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天皇に関するgohshiのブックマーク (4)

  • 大正天皇は側室の子供?噂されている天皇家の謎と秘密 [社会ニュース] All About

    なにかと噂はありながら、実像があまり知られていない大正天皇を中心に、父・明治天皇、子・昭和天皇との関連性を見ていきます。大正天皇の残したものとは何でしょうか。 世襲君主制の危うさ 過去、子どもが1人もいなかった天皇は何人かいます。天皇家だけではありません。初めて関白になった藤原基通は養子でしたし、室町幕府の5代将軍足利義量(よしかず)は子どもを生まず19歳で亡くなり、将軍位はしばらく空位になりました。江戸幕府では、将軍家直系が絶えたときに備えて御三家というしくみを用意していました。そして江戸幕府開始から1世紀少しで直系は絶え、御三家から徳川吉宗が将軍に就いているのです。 吉宗の直系の孫である家治には子がなく、傍系の一橋家斉が継ぎます。彼は50人あまりの子を残しますが、それでも直系の孫である13代将軍家定の子はなく、跡継ぎをめぐっていわゆる「安政の大獄」が起こっているのです。 世襲君主制は、

    大正天皇は側室の子供?噂されている天皇家の謎と秘密 [社会ニュース] All About
  • 『内奏―天皇と政治の近現代』 - Apeman’s diary

    後藤致人、『内奏―天皇と政治の近現代』、中公新書 先日言及した『新・現代歴史学の名著』と一緒に買ってきたもの。「上奏」「奏上」「内奏」「密奏」などさまざまに表現される「奏」の実態や変遷を幕末から近年に至るまでの期間について論じるというもの。ただし分量的には昭和期の「奏」についての記述が圧倒的に多い。これは現代の読者の関心を考えれば当然のことか。第5章、6章が戦後昭和期の「内奏」を主題としており、新憲法下での昭和天皇の政治関与を明らかにしている。タイトルが「内奏」となっているのは、戦前・戦中においては「公文式」「内閣官制」など国家法の枠組みに位置づけられた「法律・勅令など天皇裁可を必要とする公文書の天皇への報告手続き」(11頁)であった「上奏」が現憲法下では消滅し、インフォーマルな政治的慣習であった「内奏」が継続することになったため、幕末期から現代までをカヴァーする書の一貫した対象になりう

    『内奏―天皇と政治の近現代』 - Apeman’s diary
    gohshi
    gohshi 2010/04/10
    コメント欄、永井先生の書き込みがためになる
  • 「制度」としての「天皇制」と「身体」としての「天皇」 - 塾講師のつぶやき

    反天皇制運動の困難さは「制度」としての天皇制への動員が「身体」を通じて機能する点にある。「制度」に対する批判が「身体」としての天皇批判にすり替わる時、反天皇制運動は「非人間的」として非難される。しかし昭和という時代は「戦犯」という視点で昭和天皇を批判することで、「制度」としての天皇制批判に直結しえたのだ。「戦犯ヒロヒト」なる言い方がある程度(かなり限定的だっただろうが、少なくとも天皇制批判をその中核に据えていた歴史学においては比較的よく聞かれた言説)有効性を持ったのには、昭和天皇という「身体」を批判することが可能だったからだ。昭和から平成に変わった時、「反天皇制」を掲げる時に、もはや「身体」への批判は「制度」批判としての有効性を持ちえない、ということを意識すべきであった。私がある学会の委員をしていた時、今上天皇が戦争責任について論及した時、学会の委員の多数派が今上天皇批判を展開した。私はそ

    「制度」としての「天皇制」と「身体」としての「天皇」 - 塾講師のつぶやき
  • 左翼の首を絞める者 - 塾講師のつぶやき

    『習慣金曜日』主催でのミニコントについての感想。この人たちは「昭和」を引きずっているのだな、と思った。天皇への誹謗中傷が有効と勘違いしている。深沢七郎の「風流夢譚」や大江健三郎の「政治的少年死す」の過ちを繰り返しているのだ。あるいはXデーの頃に「反天皇制Q読」などが撒き散らした「左翼的下品さ」という言葉が当てはまる。救いはそのコントが「週刊新潮」の報道によればスベっていたようで、これで大受けであれば絶望するしかない。こういう「左翼的下品さ」がいかに「左翼」の勢力を減退させたかはいい加減分かりそうなものだが。 追記、ブクマでkechack氏から「70年代のうちに多くの左翼は天皇制批判が有効でないことを悟り、反天皇の立場を捨てたか、天皇制維持派に転じたはずだが」というコメントをいただいた。菅孝行『全学連』を見ても三沢知廉『天皇ごっこ』を見ても一般論としてはそのように思われる。私が見ていたのは

    左翼の首を絞める者 - 塾講師のつぶやき
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