はてなキーワード: 義母とは
自分も3歳の子供がいるけど、問題は子供じゃなくて、ワンオペなんだよ。で、母親が周囲から隔絶して子供と向き合うだけになって、行き場がなくなると事件が起こる。
旦那にも相談してるとは思うけど、この様子だと多分ひとごとなんだろう。それならこれをプリントして旦那に見せるか、ダメそうなら義母に見せろ。それくらい自分が追い込まれていることをここじゃなくて、第三者に相談しろ。いっそ警察でもいい(これ見せたところで逮捕なんかされない)。
ネットに書くならこんな毒男しか見てないようなサイトじゃなくて、Xで匿名でアカウント作って気持ちを書け(よかれ悪しかれおせっかいで声をかけてくれる人がでてくるはず)。とにかくこの問題を自分の内側に溜め込んで処理しようとしちゃだめ。
子作りは全てエゴ。それはそう。
それはそうと話を聞いてほしい。
義姉の子供を引き取る事になりそうだが、その場合弟や妹を作ってしまうとその子供に精神的ダメージを与えてしまうだろうか?
そろそろ子供が欲しいと思っていたが、子宝に恵まれず不妊治療用のクリニックに通い始めて数ヶ月経った。
私達2人とも兄弟がいたのもあり、子供はひとりっ子ではなく2人は欲しいよねと話していた。
義姉はいわゆる「未婚の母」という状態で認知などもなし。女手ひとつで子供を育てていたが昨年大きな病気が見つかり入院。先月余命宣告があった。
義姉とその子供(以下A君)の面倒を見ていた義母から私達に「子供を引き取ってくれないか?」と相談があった。
私とA君はお盆や正月などの行事の際顔を合わせたぐらいだが、夫が実家を出る前まではかなり面倒を見ていたと聞いていたので、なんとなく任される気はしていた。
A君は現在小学生低学年なので、ある程度事情もわかっているだろうと思う。
そんな状況で私達が新しく子供を作るのは、かなり精神面にダメージを与えてしまうのではないか?と不安に思っている。
もし子供ができたとしたら平等に可愛がりたいと思っているが、子育ての経験がないので絶対!と言い切れるほどの自信はない。
しかし、元々子供は2人欲しかったしお金かけて不妊治療を始めたのに諦める事になったらとても辛い。せめて1人はパートナーと私の子供が欲しい。
でもやっぱり引き取った子供にも幸せになって欲しい……と堂々巡りになっている。
ちなみに夫の意見としては「気にせず子供作ってもいいんじゃない?兄弟多い方が楽しいでしょ」とかなら楽観的なものだった。本当にそうなるだろうか。
血のつながりが重要だ!と主張したいわけではないが、片方は養子、片方は実子、しかもそれを知っているのは養子の方だけ。となった場合やはり辛いものがあるのでは……と悩んでしまう。
相続した株式を使って自分が代表取締役社長になれば別だが、経営にたずさわらないのであれば、その「相応の額」は相続における評価(純資産に基づいた評価)よりもずっと低いものになる。創業家として義母さんが会社の人と良好な関係を築いていればいいが、そういうのがなく最近増えている裁判所で調停してもらうケースの相場だと、相続税も払えないレベルになる。
事業承継の優遇税制が使えないという増田の理解は合っている。というか、事業承継のための優遇制度であって、相続税の優遇制度あるいは抜け道制度じゃ無いんだから、今回みたいなケースで使えるわけが無い。資産管理会社の時点で無理だし、仮にそうならないような細工をしていても存命中に(相続直前時点に)役員でいたことが必要。でも、今回の相続人は事業を継ぐ素振りはこれまで一切見せて来なかったんでしょ。だったら優遇が認められる承継者にはなれない。あくまで今回、株主・企業の所有者になるだけ。優遇について語っているブクマカは他人事とはいえいいかげんなことを言い過ぎだわな。というか試算してもらったという書き方からして税理士等がついているんだろうから(おそらく、そのお父さんの会社の税務で頼んでた人じゃないかな?)、優遇が使えるなら教えてくれてないわけないじゃんね。使えるかどうかはあくまで制度上の要件の話なんだから税理士がわからないわけがない。
逆に言えば企業の所有者にはなるんだから、その立場を使うしかない。そっち方面からのアドバイスをしているレスは参考になる。社員のことを気にしているようだが、まずは身内が安全圏にまで行ってから考えることだぞ。そこのところの優先順位だけは絶対に間違えるなよ。というかお義母さんらにもそこはよく言って納得してもらっておけ。故人だって自分の会社のために嫁や子供が不幸にはなって欲しくないだろう。所詮は次期経営者でもないただの株主なんだから(だから優遇税制が使えない)、従業員の人生なんて背負い込む必要もなければ背負い込むべきでもない。付け加えるとしたら、相続放棄は実際にはそこまで面倒ではない点と、とはいえこのようなケースで相続放棄することは普通は得策とはならない点かな。
数世代の女性たちの年代記であり、「百年の孤独」と対比されるんだけれど、こちらのほうがずっと読みやすい。ちなみにガルシア=マルケスはコロンビア人で、アジェンデはチリ人。
しかし、女性の物語としての記憶は薄れていて、覚えているのは暴君として君臨していた祖父エステバン・トゥルエバのことだ。彼が地元の女性を強姦して産ませた息子が、因果が回って彼の孫娘を強姦する。因果というか、悪い行いの結果って一番弱い立場の人に最悪のしわ寄せがくる。しかし、孫娘の嘆きや苦痛は強姦の苦しみの割にはごく短く語られている。
同じく、よしもとばなな「アルゼンチンババア」かなにかで、語り手がいとこに犯されそうになったことをさらりと書いているのだが(そして、そのいとことほとんど恐れもなく顔を合わせるのだが)、性暴力について文学でどう扱えばいいのかは自分はよくわからない。女性からセクハラされた僕だって迷う。性暴力を表現するときにどれくらい気をつかうかは、殺人事件よりも慎重になっている印象がある(それだけ殺人が稀になったってことかもしれない)。
書かなかったのか、書くことができなかったのか。アンソニー・ドーア「すべての見えない光」でも、ソ連兵に犯されたドイツ人女性がたくさん出てくるが、彼女たちが戦後どう生きたのかについては、わずかしか触れられない。
道徳的な理由で表現が規制されるのは、真実から目をそらすことになる気がするので好まない。一方で、当事者の声を無視しても結果的には良い物にはならない。このあたりは想像力の飛翔との兼ね合いでいつも居心地が悪くなる。「好きなように書かせろ」という書き手としての自分と、「当事者以外が勝手なことを書くんじゃないよ」と別の自分がいつも喧嘩している。
ブルース・チャトウィン「パタゴニア」を読むと、旅はいい、とため息が漏れる。何度だって書くが、紀行文はいい。定期的に読みたくなる。その土地にしかない暮らし、風土、それゆえに自分たちと異なった風習を持ち、理解しがたい態度を取る人々。航空機以前のように、数か月の旅を空想するのが好きだ。チャトゥインはオーストラリアを舞台にした「ソングライン」もある。アボリジニは他の文化の持ち主には見えない道をたどり、万物に名前を付けて大陸中を歩いてきたのだ。
カルロス・フエンテス「老いぼれグリンゴ」はあまり記憶していない。モデルとなったアンブローズ・ビアスの書いた「悪魔の辞典」はかなり好きなんだけどな。筒井康隆を始めいろんな翻訳があるのでオススメ。
フエンテスは短篇集「アウラ・純な魂」のほうがずっと面白かった。老いが迫る男、幼馴染のようにべったりした兄妹の別離、小さい頃に一緒に遊んであげた小さな女の子の末路、鏡のある真っ暗な部屋で魔術によって若さを保つ老婆、それから脱走兵が出てくる。
ミシェル・トゥルニエ「フライデーあるいは太平洋の冥界」はかなり観念的な話だったと記憶している。文明と自然を対比させるために(?)読者に理解しやすいロビンソン・クルーソーとカオティックな行動をするフライデーが出てくるのだが、舞台はロビンソンが島そのものとの性交で子どもが生まれるという神話的な世界だった。これを読んだ後で、理解を深めるためにデフォーの原作を読んだのだが、記憶していたような絶海の孤島ではなく、近くに南米大陸がある島だった。そういえば子どものための抄訳版にも、近隣から人食い人種が攻めてくる描写があった。
M・G・ル・クレジオ「黄金探索者」は姉と弟の閉じた世界が壊れるというか、外部の世界を知るような話だったと記憶している。姉と不可分な存在となって、マダガスカルのサトウキビ畑を歩いていた場面があったはずだ。小さな子供の目から見た植民地世界の、どこかに宝物が埋まっているんじゃないかと期待しながらも、閉塞した記憶だ。ラストでは故郷も家族も恋人も黄金もすべて失い少年期が終わる。しかし、不思議と読後感が清々しいのはなぜだろう。まるで、すべてはここから本当に始まるのだ、という気分である。
ル・クレジオは難解な作品とそうでない作品の差が激しい。「海から来た少年」はまだわかりやすいんだけれども、太陽を見つめて意図的に盲目になる「大洪水」は二回読んだはずなんだがさっぱりわからなかった。
一時期ナボコフがすごく好きで、文学講義のシリーズも読んだんだよね。前のエントリで書いた「ロリータ」だけじゃなくて、ソ連から亡命した冴えない教授を主役にした「プニン」だとか、架空の国ゼンブラを舞台にした架空の詩と、それに対する真実か虚構かわからないような注釈が、見開きの右と左に分かれていた「青白い炎」だとか、そもそも実在する世界を舞台にしているかどうかさえ疑わしい兄妹の恋物語「アーダ」だとか、みんな好きだった。で、これらは英語で創作されているんだけれど、最後にロシア語で書いたのがこれ。詩人になるまでのお話。
難民のように食うや食わずではなかったけれども(そしてそのせいで政治的に過小評価されることもあるけれど)、ナボコフはやっぱり偉大な亡命作家の一人だ。でも、ユーモアを忘れていない。
で、本作では片想いをしている女性を思い浮かべながら、どの女性を見ても彼女のことを思い出し、彼女を連想できないタイプの女性には嫌悪を覚えたという趣旨のことを書いていて、ちょっとだけ分かるんだけれどひどいことを平気で言う作家だなと苦笑いをした。
フョードル・コンスタンチノヴィチに向かってうら若い、牛乳瓶を持った娘がやってきたが、彼女はどことなくジーナに似ていた。いや、より正確に言えば、この娘には、彼が多くの女性たちに見出しているある種の魅力――それは明確なものであると同時に、無意識的なものであった――ひとかけらが含まれていたのだ。そして、彼はその魅力の完璧なものをジーナの中に認めていた。だから、そういう女性たちは皆、ジーナとある種の神秘的な親族関係にあるということになるが、その関係について知っているのは彼一人だったのである。もっとも、その関係の具体的に言い表せと言われても、彼にはまったくできなかったけれど。(ただ、この親族関係の外にある女性たちを見ると、彼は病的な嫌悪感を覚えた)。
僕は基本的に豊かな知識を持ち、普通に文章を書くだけでその該博さがこぼれてしまうために、結果的にひけらかしと受け止められてしまう作家が割と好きで、一時期円城塔にもどっぷりハマっていた。一方で、「ロリータ」については、暇なときにパラパラとページを開いていると、語り手の身勝手さがだんだんと鼻につくようになってきた。ハンバート・ハンバートって、でっぷりしたおばさんを見て、「ニンフェットの美しい肢体を生き埋めにした棺桶だ」って趣旨のことを平気で言うんだもん。性格悪いよね。
とにかく、前は金に困っていない人間が、道徳を踏みにじっているのを美々しい文章で糊塗しているのが(当時は悪とは何か知りたかったし、悪いことをしている狂った人間の話が読みたかったし、知性を感じる文章が好きだった。そういう意味でも「悪」を扱った遠藤周作がすごく好きだった)面白くてしょうがなかったのだが、いまとなってはそこまででもなくなっており、自分の中で「ロリータ」の魅力が少しかすんできた。それとも僕が少女に心惹かれなくなっただけなのか。
なんにせよ猛烈な魅力を感じていたのにプツンと魔力が消えてしまうことはある。以前は三島由紀夫が大好きだったのに、「豊饒の海」を読む前に魔法が消えた。たとえば「潮騒」を読もうとしたら、彼の文章のリズムが心に響かず、全然読めなくなっていた。
少女と言えば、初めて「ロリータ」を読んでいた二十代の頃、一年に数回ほど発作的に年端もいかない少女に対する強烈な憧れが募っていた時期があったのだが、少女と知り合って仲良くなるプロセスを現実的に細かいところまで検討すると、真っ当な手段がどこにも存在しないと気づいて、途端にこうした欲望への嫌悪の情が浮かんび、緩解していった。それに、無知な相手を自分の利益のためだけに利用するのは邪悪の定義に当てはまってしまうしね。
おそらく、当時の自分が憧れていたのは現実の少女ではなく、思春期の頃に空想するような、成長の痛みや性の悩みに寄り添ってくれる同い年の少女で、その記憶を引きずっているに過ぎないのだ。つまり、幼馴染への憧れだ。そういう少女と思春期の頃に出会えるはずはないし、自分の問題は自分で解決しないといけない。そのうえ、よしんば実在したとしても、そんな少女とは「ノルウェイの森」のキズキと直子や、「海辺のカフカ」の佐伯さんと彼女の恋人のように閉じた関係になってしまうだろう。結局は、成長の痛みを引き受けないことによる歪みを必ずや生み出すだろう。そういう空想上の女の子は自分自身の鏡像、ユングのいうアニマで、つまるところこれは自己愛である。今はむしろ年上好きである。
(どうでもいいけどウィキペディアのロリコン写真集の記事、内容がやたらと詳しいんだがこれって倫理的にどうなのよ。誰かが興味持っちゃったらどうすんの)
ピンチョンはよくわからない。陰謀論をネタにしているんだろうが、直接扱ったエーコ「フーコーの振り子」のほうがエンタメとして好き。陰謀論的な思考をちゃんと茶化しているしね。個人的にはエーコが作中で既存の有名どころの陰謀論をすべて統合したオリジナルの壮大な陰謀論を作り上げているあたりがヤバい。あるいは架空史の仁木稔の「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」か。困ったことに、これらの作品が発表されてから陰謀論はネタとして面白い物から現実の脅威となってしまっている。
エーコが楽しめてピンチョンにピンとこなかった理由を考えてみると、たぶん元ネタとなる知識をどれくらい知っていたかに尽きる気がする。自分はキリスト教やオカルティズム、カバラや魔術については多少わかるのだが、六十年代のアメリカのポップカルチャーや現代のエンタメには詳しくない。だが、この作品は実際、死をもたらすツボ押しマッサージが出てきて「あと何日でお前は死ぬ」みたいな「北斗神拳」っぽいネタを扱っている。なんせこの爆弾を埋め込まれるのが日本人サラリーマンなのだ。
文庫本にして三冊の本を無理やり一冊に押し込んで、小さな活字二段組みなので読むのがしんどいし、「早く読み終えなきゃ」って焦ってしまった覚えがある。馬の生首のシーンが有名だよね。
三歳で成長するのをやめたダンツィヒ回廊生まれの少年が主人公の癖に、義母を寝取って子どもを産ませているんだから、とんでもない話だ。純粋無垢なままでいるために三歳よりも大きくなるのをやめた話と思わせて、実は様々な女性と恋愛遍歴をしている。家族が次々と殺されて行ってもね。
そういえば、さっきモテる奴の話を読んで何が面白いのかと書いたけれども、舞台が現代日本でなければ別世界のファンタジーとして享受できるらしい。幼馴染のロマンスだって、別の国や時代が舞台ならまだ受け入れられる。たとえばロンゴス「ダフニスとクロエ」だけじゃなくてコレット「青い麦」も割と好き。どっちも少年側が人妻に性の手ほどきを受けるので、これで多少性癖が歪んだ気がする。村上春樹「海辺のカフカ」と合わせておねショタに目覚めてしまった。あと、青春物があまり好きじゃないのに、「十三機兵防衛圏」はプレイできているの、あれが一つは君と僕みたいだけみたいな閉じた雰囲気じゃなく、感傷ダダ洩れの地の文章が無く、群像劇だからってのもある気がする。
話を戻す。うじうじしているくせに、本当はモテることにすごく憧れているただ。だが、十五分の自慰行為のあいだならエロ漫画の主人公と同一化できるかもしれないけれど、数時間かけて読む文学では自己同一化の魔法は解けてしまう。細かい設定があるのだから、自分との差異がどんどん強調される。自分は到底なれそうにもない、かっこいいキャラがモテても、ちっとも面白くないのである。しかしこんな話を聞かされる読者も面白くないだろうしこのあたりで切り上げる。小説のダメな人間、僕が先に好きだったのにという人間にならなんとか自己同一化できたのである(余談だが、かつての週刊誌の中づり広告のようなエロス無法地帯のウェブ広告で「カラミざかり」が出てきたとき、主人公の来ている服のロゴに「cuckold」と書いてあったが、これは英語で「寝取られ男」という意味である。そういう芸の細かいところ、わかる人にはわかる小ネタは好きよ)。
少し現実的に考えてみれば、滅茶苦茶にモテて複数の女性から同時に交際を求められたら、しかも好みの相手でなければ、それはそれで面倒そうなのであるが、嫉妬と羨望に狂っているさなかにはそれはわからない。同じく、浅ましいことに3Pとかも憧れるけれど、よしんばそんな機会が訪れたとして、絶対気をつかうし面倒くさい。自分が手に入れられなかったものは理想化されて頭の中で猛烈な輝きを持つが、一度頭を冷やしてみよう。
続く。
人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする。
続く三冊は二〇二一年頃の別のエントリで一度褒めている(anond:20210301080105 とか)。
この本は場所への執着や記憶をもとに二つの家族の話を物語っている。一時期なぜか「インドへの道」や「眺めのいい部屋」、それから「天使も踏むを恐れるところ」を立て続けに読んだのだが、今になって振り返ると、なぜそんなに良いと感じたのかが、記憶からすっかり抜け落ちている。土地や家に対する執着やそれにまつわる因縁がどぎつくはないがちゃんと表現されていたからかもしれない。漱石っぽいと日記に書いていたのだが、では漱石っぽさとは何なのかがよくわかっておらず、逆に漱石が英文学っぽいのかもしれない(関係ないけど、夏目漱石を久し振りに読もうと思ってパラパラとめくっていたら、当時の知識人のひけらかしが今の大学生っぽくてなんだか恥ずかしくなってきた。あと、漱石の長編って貨幣経済というか金の話ばっかりだけど、その萌芽って「坊ちゃん」で山嵐と金を受け取るか受け取らないかで意地の張り合いをしているところにある気がする)。
このエントリにしたって、自分の過去の好みや性癖について書いてはいるものの、ではなぜそんなに当時は好きだったのかが、いま一つ理解できなくなっていて、過去の日記を読み返しても想起できないことが多々ある。もっときちんと日記に感想文を記しておけばよかったか。しかし、ある時期はまるで依存するかのように活字に触れていた。落ち着いて感想を書きとめる間もなく、浴びるように濫読していた。現実から目を背けるかのように書物に埋没していた。フィクションだったら何でもよかったのだろうか。そう思うと少し悲しいが、その濫読が今の感受性を作っているのかもしれない。
イサク・ディネセン「アフリカの日々」は最高だった。とかく植民地としてのアフリカは収奪と貧困という文脈から語られやすく、確かにそうなのだけれど、でも場所によってはコンゴ自由国ほど滅茶苦茶ではなかったし、では具体的にはどんな感じだったのかをこの本は見せてくれる。中にはこの著者のように、当時の人種的偏見という制約はあるにせよ、相手の文化を知ろう、誠実であろうとしている人もいたのだろう。「ライ麦畑」でホールデン少年が褒めていたのもうなずける。
だからと言って歴史を正当化できるわけではないのだが、感情だけで歴史の議論をしてはいけないし、知識がないのに印象だけで語るのはきっと同じくらい罪深い。当時生きてきた人たちの存在を無視するわけだからね。黒人対白人って軸も実はけっこう解像度が荒く、事物の単純化を含んでおり、特定の側面はアメリカ合衆国特有だ。この著者はデンマーク人で直接の宗主国の人間ではないし、アフリカにはインド系など様々な人々が暮らしている。
エイモス・チュツオーラ「やし酒飲み」は神話なのでツッコミ不要だしツッコミ不在だ。
世界の神話を読んでいると、なぜか人類創造前なのにその辺におじいさんとおばあさんが住むんでいたりするし、天地開闢以前なのに山や川があるし、神様と人間の違いがいい加減だったり、普通に変身能力があったりするし、この小説にも日本神話にもそうした側面がある。とはいえ、神話にゴリゴリしたロジックを求めてもしょうがないのであり、「こうして今ある通りの世界と社会が成り立っているのです」と語ることに意味があるのだろう。なお、アフリカ文学と聞くと個人的にアチェベが最初に出てくるんだが、それとは別に祖父の本棚から貰って来たアレックス・ヘイリー「ルーツ」はまだ積んである。
これは別の友人が薦めてくれた本。彼は「おっさんになると文学が読めなくなり、生物学や歴史の本ばかり読むようになる」と言っていたが、本当にそう思う。和訳で二十巻くらいある「ファーブル昆虫記」とか数年前に読んだし。なお、熱量がヤバいのでこれ以外のフォークナーの本は読めていない。
語り手が複数おり、時系列もバラバラなので(クンデラも星を五つ付けてた。自覚してなかったけど、僕ってこういう時系列シャッフルが好きなのかね?)、一見とっつきにくいのだが、情報を整理しながら読んでいくうちに、これはサトペンという男の一代記であるとわかる。肉体を鍛えてひたすらタフになり、若いころの屈辱に対して復讐するかのように、妄念によって偉大なる一族の祖になろうとした男だ。ひがみ、妬み、怒り、そうした感情を持った物語に僕はついつい引き込まれてしまう。最初の妻に黒人の血が混じっていたと言って離縁し、別の妻と結婚した結果、それぞれの家系に不幸な子孫が生まれ続けていき、とうとう滅んでしまうのだが、それはサトペンが貧困ゆえに受けた一つの屈辱から生まれたのだと思うと、まったく救いがない。しかし、この熱量に負けて読んでしまった。
ただタフになりたいと言っている人間は、どこかで涙を流さないとマシーンになってしまう。村上春樹「海辺のカフカ」を読むとわかる。
ところで、フォークナーは日本を訪れて「私も敗戦国の人間です」と言ったそうだ。胸を張って祖国を自慢するのにためらうような、この南部アイデンティティのことを、BLM運動が燃え盛っている時に、思い出していた。
数世代にわたる大河小説と言えば、最近は学生時代から積んでいた北杜夫「楡家の人びと」を読み終えた。今になって読むと、これは経済的には恵まれているが機能不全を起こした家庭が崩壊していく話で、北杜夫が尊敬していたトーマス・マンの「ブッデンブローク家の人びと」とはまた別の嫌な没落ものだった。どちらも、最後の世代の一番情けのない甘えん坊で覇気のないやつに自分を重ねて読んだのである。
全くの余談ではあるが、どうも自分は影響を受けやすいらしく、明治から昭和を舞台にした小説を読むと、いつの間にか米国憎しみたいな気持ちがうっすらと育っていくので、無意識に影響を与える点ではSNSの悪意を持ったアルゴリズムは同じくらい怖い。
実はどちらも内容をほとんど覚えていない。
とはいえ、ポール・ニザン「アデン、アラビア」のように若い人間が、抽象的な何かを抱えて異国をさまよう話というのはそれだけでいいものだ。そこからしか得られない心の栄養がある。自分が何者になるかがまだわからない頃にしか書けない/読めないものがある。池澤夏樹のこの全集にもそういう話がいくつか納められている。
ジャン・ルオー「名誉の戦場」は過去の大戦の傷跡がうっすらと書き込まれているらしいのだが、当時の僕にはまだ読み取れなかった。おじいちゃんがヌーディストビーチをのぞきに散歩しに行ったエピソードしか覚えていない。
手に取った小説がとても長かったり、プロットが入り組んでいたり、暗喩がわかりづらかったりと、読むのに訓練がいるものだったりして、結局理解しきれないことがあるけれども、そうした文学を読む力(あらすじや登場人物やその関係性を記憶する力)を養うには、結局そういう本を気合で読み進めなければいけなんじゃないか。文学案内や文学の読み解き方を勉強せず、裸一貫でドン・キホーテよろしく風車に突撃していった僕なんかは、そう思うのである。
アパルトヘイト真っ盛りの南アフリカで、一人暮らしのおばあちゃんが(調べたらがん患者だった。記憶からすっかり抜け落ちていた)、黒人のスラム街に紛れ込み、こうなったのは誰のせいだ、お前らのせいじゃないか、イエスかノーかで答えろ、みたいに言われる話だ。大体クッツェーはこういう政治的な話が多い。
二分法はそもそも好きじゃない。もともと自分は口下手で、話をしっかり聞いてもらいたい方であり、こちらの話を聞かずに一方的に話をされるのが嫌いだ(その場でうまく言い返せないからこうして延々と文章を書き綴っている癖がついてしまっている。とにかく僕は延々と気が済むまで言い訳を聞いてほしいし同情してほしい)。
正義である我々に味方しなければ、お前は悪に加担したことになる。似たようなことを米国のSF大会で述べた人がいたね。個人的には、社会正義の理屈としては正しいと思うけれども、好きか嫌いかと言われれば嫌いだ。この二つは全く異なる軸だ。お前は明日死ぬかもしれないというのは論理的には正しいが好きではない、というのにちょっとだけ似ている。まったく別の評価軸で、両者は重ならない。
うっすらした類似でいえば戦争責任にも似ている。「なぜ生まれる前のことに取りようがない責任を取らねばいかんのか?」ということでもある。あるいは、メンタルが弱っているのに、「あなたの人生はあなたしか責任が取れない」と言われ、ますますしんどくなるのにも似ている。どちらも「責任」が絡んでくる。誠意ってなんだろうね?
やっと納得できたのは、アイヌ民族の議員である萱野茂がある本で書いていた「こうなったのはあなたのせいではないが、この状況をただす力をあなたは持っている」という趣旨の言葉で、これは「責任」を「重荷」や「義務」や「罰」ではなく、「現状を少しでも良くするためのパワー」という肯定的な言葉で語りなおしている。責任という言葉は、人によって使い方に若干のずれがあり、だから違和感があったのかもしれない。。
とはいえ、そこまで考えている人は少なく、九割の人は自分の立場の都合しか主張しないし(ただし、そのパワーバランスで民主主義が機能している可能性はある)、それどころか自分とは違う属性を平気で差別している例も多々ある。被差別民が女性を、女性が障害者を、障害者が外国人を、自己正当化する理屈と共に平気で見くだし、差別する例をすべて見て来たし、アラフォーになってしまった今でも、サリンジャー「ライ麦畑で捕まえて/キャッチャー・イン・ザ・ライ」のホールデン少年みたいに、多くの活動家や安易にSNSで「いいね」を押す人々を「あいつらはインチキだ!」と独善的に糾弾してやりたい思いは消えない。他人の言葉は信じられない。納得できるまで自分で考えるしかない。とはいえ、あらゆる憎悪も究極的には自分や身内が安全でいたいという素朴な願いから来ているので、相手を批判しても全然解決しないんだろうな。
この作品も一度褒めた。
エルサ・モランテ「アルトゥーロの島」は息子を放置して放浪を続ける主人公の父が、同じくらいの年頃の義母を連れて帰ってくるんだけど、主人公がその義母に対して屈折した気持ちを持ち続ける話だった。確か恋愛感情にはならなかった気がする。完全にネグレクトだし、主人公の愛情というか思慕は義母ではなく実の父に向かっている。この父親のように感情を表現できない、義務だけで動く男性キャラにひかれていた時期があったのだけれども(1/12追記:この父親は義務で動いているわけじゃなくて、一般的に義務で動くキャラって意味。感情を表現しないという部分だけが共通)、それは何でだったかはよくわからない。当時の自分がやらねばならないことで動いていたからかもしれないが、その結果として案の定心身の調子を崩した。父に対する巨大感情という意味ではエヴァンゲリオンじゃんという気もしないではない。あれにも同い年の「母」が出てくるし。シン・エヴァンゲリオンではちゃんと父親の内面が出てきたけど、この作品では記憶にある限りでは出てこない(何となくだが庵野秀明といい村上春樹といい、多くのクリエイターは親が世を去る頃になってやっと親を直接扱うようになる気がする)。
閑話休題、大体、やらなければならない義務を果たすのだけが行動原理になると、晩年に「この人生は一体何だったんだ」とカズオ・イシグロ「日の名残り」のように嘆くことになる。カズオ・イシグロは長篇を全部読んで、「この作家別にそこまで好きじゃないな」って気づいたんだが、「日の名残り」は別格だ。
ナタリア・ギンズブルグ「モンテ・フェルモの丘の家」は書簡体小説で、親しい友人のSNSでいうクラスタというか、友人の輪とその周辺のやり取りをずっと追い続けていて、近づいたり離れたりという感じが、人生のある側面を忠実に表現しているみたいで好きだった。ちょうど周囲で結婚ラッシュが起きたり、ちょっとした行き違いで不仲になる友人を見て来たころだったと記憶している。この人の作品は良くて、ずっと不機嫌なお父さんが出てくる「ある家族の会話」など何作か読んだ。
あと、須賀敦子いいよね。誠実な翻訳をする人の書く文章は、そもそも美しい。
続く。
嫁入りした以上将来自分が入る予定の墓のこととはいえ、よそ者が決定権や口をはさむ権利もないのでこのことは全く触れないでいたら、なんか義母が最終的に墓石を買っていた。
なんというか、永代供養の家族版?のような奴で、永大供養されるからお墓の日々の管理はしなくていいけど、寺の集合墓じゃなくて親戚筋までの人が入れる墓地になるらしい。
義実家は義母とその姉夫婦の仲がいいので、その両家の墓としてその血筋の人はそこに入るとのことで。
え、よくわかんないけどそれって墓じまいって言うのかな?
私てっきり墓をなくすんだと思ってたから、自分たちは家を買った先でまた時期が来たら考えようね~って夫と話してたんだけど
なんか話を聞いてたら私も夫もその墓石の下に入れられるらしい。
今は同じ関東圏に住んでるから墓参りなんかもまだできるしいいけど、私たちの子どもがもし地方へ移住してしまったら?そして今は仲いいから両家の墓として共有してもいいけど私たちと叔母夫婦の子供が将来仲たがいしたら?私たちの子供とその子供が仲たがいしたら?結局墓の管理やあれこれは残っているのでは・・・???
なんだこれ?
娘って大切にされてるなあと思って欲しいのと
いつもお世話になっているお礼をこめて
ウェルカムスイーツにお義母さんの好きなものが出て(それきっかけで見つけた)
温泉好きのお義父さんのお眼鏡に叶う室内露天風呂(部屋は2人×2でとったので遠慮なくくつろいでいただける)
夜はふぐのコースなど
完璧のはずだった
夜までは
翌日の朝、俺の肛門近くには直近の仕事のストレスと義両親といることでの緊張、水分を摂ることを忘れていたことでありえないほどカチカチになったウンコがあった
部屋でウンコをすると匂いが残りそうで嫁が可哀想だったのでラウンジの近くにあったトイレに駆け込んだ
しかし硬すぎて出ない
どんなにふんばっても出ないので気を取り直してラウンジでミルクと水を気休めに飲んでから再度トイレに向かう
出ない
「ウンコ 硬すぎる 出ない どうすればいい」と調べる
Google「指で掻き出しましょう、ウンコに指を引っ掛けてズルっとやりましょう」
できるかそんなことアホかお前人の立場と状況考えろ
そんなこと29年の人生でしたことねえしウンコに指引っ掛けるってなんだよ原始人かよ絶対しねえよアホか
再度トイレへ
出ない
嫁と2人ならまだ笑い話になるがさすがに義両親の前でこんなこと言えるはずがない
頼りになる男に娘は大切にされていると思ってもらいたい
ウンコが出なくて泣きそうになって額に汗をかいている男と思われたくない
俺は決心した
この素晴らしいホテルの素晴らしいトイレで肛門に指を突っ込みウンコを掻き出すしかない
覚悟を決めて指を突っ込む
最初は逆にウンコを奥に押し込んでしまったりしたがウンコを細かく掻き出すことに成功し最後はズルッと出た エクスタシーすら覚えた
ウンコは意外にも臭くなかった 心から安堵したから匂いなど分からなかったというのもあるかもしれない
香り高いハンドソープで洗うが、洗浄力が微妙なのか何度洗っても取れない
申し訳ないと思いながらもフロントでアメニティのメイククレンジングをいただく 快く笑顔で差し出してくださる
願い虚しく指先にはほんのりウンコの匂いが残った 嗅がないと分からないレベルにはなったが
俺は急いで部屋に戻り嫁と義両親と一緒にラウンジで帰りの車で飲むドリンクをいただいた そしてチェックアウト
ほんのりウンコの香りがする指で車を運転し義両親を義実家へとお送りした
幸い義両親はとっても喜んでくれて本当に良かった
お義父さんお義母さんごめんなさい
自分は綺麗なホテルで必死に指でウンコを掻き出す情けない男です
あとGoogle先生ありがとう 最初はふざけるなと思ったけど原始的すぎて逆に自分では思いつかなかったし本当に助かりました
ちょっと前にタイトルに書いた「親が再婚同士で子供が恋愛関係になる漫画ってなんだけっけ?」みたいなネット書き込みに「それマーマレードボーイ!」とツッコミが入る流れを見た。
80年から90年代の漫画だったと思う。少年漫画ではなく少し青年向け。マジな恋愛ものというよりはラブコメ。
主人公は確か中高生くらいのヤンキー。父親が元ヤンキー?で現在は弁護士。
再婚相手になる義母は美人で肝が太い女性。そしてやはり美人でシャキッとした娘がいる。
親同士の再婚で一家の同居がはじまり、すぐに子供達が恋愛関係になりそうになる。
しかし父親が主人公に「俺たちは再婚したのだから子供達のお前らはきょうだいになった。セックスしたら違法。捕まるぞ」と脅す。
夜。ベッドで義母が「本当に捕まるの?」と笑いながら夫に聞くと「再婚同士であれば、その子供達は結婚できる。法的には結ばれようが問題ない」ニヤりと返す。
これが1巻だった気がする。
作者は湘南爆走族の吉田聡だったと思ったけど調べたらそんな作品は出てこなかった。出版元は少年画報社とか、そういう三大メジャーじゃないとこだったと思う。
1週間くらい調べたけど結局わからなかった。
これ以上眼圧が高くなって目が爆ぜないように目薬を処方されている。
目薬がなくなったら経過観察と目薬を処方してもらうために、
そもそも、義妹曰く、冷蔵保存の目薬を常温で保管(リビングにおきっぱなし)してダメにしてしまったこともあるようだから、
頻繁に出入りしていた私だし、直近で病院に連れて行ったのも私。
(私が気づいたので5,10分程度で外に出せたが、酷くバテていた)
犬のことを可愛がっているし義母なりに大切に思っていることは伝わるが、
適切に飼育できているとはとうてい思えない。
義父が先月癌で亡くなるまでは頻繁に義実家に出入りしていたが、
往復で5時間、交通費2万5千円かかるので犬の様子を見るためだけに
これまでと同じ頻度で顔を出すことは時間的にも経済的にも厳しいので、
義父が亡くなりおそらく犬が心の拠り所だから、
適切に飼育できる親族や私たち夫婦が引き取る提案も現実的ではない。
犬、まだ7歳で犬種的にも白内障や緑内障を発症するには少し早いみたいなので、
ちなみにペット保険未加入も通院をサボる理由の一つなのかもしれない。
直近で連れて行った時は諸々で3万弱かかったけど義母からお金貰ってないし。
病状が悪化する前に何とかしてあげたいけど、何か良い方法はないものか。
できれば穏便に進めれるアイデアあれば…
そもそも妊娠出産だけでもきついのに、その後の育児も子供が障害持ちだったり問題起こしたら母親の責任にされる、子供が病気や障害を負ったら旦那に離婚されて逃げられ貧困シンママ化(玉木宏の母と妹もそのパターン)
そして子供の学校やクラブや塾や地域繋がりで性格のどぎつい攻撃的なママやイジメ大好きママやヤンキーママ、そして忌まわしい義母や夫側の親族との付き合いから逃れられない
セックスが大好きな女、なおかつ自由恋愛で結婚後の苦労も厭わないレベルで惚れ込んだ男や末永く妻子を庇護できる同世代の高身長で稼げるイケメンや社会的地位の高いセレブを捕まえた女くらいしか結婚しようと思わないだろ
だからリアルのセックスや恋愛に興味のない女や平均以上のスペックの男に出会えなかった女は生涯独身でこどおばやバリキャリや医療職など堅い職に就く
男余りはこうして発生する