はてなキーワード: 市道とは
母娘3人乗った車が炎上 2人死亡 直前にトラブルか 愛知・半田市
https://news.yahoo.co.jp/articles/c15f5772015259410949c6443ef2950a452c4ee5
略
警察などによりますと、3日午前2時ごろ、半田市青山の市道で、軽乗用車がガードパイプに衝突し横転。衝撃で車は炎上しました。
母親とみられる遺体がみつかったほか、岡村咲良ちゃん(2)が車外に投げ出され、病院に搬送されましたが、約1時間後に出血性ショックで死亡しました。
4歳の娘は、車内から助け出され、命に別条はないということです。
略
捜査関係者によりますと、事故の前、車には父親も乗っていましたが、母親と父親が車内でトラブルになったとみられています。
2人は飲酒していたということで、助手席に乗っていた父親が、車を降りた後、母親が運転する車が、娘2人を乗せたままガードパイプに突っ込んだとみられています。
略
前
https://anond.hatelabo.jp/20240502193038
学生時代は、健康づくりのために、鹿渓館(学生棟)という建物の地下2階にある【トレーニングルーム】に通っていた。授業が終わった後に、週に三度くらいかな。
ここでは、体育会部活の支配(?)が圧倒的だった。柔道とか空手とか陸上とかラグビーとかウェイトリフティングはもちろん、数多くの部活がトレーニングルームを使用していた。めちゃ狭かった思い出がある。
自分のように体育会でない者は、ひたすらにベンチプレスの順番を待つしかなかった。でも、なかなか空かないんだよな。ベンチプレス。あとは、体育会の利用者が優先という空気があったし、実際そっちの方があるべき姿だと思っていた。
ただ、自分の番が周ってきて、ベンチ台でバーベルとか持ち上げたりするじゃん。その時にさ、ガーーーンッ!! という大きい音がするのだ。見れば、隣のスペースでアップライト気味に胸~頭上にバーベルを上げていた柔道部の人が、バーベルを放り投げるようにして床に落とすのだ。
あれは、マジでびびったわ。重さが50kg以上もある物体を放り上げるだけの筋力が俺にもあれば、驚かずに済んだのかもしれない。
結局、夕方以降にトレーニングルームを使うのはやめて、早朝にトレーニングする派に転向したんだっけ。朝だったらベンチプレスも、腹筋台も、エアロバイクも、大型鏡の前も空いている。
確か、カブトムシその他の甲虫類が、クヌギやコナラの樹液を深夜に吸うのって、スズメバチを回避してるんだよな。日中にスズメバチとやり合うと甲虫側がボロ負けするので、彼らは仕方がなく時間帯を変えて樹液を吸うのだ。俺もその仲間だった。正体は甲虫類である。
ただやはり、体育会の人たちはバックグラウンドが違うこともあって、正直無理なことがあった。特に野球部や柔道部といった上意下達のイメージがある部活は、当時の自分からするとヤベーことばかりしていた。
夕方以降にキャンパスから下宿に帰ろうとする時、北側キャンパスの中庭付近で、体育会の人たちがバイオレンスなことをしていた。例えば、誰かのTシャツの胸あたりを両手で掴んで、ブンブン振り回していた。後は、後輩にエレベーターかトイレの前のタイル貼りのところで、床オナをさせていた。あれは振りだったと信じたい。通りすがりの人は普通にスルーしていた。
基本的に、体育会の人達はやりたい放題だった。2024年現在と比べれば、あの頃の世界は「実績があれば何でもよかろう」の世界だった。実際、彼らはある程度の実績を出している。
例えば、先ほどの鹿渓館の中にある部室棟について、2階とか3階の日当たり良好なスペースは体育会が占めていた。部室の出入口は中がいつでも見えるように、目線の高さの0.5㎡ほどがガラス張りになっているのだが、彼らはそれすら張り紙で覆い隠していた。たまに、男性や女性の怒声や、うめき声や、金切り声が聞こえていた。一体、中で何が行われていたのだろうか……。
ちなみに、【文化系部活】は地下1~2階に生息していた。ジメジメとした暗い空間である。そこで毎日の部活動をしていた。最新の大学キャンパスを見る限りは、おそらく今でも其処に彼ら彼女らは生きているのだろう。
まあ、でもこの頃って、だいたい20才くらいだったからだろうか。なんでも楽しかった記憶がある。
大学の構内だと、学食でごく稀にだけど、同じゼミの人と一緒にご飯を食べることがあった。京都の山間部にフィールドワークに行く関係で、事前に同じチームで親睦を深めるのだ。半強制のイベントだったけど、ああいう体験って、あの時分じゃないとできない。
大学近くでも、例えば喫茶店がふたつあったんだけど、社会福祉のカフェの方に割と行っていた記憶がある。お値段が安いからだけじゃなくて、なんか、どんな人でも受け入れるというか。そういう感覚がよかった。
教授が言うには、昔は大学に接している市道の上に、お昼時にたくさんの屋台が出店していたらしい。むかし、食中毒みたいな事件があってからは締め出しにあったみたいだけど、人生で一度は観てみたかったな。
大学の構外だと、ちょっと北の方にはおいしいラーメン屋とか、南の方にはカフェとか、中華料理のお店とか、いろいろあったな。文芸サークルの皆でよく利用していた。
今はどうか知らないが、大学の授業の出席確認に際しては、出席カードを提出する形式だった。時代の先を行っている大学だと、学生証をピッとやれば出席したことになるらしい。
どうでもいいけど、今って授業は15回中10回以上出ないと単位をもらえないらしい。厳しいんだな。あと、年間に取得できる上限単位は42らしい。ちょっと少なすぎるよ。俺の時だと、大学3回生の前期終了時点で最低110単位は取っていたはずだ。
さて、あれは大教室での授業の時だったか。秋だったと思う。佛大の若き学生がこの日記を見ている可能性はほぼゼロかと思うが、5号館の101という大きい教室(余談だが同志社の講義室に似てる)で、中国明朝の歴史の授業中だった。当時の日記によると、倭寇とか康熙帝とか足利義満とか、そのあたりの絡みがある回だったとある。もちろん全く覚えていない。
授業が始まると、出席カードが前の席から回ってくるのかな~と思いきや、一番前の人が一番後ろの席まで配り切る形式だった。自分が出席カードを受け取ると、すぐ後ろには野球部と思しき人達がいた。彼らは、「すんません、出席カード追加で5枚くれる?」と発言していた。
出席カードを配ってる人が「すいませんね~」と言って去ろうとすると、「おいお前、待てやコラ!!」と野球部の人達が彼に絡み始めた。出席カードを配ってる彼も引かず、収まる気配がなかった。
これはいかん、と思って俺は、「ちょっと、ちょっと~」と騒いでいた。やがて中年ほどの先生がやってきて、彼らをひと睨みすると、何事もなかったように騒ぎは収まった。
上記のニュースは私が入学する前の出来事だが、大学の体育会というのは、どこもこんな感じだろうと思う。佛大野球部も、京滋リーグという枠ではほぼ無敵だった。その線でいくと、日本大学もそういう感じだったのだろう。結果だけは出していた。
結果を出しているうちはいいのだが、佛教大学だって、やりすぎるといずれは日本大学や福山大学のように、不祥事(大麻とか)>実績となってしまい、とんでもない結末を迎える。
https://www.bukkyo-u.ac.jp/news/info/20240213-26933.html
上記のように、今でも事件はあるといえばあるが、こういうのはいいよ。間違った人材(臨時雇いの研究者)を雇ってしまったんだろう。大学側はいわば騙されてしまったわけだ。次から気を付ければいい。
ただ、卒業生の一人としては、学生という本質的な存在についてはキッチリと管理して、自分のように不愉快な思いをする学生を無くしてほしいと感じている。
不満ばかりを書いてる気がする。
大学生活、楽しいことはいっぱいあった。例えば部活がそうだ。文芸部(サークル)である。
文章を書くのが好きだった。それこそ子どもの時分から。中学でも高校でも、そういう系の部活がよかったけど、運に恵まれなかった。大学生になって、ようやく文字で作品を創造する喜びを得ることができた。
あとは、学園祭だ。その名も鷹稜祭(おうりょうさい)というイベントなのだが、年に一度の楽しみだった。一度だけ実行委員になったことがある。みんなで何かひとつのものを作る、といったら大げさだけど、最初は何をしたらいいか全くわからない……という段階から、次第にステップを踏んでいって、尻上がりにイベントづくりが面白くなっていく。
最初の一歩を踏み出すのが早ければ早いほど、ドンドンと楽しくハイになっていって、最終日を迎える頃には、自らがイベントと一体になっている。自分と仕事がひとつになっていく感覚。
こういう感覚は、仕事はもちろん、趣味の活動にだってある。精神的な意味で、自分とナニカが溶け合ってひとつになっている感覚である。そのナニカは、人によって違う。パートナーや仲間だったり、参加してる社会そのものだったり、取り組んでいる事柄だったり、特定の空間だったりもする。
ひとつ、少なくともひとつ、大学に進学してよかったと思えるのは――これまでの人生で一番、没頭できるものを見つけられたことだ。これだけで大学に進んでよかったって、そう思える。
あとは、アニメがそうだな。それまでのアニメって、安っぽい作画が多かった。特に、子ども向けアニメはそうだ。ポケモンはまだいいけど、デジモンとかはひどいものだった。この頃から、なぜかはわからないが綺麗な作画が増えていった。
どのアニメかは忘れたけど、女の子がドンパチやる系の朝のアニメで、必殺技のダンスのバンクがあったのだ。サンバを踊ってたんだけど、最後に「ウー!マンボ」ってやるんだよな。「サンバなのかマンボなのかどっちなんだよwwwwww」と、当時は大笑いした記憶がある。
え、そんなものが面白いのかって? 当時はまだ20代前半である。箸が転んでも面白い年頃なのだ。
次
京都在住。夫婦ともに登山が趣味にしてる。先日夫と一緒に、山の中にある神社から山頂に続く登山道を登っていた。すると、道の真ん中にウリボウの死体があった。成獣に近いサイズの。
可哀想だと思ったのと、早くどかさないと病気が広がるかもしれないと思い、下山後に市役所に電話をした。その時は、こんなやり取りだった。
「それはどなたの所有の土地ですか」
「そこは神社の土地と思われます。神社の人が撤去してもらう必要があります」
「里道なのに?」
「林道や市道はうちで管理しますが、山は対象外です。所有者責任になります」
「どかしません。自然に死んだものであれば、山の中にそのままにしてください」
「病気が広がったらどうするの?」
「土地の所有者の責任です。豚熱の可能性もありますが、人間には感染しません」
取りつく島のない様子だった。私は、こういった仕事は公共機関の人が処理すべきだと思っている。
今も、あのウリボウは登山道の真ん中で死んでいる。可哀想に……。
ほかの登山者のためにもアレをどうにかしたい。増田民の人で、何かお知恵をお借りできる方がいたら何卒お願いしたい。真剣に悩んでいる。
県二位の人口22万人の中核市であり、太平洋に面する港町、臨海工業地帯、外航・内陸航路の工業港を有し、東北新幹線八戸駅、東北自動車道八戸線、三陸復興道路の北の終点がある。東北有数の商圏63万人の街。
しかし、八戸市にはイオンモールがなく、イトーヨーカドーは2024年の夏に閉店する。
八戸市の映画館はかつて7館あったが、現在は完全になくなった。
2000年代前半4万平米級のイオンモール計画が立ち上がるも、中心市街地の地権者や有力者等で構成する市の商工会が大反対運動を展開。当時の市長はイオンモール反対を表明するも次の選挙で市民の支持を得られず落選。
イオンモールを待望した市民は、官僚出身の新市長を当選させた。しかし、外部の反対派寄りの専門家や学識経験者を交えた委員会を開き、最終的にイオンは過剰な商業施設であり不要と決定。そして、八戸市は事実上の1万平米以上の商業施設立地規制条例を制定し、イオン予定地は、当初計画を大幅縮小した売場面積7千平米級の中途半端なイオンが開店した。
さらに、市はそのイオンの隣により大きな建坪で市の総合検診センターを建設。土地区画整理組合への補償のためだと思うが、未来永劫、増床してイオンモールにすることはできなくなった。
その結果、市民は昔からある隣町のイオンまで車で約15kmから20km車で行く。
車がない高校生は1日に4便しかない直行バスに長い行列をつくり30,40分かけていく。
街の顔である中心市街地は、税金や補助金を投入し続けたが商業エリアとして魅力は下がり続け集客力は改善せず、事実上シャッター街に近い状態になった。
かつて市民のデパートとして親しまれたヨーカドーは市内に2店舗あった。1980年中心街の再開発ビル(地下1階、地上7階建、屋上遊園地)にヨーカドー八戸店出店計画が出て、当時の市商工会議所は大反対をした。市民には大歓迎されて開店してから東京の有名なデパートとして八戸の目抜き通りのシンボルとなった。その後2003年閉店。
古いビルは壊され屋台村になり、かつての長崎屋は1階がタリーズコーヒーで、2階から13階建のマンションになった。
市は20年ぐらい前には既に中心市街地活性化対策に乗り出し、再開発計画が出ては消えを繰り返し、最終的に新市長が市営の箱物をたくさん新設したり、建て替えた。
中心街は仙台に次ぐ飲み屋街として名高く、屋台村のみろく横丁周辺が酒豪の呑んべいたちで賑わう。新幹線開通後、新たなホテルやマンションはいくつか建設された。
市内は、北東北を中心に展開する売上高1300億円、58店舗を展開するスーパーのユニバースが本社を置き市中を治めつつ、他社も含め無数にスーパーとドラッグストアがある。イオン系列マックスバリュー、ホームセンターのサンデー、ヤマダ、ケーズデンキ、ユニクロ、GU、しまむら、西松屋、ワークマンもある。日常の買い物には困らない。
しかし、市民は屋内一体型モールのイオンモールが欲しかったのだ。大規模な市総合検診センターでもなく、市の観光文化交流施設や、市民屋内広場ではなく、イオンシネマやゲームセンターやボーリング場や、未来屋書店や、東京のアパレルテナント、東京で話題のある飲食店のフードコートが欲しかった。
明治時代に日本鉄道が東北本線を八戸町の中心部に伸ばすかどうかで議論になった。
当時は他の町と同じく蒸気機関車忌諱説があり、流行病の懸念や軍部の要望があり外国軍上陸の脅威を減らすべく、市街地から4kmも内陸の尻内(しりうち)という辺鄙な場所に駅をつくった。あとで町民たちは鉄道は便利だと知ることになり、数年後に本線から分岐して八戸線が開通し中心市街地の800m北寄りに旧八戸駅、現在の本八戸駅を開設する。
そのあと100年以上が経ち、尻内駅は八戸駅に駅名が変わり、やがて新幹線駅に昇格した。しかし、あまりに市街地から離れすぎた立地のため、郊外の地方空港の様相であるかのように、22万人都市の玄関口としてはお察しくださいの状態である。
大正末期に八戸大火が発生し中心商業地区が焦土と化したが、田舎町には後藤新平のような都市計画家はおらず、当時の八戸町議会は多額の予算は出せないとして狭い道は藩政時代のままとなった。
太平洋戦争では基幹産業の日東工場爆撃が海側の地域で爆撃を受けるも、中心市街地の空襲被害はほとんどなかった。
市の北側に位置する旧日本軍の飛行場と基地は米軍に接収され、3,200人の米兵により飛行場を拡張し基地の街と化す。その後、陸海自衛隊基地として運用される。
八戸の中心市街地は、戦後しばらくして、東映、東宝、テアトルなどの7つの映画館が開店し、地元百貨店が開店し、緑屋、ニチイ、丸光(さくら野)、長崎屋、そしてイトーヨーカドー、地元資本のファッションビルが開店し、中心市街地は岩手県北を含め商圏62万人ともいわれ栄華を極めた。私はその時代を生きていないのでよくわならない。
八戸は昭和30年代に新産業都市に指定され臨海都市建設工事が始まり、八戸鉱山の石灰石産出、三菱製紙工場、八戸火力発電所、非鉄金属の精錬所、鉄工所、造船所が建設された。
漁業は栄光を極め、八戸港の水揚げ量・金額が日本一を記録し、第一・第二・第三魚市場は全国の漁船が集まったという。浜の景気は大変良く、飲み屋街や風俗街も発展した。北海道室蘭・苫小牧港へのフェリー航路が開設され北への玄関口となった。中心市街地を迂回する国道45号バイパスが整備され、市道の4車線の環状道路が次々と開通し、田畑の区画整理が次々と進み新興戸建住宅地や住宅団地は郊外に市街地は拡大し、市営バスは路線網を拡大し小中高校は増設を続けた。
一方で、青森寄りの天間林村(現七戸町)の上北鉱山は銅が枯渇のため閉山。また、八戸から60キロ北の六ヶ所村では新全国総合開発計画による巨大石油化学コンビナートや製鉄所を中心とした、1万7000ha開発計画は発表されたが、二度のオイルショックで完全に頓挫した。石油備蓄基地のみがつくられ、のちの日本原燃による核燃料サイクル施設建設を待つことになる。
青森県議会は東北新幹線建設に際し、八戸経由か弘前経由か決められずに結局盛岡駅止まりのまま以後八戸延伸まで20年待ちとなる。あの頃、早く決めていればとおもうと悔やまれる。
1991年に長崎屋が郊外に移転。屋内遊園地つきのラピア長崎屋が開店
1994年 年末に三陸はるか沖地震(震度6)が発生、旧市庁舎、旧市民病院に大きな被害、中心市街地のビルが倒壊し死者発生、道路の崩落、水道管破裂など多数被害
1995年 隣町にイオンモール下田が開店(現在は売場拡張し53,277平米)県南地域では最大の売り場面積を持ち、当時は大観覧車があり田んぼと山がよく見えた。
1997年 中心市街地の市民病院が郊外に移転し、いよいよ中心市街地の危機が地元紙で叫ばれるようになる
1999年 八戸臨海部の神戸製鋼の敷地にピアドゥ(売場面積25,400平米)が開店。核テナントはイトーヨーカドー、ホームセンター、のちにヤマダ電機、スーパー銭湯開店
2002年 東北新幹線八戸駅開業。北の玄関口として栄華を極める
2003年イトーヨーカドー八戸店が閉店、跡地に地元出資チーノオープン。市民映画館が開店
2009年 臨海部の八戸魚連跡地、ピアドゥの隣接地にシンフォニープラザ(現在の売場面積17,000平米)が開店
2000年前半イオンモール八戸田向店40,000平米級の建設計画が持ち上がる
当時建設中の4車線の県道八戸環状線沿い一帯の田んぼを区画整理し、中心街から八戸市民病院が移転した付近に立地計画。
市民の多くは歓喜に沸いたと思う。わざわざ隣町のイオン下田まで行く必要がなくなるからだ。
しかし、中心市街地の商業者を中心とした商工会が猛烈に反対し、当時の市長も大反対。
地元新聞の投書には、商店街関係者と思しき女性が「イオンが来たら中心街がシャッター商店街になってしまう。そんなところで祭り(八戸三社大祭という由緒ある山車の祭り)は見たくない!」などと書いていた記憶。
ほかに、市民病院の近くが週末渋滞して救急車が到着できなくなるから反対との投書もあった。
その後、市長は1期で落選し、新市長が当選し立地規制条例を制定
2012年 郊外にイオン田向ショッピングセンター開設(7000平米級)
新市長は、空洞化した市街地を再建すべく、市営の箱を次々と建設。
2011年 市営のポータルミュージアムはっちが開設、中心市街地にタリーズコーヒが初出店
2016年 ガーデンテラスが竣工し市営の八戸ブックセンターが開設、Yahoo八戸センターが同ビルに拠点開設
2019年 国際大会用の屋内スピードスケートリンクが開館(中心市街地から徒歩圏の運動公園に建設)
2020年 元長崎屋跡地にDEVELD八日町が竣工 13階建で2階以上はマンション
2023年 イトーヨーカドー八戸店跡地のはっちが閉店。解体されマンションになる予定
2023年 八戸港の水揚げ量が昭和19年レベルに激減(戦後最悪水準、金額ベースで最盛期の10%の漁獲高)
2025年 青森銀行とみちのく銀行が合併し青森みちのく銀行設立予定
東日本大震災のあと、国の復興予算で約10年で三陸復興道路が完成し、県道の環状道路は大半が開通した。市内のロードサイドにはセブンイレブンも、タリーズも、コメダ珈琲も、スタバもできた。新しいスーパーやホームセンターがあちこちにできた。
中心市街地は市営の観光施設や屋内広場、箱物と、市営書店ができて大変モダンな空間になった。
地元商工会議所は、中心市街地活性化のために、巨大イオンモール進出を阻止に成功し、街中に新たな商業施設として、ローソンとファミマが合計6店舗できた。モスとドトールしかなかった街中にタリーズができた。
しかし、市経済の低迷も相まって中心街へ商業施設誘導を果たせず、三春屋とチーノは閉店し、今やさくらの百貨店が残るのみである。かつての商業ビルはマンションへ建て替えが進む。
商業地としてのポテンシャルが低下してマンションになるのであれば、郊外に予定通り40,000平米のイオンモールを建設してもよかってのではないか。
結果、GMSは衰退し臨海部のヨーカドー八戸沼館店は閉店。後継テナントは未定で、市民は1991年開店の江陽のラピア長崎屋と、臨海部のシンフォニープラザ、2012年開店のイオン田向(リテール)のみになる。
よく巨大郊外型モールが撤退したあと社会問題になるため開発抑制が必要だという。都市計画的には正しいが、近隣県を含め広域自治体レベルで規制誘導しない限り、一自治体が規制をかけても無意味だった。
結局、市民は1995年以降、隣町のイオンモール下田まで行き、買い物客が流出し続けた。
中心市街地の地権者はコンビニ6店やマンション1棟やホテル2棟をオープンさせたが、新たに集客力のある商業施設を建てたては言えず、中心市街地の魅力向上のため、市営の文化的施設の建設に資金が投入され続けている。
2050年までに、八戸市の人口は社会保障人口問題研究所の推定で14万人台になるとしている(最盛期より10万人減少する)
人口減少社会は、かつての拡大した市街化区域を減らし、都市軸の再形成、まちなか居住、コンパクトシティの形成、魅力ある歩いて暮らせるまちづくりをするなど、さまざまなメニューがあるものの、あまりにも中心市街地再興への道のりが長すぎる。その過渡期に過ごす市民は、これからもイオンモール下田に通うことにになる。
せめて20年前に八戸市や市商工会議所は、イオンモール立地に反対しなければ、あの長い行列をつくりバスを待つ市内の高校生たちは、自転車でいける距離でイオンモールに遊びに行けただろう。
1.私は自宅から除雪車が雪かきをする道路まで、市道も含む雪かきをしました。
通勤に使う車を出入りさせるためです。
なお雪は市道の陽当たりのよいところに避けました。
(追記:某市の道路境界標が設置されているので市道です。ただし市に予算がないため除雪車は通りません)
2.私の家族は回覧板が来たときに備え、自宅から隣のA宅まで、歩行できるように雪かきをしました。
3.しかし市道の奥では隣のA宅や最奥行き止まりにあるB宅、そして市道の入口にあるC宅は雪かきをしませんでした。
道と家の配置を図にするとこんな感じです。
■:市道
□□
□□
□□C宅 自宅 A宅
□□■■■■■■■■■B宅
□□
□□
4.さて。
A「なんでA宅(ウチ)まで雪かいてくれないの!? 車出せないじゃん!」
B「デイケアの送迎が奥まで来れなくて歩いたんですけど?」
街路樹あるじゃん。あれほんとなくなればいいと思ってる。木だけじゃなく植え込みもなくなってほしいと思ってる。以下理由。
2.根が歩道路面を隆起させることにより転倒による怪我や事故リスクが上がる。
...
経験談で恐縮だが以前歩道を徒歩で通行中に後方から接近してきたクソチャリに死ぬほどベルを鳴らされた挙げ句に舌打ちされたことがある。その歩道は一定間隔に植込みがあるのだがクソチャリが接近してきたときはちょうど植込みがあり歩道の幅が1メートル程度に狭くなるところだった。追い越したいクソチャリと避ける道理はない歩行者(自分)による状況においてクソチャリが前述のベル攻撃をしてきた。
まあ、クソチャリが道交法(正確にはわからんが察してくれ)違反してベル鳴らすマナー違反が悪いのだろうが、それよりなにより歩道の幅を減らすほどの植込みがなければいいんじゃね?とも思うわけよ。
頭の足りねえクソチャリは掃いて捨てるほどいるわけだし、脳みそツルツルなクソチャリにイチから教育していくなんて時間と予算がいくらあっても足りないなかで、とりあえず歩行者の安全を脅かす遠因でもある植込みを無くせば(同様に街路樹も)少しは安全になるんじゃないかと思うわけで。
あとさー車の運転でも街路樹邪魔でクソほど危ない目にあうことあるじゃん。よく見ろとか言われてもそもそも物理的に見えないものをどうしろ。
1.景観、美観
2.植木屋が儲かる
ぐらいしかなくね?これ市民にメリットある?安全を犠牲にするほどのメリットなの?
まあ、100歩譲って都心(都内ではない)のような木々のない所にはあってもいいよ。よくないが、まあいい。
だが、少し視線を上げれば雄大な、木々が生い茂る山々が見えるような地方の歩道に街路樹や植え込みは必要なのかと問いたい。いらねーよ。
---
<追記>
なるほど日陰ねー。たしかに信号待ちのときに日陰があると便利だ。でもそれは交通安全を犠牲にするほど重要なものか???ちなみに俺は今年の夏から日傘を導入したがあれほどいいもんはないと実感した。永久に日陰がついてきてくれる。マジおすすめ。
緑化はCO2の吸収源として有効と言っているけど、それって歩道に植えなきゃだめなん?まあ排ガス発生源(車)の真横に植えるのが効果的に思えるけど地球規模で考えるとどっかの土地にまとめてドカッと植えたほうが効果ありそうじゃない?それとももはや道路脇にしか植えられないほど土地が無いの?むしろ工場の緑化をもっと厳しくブチかましてやれ。マイカー通勤とか舐めんな。
書いていて思ったけど道路脇ってことは人やモノの活動圏内ど真ん中であって手入れも管理もやりやすいってのもあるのか。は~よく出来てる。植えてハイ終わり!じゃそれはそれでなにやってんの?になるしな。
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あまりに邪魔なので市に文句言おうと色々調べたら国道に生えてる街路樹は国が管理で、市道町道は自治体管理で、自治体の中でももっと小さい区分(◯丁目自治会とかそういうやつ)で管理している場合もあって何がなんだかわからん。
優れた者同士の友情は虚飾がないため水のように淡い、ということわざ。
「君子の交わりは淡きこと水の如し」とも言う。
膠(にかわ)や漆(うるし)で固めたように強く結びついた友人のこと。
范式という人が、はるか遠く離れたところに住む張元伯とたまたま出会い、友誼を結んで二年後の再会を誓いあった。
その約束の日に、范式は鶏を殺し、黍を炊いてご馳走を作り、張元伯を待っていた。
周囲は「千里も離れているのに二年も前の約束のために来るものか」と言っていたが、はたして張元伯はやってきた。
この故事から、必ず約束を守るような信義で結ばれた友情のことをいう。
貧しいときに出来た友人のこと。
「貧賤の交わり忘るべからず」は、たとえ成功しても貧しいときの友人は大切にしなければならない、という意味。
「二人が心を合わせればその鋭さは金を断ち、その言葉は芳しい蘭の花のように周囲に影響を与える」という言葉から「金蘭の交わり」とも言う。
一緒に竹馬で遊んだ幼馴染、子供の頃から仲のいい関係ということ。
「竹馬の友」とも言う。
「縞」は「縞帯」で白絹の帯のこと、「紵」は「紵衣」で麻の着物のこと。
季札という人物が子産に縞を贈り、子産が返礼として紵を贈った、という故事から、親交の深いことを意味する。
琴の名手であった伯牙という人が、自分の音楽の最大の理解者であった友人が亡くなると、琴の弦を断ったという故事から、心の通い合った親友のことをいう。
家からどこかに行こうとするには、家の前の狭い道を通らないとどこにも行けなかった。周囲の市道や県道に繋がる道がそれしかないからだ。
この道は一本道なのだが、①片側一車線のゾーン、②対面する車の一方が端に寄って停まらないともう一方が通れないような狭いゾーンがあるヘンテコで不便な道だった。
さて、こんな道に面した実家のすぐ目の前には競馬場があった。より細かくいえば競馬場の来場者用の駐車場があった。そしてその駐車場の出入り口は、先に書いた実家の前の狭い道に面していた。
競馬場の駐車場なので基本的に土日しか使われない。ただ夕方になると狭い道を競馬帰りの車が埋め尽くしてしまう。土日は大体16時頃から1~2時間、大きなレース(なんとか記念みたいなやつ)を開催してるときはもっと長く、外が真っ暗になっても渋滞が続いていた。
そうなると家から出かけるのはまず難しい。外出していても道が混む前に帰らないと、自分たちが帰宅することもままならない。家にいればいるで、道沿いはただの住宅地なので渋滞の車のエンジン音や(迷惑な人が混ざってる場合)カーステレオの音が結構響いてうるさいのだ。
まあ両親が実家を建てるより先に競馬場があったので、これは仕方のない不便さではあった。だから自分や家族がこの渋滞に関して競馬場にクレームを寄せたことはない。とはいえ毎週毎週こんな風だったので、時々とても辛いというか、不自由さにうんざりすることもあった。
最近どっかの公園がクレームで廃止したというニュースが老害だ何だとネットを騒がせていたけど、近所にできた施設目当ての余所者が住宅地の狭い道にたくさん来たら住民側は結構しんどいよね(しかも家が先に建ってたなら尚更)、とちょっと同情している。
おれが住んでいる田舎の地方都市、私鉄沿線駅前の市道が拡張されることになった。
地元工務店。老舗といっていいのか。町内では顔が効くことになっているおっさんがこじんまりとしてやっている工務店。最近はリフォーム専業。従業員はたまに増えたりするけど定着しない。
市道の拡張が発表された1ヶ月後、おっさんが市道の脇に支店を開設した。従業員いないのに支店かよ。
あきらかに立ち退き料狙いだよな。税金の無駄だからやめてほしい。
共産党が「市道拡張反対!」と叫びながらビラを配りだした。この近所では共産党がものすごく嫌われているのでビラは誰も受け取らない。近所にある大学が共産党色の強いFランク大学で、そこの学生が強姦事件や窃盗事件や暴行事件や放火事件を起こしまくりそのたびに共産党が介入してくるので、好かれるはずがないのだが。なぜか共産党の奴らは自分らは地元民から好かれているという確信があるらしく、無駄な運動を続けている。キモいし痛々しい。
地元で不仲なことで有名な夫婦。奥さんが急に派手な格好をするようになった。市道の拡張の立ち退きで大金がはいることになったためというもっぱらの噂。旦那さんは真面目な人で近所のひとから同情されてる。
上記の噂は行きつけの床屋の親父から聞かしてもらった。おもしろい。床屋にいくほどの髪量はないのだが、こういう話を聞けるので床屋には行っといたほうがいいよね。床屋にいかないとひどい噂を流される恐れがあるし。
参戦遅れたわ、悔しい。
元増田の主張にフォローする形に話を持っていくなら、一定数のブクマカたちの言っている「明石花火大会歩道橋事故」が、元増田の言う
元増田の主張全体を通して読むと、引用文の「こんな事」が「雑踏事故自体」に係るか「催涙弾の使用」のみに係るかが不明瞭ではあるけども、いずれにせよ1本事故の原因をちゃんと検証して反証たりうるか調べて、ブクマカたちに反論するなり補足するなりってのが建設的議論ってやつだと思うんだけど、そうやって煽り合ってなにが解決するんだ。
そこは「そうしないと読んでくれない」って思いがあったかもしれないにせよ、タイトルを煽り気味にした元増田も良くない。
当然それに乗っかった一部のブクマカも良くない。
あと、
よく言われることだけど、「分かりやすさ」はすなわち「事実」じゃないから気をつけた方がいい。
当然これから俺が主張することも、出典が出典だけに事実じゃない可能性がある。元増田の主張を支持して俺の主張の穴を突きたいなら自分で徹底して調べて俺に教えてくれ。単なる煽りには絶対に乗ってやらないんだからね。
本題に移る。
2001年7月21日に起きた「明石花火大会歩道橋事故」についてはWikipediaに記事があったので、以下これを元に話を進める。
原因については、以下の様になっている。太字は俺が強調した。
会場の大蔵海岸と朝霧駅との間には国道2号が通っており、歩道橋以外の連絡がなかったことが大きな原因の一つであった。この歩道橋以外のアクセス経路としては、朝霧駅東側の踏切や西側の跨線橋があったが遠回りになり、山陽電気鉄道本線の大蔵谷駅や西舞子駅があるものの会場から遠いという難点があった。加えて暴走族との衝突が発生しても警備がしやすいという理由から、歩道橋から続く市道に180店の夜店を配置していた。
この結果、事故現場の歩道橋がボトルネックとなり、歩道橋上で駅から会場に向かう人の流れと会場から駅に向かう人の流れが衝突して滞留が発生した。主催者側も迂回手段についてのアナウンスを行わず、さらに当日は蒸し暑く、歩道橋が透明なプラスチックの側壁に覆われた構造のため蒸し風呂状態となり、心理的に焦りが発生したことも事故発生の要因の一つとなっている。
とある。
と言っている。
そして周知の通り、元増田は本事故を「日本の雑踏警備に影響を与えたいくつかの事故」として挙げなかった。
これらのことから読み手側には、いくつかの事故を教訓に「一方通行」と「ボトルネックを無くす」という雑踏警備の鉄則に則り警備が行われたはずだったが、にもかかわらずそのどちらもが機能せず、結果として本事故は起きてしまった。少なくともそれが何故なのかを説明しないと、元増田の言う「日本の警察であればこんな事はまず起きない」は信用できないと解釈する余地が生じる。
なので、繰り返しにはなるけれども、元増田を「批判を気にしなくていい」と擁護する立場であるこの増田がやるべきことは、元増田に対するそんな慰めとか、煽りに対する煽り返しに対する煽り返し返しではない。そんなことしても煽り返し返し返しが来るだけでなんの解決にもならない。
この増田は、支持者としてただただ努めて冷静に、元増田の主張の不足している部分を補えば良いのである。
というわけで、やさしいこの俺が、この増田の代わりに当事故の起こった根本原因は何かをWikipediaから引用しながら説明してみる。
事故後、兵庫県警察の対応や警備計画の問題点が次々と浮き彫りになった。
この花火大会にあたり、明石市と兵庫県警察本部(明石警察署)、警備会社のニシカン(現ジェイ・エス・エス)との間で事前の警備計画の協議が不十分だったことや、7か月前の2000年12月31日に行われた「世紀越えカウントダウン花火大会」の警備計画書をほとんど丸写しにしていたことが判明した。さらにその計画書もコンサートなどのイベント用に設計されたものを流用しており、「世紀越えカウントダウン花火大会」の開催時(約5万5000人が参加)にも同様の滞留が起きて軽傷者が出ていた。約15万人から20万人の参加者が予想されていた本大会には、この問題点が生かされていなかった。
また兵庫県警察が暴走族対策を重視して夜店の配置を集中させ、暴走族対策の警備要員を292名配備していた一方で、雑踏警備対策には36名しか配備されず、雑踏対策が軽視されていた。
太字に注目するに、本事故が起こった根本原因は、警察の警備計画策定業務に対する怠慢である。
実際に、Wikipediaには複数の民事・刑事訴訟について書かれていて、うち2件は最高裁まで行って、1件が有罪となっている。以下裁判要旨。
花火大会が実施された公園と最寄り駅とを結ぶ歩道橋で多数の参集者が折り重なって転倒して死傷者が発生した事故について、雑踏警備に関し現場で警察官を指揮する立場にあった警察署地域官及び現場で警備員を統括する立場にあった警備会社支社長の両名において、いずれも上記のような事故の発生を容易に予見でき、かつ、機動隊による流入規制等を実現して本件事故を回避することが可能であった本件事実関係の下では,両名には上記事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務を怠った過失があり、それぞれ業務上過失致死傷罪が成立する。
他にも色々と裁判になってめっちゃ尾を引いてるので気になる人は各々調べてね。
元増田の主張には重要なことが説明されていない、と俺は感じる。
警備対象を人間扱いするのは重要だ。流体扱いするのも重要なんだろう。
でもそう標榜するだけじゃ事故は防げないことは、本事故が証明している。
人間が警備をする限り、本事故のようなことは今後も起こり得る2。
このような、人間が人間であるがゆえに起こす事故を「人災」と呼ぶ人もいるかもしれない。
その観点では、少なくとも俺にとっては本事故もインドネシアの事故も等しく「人災」であり、人間の失敗であり、未来のために学ぶ意義があるものだ。
この時点で俺的には満足したんで、以下細々と。
2005年(平成17年)11月、この死亡事故を教訓として警備業法と国家公安委員会規則が改正され、警備業務検定に従来の常駐警備、交通誘導警備等に加え、雑踏警備が新設された。
元増田がこの記述以降の体制について話しているのであれば、余計に「本事故に触れないのはなんでだろう?」とは思う。
これ、「誰が」「どこに」提出するかが分からんかった。
本事故の時点では警察自らが策定してたみたいだけど、今は違うの?それとも警察のものとは別に策定されるの?
おわり。
書きました↓
https://anond.hatelabo.jp/20221004181228
https://anond.hatelabo.jp/20221005143828
https://anond.hatelabo.jp/20221006154025
https://anond.hatelabo.jp/20221006200623
本筋に関わる変更に関しては、記事最下部参照。
てかトラバ元消されてるやん。
異世界ものとか田舎を舞台にした作品以外は基本的に東京近郊をイメージして作られていると思う。
舞台装置としての街並みや家、通勤通学の風景にそういう都会めいたものが現れやすいと感じる
ちょっとした田舎だと車通勤が当たり前なので電車や徒歩で移動すること自体が少ない。電車だろうが1時間に数本で全然混んでいないってこともよくある。田舎でもピンキリだがアニメの道路ってほんときれいだし、国道と県道と市道で雰囲気がガラッと変わるという描写もあんまりない。歩行者信号がないところで車が全く止まらなくて立ち往生ってシーンも見たことがない。
別にそういうものがあって何が変わるのってことだが、舞台装置としての街並みにも個性があってほしいなって。全部舗装されたレンガ調の歩道をビル群を背景に歩いているってのは、なんか画一的に見える。まあどれも東京のほうがやりやすいんだろうけどさ。
この前のスーパーカブとかは街並みをちゃんと描いていたが、ああやって地域性を全面に出さない限りはよくみる東京っぽい何かなんだよな。
まぁ止まる「だろう」というより、一度止まったから単純に「譲ってくれた」と思い込んじゃったのかもな
市道でも横断歩道付近って歩行者に渡ってもらうのが基本だけど歩行者から譲られることもよくあるけど、自動運転車は今後それをどう判断するんだろう
↓この件
https://nordot.app/803904012476612608?c=39550187727945729
どうやら、システムは人が横断歩道前にいるからと停止したのに、オペレーターが横断しない"だろう"と判断して停止指令をオーバーライドして発進したということらしい。
どうしてこのようなことになったのか。
オペレーターのせいと言えるのか。
考えられる理由は「システムが歩行者の存在を取りこぼしてしまったときに車を停める」ことだ。
なら何故、オペレーターは発進指示をできるようになっていたのか。
それは、システムではどうしても判断できない状況があるからだと思う。
システムのみの場合、横断歩道前で人を待っていたり、立ち話をしている人がいたらその人がその場を離れるまで車は横断歩道前で止まり続けることになる。
他にも、昔天下一品のロゴが進行禁止の道路標識と似ているため車が天下一品の前で一時停止するようになったという事例もあった。
https://www.j-cast.com/2021/02/03404261.html?p=all
このように、システムが誤認識したり、進めるかどうか判断できない状況はどうしても残る。
そのようなときにはシステムより人の判断を優先しなければ車は永久に進めなくなる。
なので、オペレーターの役割は(乗客確認関係を除いて)以下の2つ
おそらくオペレーターはオリンピック(健常者)で慣れていたオペレーションをパラでそのまま実行してしまったのだろう。
健常者のオリンピック選手は今まで仮に横断歩道を渡ろうとしていたとしても車の存在を認知して止まってくれていたのだろう。
また、オリンピックの時はオペレーターが発進判断をした後に選手が突然横断歩道を渡り出す危険な状況があったときも大体は最後の砦の自動ブレーキで止まれていたのだと思う。(これは後述する制動距離で説明する)
ただ、システムでどうにかできたのではないだろうか。
システムが歩行者を瞬時に認知したとしても、認知したタイミングが制動距離以内だったら車はぶつかる。
ただ、eパレットは超ノロノロ運転(最高速度19km/h)なので、制動距離はかなり短いはずだ。
かなり重い車のはずなので初動10km/hとして簡易的に計算すると、
=(10×1000/3600(m/s))^2/(2x0.8x9.8m/s^2)
=0.49m
停止判断をするまでの空走距離については、システムの認知判断スピードは一瞬だと思うので、制動距離と合わせて1mもあれば自動ブレーキで止まることはできたと思う。
そのため、オリンピックの時は仮にオペレーターが発進判断をした後に歩行者が歩き出しても車は自動ブレーキシステムで歩行者の前で止まれただろうし、また歩行者も車が自動ブレーキで止まれないような状況(自分と車の距離が1m未満)で道を渡ろうとしなかったのだと思う。
ただ、今回は目が不自由な方が被害にあった。目の不自由な人はその距離感がわからない。
おそらく、ノロノロ運転の車が止まれないくらい近距離で横断を開始してしまったのだろう。
トヨタの社長が会見で「もっと音が出るように改善する」と言っていて、それだけかよwって思ったが、考えれば考えるほどそれしかないように思える。
障がい者に車の存在を伝えて、自分と車の距離が1m未満の時に横断を開始しないようにしてもらうしかない。
システムを優先する改善を行うと自動運転車は横断歩道を渡らない歩行者がいたら永遠にその場で止まることになるからだ。
結局、車は何故"動いてしまった"のか。
それは、
オペレーターの歩行者がこの距離では渡り始めない"だろう"と思い込んでいた"だろう"運転と、
その"だろう"が実現されない車(目の不自由な歩行者が車の存在を認知できないような静かな車)だったからだと思う。
余談だが、このシチュエーションが市道で発生した場合、どう対応すればいいのだろうか。
市道では40km/hと4倍ほどの速度で車は走っている。
速度の二乗で制動距離は伸びるので8m必要ということになる。(チューリッヒのサイトでは11mと書いている)
おそらく障がい者は仮に車から爆音が鳴ったとしても8m先の車を認知できないので、今回のような事態が起きたら確実に轢かれる。
となると自動運転車は信号のない横断歩道付近に人がいたら、仮に立ち話をしていてどう考えても渡る気配がなかったとしても車の存在を障がい者に伝えられる距離(1m)で自動ブレーキシステムを使って緊急停止できる速度(10km/h)まで車の速度を落とすことになる。
そうなると、おそらく現在の運転者は「遅ぇ」と自動運転機能を切るだろう。
自動運転を普及させるには技術だけじゃなく、運転者の意識も変えないといけないだろうなぁ、と思うと自動運転が技術的課題の解決とは関係なく遥か遠くの技術のように思えてしまう。
実務上は被害届が出されていないケースだと警察が『捜査するか』とならないだけ
悪ぶる ←反社なら箔がつくケースがあるのはわかる(関わりたくはない。全力で逃げる)
真面目系クズと同じく自分自身のクズさをアピールすることで同じ属性の人を探して 俺も!私も! がしたいの?
いついかなる時もいじめ被害者を助けることができるとは言わないが、
例:虐めてるヤツ(恐喝被害者)の自宅に乗り込もうとして父親も車ではね殺す ↓
▼ 次男恐喝を見とがめた父親はね、重体に…少年少女3人逮捕
高校2年生の次男を恐喝したとみられる少年の車の前に立ちはだかった父親がはねられ、意識不明の重体になる事件があり、4日、車を運転していた同県K市、とび職少年(18)を傷害と恐喝容疑で緊急逮捕した。
同署は、車に乗っていた同市、無職少女(16)、K市、中学2年男子生徒(14)も恐喝容疑で緊急逮捕した。
発表によると、とび職の少年は3日午後9時15分ごろ、K市の市道で、近くの塗装作業員Oさん(40)を乗用車ではね、頭の骨を折るけがを負わせた疑い。また、3人は午後8時40分ごろ、同市のコンビニ店駐車場で、Oさんの次男で高校2年の男子生徒(16)に「家に帰って金持ってこい。担保として携帯電話をよこせ」と言い、携帯電話(2万円相当)を脅し取った疑い。
少年らがさらに、車でOさんの自宅に向かったところ、コンビニ店駐車場での騒ぎをききつけたOさんが車の前に立ちはだかった。目撃者からの110番で駆けつけた同署員が、現場近くで少年らを発見した。
日本はサイコキラー・モンスターがスタンダードなデンジャラスランドではないハズなので
自分自身の生命財産に影響がない いじめ案件 もたくさんあるはず
リアルでいじめに遭遇したら、相手がサイコキラー・モンスターでもない限り知らん顔しないで助け舟を出してやろう、
生命財産まで掛ける必要ないが、たかだか爪弾きにされるくらいだったら正しい行動を取ろう
道路交通法において、自転車は車両であるから車道を通行しなければならないとされつつ、路側帯や歩道の通行を条件付きで許可されている。
路側帯を通行できる条件は、歩行者の通行を著しく妨げないとき(第十七条の二)。つまり空いてる時はだいたい無条件にOK。
歩道を通行できる条件は、①標識で認められている時②幼児や児童などが運転者の時③車道の状況に照らして安全を確保するためには歩道通行がやむを得ない時(第六十三条の四)。
いずれも、安全な速度と方法での運転が義務となっている(当たり前だ)。
ここで今、話題にしたいのが「車道が危なくてとても安全には通行できねーよ!」って時には歩道通行が法的に許されているという点だ。
ブクマカ諸氏などは杓子定規に、「自転車は車道!」と切って捨てているところもよく見るが、この点についてよく考慮のうえだろうか。
つまり、その車道が安全に走れることを確認して言っているのだろうか。
言ってばかりでは頭でっかちになるので、ここしばらく実際に車道を自転車で走って確かめた。
結論から言うと、安全に走れる車道などほとんどなく、その帰結として多くの歩道は法的に通行できることがわかった。
車の速度がやばい。走っている自分からそれほど遠くない位置を、60キロとかでビュンビュン抜けてくる。
何度かは普通に命の危険を感じたし、この実践を始めたことを後悔した。
特にトラックはおそろしい。高速移動する巨体との至近距離での並走。小石とかにつまづいてブレたら死ぬよね、これ。
普通に安全運転してて命の危機を感じる状況を「歩道通行せずに安全を確保できる」と言えるだろうか?いや言えない。
国道ほどじゃないがやっぱり車はビュンビュン飛ばすね。
でも一車線だからか、国道より道幅に余裕がある気がした。自転車レーンもしばしばあり。
述べたように走行車の速度は十分あるので、車道側に完全にはみ出るように回避する勇気は出しづらい。
(一度だけがんばって車道側に避けてみたが走行車が全く配慮してくれずめっちゃエンジン音吹かされた)
車道側に避けたら轢かれる危険性がある状況で歩道に上がるのは安全の確保のための通行と言えるだろう。
なお、この時段差等があったりしてすぐに歩道に上がれるとは限らないので、前々から上がっておかなければ積む羽目になる。
都市の民度によっては、路駐の間隔が狭くて結局ずっと歩道を行くこともある。
ここも基本的に車道通行できるとしばらくは感じたが、やはり路駐があるのと、あと交差点前のムーブがやばい。
小さめの普通自動車に、信号に差し掛かるというところでグイッと左側に寄ってこられた。
心臓がドキッとしたよ。ブレーキかけなかったら轢かれたんじゃないかと思う。
大きい道と比べるとこの辺りの小さい道はそもそも幅が狭く、車と併走する自体がなかなか安全とは言い難い。
自転車レーンがあっても、曲芸師かと言いたくなるような平均台みたいな幅で、意味をなしていない。
そんなわけで小さい道でもやはり安全確保のために歩道に上がる理由はある。
歩道がない場合は、歩行者も路側帯、自転車も路側帯通行。上述の通り著しく歩行者を妨害しなければ無条件で通行が許される。
歩道がある場合は、それに幅をとられて車道が狭い場合が多い。車と併走できる幅がなければ、歩道に上がらざるを得ない。