の子を見るためにマンガを読む者と、そうでない者がいる。どちらがいい悪いということはないが、少なくとも創刊してしばらくのジャンプは前者に見向きもしない雑誌であったのは確かだ。うちには高橋留美子はいないんだよ、といった具合に。

きまぐれオレンジ☆ロード申し訳程度の超能力要素を除けば、一貫して思春期男女の甘酸っぱい三角関係に焦点を合わせ、かわいい女の子日常が描かれているだけだ。それのなにがすごいのか?別にすごくはない。ただ、エロくもなく大したギャグもなく荒唐無稽な展開もないふつうの男女の日常需要があることに、誰も気づいてない時代があったのだ。

まつもと泉は早くに体調を崩したこともあり、これ以降影響力ある作品を生み出すことはできないままこの世を去った。それでも、彼の鮮やかなトーン使い、歯が浮くようなセリフ回し、そして"かわいい女の子"以外に形容する言葉が見つからない鮎川まどかキャラデザを見返すたび、これをジャンプでやってくれてありがとう、と思わずはいられない。

11.ドラゴンボール 作:鳥山明 1984年51号 - 1995年25号

鳥山明が死してなおこの先何度も繰り返される問いだろうが、ドラゴンボールよりもワンピナルトの方がどれほど優れているのだろうか?そしてその答えを誰もが知っているのは何故だろう?これらの問いに対してどんな議論がなされようともすべて的外れ無意味である。それはこの作品が頂点だからだ。

鳥嶋和彦意向により、本作はバカげた後付けの設定や引き伸ばしをせざるを得なかった。それでも、マンガ金銭を生み出す道具と見做す人間たちのあらゆる商業的な意図を超えて、本作はそれ以前、以降に掲載されたあらゆる作品を軽々と凌駕する金字塔となった。

11年に渡る孫悟空冒険をもって、鳥山明日本マンガ文化世界最高のものであるという事実を叩きつけ、自身手塚治虫赤塚不二夫つげ義春萩尾望都藤子F不二雄、高橋留美子と並び立つ歴史上最高のマンガ家の一人であることを証明したのである

12.聖闘士星矢 作:車田正美 1986年1・2号 - 1990年49号

車田正美リンかけ過去ジャンプ作品再生産を初めて試みたと述べたが、それを自分自身作品でやった人間も車田が最初であった。自身のやりたいことを詰め込んだ男坂が衝撃的なまでの不人気に終わった反省から、彼は自身の原点に立ち返りつつもよりスケールを拡大した再生産をやることを決めた。

彼はギリシャ神話宇宙子供向けと大人の女性向け、劇画プラモデルといった要素を交互に行き来しながら、自身が積み上げた様式美世界前人未踏領域まで押し上げた。聖闘士に同じ技は二度通用しないが、我々読者は何度でもこのパターンを欲してしまうのだ。

13.ジョジョの奇妙な冒険 作:荒木飛呂彦 1987年1・2号 - (ウルトラジャンプで連載中)

ある一定世代人間からは、ジョジョという作品はいつも巻末に掲載されている時代遅れな絵柄のつまら作品という評価が下されることがあり、そこには50%事実と、50%の誤った認識が含まれている。

荒木飛呂彦の絵柄が彼の見た目と同様あまり本質的な変化がないことについてはその通りだ。だがいくら彼より本誌での掲載順が上であろうと、革新性・才能・実験精神という点で彼より優れた人間果たして何人いただろう?

幽波紋と、理不尽能力値のインフレを伴わないバトル描写は、彼が残した功績の中で最大のものであるキャラクターが持つ能力を、作者の演出の道具として使うのではなく、自律したキャラクター同士の駆け引き領域に落とし込むことに成功したのだ。

我々はフィクションの中での整合性を厳しくジャッジすることに慣れっこになっているが、それに耐えうるものを初めて生み出したのは荒木だった。彼以降、マンガを読む行為は絵と吹き出し表現された作者の脳内世界をくみ取る作業ではなく、自律したキャラクターたちと同次元に立ちその思考を辿るものとなった。荒木は真の意味で我々をマンガ世界に誘ったのである

続き→anond:20241026155213

2024-10-25

「石破の裏切り歴史」とされるもの最初から間違ってる話

元は石破が安倍対立していた時期にネトウヨが作ったものらしいが、最初から間違っている

https://anond.hatelabo.jp/20241025164433

1981年、父の死後、 真っ先に葬儀に駆けつけてくれた 田中角栄氏の助言で政界を目指すも 田中派ではなく中曽根から立候補

 田中角栄を裏切る。

石破は田中角栄を裏切ってなんかいない。

田中派に既に候補がいたから、田中角栄が「石破を預かってくれ」と別派閥に頼んだんだよ

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/83504?page=4

田中角栄元総理の「木曜クラブ事務局にいる石破茂氏を擁立しようとなった。

角さんからミッチー宛に電話があり、例のダミ声で「みっちゃん、石破のせがれ預かってくれんかね。頼むよ。」という感じだった。中選挙区ですでに田中派には平林鴻三代議士がいたかである


その次の

1993年 非自民細川連立政権が成立。 自民党が野党に転落すると、 立て直しに四苦八苦する森喜朗幹事長に 「私はね、政権与党にいたいんです。自民党の歴史的使命は終わった」 と捨て台詞をはき離党届。

 自民党を裏切る。

これも、さも石破が悪いようにネトウヨから言われてるが、この時の自民党の総裁が誰か知ってるのか?

ネトウヨにとっては悪名高い、河野談話河野洋平だぞ?

自民党が、改憲方針を捨てて左翼化したとき自民党を出た話を、ネトウヨ批判するのか?できるのか?

石破は安倍以上に悪属性ポテンシャルを感じる

もう安倍が乗り移ってるんか?って思う仕草だらけ。

期待してた国民ピュアすぎやろ。渋谷ハチ公以上にピュアやでキミら。

裏切り歴史転載させてもらうが、

1981年、父の死後、 真っ先に葬儀に駆けつけてくれた 田中角栄氏の助言で政界を目指すも 田中派ではなく中曽根から立候補

 田中角栄を裏切る。

1993年 非自民細川連立政権が成立。 自民党が野党に転落すると、 立て直しに四苦八苦する森喜朗幹事長に 「私はね、政権与党にいたいんです。自民党の歴史的使命は終わった」 と捨て台詞をはき離党届。

 自民党を裏切る。

小沢一郎を「真の改革者」と称賛して新進党結成に参加するも、小沢一郎党首に選ばれると、自分の考える政党と違うと総選挙前に離党。

 小沢一郎を裏切る。

自民党に復党するも誰も相手にされず、伊吹文明が「石破君は仕事のできる人だから」と情けをかけて伊吹派に入れてあげるも、その後に入閣すると「閣僚派閥に属するものはいかがなものか、派閥は旧態然としていると思いますよ」の捨て台詞伊吹派離脱

 伊吹派を裏切る。

麻生政権閣僚を務めていながら、支持率低迷で総選挙が近づくと総理官邸に乗り込み、「後任は麻生さんが指名すべきだと、私は思うわけです」と謎の論理を展開して麻生おろしに加担。

 麻生太郎を裏切る。

民主党から政権奪還を目指した自民党総裁選で安倍晋三と総理を争い、敗れて幹事長に在任期間中地方選挙連戦連敗。

 自民党支持者を裏切る。

安保関連法担当大臣を任せたいと言われるも、面倒くさそうなので、屁理屈をこねて固辞。代わりに受けた地方創世担当で実績を残せないどころか既得権益配慮して加計学園問題地方見殺し

 地方を裏切る。

自民党総裁任期延長問題で総務会で吠えまくるが、誰にも相手にされず、

 派閥政治否定してたのに石破派水月会を結成。

⑨森友問題加計学園問題自衛隊日報問題新聞テレビに連日出演して、安倍政権自民党を背後から撃つ発言しまくり、マスコミ安倍おろしに加担。

 安倍晋三を裏切る。

なんやかんや石破がマシと思ってたが、案の定壺とズブズブな関係党首になったとたん安倍仕草連発。国民を裏切る。

2024-10-24

PCゲーム史上、最も重要ゲーム10選

1 OXO 1952年

世界最初ゲームENIACタイプのクソデカPC上で三目並べをするというしょーもなの極みながらも間違いなく人類最初ゲーム

2 ストリップポーカー 1970年代

ドイツで作られた世界最初エロゲー制作者の自称しかないため真偽は定かではない。気に食わない人は日本最初に作られたエロゲである野球拳 1981年」に入れ替えよう。

3 Rogue 1980年

世界初の不思議のダンジョンランダム生成を意味するローグライク(ローグライト)の原点。テキストベースの画面はこの時代ならでは。

4 DOOM 1993年

FPS存在世界に広めた作品ストーリーがあるようなないような絶妙バランスFPSというゲームジャンル方向性確立

Desktop Tower Defense

5 Ultima Online 1997年

MMORPG歴史を作った作品架空世界の中で現実とは違う人間関係を展開するという新たな生活様式を生み出した。

6 StarCraft 1998年

e-スポーツ文化立役者。実力重視のRTSであり、やってみるとクソほど忙しくてハゲる。

7 Kanon 1999年

エロゲー黄金時代立役者エロゲ文化から派生した美少女ブームツは今でもゲーム業界侵食している。

8 FarmVille 2007年

ソーシャルゲーム黎明期で最も有名な作品Facebookと連動することで圧倒的ユーザー数を誇った。

9 Minecraft 2011年

プログラミングクラフトインディーズ配信と様々な界隈に大きな影響を与えた作品。影響範囲が広すぎて論点が絞れない。

10 Outer wilds  2019年

好奇心駆動型というスタイルによりゲームというジャンルが持つ「手探りで分かることを増やす喜び」を人類に再発掘させた。「は?信者過大評価か?」と文句がある人は「Rance X -決戦 2018年」にでも入れ替えよう。

2024-10-22

名作といわれる昭和映画「はなれ瞽女おりん」(1977年)を観たので感想を書く

最近昭和ドラマ映画を観るようになった。解像度の高い映像で当時の作品をじっくり楽しめる環境が整ったこともあり、作品の細部にある仕掛けや意図が見えるようになり、改めて面白さを感じている。そんな中で観た「はなれ瞽女おりん」(1977年)は、篠田正浩監督の名作といわれる一本だ。

正直、この年齢になるまで篠田監督作品を観たことがなかったが、この映画は素晴らしかった。明治から大正にかけての日本の「原風景」を映し出すという監督意図は、見事に画面に現れていた。しかし、単に美しい風景を描くにとどまらず、登場人物人間性時代矛盾を深く掘り下げた内容に感銘を受けた。おそらく20代若いころにみていたら、おりんカワイソス以外の感想が残らず、忘れさられてしまっていただろう。年齢を重ねて初めてわかる名作というのがある。

映画の中心となるのは、瞽女であるおりん(岩下志麻)と脱走兵鶴川原田芳雄)の物語だ。二人とも社会から周縁化された存在だが、その中でもおりんの「はなれ瞽女」という立場は二重の周縁性を持っている。彼女瞽女共同体である高田の一座から追放された理由は、禁制の「男との関係」があったためだが、それは彼女自身選択ではなく、レイプによるものだった。

そんなおりんに寄り添い、導き手となる鶴川は、物語が進むにつれてその人物像の不整合が明らかになっていく。「天涯孤独」と語りながらも、家族存在がほのめかされ、ついには母親存在告白するシーンは映画クライマックスとなる。この告白が、おりんにさらなる絶望をもたらす。

時代背景と家制度矛盾

この物語が描かれる背景には、明治維新に始まる天皇を頂点としたイエ制度による国民統合矛盾がある。家父長制のもと、人々は家や国家という枠組みに縛られていた。おりんと鶴川共通するのは、このイエからの周縁性だ。

天皇を頂点としたイエ制度は、乱暴にいってしまえばそもそも江戸時代の「家中=藩」にならって編み出された。江戸時代においては「家中」が人を従わせ、結束させる機構だった。幕末の志士たちが思いつくことのできた次の時代国民統合の在り方は、やはりイエだったということだ。この点が王を承認する倫理的な神を持つヨーロッパ統治と異なっている点だ。国の危機を前にしても藩同士がいがみ合うならば、ということで、もっと大きな家中=イエにしてしまえばよい、という発想が明治維新だ。天皇を頂点として、家父長制に結合させ、国、地域共同体世帯すべてのレベルで上から下まで論理的整合する入れ子構造にするために、寺子から氏子へと転換する廃仏毀釈という荒業まで行った。イエの主従関係は、現代にいたるまで日本人のDNAとまでいえるほど根深い。嫁姑上司部下、先輩後輩など。どんなに言っていることがおかしくても絶対である、という点で共通倫理だ。この「家」の概念は、主君への忠誠のもと、等しく苦労するフィクションを生み出し、社会の不平等を覆い隠すことになった。

大正デモクラシーはそうした不条理解決する機運として盛り上がりを見せたが、やがて不況日本を襲い、財閥と大地主の利害を代弁した立憲政友会に幻滅し、人々の失望とともに大正デモクラシーは終焉を迎えるのだ。当時、腐敗した政治毎日新聞をにぎわせた。

脱走兵であることが官憲についにバレて拷問されたとき鶴川叫び「何が、国民皆兵だ。金持ち徴兵逃れで、俺が引き受けただけだ」というセリフは、その矛盾を端的に表している。明治維新で構築された家制度矛盾を背景に、映画鶴川叫びやおりんの境遇を通じてその時代不条理を描いている。

また、瞽女たちが社会の中で次第に居場所を失っていく様子もこの映画は巧に表現している。鉄道の普及が、農村部を含め人々の娯楽へのニーズの変化をもたらし、ひいては彼女たちの文化を衰退させたことや、彼女たちが生き残りをかけて変化を迫られた様子は、急速な近代化による価値観生活の変化を象徴している。

そうした社会状況のなか、おりんは一座から破門され、「はなれ瞽女」となってからは一人で生きてゆく覚悟を決めた女性だった。旅の途中で長岡のはなれ瞽女若いころの樹木希林)と出会うシーンでは、斜陽化する瞽女文化のなかで自立を模索する様子がうかがえた。またおりんも同じ境遇のはなれ瞽女出会いを通じて、自立して生きてゆく勇気と自信を得ていたように見えた。しかしやがて愛する男との別れを契機に、おりんは猛烈な不安に襲われる。それは周縁であるがゆえの存在論的な不安だ。

男女の非対称性

この映画特に印象的だったのは、男女の「帰る場所」の非対称性だ。

鶴川官憲連行される直前、おりんは鶴川から思わぬ告白を受ける。

鶴川の、ごめん実は家族がいるんだ、という告白に、留置所の小窓にかけたおりんの手が崩れ落ちるような衝撃を受ける。このとき岩下志麻の演技すごい。

このシーンに二重写しで思い出した映画がある。それは「駅station降旗康男監督1981年)。大晦日に一人飲み屋のおかみさんと熱燗を飲むシーンでおかみさん役の倍賞千恵子がいうセリフだ。

水商売やってる子には暮れから正月にかけて自殺する子が多いの。なぜだかわかる? 男が家庭に帰るからよ。どんな遊び人もこの時期は家庭に帰っちゃうからね。

好きな男には帰る場所別にある、迎え入れてくれるホームグラウンドがある、という、この同じ寂しさがおりんを襲う。

おりんは、そのさみしさを押し殺して、よかったじゃないかあんたにお母さんがいても不思議はないと思っていた、自分もいるんだ、と幼少期に記憶の残る唄を口ずさむ。エンタメ的には、涙腺崩壊のシーンだ。

鶴川がなぜうそをついていたのか。おりんを深く愛しながらもなぜ夫婦になるのを鶴川は拒んでいたのか。これは推測だが、おそらく母親瞽女を娶ることを認めないことを鶴川はよくわかっていたからだろう。失恋でつきつけられる差別社会現実瞽女文化の衰退、はなれ瞽女であるおりんの存在論的な不安定はここに極まってゆく。

鶴川には母親という寄る辺があり、天皇を頂点としたイエ制度の中で一定の救いが残されている。しかし、おりんにはそのような場所がない。かつての瞽女共同体も失われ、彼女はどこにも属することができない存在だ。この非対称は、映画終盤の「親不知の岬」で息絶えるという結末に象徴されている。

女はひたすらアウエイを強いられ帰る場所はない。これは同時代の歌でいうと、中島みゆきの「生きていてもいいですか」「エレーン」や山崎ハコの「望郷」と同じ世界線だ。一方で同時代男性歌手では、何気に上京してもふるさと愛にあふれている、という世界線の歌が多い。男には、失敗してもいざとなったらふるさとに抱かれる、というまなざしだ。「母に捧げるバラード」の海援隊松山千春の「旅立ち」が典型

この男女の人生の非対称は、先日来観ていたドラマおしん」でも同様にみることができた。

おしん物語では、農民運動に熱を入れていた浩太は官憲拷問され転向余儀なくされる。夢破れ傷ついた浩太は傷をいやしに実家の世話になる。浩太の実家父親貴族院で太かったのだ。事業に失敗したおしんの夫・竜三を救うのも佐賀実家だ。一方、おしんにはセーフティネットとしての故郷はない。振り返るという選択肢は存在せず、ただただ前を向いて歩く以外に救いはなかった。

水上勉の描く世界と非常にシンクロした世界観だと思う。



映像表現演出の巧みさ

「はなれ瞽女おりん」の映像表現は見事で、セリフに頼らず映像感情や状況を語る部分が多い。例えば、鶴川告白した後のおりんの行動や、瞽女屋敷を訪れるシーンの演出は、彼女の焦燥や絶望を鮮烈に伝えている。

男の告白ですべてを悟ったおりんは、まず瞽女屋敷に向かい自分の育った場所を確かめに行く。しかし、時がたち、すでに瞽女時代は終わりを告げていた。屋敷がもぬけの殻だとわかると、男を待つことも探すこともせず、心身ボロボロになって、一人はなれ瞽女として宿場町を回る日々。おりんの着物がボロキ状態になっていることから、はなれ瞽女としての暮らしが何年も経過していることがうかがえる。この映画終盤のテンポ絶妙だ。

また、ラストシーン親不知隧道での描写は、観る者の解釈に委ねる余韻があり、深い感動を呼び起こした。私の解釈になるが、ズームアップされるトンネルの測量機器と遠くの岬に見えるおりんの着物の切れ端の遠近感は、鉄道の普及と瞽女文化終焉を見事に演出している。さすがだわ、この演出家、そしてカメラワークに感嘆ぜざるを得なかった。映像を学ぶ人にはぜひみてもらいたい作品

おりんの物語は、単なる一人の女性悲劇ではない。社会の中で周縁化される女性たちの象徴であり、家制度という枠組みの中で矛盾を抱える日本近代のものを映し出している。家父長制のもと、妻には銀行口座を持つ権利すらない時代、周縁化された存在であるはなれ瞽女の自立と恋、その挫折を通じて、その背景に潜む不平等や抑圧を丹念に描いた篠田監督の手腕に心から感服した。

篠田正浩監督が描きたかった「日本原風景」とは、単なる美しい日本風景ではなく、矛盾や悲哀に満ちた人々の生き様のものだったのではないか。この映画を観て、初めて彼の作品に触れたが、もっと多くの作品を観てみたいと思った。そして、昭和ドラマ映画が描く時代背景の奥深さに、改めて心を動かされた。

また、ドラマおしん」と時代が重なるところでは、国民統合や周縁性に関して、もう少し思うところがあるので、またそのうち増田で。


少女漫画誌別、最も重要漫画

なかよし史上、最も重要漫画

キャンディ・キャンディ - 1975年1979年

きんぎょ注意報! - 1989年1993年

美少女戦士セーラームーン - 1992年1997年

カードキャプターさくら - 1996年2000年

プリキュアシリーズ - 2004年

 

りぼん史上、最も重要漫画

ひみつのアッコちゃん - 1962年1965年

魔法使いサリー - 1966年1967年

アラベスク - 1971年1973年

ちびまる子ちゃん - 1986年

GALS! - 1999年2002年

アニマル横町 - 2001年

さよならミニスカート - 2018年

 

少女コミック史上、最も重要漫画

トーマの心臓 - 1974年

洗礼 - 1974年1976年

風と木の詩 - 1976年1981年

天は赤い河のほとり - 1995年2002年

 

別冊少女コミック史上、最も重要漫画

11人いる! - 1975年

BANANA FISH - 1985年1994年

BASARA - 1990年1998年

 

花とゆめ史上、最も重要漫画

はみだしっ子 - 1975年1981年

ガラスの仮面 - 1975年

スケバン刑事 - 1976年1982年

妖精王 - 1977年1978年

小さなお茶会 - 1978年1987年

パタリロ! - 1978年

笑う大天使 - 1987年

動物のお医者さん - 1987年1993年

フルーツバスケット - 1998年2006年

 

LaLa史上、最も重要漫画

摩利と新吾 - 1977年1984年

綿の国星 - 1978年1987年

日出処の天子 - 1980年1984年

CIPHER - 1985年1990年

夏目友人帳 - 2003年

 

週刊マーガレット史上、最も重要漫画

アタックNo.1 - 1968年1970年

ベルサイユのばら - 1972年1973年

エースをねらえ! - 1973年1975年

つる姫じゃ~っ! - 1973年1979年

KISSxxxx - 1988年1991年

花より男子 - 1992年2003年

 

別冊マーガレット史上、最も重要漫画

愛のアランフェス - 1978年1980年

おしゃべり階段 - 1978年1979年

伊賀カバ丸 - 1979年1982年

いつもポケットショパン - 1980年1981年

ホットロード - 1986年1987年

俺物語!! - 2012年2016年

2024-10-12

週刊少年ジャンプ史上最も重要マンガ20

anond:20241102083243

◆再追記

anond:20241026155116←皆さんの意見を受けてリライトしました、よかったら読んでみてね

-----------------------------------------------------------

選考基準独断偏見で、作者一人につき一作まで

強いて言えば後世の作家への影響、社会的な影響を重視

ランキングではなく、連載開始順に並べただけです

忌憚なき意見、待ってるぜ

1.ハレンチ学園 作:永井豪 1968年創刊号 - 1972年41号

黎明期レジェンド枠。サービスエロジャンプマンガの大きな側面を担っていた事実否定できないし、そもそもこの作品の売上が無かったらジャンプが存続してたかも怪しいので入れざるを得ない。

2.男一匹ガキ大将 作:本宮ひろ志 1968年11号 - 1973年13号

黎明期レジェンド枠2。ジャンプ黎明期の売り上げを支えつつ、不良系マンガを一大ジャンルとして確立させた意味で実は物凄く偉大な作品。これが無かったらろくブルも東リべも存在しない。

3.こちら葛飾区亀有公園前派出所 作:秋本治 1976年42号 - 2016年42号

ギネス記録である40年にわたる長期連載、そしてサブカルチャー全般積極的に題材として取り入れたことで現代日本風俗文化を凝縮したような史料価値を持つ作品になった点を評価したい。

4.リングにかけろ 作:車田正美 1977年2号 - 1981年44号

黎明期レジェンド枠3。売り上げもさることながら、見開きを用いたド派手な演出の数々や、「荒唐無稽能力バトル」というジャンル確立させた点を評価したい。(このジャンルパイオニアアストロ球団なのだが、後進への影響はこちらが上かなと思う)

5.キン肉マン 作:ゆでたまご 1979年22号 - (週プレNEWSで連載中)

リングにかけろ確立したバトルマン路線を、当時の少年たちが大好きだったプロレスに絡めることでさらなる高みへ導いた作品。初めてのジャンプ黄金期を作った作品で、キン消しをはじめ一般社会への影響力もすごい。いわゆる「友情努力勝利」はほとんどキン肉マンで作り上げられたといっても過言ではない。

6.キャプテン翼 作:高橋陽一 1981年18号 - (キャプテン翼WORLDでネーム連載中)

勝利友情といったそれまでのスポーツマンガの王道を抑えつつも、キャッチー必殺技を取り入れ実際のスポーツ以上のエンタメ性を付与した。マンガ史全体としてはドカベンがこのジャンルパイオニアだけど、ジャンプで言えばキャプ翼がそれ。海外で人気が爆発したほぼ初めてのジャンプ作品という点も重要。この作品がなければメッシサッカーやってなかったかも。

7.北斗の拳 作:武論尊原作)、原哲夫作画1983年41号 - 1988年35号

80年代ジャンプ象徴といえる作品。創刊以来、ジャンプの主たる系統であった劇画タッチハードボイルドな男向けの作風の最高到達点。

8.きまぐれオレンジ☆ロード 作:まつもと泉 1984年15号 - 1987年42号

ラブコメから選ぶならこれ。決して革新的な要素があったとは言えないが、当時のジャンプが唯一苦手としていた王道ラブコメで人気を得たことが重要。ポップ路線を持ち込み、ジャンプ紙面の多様性はより進むことになる。

9.ドラゴンボール 作:鳥山明 1984年51号 - 1995年25号

90年代中盤のジャンプ黄金期を牽引した作品であり、連載が終了してなおもジャンプ日本マンガ文化の頂点に君臨する作品。急激な路線変更、無理やり感ある後付け設定と引き延ばしなど、負のジャンプらしさをも象徴している。

10.ジョジョの奇妙な冒険 作:荒木飛呂彦 1987年1・2号 - (ウルトラジャンプで連載中)

国民作品として定着してきたのはここ数年って感じはするけど、現代異能バトルマンガはほぼ全てジョジョ3部の影響下にあると思うので入れざるを得ない。

11.SLAM DUNK 作:井上雄彦 1990年42号 - 1996年27号

バスケマンガ、いやスポーツマンガ史上の最高傑作勝利と成長の喜び、敗北と挫折の苦さがこれ以上なく詰まったタイムレスな名作。もし序盤の不良マンガ路線継続していたら日本バスケットボールの歴史は(恐らく悪い方に)大きく変わっていただろう。

12.るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 作:和月伸宏 1994年19号 - 1999年43号

特筆して後世への影響や売り上げがずば抜けている印象はないけど、DB幽白スラダン終了後ワンピナルトブリーチが現れるまでの柱としてジャンプ暗黒期を支えた世代代表として入れておきたい。

13.セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん 作:うすた京介 1995年52号 - 1997年40号

純粋ギャグから一作入れたかった。ナンセンスシュールさを主体としたギャグジャンプ誌上で成功させた最初マンガ下品さやエロさを排除した純粋面白さを追求した点が重要。その影響度は「マネもほどほどに...」という注意書きが当時の新人賞の要項に書かれるほどだったそう。

14.遊☆戯☆王 作:高橋和希 1996年42号 - 2004年15号

正直マンガ作品としての完成度は大したことない。だが集英社における映像媒体以外のメディアミックスとして最大の成功例であり、TCG日本に定着させた初めての作品であり、暗黒期の集英社(とコナミ)に莫大な富をもたらしたこと重要お金正義

15.ONE PIECE 作:尾田栄一郎 1997年34号 - 連載中

大河ドラマ的な作風であったり、連載中であったり、作画コストが高すぎたりで他作品へ与えた影響がまるで感じられない(マネしたくてもできない)点が評価を迷うポイント。それでもなんだかんだ国民マンガジャンプ看板地位は譲ってない。幼少期から温めた構想を週刊連載で30年かけてやる人間って歴史存在しないと思うので、そういう意味では既にマンガの枠を超えた注目度になりつつある。

16.HUNTER×HUNTER 作:冨樫義博 1998年14号 - 連載中

残酷で先の読めない展開、異常に複雑で難解な設定、それでいて少年マンガ的なシンプルな熱さを持ち合わせた稀有作品。「続きが気になるマンガ」を描かせたら冨樫以上の人間はいない。ハンタ最終回を読むまでは死ねない。

17.NARUTO 作:岸本斉史 1999年43号 - 2014年50号

まあ、国外で最も人気のあるジャンプマンガなので(適当)。

18.DEATH NOTE 作:大場つぐみ原作)、小畑健作画2004年1号 - 2006年24

サスペンス主体としたマンガとしてこれ以上ない完成度。ジャンプ作品を大別するとバトルものスポーツもの恋愛ものギャグもののどれかになるが、それ以外のジャンルで最も成功を収めた作品

19.鬼滅の刃 作:吾峠呼世晴 2016年11号 - 2020年24

ワンピース以降不在だった、圧倒的な看板力を持つマンガ趣味多様化出版不況といった逆風を跳ね返し、国民的な作品を生み出す力がマンガにまだあると示した功績がデカい。

20.チェンソーマン 作:藤本タツキ 2019年1号 - (ジャンプ+で連載中)

今のジャンプジャンルレス化している最大の要因はジャンプ+の影響であり、その代表格ともいえる藤本タツキを入れないわけにはいかない。まだそこまで顕在化してないけど、今後10年でタツフォロワー無限に産まれそうな予感がするので入れておく。

追記

一応30年くらい継続して毎週ジャンプ読んでます

ブコメでなんでこれ入ってないの?って言われた作品について

ブリーチ個人的にはリストに入れるべきか一番迷った作品るろ剣と入れ替えてもいいかも。売上的にも後世の影響的にも入っていいと思うけど、他の超長期連載作品と比べ終盤面白さを保ててなかったところがちょっとマイナス。実際掲載順もどんどん下がってたし

銀魂→人気売上的にはあり、メディアミックス成功度も高い。ただ銀魂がなかったと仮定した時のマンガ史的影響力があまり感じられないので外した

シティハンター→人気売上的にはあり、ただハードボイルドでもコメディでも上の作品複数あるように思う

テニプリ→正直候補に入れてなかったけど腐人気の拡大とテニス人口の拡大という意味ではたしかにアリだなと思った。入れ替えるならチェンソかデスノかな

ハンタより幽白→これ言うと公平性を欠いてると言われそうだが、俺は冨樫ジャンプ史上もっとも偉大なマンガであるという前提で全作品評価している。幽白は序盤の人情モノ路線打ち切り冨樫作家性が薄まっているように感じるため、より純度の高いハンタを選出。ただ未完に終わったなら幽白でもいいと思う

リンかけより聖闘士星矢→書いたように能力バトルマンガのパイオニア存在であることを重視した。1作家1作品縛りなければ入れてもいい

Drスランプ→1作家1作品縛りなければ入れてもいい

ひばりくん→もともとギャグマンガとして書かれた作品なので評価に迷う。入れ替えるならオレンジロードなんだけど、あえてオレンジロードを入れたのはジャンプギャグ要素を排した恋愛マンガをヒットさせたことによる後世への影響を重視したからなので...

はだしのゲンジャンプ掲載された期間が短すぎる

サーキットの狼ジャンプ史においてレース漫画存在感がさすがに薄すぎると思う、必然的に後世への影響力も低く評価せざるを得ない

ヒカルの碁小畑で選ぶなら流石にデスノかな

漫☆画太郎画太郎ギャグ面白いけど汎用性や他作家への影響に欠ける。なぜなら絵柄ありきで、良くも悪くもマネができないから。俺がうすたのギャグを高く評価する理由は、ストーリーににも絵柄にも下ネタにも頼らない純度の高さ(=マンガにおける笑いの一般化)にある

呪術→はっきり言って候補にも挙げてなかった。同世代チェンソ鬼滅より明確に格下だし、そもそもコンセプトがジェネリックハンタしかない以上このリストには入れられない。冨樫になくて芥見にはある面白さがあるとするならば俺とは感受性根本的に合わない

男塾→あれは劇画タッチとバトルものという過去メインストリームメタにしたギャグマンガなので、他作品の影響を大いに受けた側。このリストには入らない

2024-09-21

令和の虎 故岩井良明氏の言う「応援団リンチ事件冤罪」は果たして

2024年9月15日 YOUTUBEチャンネル 『令和の虎CHANNEL』主宰などを務める、株式会社MONOLITH Japan代表取締役 岩井良明氏が死去した。

彼のことを高く評価する向きもあるようだが、私は彼に対して否定的評価を有している。

また、私は同志社大学応援団に関わった人言でもある。

今回、彼の死去を機に、岩井良明氏が団長を務めていた同志社大学応援団でおきたリンチ事件について書こうと思う。

お断り岩井良明氏は死去しており、死者に対する名誉毀損は「虚偽の事実摘示した場合にの刑事処罰されます。また、民事上も概ね同様です。よって、本記事名誉毀損等にあたることはないものと考えています。死去により、生存する人物としての保護対象ではなくなり、歴史上の批判さらされることになることをご理解ください。

まず、問題の「同志社大学応援団リンチ事件」とはどのようなものであるか、当時の新聞記事1982年5月23日朝日新聞朝刊)では以下のように報道されている。

同志社大学松山義則学長)の応援団で、新入生が団員にしごきの「リンチ」を加えられて全身打撲の大けがを負ったことが22日明るみに出た。大学側は事態を重視して同日、応援団と同部に所属する吹奏楽部の対外活動禁止するとともに団関係者から事情聴取を進めている。

大学側の調べによると、20日から21日未明にかけて、京都市上京区烏丸上立売下ルの同大大学会館別館(学生会館)の応援団部室で、商学部に今春入学した団員の一年生A君(18)に対し応援団の二年生部員五人が「応援方法指導する」と言って、殴るけるなどの乱暴を加えた。A君は21日朝、自分で近くにある同大学の厚生館診療所に行き治療を受けた。全身に打撲傷を負っていたため、不審に思った医師が尋ね「リンチ」がわかった。事態に驚いた大学側はA君をタクシー下宿へ送る一方、応援団関係者から事情聴くとともに29、30日に西京極球場で予定されている伝統対立命館大戦にも応援団を出場させない方針を決めた。新発足した関西学生野球リーグ同大にとっては二位をかけた大事試合

27日夜には京都繁華街四条河原町同志社立命館の両大学学生がそろって繰り出し、応援団が主役を演じる恒例の「同立前夜祭」が行なわれる予定だったが、これも中止される見通しになった。

同大応援団一般学生応援指導をするリーダー部と、伴奏器楽演奏をする吹奏楽部に分かれており、団員は百人を超える。大学側はこの不祥事で、リーダー部だけでなく吹奏楽部自粛を決定。これに伴い同吹奏楽部は22日京都市岡崎で開かれた京都府内八大学の合同演奏会への参加を辞退した。

応援団は数年前にも暴力事件を起こし、大学から団の活動を二年間に渡って禁止されたことがある。

同志社野球部OBの一人は「伝統の同立戦を控え、立派な応援ぶりを期待していたのだが…。勇ましいのは結構だが行き過ぎは困る」と残念がっていた。』

これに対して、岩井氏はブロク(2006年掲載した記事現在は削除)で、リンチ事件実在しない。リンチ被害者狂言である自分背中自分で叩いたのだ、と主張している。

令和の虎CHANNELにおいても「冤罪」などと述べている。

これについて

・まず、当時の新聞記事からわかるように、被害者とされる人物が何者かからリンチを受けたというのは「医師の診断」により発覚し、同志社大学側が把握したとされている。

医師が全身の傷を検査し、加害による負傷に間違いないと診断したのである。そこに疑いの余地はない。

岩井氏はブログで「あれほど暴力あかんって言い続けて来たのに。」と述べている。しかし、岩井氏のブログでは、自身が下級生時代先輩団員から暴力を受ける様子が克明に記録されている。例えば、1981年出来事として「その後、我々三回生リーダー部長にどつかれ、二回生は三回生にどつかれ、一回生は二回生に半殺しにあった。」との記述がある(2006-11-24岩井ブログ記事)。暴力しかも「半殺し」が横行していた応援団で「暴力あかんって言い続けて来た」というのは無理がある。

・当の応援団自身が、リンチ事件存在歴史上の事実として認めている。同志社大学応援団現在は復活して存在するが「リンチ事件存在した、二度と発生させない」という見解を有しており、代々悪しき事例として語り継いでいる(同団ではこれを「継承」と呼んでいる。)。(なお、私が応援団に関わっていた当時、岩井氏が「同志社大学応援団総監督就任したい」との意向を有しており、他のOBらがそれを阻止していた、という話を見聞きしたことがある。)

これらの事実にも関わらず、岩井氏は結局最後までリンチ事実を認めることなく、被害者を貶めて来たのだと評価せざるを得ない。

岩井自身リンチの実行行為に関与していないとしても、応援団最高責任者として監督責任を有していたことは明らかであり、責任があるはずである。にもかかわらず稚拙論理冤罪を主張し、死ぬまで事実を認めなかったのは、残念である

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん