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2024-01-26

anond:20240126183251

9.「平和基本法から佐藤優現象〉へ

 〈佐藤優現象〉を支えている護憲派の中心は、雑誌としては『世界』であり、学者では山口二郎和田春樹である。この顔ぶれを見て、既視感を覚える人はいないだろうか。すなわち、「平和基本法である。これは、山口和田らが執筆し、共同提言として、『世界』一九九三年四月号に発表された。その後、二度の補足を経ている(56)。

 私は、〈佐藤優現象〉はこの「平和基本法からの流れの中で位置づけるべきだと考える。

 同提言は、①「創憲論」の立場、②自衛隊合憲化(57)、③日本経済的地位に見合った国際貢献必要性、④国連軍国連警察活動への日本軍の参加(58)、⑤「国際テロリスト武装難民」を「対処すべき脅威」として設定、⑥日米安保の「脱軍事化」、といった特徴を持つが、これが、民主党の「憲法提言」(二〇〇五年一〇月発表)における安全保障論と論理を同じくしていることは明白だろう。実際に、山口二郎は、二〇〇四年五月時点で、新聞記者の「いま改憲必要なのか」との問いに対して、「十年ほど前から護憲立場から改憲案を出すべきだと主張してきた。しかし、いまは小泉首相のもとで論理不在の憲法論議が横行している。具体的な憲法改正をやるべき時期ではないと思う」と答えている(59)。「創憲論」とは、やはり、改憲論だったのである

 同提言の二〇〇五年版では、「憲法九条の維持」が唱えられているが、これは、政権が「小泉首相のもと」にあるからだ、と解釈した方がいいだろう。「平和基本法」は、戦争をできる国、「普通の国」づくりのための改憲である。同提言軍縮を謳っているが、一九九三年版では、軍縮は「周辺諸国軍縮過程と連動させつつ」行われるとされているのだから北朝鮮中国軍事的脅威が強調される状況では、実現する見込みはないだろう(60)。また、「かつて侵略したアジアとの本当の和解」、二〇〇五年版では、周辺諸国への謝罪過去清算への誠実な取組みの必要性が強調されているが、リベラル過去清算は終わったと認識しているのであるから、これも実効性があるとは思えない。要するに、同提言には、論理内在的にみて、軍事大国化への本質的な歯止めがないのである

 佐藤が語る、愛国心必要性(61)、国家による市民監視(62)、諜報機関の設置等は、「普通の国」にとっては不可欠なものである佐藤饒舌から私たちは、「平和基本法」の論理がどこまで行き着くかを学ぶことができる。

 馬場は、小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝について、「今後PKOなどの国際的軍事平和維持活動において殉死殉職した日本人の慰霊をどう処理し追悼するか、といった冷戦後平和に対する構想を踏まえた追悼のビジョンもそこからは得られない」と述べている(63)。逆に言えば、馬場は、今後生じる戦死者の「慰霊追悼施設必要だ、と言っているわけである。「普通の国」においては、靖国神社でないならば、そうした施設はもちろん、不可欠だろう。私は、〈佐藤優現象〉を通じて、このままではジャーナリズム内の護憲派は、国民投票を待たずして解体してしまう、と前に述べた。だが、むしろ、すでに解体は終わっているのであって、「〈佐藤優現象〉を通じて、残骸すら消えてしまう」と言うべきだったのかもしれない。

 ここで、テロ特措法延長問題に触れておこう(64)。国連本部政務官川端清隆は、小沢一郎民主党代表の、テロ特措法延長反対の発言について、「対米協調」一辺倒の日本外交批判しつつ、「もし本当に対テロ戦争への参加を拒絶した場合日本には国連活動への支援も含めて、不参加を補うだけの実績がない」、「ドイツ独自イラク政策を採ることができたのは、アフガニスタンをはじめ、世界の各地で展開している国連PKOや多国籍軍に参加して、国際社会を納得させるだけの十分な実績を積んでいたかである。翻って日本場合多国籍軍は言うに及ばず、PKO参加もきわめて貧弱で、とても米国国際社会理解を得られるものとはいえない」と述べている(65)。

 元国連職員吉田康彦は「国連憲章の履行という点ではハンディキャップなしの「普通の国」になるべきだと確信している。(中略)安保理決議による集団安全保障としての武力行使には無条件で参加できるよう憲法の条文を明確化するのが望ましい」と述べている(66)。川端吉田の主張をまとめれば、「対米協調一辺倒を避けるため、国連PKOや多国籍軍軍事活動積極的に参加して「国際貢献」を行わなければならない。そのためには改憲しなければならない」ということになろう。民主党路線と言ってもよい。今の護憲派ジャーナリズムに、この論理反論できる可能性はない。「8」で指摘したように、対北朝鮮武力行使容認してしまえば、改憲した方が整合性があるのと同じである

 なお、佐藤は、『世界』二〇〇七年五月号に掲載された論文山川均の平和憲法擁護戦略」において、「現実国際政治の中で、山川ソ連侵略性を警戒するのであるから、統整的理念としては非武装中立を唱えるが、現実には西側の一員の日本を前提として、外交戦略を組み立てるのである。」「山川には統整的理念という、人間努力によっては到底達成できない夢と、同時にいまこの場所にある社会生活改善していくという面が並存している」と述べている。私は発刊当初この論文を一読して、「また佐藤柄谷行人への点数稼ぎをやっている」として読み捨ててしまっていたが、この「9」で指摘した文脈で読むと意味合いが変わってくる。佐藤は、「平和憲法擁護」という建前と、本音が分裂している護憲派ジャーナリズムに対して、「君はそのままでいいんだよ」と優しく囁いてくれているのだ。護憲派ジャーナリズムにとって、これほど〈癒し〉を与えてくれる恋人もいるまい(67)。

10.おわりに

 これまでの〈佐藤優現象〉の検討から、このままでは護憲派ジャーナリズムは、自民党主導の改憲案には一〇〇%対抗できないこと、民主党主導の改憲案には一二〇%対抗できないことが分かった。また、いずれの改憲案になるにしても、成立した「普通の国」においては、「7」で指摘したように、人種差別規制すらないまま「国益」を中心として「社会問題」が再編されることも分かった。佐藤沖縄でのシンポジウムで、「北朝鮮アルカイダの脅威」と戦いながら、理想を達成しようとする「現実平和主義」を聴衆に勧めている(68)が、いずれの改憲案が実現するとしても、佐藤が想定する形の、侵略植民地支配反省も不十分な、「国益」を軸とした〈侵略ができる国〉が生まれることは間違いあるまい。「自分国家主義者じゃないから、「国益」論なんかにとりこまれるはずがない」などとは言えない。先進国の「国民」として、高い生活水準や「安全」を享受することを当然とする感覚、それこそが「国益」論を支えている。その感覚は、そうした生存の状況を安定的保障する国家先進国主導の戦争積極的に参加し、南北格差固定化を推進する国家―を必要とするからだ。その感覚は、経済的水準が劣る国の人々への人種主義、「先進国」としての自国を美化する歴史修正主義の温床である

 大雑把にまとめると、〈佐藤優現象〉とは、九〇年代以降、保守派大国路線に対抗して、日本経済的地位に見合った政治大国化を志向する人々の主導の下、謝罪補償必要とした路線が、東アジア諸国民衆の抗議を契機として一頓挫したことや、新自由主義の進行による社会統合破綻といった状況に規定された、リベラル左派危機意識から生じている。九〇年代東アジア諸国民衆から謝罪補償を求める声に対して、他国の「利益のためではなく、日本私たちが、進んで過ちを正しみずから正義回復する、即ち日本利益のために」(69)(傍点ママ歴史清算を行おうとする姿勢は、リベラル内にも確かにあり、そしてその「日本利益」とは、政治大国を前提とした「国益」ではなく、侵略戦争植民地支配可能にした社会のあり方を克服した上でつくられる、今とは別の「日本」を想定したものであったろう。私たちが目撃している〈佐藤優現象〉は、改憲後の国家体制に適合的な形で生き残ろうと浮き足立リベラル左派が、「人民戦線」の名の下、微かに残っているそうした道を志向する痕跡消失もしくは変質させて清算する過程、いわば蛹の段階である改憲後、蛹は蛾となる。

 ただし、私は〈佐藤優現象〉を、リベラル左派意図的計画したものと捉えているわけではない。むしろ無自覚的、野合的に成立したものだと考えている。藤田省三は、翼賛体制を「集団転向寄り合い」とし、戦略戦術的な全体統合ではなく、諸勢力からあいもつあいがそのまま大政翼賛会に発展したからこそ、デマゴギーそれ自体ではなく、近衛文麿のようなあらゆる政治立場から期待されている人物統合象徴となったとし、「主体が不在であるところでは、時の状況に丁度ふさわしい人物実態のまま象徴として働く」、「翼賛会成立史は、この象徴人物の未分性という日本政治特質をそれこそ象徴的に示している」と述べている(70)が、〈佐藤優現象〉という名の集団転向現象においては、近衛のかわりに佐藤が「象徴」としての機能果たしている。この「象徴」の下で、惰性や商売で「護憲」を唱えているメディア、そのメディア追従して原稿を書かせてもらおうとするジャーナリスト発言力を確保しようとする学者、無様な醜態晒す本質的には落ち目思想家やその取り巻き、「何かいいことはないか」として寄ってくる政治家や精神科医ら無内容な連中、運動に行き詰った市民運動家、マイノリティ集団などが、お互いに頷きあいながら、「たがいにからあいもつれあって」、集団転向は進行している。

 ところで、佐藤は、「仮に日本国家国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家同胞日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べている(71)。佐藤は、リベラル左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまたからには、自国国防、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。佐藤賞賛するような人間は、いざ開戦となれば、反戦運動を行う人間異端者扱いするのが目に見えている。

 この佐藤発言は、安倍晋三首相の目指していた「美しい国」づくりのための見解とも一致する。私見によれば、安倍の『美しい国へ』(新潮新書、二〇〇六年七月)全二三二頁の本のキモは、イランでのアメリカ大使館人質事件(一九七九年)をめぐる以下の一節である。「(注・反カーター陣営の)演説会で、意外に思ったことがある。人質事件に触れると、どの候補者もかならず、「私は大統領とともにある」(I am behind the President.)というのだ。ほかのことではカーターをこきおろす候補者が、そこだけは口をそろえる。/もちろん、人質にされている大使館員たちの家族配慮するという意図からだろうが、アメリカ一丸となって事件対処しているのだ、という明確なメッセージを内外に発しようとするのである国益からむと、圧倒的な求心力がはたらくアメリカ。これこそがアメリカの強さなのだ。」(八七~八八頁)

 文中の、「人質事件」を拉致問題に、「大統領」を安倍に、「アメリカ」を日本に置き換えてみよ。含意は明白であろう。安倍は辞任したとはいえ総連弾圧をめぐる日本言論状況や、〈佐藤優現象〉は、安倍の狙いが実現したこと物語っている。安倍政権は倒れる前、日朝国交正常化に向けて動きかけた(正確には米朝協議の進展で動かされたと言うべきだが)が、こうなるのは少なくとも今年春からは明らかだったにもかかわらず、リベラル左派の大多数は、「日朝国交正常化」を公然と言い出せなかった。安倍政権北朝鮮外交に敗北したのは明らかである。だが、日本リベラル左派安倍政権ときに敗北したのである

 〈佐藤優現象〉は、改憲後に成立する「普通の国」としての〈侵略ができる国〉に対して、リベラル左派の大部分が違和感を持っていないことの表れである侵略植民地支配過去清算在日朝鮮人人権擁護も、そこには含まれる)の不十分なままに成立する「普通の国」は、普通の「普通の国」よりはるかに抑圧的・差別的侵略的にならざるを得ない。〈佐藤優現象〉のもとで、対北朝鮮武力行使の言説や、在日朝鮮人弾圧の言説を容認することは、戦争国家体制に対する抵抗感を無くすことに帰結する。改憲に反対する立場の者がたたかうべきポイントは、改憲護憲(反改憲)かではない。対北朝鮮武力行使容認するか、「対テロ戦争」という枠組み(72)を容認するかどうかである容認してしまえば、護憲(反改憲)派に勝ち目はない。過去清算も不十分なまま、札束ではたいて第三世界諸国の票を米国のためにとりまとめ、国連民主的改革にも一貫して反対してきた日本が、改憲し、常任理事国化・軍事大国化して、(国連主導ではあれ)米軍中心の武力行使を容易にすることは、東アジア世界平和にとって大きな災厄である(73)。

改憲戦争国家体制拒否したい人間は、明確に、対北朝鮮武力行使の是非、対テロ戦争の是非という争点を設定して絶対的に反対し、〈佐藤優現象〉及び同質の現象を煽るメディア知識人等を徹底的に批判すべきである

(1)岩波書店労働組合「壁新聞」二八一九号(二〇〇七年四月)。

(2)ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」二〇〇七年五月一六日付。

(3)ただし、編集者佐藤右翼であることを百も承知の上で使っていることを付言しておく。〈騙されている〉わけではない。

(4)「佐藤優という罠」(『AERA』二〇〇七年四月二三日号)中のコメントより。

(5)インターネットサイトフジサンケイ ビジネスアイ」でほぼ週一回連載中の〈 Permalink | 記事への反応(0) | 18:37

2023-05-04

今日の仮説

日本人には「一文字一音」という感覚があって、それがアルファベット言語を早く読むとき障害になっている。

なので、単語スペルの特徴的な文字のみを拾って、それ以外は濁点、傍点のような飾りだと思って読むと、実際の音数を捉えやすいかも知れない。

2023-05-01

はいかにしてAI術師になりしか

 適当に書く。脚色したり故意現実と変えたりした部分はいくつかある。けど、おおむね本当の話。だけど、フィクションなんだと思ってください。

 元々はよくいる男のオタクだった、と言って良いと思う。といっても、オタ活で人生が充実していたというタイプではなくて、抱き枕カバーとかタペストリーとか買ってSNSで見せびらかすということもなくて。そこでアイデンティティを主張してた訳ではなかった、という意味では今風のオタクではないのかもしれない。

 ツイッターで数千人くらい、絵師とか同人作家とかエロ漫画家とかフォローしてた。VTuberは見ない。基本的には絵を描く人のフォロワー

 たまにはすごい気に入る絵師というのは現れる訳で、『推し活』をやるかどうか、迷ったことが何度かある。けど、そういう文化自分には合わなかった。リプ欄見てるとなんか歯ぎしりしたくなる。

 感想も送らない。即売会もあまり行かない。スケブも頼まない。

 同人誌委託とか、電子書籍販売とかで、粛々と買う。あとFANBOX入ったりする。多いときで月に数万円使ってた。

 この数万円という金額は、俺はコアなオタクであると主張するにはたぶん少ない金額だし、かといって俺の所得の内訳の中で、無視できるほど少ない金額でもない。

 つまりまあ、端的にサブカル消費者やってた、という感じ。

 サブカル世界でそれ以上なんか何者かになろうとは思わなかった・・・というと、違うのかもしれない。ワナビめいた憧れが絶無だったとも思えなくて、ただ、幸か不幸か、本気になって取り組んで挑戦する気にはなれなかった。

 俺がなんかやるとしたら、音楽はぜんぜんレベル高くなかったけど少しやってたことがあって、もしかしたら作りたかったのかもしれない。そういうことは今でも思う。

 というのが前提。書いてて自分もつまらないと思う。俺みたいなのはよくいるタイプだとも。

 あと、書いてみると、無意識ルサンチマンが煮えてたんだろうな、ということがなんとなくわかる。イラストは好きなんだけど、イラスト好きな人たちの界隈の空気にはぜんぜん入っていける感じがしなくて、ただの消費者に押し込められる感じがしてた、というかさ。イラストAIに手を出したのは、そういうのの影響が絶無だったとも思わない。あ、これは一応は予防線のつもり。

 で、ここから本筋。

 AIイラストが出始めたときは、まあホット話題だった訳で、絵師数千人もフォローしてるのでツイッターに流れてくるたくさんの情報はそこそこ追えてた。「ふーん」くらいに思って眺めていた。初期のNovelAIとかは、「上手いイラストが描ける」というのとはぜんぜん違う代物だった訳で、面白いけどそれなんの意味があるのよ? というのが最初の頃の感想

 どうやら意味のある絵が描けるらしいな、ということがわかったのは今年に入ってから。だいたいイラストらしいものが描けるAnything-v3.0というモデルが出てきて、これもやはり「ふーん」とは思ったけど、多少は感心した。このペースで進化するんだ、という感じ。とはいえ、『イラストらしさ』が出てくるだけならpixiv、っていうか俺の場合普通にツイッタータイムライン、を適当に見た方が楽しい訳で、この頃でもまだ存在意義がわからなかった。

 さて、この頃から同人コンテンツ電子販売サイトにはAI生成のNSFWな奴がずらずら並び始めて、俺は冷やかし半分に買ったりしていた。

 実用性は、最初の頃は「うーん」だった。というか今でも、ああいうところで売ってるのは「うーん」なのが相当多い。人がイラスト描いて作ったのに比べると同じボリュームでもぜんぜん安いので、ギリ存在正当化されないこともないかな、くらい。

 とはいえ、たまには当たることもある訳で、頑張って漫画を作り始めた人たちのとかは、粗が多いとか漫画として出来が悪いとかを割り切れば、『今晩のおかず』に使えたりした。あと、すごく安く買えるCG集で、普通にNovelAIのつまらないAI絵なんだけど、ボリュームあるから多少は良い絵が混ざってるとか、シチュの力で抜けるとか、そういうこともあった。

 そんな感じで、気づいたら販売サイトAI生成の新作はけっこう真面目にチェックしてて、悪くなさそうなのを(相変わらず冷やかし半分という気持ちはあったけど)ぽちるようになっていた。し、この頃からAI絵師(この頃は術師という言い方はまだそこまで流行ってなかったように思う)のアカウントフォローしてウォッチしたりもしてた。

 そういう感じだった期間が、一ヶ月くらい。

 俺にとって革命だったのは、AbyssOrangeMix2というイラストAIモデルで生成された絵が、そういうところまで流れてき始めたこと、だったと思う。

 最初に見たのが、ツイッターだったのか、販売サイトだったのか、どっかのブログまとめ記事だったのかは思い出せない。とにかくウォッチしてたAI絵師界隈で、やたらクオリティが 高く見える(傍点) 絵が流れてくるようになった。

「こういうの出るんだ、これは人には描けないので、AI存在意義あるだろう」

 とか思った。まあ実際問題としてエロい

 ちょっと話が逸れるけど、自分イラストAIを触り始めてからというもの、そういうのが成り立つ仕組みは、なんとなくは把握するようになった。

 AbyssOrangeMix2というモデルは、リアル系マージモデルというジャンルの、古典的代表格みたいな代物である。つまりイラストを描かせるAIに、実写美女風画像を生成するAI適当に混ぜ込んである。そうすると、服のディテールとか身体表現とかがすごくなってエロい

 まあ上手く配合比率とか設定できれば、という話ではある。AbyssOrangeMix2はやたら完成度が高くて、未だにこれメインで使う人もいるようなモデルである

 Stability AIの中で働いててAI研究してるような人からしたらクソどうでも良い技術なのだと思われるけど、AIイラストの界隈では革命だった。

 上に書いたことを繰り返すけど、イラストAIを使って『イラストらしさ』が出てくるだけなら、『人が描いた絵』を見れば良い。けど、『AIイラストらしさ』が出てきてそれが『人が描いた絵』とは違うベクトルで美しいなら、イラストAI存在意義を認めるしかない。

 そういうものである。逆に誰でも簡単にすごい神絵師みたいな絵が出力できますというイラストAIには(まあそういうのがあるとして、というかあるんだけど名前は出さないでおくとして)俺は率直に言って存在意義を感じられない。

 だいぶ話が脱線したので本筋に戻すとして、そういう訳で俺がイラストAI価値を見出だせるようになったきっかけは明確で、AbyssOrangeMix2である。その頃の俺は、初めてAI絵師のFANBOXに登録してみたりする、というムーブをしたりした。

 とはいえこれ自分でできるわ、とも思ったのは、事実ではあって。

 自分でやると、自分性癖フィットするので、そういうところを狙いたかった。

 やや埃を被っていたデスクトップPCの数世代前のGPUを5万円くらいの新しめの奴に買い替えて、AIイラスト始めてみたりした。

 最初の一週間くらいは、なにもかも思い通りにいかなかくて大変だったけど、ググってノウハウ調べて色々試行錯誤しながらやってたら、なんかちゃん自分性癖に刺さるものが出るようになった。少なくとも俺は抜ける。

 あ、俺はIT系で、そういうの慣れてる。windowsでやるの面倒くさいだろうと思ってlinuxで動かしてる感じ。そういう人がなんとなく使えるようになるのに一週間なので、慣れてない人はもっと努力しないとできないであろう。

 で、しばらくはネットに晒さないでこそこそやってたんだけど、こういうのは他人に見せて、という要素がないと行き詰まるわ、ということも感じるようになった。それで、某所と某所と・・・に上げるようにした。上げててもフォロワー二桁なんだけど、それは積極的宣伝してないし始めて日も浅いのでその・・・という感じ。

 ちなみに、渋とかには投げないようにしてる。サイトに投げるとしてもAIイラスト専用サイトである。あとツイッター一次創作しかやらず絵柄LoRAとか既存からのi2iとかは当然やらず第三者検証できるようにプロンプトとか設定とか基本的に公開してる。それ使うのどうすか問題を棚に上げれば(AIイラストそれ自体の是非と、あとNAIリークの問題がある)、わりかしクリーンなもんである。そして、それで金を取ろうとは思わない。

 自分で言うのもなんだけど、さすがにヘタクソなの投稿してるとは思ってなくて、それなりにこだわって質が良いのを投げてるつもりてはある。まあまあ気に入って継続的に見てくれてそうな人も数人はい雰囲気で、俺はそれくらいで良い。あと、それで繋がりが出来たというとさすがにそれは嘘だろ、なんだけど、それ繋がりでたまにネットお話する人とかはなんかいて、現状は割と居心地が良い感じである

 『俺はいかにしてAI術師になりしか』ってことなら、経緯としてはこれくらい。読んできた皆様は、文章くどい割に中身がないことに薄々感づかれているであろう。AIイラストやる人間クリエティティは大したことないので、大目に見て欲しい。

 で、以下は余談的な話。

 こないだツイッター燃えてた?話で、AIイラスト作ってる人も努力してるんだよ、いやしてねえだろ、みたいなのあって、面白がって眺めてたんだけど。

 俺たちは費やしてる時間ということなら、たぶんけっこうそれなりの量を突っ込んでるのは事実である。もちろんAIイラストが始まって数ヶ月しか経ってないので、これまでの蓄積の総量ではイラスト描く人たちには負けるけど、それなら数年後には追いつく訳で。

 それを努力と呼びたい人がそう呼ぶのは構わないと思う。ゲーム遊んでるのとなにが違うんだ、とも思うけどね。

 俺たちがしてないのは、努力じゃなくて覚悟である

 イラストレーターになるような人っていうのは、それこそ十代の頃から人生賭けてやってるんだろうなあ、というのはツイッターで見ていると伝わってくる。それと、不特定多数に対して自分の実力の承認求めないと生きていけない、というのはかなり辛いことだろうな、ということも。それで病んで潰れちゃった人ってよく見るしね。職業イラストレーターで食って行こうというのは、大変なことであろうな、というのは、見てるだけの人も察することはできる。

 で、俺たちはそういうことはなくて、なんとなく人生歩んでて、創作仕事とかなんとか言い換えても良いかもしれない)って人生とか実存とか賭けてやるようなことじゃないとか思ったから、ここにいる。

 イラストになにを求めてるかって、端的に嗜好品だと思ってて、ささやかな癒やしを買い求めたいに過ぎない。

 イラストレーターさんたちがそういうところで商売してくれるかっていうと必ずしもそうではなくて、SNSとかでは必ずしも嗜好品として実用的なものが伸びる訳ではないっぽいので、イラストトレンドと俺たちが欲しいものって、けっきょくどんどんずれていく。その中でどうにか自分性癖に近い絵師をがんばって探してその人から買って人によっては『推し活』していついなくなるかわからない絵師を支えて、という日々だった訳である。そういうのが楽しい人は良いんだろうけど、全員がそうでもない、というかオタクというかサブカル消費者やるような人間の中では楽しんでやってる奴は少数派じゃないの?と思う。

 でもイラストAIさんはそういうの端折らせてくれるので、確実に俺たちのニーズには応えている。好みの絵柄が出るようになるまで設定をチューニングして(モデル選び、生成の設定、プロンプト、LoRA適用など、ここには意外と努力技術が要るのだが)、あとは欲しいだけ出せば良いんだから・・・

 ・・・というのは大嘘で、どんなにプロンプトで頑張っても欲しいポーズとか服とかが出てこない(学習ちゃんとできてなくて描けない)からControlNetでなんとかとかLoRAで云々とか、あと細かい粗とかは常にたくさんあるのでそういうの修正したいとかやりだすとここでもやっぱり努力しないといけないとか、そういう問題はある。

 でもそれは努力でなんとかなる問題で、覚悟は問われない。ゲームをやり込むのと同じ。

 俺は、覚悟のない人が余暇にやって、自分の欲しいものと多少の繋がりを得られる、っていうのは趣味というか道楽としては素晴らしいことだと思う。

 そう、イラストAIとは、道楽である。たぶん、俺たちは、それをそれ以上のものとは思っていない。

 ネットで見かけるAI術師たちを見てると、「AIを使っていることは不問とするならば、ちゃんモラルを持ってやってるんだろう」という感じがする術師って、俺みたいなタイプが多そうなんだよね。ちなみに、すごくたくさんいる。たぶん一番多い。フォロワーせいぜい3桁なので目立たないけど。次に多いのはお金儲けとか一山当てるとか承認欲求とかやりたい人って感じはし、それより更に少ないほとんど例外的人種として「なんか邪悪なことをしたい人」がたまにツイッターに湧いてるかな、という感じ。

 雰囲気は昔の2ちゃんねるっぽい。大多数の利用者はなんとなく楽しみたくてやってる名無しさん。気の利いたことをやって認められよう、みたいな奴もいてIDで呼ばれたりコテがついたりしている。荒らしは数は少ないけど暴れるので目立つ、みたいな。

 それでなー。以下は本当に余談というか、まあ世間論点にいっちょ噛みくらいはしておきましょう、というお話

 俺たちは別に金取ってなんかしようとかそういうつもりはない。繰り返すけど、自分のためにささやかな癒やしが欲しいだけである。そういう意味で、イラストレーターさんの仕事を奪おうとかはまったく思わない(ある人・・・というか、そうさせたい人にはどう対処するの問題はある。それはそっちでイラストレーターさんたちはどうにか頑張って対抗してください、としか言えない)。

 ま、実際問題として、AIイラスト垢って今のところ、同族AIイラスト垢にフォローされて伸びる以外ではぜんぜん伸びない感じもするし。

 ただし、俺のサブカル向け出費は順調に減少している。5万円するグラボを買っちゃったけど、節約効果で来月くらいにはペイしそうなのも、また事実である

 俺がサブカルに何万円も使ってたのって一種中毒だった訳で、AIイラスト道楽中毒になれば相対的に安い訳で、差し引きプラスになる。『今晩のおかず』を自給自足する割と実用的な手段であるという効果も相まって。

 これはつまり縮小再生産に加担しているということであって、その点に関してだけはやや胸が痛む。

 とはいえ、「オタク向けの商品バンバン買え!消費しろ!」というのに踊らされ続けるのも、しんどい訳でさ。降りさせてくださいな。去るものを追わないでくれ。

 今のAIイラストっていうのは、これまで書いてきた俺の事例みたいに、努力はできるが覚悟はできなくて満足が得られると嬉しい、というニーズに一番合ってると思う。おかずを地産地消し、その過程でも享楽が得られる、という道楽である他人の出したAIイラストっていうのは、まあそんなに低くない頻度で刺さるのはあるけど、基本的にはそれを楽しむくらいなら自分で出した方が、ってところがある。逆に、AIイラストやる他の人に刺せると、してやったり感があって嬉しいというところもあるけど。

 で、俺らみたいなのって、けっこうそういう意味努力要求されるのは事実

 そういうところが面倒くさいので、ものすごくでかいムーブメントにはならないはずであるゲームを本格的にやり込む『廃人』みたいな人が数の上では少ないのと一緒。

 ただし、年単位で見ると、ぜんぜん先はわからない。

 『nijijourney V5』というサービスがある。『神絵師らしさ』を存分に発揮した画像ツイッターとかでよく流れてくるので、ご存じの方も多いと思う。これは無料枠でもそこそこの枚数、月額数千円課金するともっとたくさん、イラストが生成できて、しかもそこまで面倒くさい設定とか要らない。Discordで割とシンプル呪文を投げれば向こうが勝手にやってる最適な設定で動く、ようなサービスになっている。

 現状、これがいまいちなのは間違いないと思う。『神絵師らしさ』は出るんだけど、それはどっか上の方に書いた理由存在意義がない、と俺は主張する。あと、それより根本的な問題としてはNSFW出せない縛りがあってそれがきついとか、あと本当に「誰がやっても同じ」になってしまうので自分性癖に刺さるものにチューンできないとか、色々問題点はある。

 けど、そういうのをなんとかした後発サービスはどこかの会社が頑張って作ってる最中だろうという気もして、それがサービスクオリティというか気の利いてる度合いみたいなところで「俺たちが使える水準」になれば、でかいムーブメントになるのかもしれない。

 なったら、あとは俺たちの縮小再生産が勝つ。

 「AI仕事を奪われる」立場の人たちってすごい大変だと思うけど、その反対側では「そもそも仕事にならなくなる」という形で需要が溶けていく部分もあると思うんだな。そういう需要で食ってきた人はどうするんだろう、みたいな。「イラストAIの方が低コスト需要に応えられる」ならこれまでイラスト描いてきた人たちが覚えて使えばそれで良いという話もあるけど、それ以前に需要いくらか(ぜんぶではないにしても)は消滅する方向性である。現に俺は節約できてしまったのだし。

 そういうのはあんまり正規雇用職業としては成り立ってなかったという意味では「イラストレーターの仕事を奪わない」かもしれないけど、じわじわ来るだろう、みたいな。

 そういう意味イラスト文化というかイラスト産業未来は明るくない気がするのだけど、とはいえそれがものすごく明るいものに見えてたのが異常だった、ということかもしれない気もしていて、ちょっとよくわからない。

 俺は節約したとはいえサブカルに落とすお金ゼロになった訳ではないし、まだ消費者を名乗れるのだけどさ。

 ささやかな癒やしを買いたい人に、ささやかな癒やしを売れてなかったという意味では、そのシステムはずっと前に壊れていて。AIって、つまるところそれを露呈させただけだと思うよ。

 ということをそういう立場から書いて、締めの言葉とさせていただく。

2023-03-28

キミイロデイズでひっかかること

まず、朝勃ちのことすら知らなかった女の子が「自分は元々斎藤真人という男だった」と暗示をかけられたところで完全に男として違和感ない存在になれるものなのかなあと。

そもそもこの暗示はだいたいこの二つの文で構成されていると思われる。

・この体の持主は斎藤真人という。

自分は元々この体を持って生まれてきている。

基底人格を男として塗りつぶしても、それはあくまで塗りつぶしであって消去ではないし、記憶経験自体は女として十年余り生きてきたのが変わらず残ってるわけだから、暗示をしたところであくまでそれに基づく振る舞いになるように思う。

記憶については入れ替わり先の脳を参照しろ、という命令はおそらく無意味と思われる。なぜなら記憶を参照できる世界観ではないから。

もしそういう世界観なら主人公は入れ替わった瞬間こいつはサキュバスハーフだとわかるはずであるヒロインに言われたら「そんなの記憶を読んでるから知ってるよ」と答えるはずだ。

もし暗示をするための魅了が一瞬のうちに単純な命令だけでなく命令の前提となる情報いくらでも伝えられるものだったら、それも可能だが、そこまで万能な能力に描かれているとは思えない。

そこまで万能なら番外編であんなまわりくどい方法女子を掌握する必要もないはずだ。単に入れ替わりを発生させた後女子の魂が入った男の身体服従するよう暗示をかければいい。作中でも「邪魔をするな」「エッチなことするな」レベルの単純な命令しかしていない。しようと思えばいくらでも高度な命令ができる、とはこういう描写をしているかぎりは考えるべきではないと思う。

ただ何につけても気になるのは、男であるという暗示が完全に定着した後のヒロイン自分の体を見て「あの月代さんになんてことを!」と言ってるセリフなんだ。

なぜか「あの」に傍点がかかっている。これが意味することがなんなのかいまいちスジの通る考えが浮かばない。

その前でも一人称傍点がついているのも人格誤認を起こしてることの強調と思われるが、その意図で考えるなら、暗示の影響が反映されていると考えるべきなのは「あの」ではなく、自分身体に向かって「月代さん」と言ってるところだと考えるのが素直だろう。あのと言ってることも一応人格改変と影響と考えてもいいが、ならせめて「あの月代さん」まで傍点を振るべきだと思う。

思うにこれは単なる人格誤認の強調ではないのかなあと考える。もともとの主人公は入れ替わってすぐに無遠慮にエッチを求めるぐらい彼女に対してそこまで大事に思ってる感じはないので「あの月代さん」などというセリフが出て来るような性格をしていない。

それが主人公クローンとでもいうべき人格になり果てた彼女場合では、もともとの基底人格良識を引き継いでるから自分が男で目の前の人間スクールカーストの高い人間認識たからこその「あの月代さん」なのだろうと思った。あえて人格の消去でなく人格の上塗りといった何気ない台詞整合性を持たせるならこう解釈するべきだと思うんだよな。

そもそも彼女が目覚めて一度も目の前の女性サキュバスであることに突っ込んでないのもおかしいしね(番外編では突っ込まれてるのに)。これは基底人格内の記憶のうえでは元自分身体サキュバスであることは当然既知の情報からだと思う。

でも著者本人に台詞意図とか聞けるのが理想だよな。でも谷口さんってビックネームだしツイッターとかやってるかもしらないししてても読者の質問に答えるほど距離の近い存在じゃないよなあと。

でもこういうもやもやが残ってると実用性が半減するんだよね…。

2021-10-06

今日仕事は、楽しみですか」の問題点3つ

例の写真をよく見て欲しいんだけど「今日仕事は、楽しみですか」のうち

「日」という字の左側、「は」の右下、「み」の左下にそれぞれ黒い点がある

強調の傍点でも読点でもシングルクォートでもなさそう

1枚だけでなく奥の方でも点が確認できるから

イネージ側のドット抜けカメラゴミでもなく表示データに作りこまれている点だ

この点なんなの?

2021-07-21

[] 2014

P47

映画2001年宇宙の旅()それから20年以上たったいまでも、私たちはまだコンピュータへの意思伝達にキーボード傍点)を使っている。コンピュータは音声言語を厳密にデータ化することはおろか、理解することなどできないからだ。(略)脳が暗黙的にしていることを明示的に再現しようとしてはじめて、人間認知システムについての理解いかに乏しいかにようやく気づくのだ。

 コンピュータチェス指しプログラム歴史は、この件についてすばらしい例を示している。しばしば()たか人間名誉危機に瀕し、「機械の台頭」は近いかのように評されるのが常だ。しかし、(略)

したがって人間の指すチェスは、直感思考合理的思考のどちらも伴うハイブリッド作業である。(略)

ディープブルー(略)ほどのコンピュータ処理能力配備しても「誰もが認める人間に対する最終的勝利」に達しないという事実こそ、人間の脳の非合理的思考プロセスもつ底力と洗練のしるしである

2021-04-06

弱者男性とかなんとか、黙れ、バカヤロー!

ここ数日「弱者男性」とかが増田に上がってるけど…

なーにが弱者男性だよ!弱者ぶってんじゃねーよ。

グダグダわずに「ソープに行け!!!®北方謙三)」

収入やら素人童貞やら何をお高くとまってるんだ?まずは黙って抜け!

かの小林秀雄(知らなけりゃググってくれ)でさえこう書いている。

「女は俺の成熟する場所だった。書物傍点をほどこしてはこの世を理解していこうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた。」

まずはソープに行けそれから自分生き方を熟慮するなり弱者や(ソープのおねーちゃん境遇を含め)社会システムやらを大言壮語しろ

そして、その大言壮語のうちに、歪んだ社会を1ミリでも前進させるために貢献できれば、それで良いのではないか

2020-06-22

anond:20200622223511

横。

「」問題傍点が打てないから仕方なくやってる人が多いと思う。

統一表記問題ではなくW3CWhatWG問題

2019-08-12

追記あり古市憲寿さんが芥川賞選考委員にいろいろ言われちゃってる件

10日発売の『文藝春秋』に芥川賞の選評が載っていて、二回連続落選した古市さんがいろいろ言われている。

候補作は単行本出版されているが、まだ読んでない。だが、高学歴なのにビルの窓の清掃員をやってる主人公の話で、参考文献が詳細にあげられているらしいことは、なぜか知っている。

参考文献については、前回だったか候補作の剽窃問題があって、その辺の対策らしいと噂されていた。

で、選評である

まず山田詠美はこう書く。“(参考文献の)木村友祐作「天空絵描きたち」を読んでみた。

そして、びっくり! 極めてシンプルで、奇をてらわない正攻法候補作よりはるかおもしろい”

候補作が真似や剽窃に当たる訳ではない。もちろん、オマージュでもない。ここにあるのは、もっとずっと巧妙な、何か。それについて考えると哀しくなって来る”


続いて川上弘美。“結論からいいますわたしは悲しかった。木村友祐さんの声がそのまま「百の夜は跳ねて」の中に、消化されず、ひどく生のまま、響いていると、強く感じてしまたからです”

古市さんのおこなったことは、ものを創り出そうとする者としての矜持にかける行為であると、わたしは思います


吉田修一。“本作に対して、盗作とはまた別種のいやらしさを感じた”

あいにく『天空の…』の方は書籍化さえされておらず入手困難であり、まさにこの辺りに本作が持ついやらしさがあるように思う。”


堀江敏幸。“他者小説の、最も重要な部分をかっぱいでも、ガラスは濁るだけではないか”(原文では「かっぱいでも」に傍点あり)




要するに、古市さん、文芸誌掲載されたが出版されていない佳作を探してきて、うまいこと翻案して小説書いたようである

いや、具体的にどの程度の参考具合なのはかめてないので、なんとも言えないが、当代きっての作家先生方が、かなり憤っておられるようなので、相当なものなんだろう。

是非比較して見たいところだが、「参考文献」の方は、『文学界2012年10月号、だそうなので、確かめるには、図書館バックナンバーを出してもらうしかなさそう。

にしても、古市さん、お忙しそうなのに、純文学文芸誌まで必死にあさって「参考文献」集める努力は大したもんだが。

まあ「情報集め」は嫌いじゃなさそうだしな。

まさかとは思うが、担当編集者うまいこと見繕って選んだのを古市さんに読ませてるとか、そういうことじゃないよね?





参考文献問題に触れてない選評にしても、あまり芳しくない。

島田雅彦曰く“ナルシスト的私語りが中心で、リアリティ構築に必要な細部も情報パッチワークに終始しているのが気になった。”

宮本輝は“他の登場人物たちがみな類型の寄せ集めなのだ。”

どうやら評価したのは奥泉光だけで、“今回自分が一番押したのは、古市憲寿氏の「百の夜は跳ねて」だったが、選考会の場で評価する声はほとんど聞かれず、大分弱った”そうである

“外にあるさまざまな言葉コラージュして小説を作る作者の方向を、小説とは元来そういうものであると考える自分肯定的に捉えた”そうだ。

ここには、小説における“オリジナリティ”とは何か?という問いが含まれている。

ま、小説なんてそもそも「すでにある言葉」の組み合わせでしか書けないじゃん、というのはある。

で、ありものコラージュでも新しいものが生まれればいいけど、山田詠美は「参考文献」の方が「はるか面白い」って言ってるしなあ。

吉田修一は、「参考文献問題」以外にも手厳しくて、“凡庸差別的価値観主人公小説で書いてもいいのだが、作者もまた同じような価値観なのではないかと思えるふしもあり、とすれば、作家としては致命的ではないだろうか”なんて言っちゃってる。

これは、社会学者にして人気コメンテーター(タレント?)としての活動にも少なからず影響しそうな評価だと思うけど、ま、芥川賞の選評なんて、今時の世間に影響力なんかないのかな?




古市さんという人、本をちょっと読んだことがあるのと、時おりメディアでお見かけするだけで、どんな人か詳しくは知らない。

ただ、妙に芥川賞を取りたがっているらしいという噂は聞く。

なんでだろ?

“気鋭の若手社会学者”も“テレビ毒舌が人気の論客”も、実に空虚脆弱肩書きで在ることに、ご本人が一番気づいているということだろうか?

そこで、「学者として研究に力を入れる」ではなく、「いい感じの小説を見つけてきて、うまいこと翻案して芥川賞ねらう」って辺りが、実に薄っぺらいけど。

テレビ知名度得た人が芥川賞狙うって図式では、又吉直樹といつ成功例がある。

あの「火花」という作品が、そこまで傑作かどうかはともかく、この人は本当に、太宰治を筆頭に、文学というものが大好きで、おそらく文学に救われたという経験を持っていて、文学リスペクトしていることが端々から伝わってくる。

文学に対して真摯謙虚なんたろうな、と感じられるのである

片や古市さん、文学とか小説とか、本当にお好きなんだろうか?

あんまり文学とか語ってるのを聞いたり読んだりした印象がないのだが。

前回の選評では、「ナルシシズムが過ぎる」とか「自己肯定というより自己過信」とか、これまたかなり厳しい言葉が並んでいたと記憶する。

単なる自分語りの舞台として小説を選んでいるのだとしたら、ずいぶん旧い、日本文学における「私小説偏重文学観をうすっぺらくなぞっただけかもしれないが。

なんだろうなあ?

社会学者コメンテーターも、ありもの言葉を組み合わせつつ、持ち前の地頭センスと要領でなんとなく現在地位を掴めちまったっぽいだけに、「小説? これくらいなら、ボクでもかけるじゃん」とか思っちゃったんじゃないかなあ、という疑いを禁じ得ない。

で、今後も小説は書いていかれるんだろうか?

追記

えらくブクマついてる。文藝春秋なんて読んでないけど、中身は気になるって人は多いのかなあ、と思ったり。

「参考文献」の著者、木村友祐さんがtwitter発言されておられるので、追記しておく。

本件、「古市さんが窓拭きに興味をもち、取材依頼があり、応じました。窓拭きの達人を紹介しました。古市さんはその取材をもとに書いてます。」そうだ。

選評からの推測で「翻案」などと評したのは、勇み足だった。

お詫びしたい。

なお、「窓拭きの細部以外は、ぼくの作品古市さんの作品は別のものです。そしてぼくは、〝知名度がないゆえに作品を利用されたかわいそうな小説家〟ではありません」とのこと。

にしても、選考委員先生方は、どの程度経緯をご存じの上で選評を書かれたのかは分からないけれど、えらく憤っておられるようで、なにがそんなに山田川上吉田各氏に火を着けたのか、検証してみたくはある。

二冊並べて売ったら、「出版ビジネス」としては面白いと思うけど、難しいのだろうか。

2019-02-11

anond:20190211020729

・・・・・・

今日から俺は大金持ちだ

みたいな(傍点が振られていた)セリフなかったっけ?

あれ違う漫画だったっけ

2018-06-22

ダメ説明書の作り方、12のコツ

(1).正式版を発行する前に、作者や家族子どもに下読みさせない。これらの人は、説明書の欠陥を見抜いてしまうからだ。中学生が読んでも分からない程度の難解な説明書なら、威厳が出てよい。

(2).ルールブック風に書き、レシピ風には書かない。「何が許容され、何が禁止されるか」だけを書き、「次に誰が何をどうすべきか」は読者に考えさせるべきである道路交通法さえ読めば、自動車運転完璧にできるはずだ、と同じである

(3).読者に「注意」させよう。「なお、〇〇に注意すること」と書くべきであり、「○○なら機械を止めよ」などと具体的な指示は書かないことだ。

(4).否定を使おう。「猫ではない場合」と書くべきであって、「犬か馬の場合と具体的なイメージが生まれる書き方はしない。

(5).堅苦しく書くこと。漢字を6個以上並べて熟語を作ろう。動詞名詞化しよう。「歩く」ではなく、「歩行を行う」がよく、「歩行作業開始を行う」はさらによい。

(6).既存説明書を参照させよう。読者が今読んでいるページで説明するのではなく、「詳しくは○○文書の○○ページを参照のこと」と、ページをめくる手間をかけさせるのだ。

(7).1ページあたり、10カ所ほどは下線や太字、傍点などの文字修飾を使って重要部分を目立たせよう。新聞記事では文字修飾は使わずに、小気味よい体言止めの大見出し小見出しを使って、要点を目立たせているが、面倒だ。文字修飾は安直で、使い勝手がよい。

(8).絵や写真絶対に使ってはならない。特に部品の組み立て方などの幾何学的な指示や、良品と不良品判別など実物写真があれば分かりやすい題材に対して、ビジュアルを使うのは厳禁である。何でも、言葉表現しよう。

(9).説明書は、分厚く、長い方がよい。何でもちゃんと書いてあったというアリバイができるので、事故が起こっても説明書の作者は責任が問われない。どこに書けばよいかからないが、書かないとアリバイにならないという情報は、「その他」や「注意事項」という章を作って、書き連ねておけ。「その他」が肥大化した説明書は素晴らしい。

10).最後の1文で、どんでん返しをしよう。説明書の末尾に、「なお、○○の場合上記の限りではない」と付けておけば、読者は最後まで気が抜けない。

11).索引はつけない。PDF説明書なら、キーワード検索ができないようにしておくこと。

12).説明書作成改訂理由執筆者は書かないでおこう。そうすれば、数年もすれば、なぜこのようなルールができたのは誰も分からなくなる。

(「安全健康」vol18, 中田亨, 2017, p.49-50)

2017-07-05

まらないものをつまらないと言えない世界のはなし

アガルタがつまらなかった。

もちろん、面白かったひともいると思う。これはそういう人に向けて書いた文ではないので、引き返していただいたほうがいいと思う(と、予防線を張っておく)。

私はアガルタがつまらなくて、不快だった。この新宿ネタバレに溢れた話を、「新宿より先にやってもいい」と判断した運営には心底驚愕したし、はじめて運営意見フォームから意見を出した。ツイッターでも正直につまらなかったと言った。

しかし私がここで書きたいのは、アガルタのどこがどうつまらなくて、どこがどう不快だったかという話ではない。そういうのは書きつくされていると感じるし、それを書くためにアガルタを読み返すことすらしたくない。

私がしたいのは、アガルタ公開後にツイッターで湧いて出た『考察』についての話である

本編で提示されていない内容を元にした考察は全て妄想である、という話をしたいわけではない(その意見には全面的同意だけど、妄想してはいけないというわけではない。妄想であることを自覚して欲しいとは思うけれど)。

ただ、私が見かけた『考察』のうち、どうしても思うところがあるものが二つほど存在し、その二つがどうやら同じモノを発端として発生しているような気がしたので、ひとつの覚書としてこれを書いている。

先に言っておくと、「だからどうした」みたいな話だ。単なる思いつきのメモである。でもどうしても、それこそ「吐き出したく」なったので書く。

※あ、ここからアガルタの根幹に関するネタバレ存在するので、アガルタクリアのかたはご注意下さい。

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というわけで、『考察』の話をしよう。

ひとつは、『アガルタ』のつまらなさ(『平坦さ』『薄っぺらさ』)はある程度意図されたものである、という『考察である

アガルタ』はすべて『不夜城キャスター』が紡いだ物語である。故にお伽噺のように平坦だし、寝物語のように淡々として、即興で紡いだがゆえにちぐはぐであり、ご都合主義がまかり通る。そういう意見である。これはかなりRTされていたように思うので、見かけた人も多いのではないだろうか。

この考察は『本編で提示されていない』とまでは言えない。『アガルタ』が不夜城キャスターの宝具によって紡がれた世界である、というのは、本編中で示唆されている内容だ。

「『アガルタ』は、(15節まで)不夜城キャスターが紡いだ『物語である。」

問題は、これがどうして「だからまらない」となるのか、という話である不夜城キャスターは千夜物語を紡いだ語り手だ。「つまらない」話など紡いだらその場で殺される、そういう状況で語り続けた語り手なのだ。その彼女が紡いだ物語が「つまらない」ものであるはずがないし、「これが不夜城キャスターによって紡がれた物語である」ということを示すために「つまらなさ」を選択する必要はない。

例えば、必要以上に大げさな展開・カルデアとはかけ離れて愉快な配役のキャラクター荒唐無稽で「楽しい物語。学園モノで言う文化祭のような? ──そういったものでも「これは『物語である」ということを示すことは十分に可能なはずだ。普通に考えて、ソーシャルゲームという「飽きられたら終わり」の世界(これはある意味「飽きたら殺される」不夜城キャスターが置かれていた状況に近いとも言える)で、わざわざ意図して「つまらない」物語提供する、そんな作り手が居るはずがない。っていうか「つまらない」と自分で思っている話を15節も書き続ける苦行をやる書き手いるか

というわけで、この『考察』は間違っていると私は思う。『物語である部分は正しいかもしれないけれど、「だからまらない」という理由にはならない。

……が、私が今言いたいのは、この『考察』が正しいかどうかについてではない。

結論を導く前に、ふたつめの『考察』について話をしよう。

こちらの『考察』は、「マシュ・キリエライトは1.5部でビースト化の道を辿っているのではないか」というものである

この『考察』は、不夜城キャスター不用意に放った発言に対し、マシュが「貴方は私達の逆鱗に触れました」(だっけ? 読み返していないので正確なものではないけど、ニュアンスとしては間違っていないはず)と発言したことに端を発する。

状況としては、(これは何処かで見た表現なのだけど)「交通事故遺族のマシュに対して、不夜城キャスターは、マシュが交通事故遺族であることを知らずに『交通事故って一瞬で死ねそうで羨ましいです』と言った」と理解するひとが多いと思う。個人的には、ロマニ・アーキマンは自らそれを選び取った(けれど、決してそうしたいわけではなかった)という点において不十分なたとえである気もするけど、まあ、その点はさして重要ではない。問題は、このマシュ此処で不夜城キャスターに対して『キレた』ことが、今までのマシュのキャラクターからすると不自然である(と感じたユーザーがいる)ため、これはマシュが『変化している』ということではないか、ということからまれた仮説である(と思う。違ってたらすみません)。

この『考察』については、1.5部のラストに辿り着くまで、正しいかどうかはわからない。わからないが、私はこの『考察』にも違和感がある。

何故なら、このマシュの言動に対して、主人公ダ・ヴィンチちゃん、シャーロック・ホームズというその場に居た面々が、違和感を覚えている描写存在しないかである

物語として仕組まれた『変化』なら、それが『変化』であるということも同時に示されるはずだ。ダ・ヴィンチちゃんが違和感を覚えるのでもいい。主人公がマシュを諌めるのでもいい。六章でマシュを激励したところのホームズだって、その役目を負うに十分だろう。けれども彼らは、マシュの『変化』に気付くことはなく、心情に理解を示した。ならば(素直に読み解くのならば)、ストーリー上は引っかかるように書かれた部分ではなく、マシュに『変化』は存在しないということだ。あれだけわかりやすく(傍点まで使って!)不夜城キャスターにマシュを挑発させた書き手が、ここで示したかったのがマシュの『変化』であり、それがビースト化の布石であるというのなら、その『変化』はもっとわかりやすく、そう、【作中の誰かが危惧を抱く】という形で提示されるはずだろう。


……それで? と。

この『考察』が気に入らないのはわかったけれど、だから何なのか、と、そろそろ思われている頃だろう。というわけで、結論に入る。

これらの『考察』は、つまり、『公式提示したもの批判してはいけない』という、ツイッターランド特有文化からまれた『考察』と言う名の言い訳なのではないだろうか?

「つまらなかった」「マシュのキャラ解釈違い」は推奨されるツイートではない、けど、自分が感じたことが正しくなかったとは思いたくない。だから彼らは『考察』するのだ。

「つまらなかったけど、つまらなかったとは思いたくない」→「つまらなかったのも公式意図したことであれば、『つまらなかった』と思うのも当然!」

「マシュの言動違和感がある。これは(私の考える)マシュじゃない」→「マシュの言動違和感があるのは、公式がそう意図して表現しているから!」

……こうして『考察』することで、「自分公式を『批判』しているのではない、寧ろ公式意図を正しく汲み取っているのだ」と言うことができる。自分が行っているのはアンチ行為ヘイトではなくファン活動であると思うことができる。

「つまらなかったのも公式意図したことであれば、『つまらなかった』と思うのも当然」という言説は、「面白かった」と感じた人の感じ方を「公式意図を汲んでいない誤ったもの」にしてしまうことや、「マシュの言動違和感があるのは、公式がそう意図して表現しているから」という主張は、マシュの怒りを当然のものと受け取った人の感情を「ビースト化に繋がるもの」と見做していることに、彼らはもちろん気づかない。


まらなかったのなら、つまらなかったと言えばいい。

アガルタのマシュが解釈違いだったなら、解釈違いだったと言えばいい。


わざわざそこに、尤もらしい理由をつける必要はない。


考察』といういかにも理性的に見える言い回しで、貴方は、他人の感じ方を(ただ「つまらなかった」というよりもずっと強く)否定してはいないだろうか? 

貴方の『考察』は、自分公式に抱いた負の感情を、無理やり納得させるものではありはしないか



まらないものをつまらないと言えない世界には、『考察』という名の妄想蔓延る。






公式ファン距離が限りなく近づいた昨今、願わくはその妄想が、公式逆輸入されてしまうことがありませんように。



(これでもしマシュのビースト化がきたとして、それなりの描写があれば受け入れないことはないけど、「アガルタから布石はあった!」って言われたら、さて、どうしようかなあ……)

2016-10-18

野崎まど「know」を読んだ

おもしろかったけど、読後だんだん疑問が湧いてきた

全体としては。

とても。

おもしろかったです。

2016-10-06

10時間時間を潰さなければならないとかふざけんなとか

ごめん。八つ当たりです。

人力検索に先の質問があって超イライラした。

時間を潰さなければならない?←これジョジョ風に傍点付けたい

こっちは10時間完全なる自由時間なんてこの先しばらく持てそうにないわ

10時間で色々楽しみたいので教えてって質問ならいいなぁと思うだけだったけど、

いやいや仕方なしのくせに何か楽しいことができる時間が持てるていうのが妬ましかった。

2015-06-20

馬鹿じゃねえの。<中川淳一郎の『絶歌批判について>

始めに、この文章は「元少年A」や『絶歌』に対する世間の大多数と反応と「真逆の主張」であることを先に示しておく。

中川淳一郎の『絶歌書評に思うこと

馬鹿じゃねえの。

この中川淳一郎っていう奴の『絶歌』の書評( http://biz-journal.jp/2015/06/post_10431.html )を読んで、正直こう思った。

ハッキリ言うけど、お前に元少年Aや太田出版外道だなんて糾弾する資格なんてないだろ。正義ぶって勝手書評を書く前に、我が身を反省してみたらどうなんだ。

おそらく、中川淳一郎はこう思ってるんだろうな。

「この記事に誰も文句なんて言ってこない」

元少年A」は叩かれて当然の「極悪人」で、それを一刀両断している中川淳一郎は「正義告発者」だからな。

世間感情同調している中川淳一郎はきっと、どれだけ「元少年A」を扱き下ろしても大丈夫だと、そう思っているんだろう。

フザけんな。

非難してやる。ネット上の他の全員がお前の書評を褒めちぎっても、俺だけは非難してやる。

元少年Aを「外道」だと罵るお前の方がよっぽど「外道」だと、この場で主張してやる。

「人の言葉」を踏みにじる中川淳一郎

俺が最も中川淳一郎書評で怒りが沸いた部分は、元少年Aが「どうして人を殺してはいけないのですか?」という問いに対して答えた箇所に、コイツが吐いた感想だ。

一応、元少年Aの言葉引用しておく。前述の問いに対して、元少年Aはこう答えた。

引用

『「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなた想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」』(註:原文では「あなた自身が」の部分に傍点あり)

絶歌』の関連記事を漁っているなら見飽きた文章だろう。

で、これについて、中川淳一郎はこんな風に言っている。

引用

 あぁ、何もわかっていない……。どうしてこうも自分本位なのか。「あなた自身が苦しむから殺人はいけない」と言い、まるで自分悲劇主人公かのように「重い十字架」というエセ文学的表現を使う。人を殺してはいけない理由は、これである

「誰もが他人人権蹂躙することはできないから」
「殺された人に近しい人が悲しむから

 酒鬼薔薇被害者とその遺族よりも、自分自身加害者)の側の論理でいまだに語っている。そしてこれがやっと見つけた唯一の答えとは、非常識かつ幼稚もはなはだしい。

ハッキリ言って、頭にきた。

なんて身勝手文章だと怒りを覚えた。

何も分かってないのはお前の方だろう?

人の「本気の思い」をこんな風に平然と踏みにじる、お前の方がよっぽど外道だ。

確かに、元少年Aの答えは自分本位だよ。凶悪殺人を犯したくせに、いまだに自意識の中でしかその理由を語れてない非常識で幼稚な答えかもしれない。

だけどな、ここにあるのは『本気の思い』だよ。事件の後の全人生を通じて、元少年Aが自分の頭で考えて言葉にした「人殺しをしてはいけない」ことへの『本気の思い』だ。

どれだけ自分本位で幼稚でも、本人があの事件を起こした後に見つけてきた『自分の答え』だ。

それを、お前は踏みにじった。

「あぁ、何も分かってない・・・・・・。」なんて、さも悲哀ぶった言い方で、お前は元少年Aの言葉から耳を塞いで、「自分意見」で踏みにじったんだ。

人殺しをしてはいけない」ことに、お前の考えや正義があるのは分かったよ。客観的に見れば、お前の考えの方に正当性があるんだろう。

でも、だからって踏みにじって良いわけじゃないだろ?

他人自分の全人生をかけてたどり着いた『本気の答え』を、そんな風に無価値だと切り捨てて良い理由にはならないだろ? お前にとっては「何も分かってない」ような幼稚な意見でも、それが元少年Aにとっては「やっと見つけた正しさ」なんだぞ。

婚約者」が『自殺』している

まあ、元少年Aの「答え」なんて、他人から見たらボロ布くらいの意味しかないのは分かってるよ。

ネット上の大多数、「元少年Aや『絶歌』に対する怒りを燃やす人々」はそれでもいいよ。

だけど、中川淳一郎。お前は違う。

お前は、婚約者を亡くしているんだろう?

正直、俺には信じられない。婚約者鬱病の末の自殺で亡くしているにもかかわらず、あんな身勝手書評を書くだなんて。

一応、読んでない人のために書く。

中川淳一郎書評には、その昔、当時の婚約者自殺で亡くなった件について書かれている。

そして、その際に本人が参考にしたのが『完全自殺マニュアル』・・・・・・『絶歌』の担当編集である落合美砂が、93年に世に送り出したベストセラーとのことだ。

これだけ書くと、まるで中川淳一郎が「『完全自殺マニュアル』のせいで婚約者自殺した!」って主張してるみたいに誤解しそうだけど、そこまでは思っていないらしい。

ただ、その本が自殺した婚約者本棚の中にあって、そこに書かれた「最も推奨されている方法」で自殺したという、それだけらしい。

中川淳一郎は言っている。「彼女が死んだのは鬱病のせいである。それは間違いない」と。

そう、その婚約者自殺したのは「鬱病」のせいなんだ。

これは完全に憶測になるけれど、鬱病みたいな「心の病気」の最たる原因は「孤独」だ。

自分の抱えている問題を誰にも打ち明けられない、誰とも共有できない、そういう風に「一人でどうにかしなきゃ」という状況に追い込まれときにこそ、「鬱病」みたいな精神病に人は陥る。

もちろん、実際にその婚約者が「孤独」だったかどうかは憶測の域を出ないけれども、誰にも相談できなかったことは間違いないだろう。

そうでなきゃ、『完全自殺マニュアル』なんて買うわけはないからな。

ここで『完全自殺マニュアル』について確認しておく。

当たり前だけど、この本は自殺の「方法」を書いているだけであって、自殺を「推奨」しているわけではない。中川淳一郎引用していたけれど、太田出版の紹介文ではこうなっている。

引用

世紀末を生きる僕たちが最後に頼れるのは、生命保険会社でも、破綻している年金制度でもない。その気になればいつでも死ねるという安心感だ! 自殺方法を克明に記し、さまざまな議論を呼んだ、聖書より役に立つ、言葉による自殺装置。」

この文章で注目すべき点は、二つ。

一つ目は、「世紀末を生きる僕たちが最後に頼れるのは」という部分。この箇所から、この本は「生きる僕ら」が「頼れる」ものを示したものであることが窺える。

二つ目は、「その気になればいつでも死ねるという安心感」という部分。この箇所からあくまでこの本は「安心感」を提供するためのものであることが窺える。

以上の点から、この『完全自殺マニュアル』はあくまで「生きるための本」であることが分かる。具体的には「自殺という『逃げ道』を示したから、後は安心して生きればいい」という本だということだ。

イメージが掴みにくい人は、『完全自殺マニュアル』を「精神科医」に喩えてみてほしい。「『いつでも安心して、私を訪ねてきて下さい』そう患者に言ったら、二度と患者は訪ねてこなかった」一度くらいこういう話を聞いたことはあるだろう。要するに、「いつでも訪ねられる」という「安心感」が重要なのであって、実際にその選択肢を取るかはさほど重要ではというないのだ。その「安心感」を提供されただけで、患者心の問題は半分くらい解決しているらしい。

おそらく、『完全自殺マニュアル』も、そういう「安心感」を提供することが目的書籍なのだろう。事実、前書きや後書きの部分には「いざとなれば自殺してしまってもいいと思えば、苦しい日常も気楽に生きていける」旨が書かれているようだ(https://ja.wikipedia.org/wiki/完全自殺マニュアル)。

というわけで、この『完全自殺マニュアル』はそういう、精神科医的な「安心感」を提供する本だ。

そんなもの本棚にあったということは、そんな「安心感」に頼らなくてはならないほど、その婚約者精神的に追い詰められていたのだろう。

普通ならば、『完全自殺マニュアル』は買って読まれた時点でその役割を全うする。

「いつでも死ねるという安心感」さえ提供してしまえば、いつでも精神科医相談できる患者のように、「生きる日常」に帰って行けるからだ。

ところが、その婚約者場合、そうはならなかった。

完全自殺マニュアル』に書かれている方法を実行して、本当にこの世から「逃げ」てしまたからだ。

その婚約者がいつ亡くなったかは分からないが、おそらく『完全自殺マニュアル』を読んですぐというわけじゃないだろう。

一度読んで、一度「日常」に帰って、そこで何かしらアクションがあったのだと思う。

そして、そこで「上手く行かなかった」からこそ、まるで精神科医に再び相談しに行く患者のように、その婚約者は『完全自殺マニュアル』に頼ってしまったはずだ。

先ほども言ったとおり、鬱病の最たる原因は「孤独」だ。

そして『完全自殺マニュアル』に頼ったことからも明らかなように、その婚約者も「誰にも相談できない」状況に陥っていたはずだ。

それが行き着くところまで行き着いて、自殺だ。

何が言いたいかっていうと、その婚約者の死因は「周囲の無理解」だということだ。

中川淳一郎本人が語っている、「(自殺の)予兆に気づけなかった」という話が象徴的だろう。「婚約者」という最も近しい立場人間ですら、本人の抱えている「問題」に気がつけなかった。

婚約者の男が居てもこの世を去らなくちゃいけないほど、自殺したその女性は「分かられていなかった」のだろう。

以上のことから、俺が言いたいのはこうだ。

他人言葉に耳を塞ぐ」ってのは、こんな風に人を鬱病になるまで追い込んで自殺させることもあるってことだ。

それを中川淳一郎は、「予兆」に気がつけず婚約者自殺させてしまったお前は、知ってるはずじゃないのか?

他人への共感理解」の欠落

にもかかわらず、中川淳一郎はよくも平然とあんな風に「人の思い」を踏みにじれるものだ。

自分婚約者を殺したかも知れない「人の話に耳を貸さない」ことを、あんな風に実行できるものだ。

元少年Aの「問いへの答え」へ呟いた感想もそうだし、『完全自殺マニュアル』の「大義名分」を語ったこともそうだ。

確かこんな風に勝手に決めつけてたな。

引用

自殺する自由はある」
「苦しい時の選択肢として、自殺もあっていいのでは」
「命の大切さを伝えたい」

 こういった大義名分は『完全自殺マニュアル』発刊にあたってはあったのだろう。

きちんと紹介文を読めば、この発言的外れであることが第三者にも明らかだろう。

完全自殺マニュアル』は、「生きるための安心感」を提供する本なんだよ。本当は自殺のためじゃない。

自分引用した箇所に書いてあったことだろうが。

婚約者が亡くなった後、「本当に後追い自殺をするつもりになり、彼女が愛読した『完全自殺マニュアル』を再度読んだ」ときに目にした前書きと後書きに、ちゃんと書いてあったはずだろうが。

どうして、他人の言っている言葉に耳を傾けない?

そういう態度にこそ自分婚約者が殺されたかも知れないことに、どうして気がつかない?

中川淳一郎の「書評」に見る、元少年Aの『絶歌』との同一性

元少年Aは外道だと、いまだに悲劇主人公ぶる幼稚な男だと、中川淳一郎はそう言った。

だけど、ハッキリ言うぞ。

お前の書評元少年Aの『絶歌』と何も変わらないからな。

元少年Aの「なぜ人殺しはいけないか」っていう問いへの答えを、お前は「自分本位」だとか「非常識」だとか「幼稚」だとか非難するけどな、お前の書評だって全く同じだ。

完全自殺マニュアル』や落合美砂への「自分本位」の勝手な決めつけ、記念パーティでの「非常識」で「幼稚」な不謹慎発言。これらは元少年Aの態度と何が違う?

酒鬼薔薇被害者とその遺族よりも、自分自身加害者)の側の論理でいまだに語っている。」ってお前は非難するけどな、だったら自分はどうなんだ?

自分婚約者自殺予兆に気がつけなかったのを棚に上げて、『完全自殺マニュアル』や落合美砂という「外的要因に」文句をつけるしかないお前の態度はどうなんだ?

「『完全自殺マニュアル』を参考に恋人自殺された、可哀想自分」を気取っているお前は、「いまだに『罪の十字架』に苦しんでいる、可哀想自分」を演出している元少年Aと何が違う?

 「悲劇主人公ぶっている」のはむしろ、今のお前の方じゃないのか。

他人言葉に一切耳を貸さない、身勝手な「自分本位さ」にまみれているお前の書評は、いまだに被害者遺族の心情に寄り添うことのできない元少年Aの「自分本位さ」と良い勝負だ。

から、まるで奇っ怪なモンスターみたいに言ってんじゃねぇ。

最後

ハッキリ言っておく。

中川淳一郎。そして、元少年Aや『絶歌』を叩きまくっているネット上の大多数の諸君

お前らがやろうとしていることは、れっきとした人殺しだ。

絶歌』という本人の言葉封殺して、元少年Aの人格否定して悦に浸るその行為は、間違いなく「一人の人間」を社会から抹殺しようとしている殺人行為だ。

かつて、どこかの誰かの婚約者自殺に追いやった「他者への無理解」を、今度はお前たちがやってるんだ。

かつて、どこかの十四歳が、か弱い十一歳の少年を殺したようなことを、今度はお前たちがやってるんだ。

元少年Aのことをお前らは「殺人犯だって言って罵るけどな、今ではお前らの方がよっぽど「元少年A」に見えるよ。




正直な話、『絶歌』なんていう「ポエム」を出版「しなくちゃいけない」くらい元少年Aを追い詰めたのは、俺たち社会の方だと思う。

本当にこの書籍出版を憎んでるなら、こんなものを出さなくて大丈夫なくらい元少年Aを社会の方が受け入れてやれ。

これが、俺の精一杯だ。

2014-03-30

小児病棟村上春樹

子供入院に付き添って、しばらく病院滞在していた。

手術の前後は必ずいなければならないのだが、親がすることできることは限られていて、概ね退屈な時間が続く。持参した本を読み終えて、院内文庫で本を借りることにした。頭は使いたくないが、すぐ読み終わるようなものは困る。村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」があった。好きな小説だが、ここ数年は読んでいなかったので、これを読み始めた。

小児病棟というのは、悲劇日常になっていることが、感じられないくらい空気に溶け込んでいる場所だ。

付き添いで泊まり込んでいる若い母親が、もう泣きたいよーと笑いながら話す声が聞こえる。子供なんて、普通に生まれたら普通に育つもんだと思ってたら、まさか癌になるとはね。私からは見えないところから、笑い声の合間に鼻をすする音はするが、声は乱れず明るい。

細い足をむき出しにした小さな子を抱っこ紐で抱えたパンクファッション母親が、エレベーターを待っている。母と話す声で、その子女の子であること、思ったよりずっと年齢が高いことが分かる。髪は産毛のようにふわふわして、地肌が見えている。

長期入院から退院した少女が、まだ入院中の友人に会いに来ている。馴染みの看護師の噂話や、院内学級の話をひとしきり交わす内に、看護師検査のため友人を呼びに来る。二人の少女は、またねと言い合って別れる。外から来た少女は冬の服、病棟に戻る少女は素足にサンダルだ。

医師少年に話している。君の病気は、完治は見込めない。今は寛解と言って、症状を抑えている状態だ。明日退院だけど、薬とは一生の付き合いになる。少年は静かに聞き入っている。

の子供は何度か手術を受ければいいだけで、生きるか死ぬかなどというものではない。悲劇にも度合いがある。我が家のそれは、単なる煩わしさであって、悲しみの入る余地はない。しかし、多くの家族があの場所で嘆き悲しみ、それでも懸命に日々を生きている。ある子は完治して去り、ある子は病と共に生き、またある子はそこで命を落とす。

そんな場所で読む「ダンス・ダンス・ダンス」は、信じられないくらい薄っぺらく、陳腐だった。あんなに大好きで共感していた主人公は、鼻持ちならない傲慢ナルシストしか思えない。

作中に出てくる人物は、並外れて奇妙か、または美しくて服装がファッショナブルでないと、ネガティブ、あるいは評価に値しないような扱いを受ける。

この小説に私が出てきたら、こんな風だろう。

「その母親は化粧気がなく、部屋着も同然の姿をしていた。顔つきは暗く、目に力はなく、何もかもが灰色でそそけだっているように見えた。親しくなりたいタイプ女性ではない。」とかなんとか。「そそけだって」の所には傍点が付く。英訳されたら、この部分だけ全部大文字になる。

村上春樹は何も悪くない。他の作家なら違和感を覚えなかった訳でもなかろう。

ただ、ずっと好きだった作品を久しぶりに読んで、ここまでがっかりしたのがショックなのだ

示唆に富み、人生本質を探り当てていると思っていた小説が、陳腐で皮相的としか読めないのが悲しいのだ。

結局最後まで読まずに返却し、その後はクロスワードパズルをして過ごした。子供が起きられるようになってからは、二人でクロスワードパズルを作ったり、絵を描いたりして暇を潰した。

家に帰ると、本棚に数冊の村上春樹の本がある。日常の中で読めば、元のように親しみを感じるかもしれないが、今は手に取る気になれない。

たかが数日の入院に付き添った私でこうなのだ。ずっと付き添っている人達はどうしているのだろうか。どんな本を読むのだろうか。こんなことを気にすること自体が、お気楽な証拠なのだろうか。

長く入院されているみなさん、付き添いのご家族最近何を読みましたか

 
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