はてなキーワード: テレビゲームとは
最近、自分がゲームをしないが、YouTubeでゲームのオープニングとか音楽を流して思い出に浸っている。「ゲームと音楽が良い感じに組み合わさってるなぁ」という例を教えてください。
王道で申し訳ないけど、倖田來未のreal emotionが流れるライブ場面はすごいと思う。これよりすごいことが最近は頻繁に起きてるの?
⚪︎アーマードコア3
ほえほえよ、と連呼する謎の歌「Artifical sky」や、スタート画面の「no more cry」は世界観を深めてて、名曲だと思う。ネクサスも、歌、良いよね!後のもアーマードコアは凄そう。
ポケモンを1000時間やる時間で、科学についての様々な知識を学ぶことで元素の地図を脳内に作り上げればいいのにという話であって、元素記号表をひたすら見て色なんて元増田には書かれてない。
自分にとって都合のいい形で相手をただの愚かなものだというレッテルを貼って勝利宣言をする、オタク達が長年続けてきた最もくだらん自己弁護の仕方だな。
元々はオタクの側が有害図書排除運動などでやられてきたことへのカウンターだったが、いまやそういった被害者面を出来るような社会情勢なんて何にもない中で、かつて自分たちがやられていた卑怯な戦法を自分たちが一方的にやるだけになった。
そこにはもう何の正義もないのに、オタクたちは「先輩もこうやってきた。オタクが実を守るための正しいやり方なんだ」と言い張り続ける。
愚かだよ。
頭の悪いヤンキーと同じことをしていることに気づくことも出来ない脳無し達が1日中テレビゲームや動画視聴にばかり時間を使っているんだから、賢くなりようもないか。
上記タイトルの件について別所でもいろいろ言ったけどまだモヤモヤするので吐き出させてほしいにゃん。
猫のフリをすれば吐いても怒られないかなと思ったけど猫が吐いたからと言って猫を叩く人間もいるのでホントゆるせねえよなあ!!おめーもそう思うだろ!!!!たたかないでね!!!!!
まず必要な前提情報について。先日発売したドラクエ3リメイクに存在する「かんたんモード」がどんなに殴られてもHPが残り1から微動だにせず絶対に0にならないというどこぞの不死騎団軍団長みてーな仕様になっているという情報が事の発端であります。
もともとヌルゲーであり全滅など滅多にしないし、ボスが弱くなるわけではないのでそんなに変わんないですよー、という意見もあるが私はそうは思わない。
まず絶対に死なないので防具というものの存在価値が虚無と化し、死なない以上DPSが無価値になるので武器の存在価値が消失し、それらを揃えるためのゴールドや宝箱の存在が無価値になり、呪文仲間職業などなどドラクエを構成する無数の要素が形骸化する。
一見して無限コンティニューや一時期話題になった「クリアしたことにする」と似たようなものに見える「絶対に死なないという仕様」は想像以上に多くの要素を棄損するのである。
そういう話をしたい。
さて、○○はゲームじゃねえ!という話をするためには本来ゲームの定義をしないといけないのだが、これに関しては完全に未解決議論であってこの場で決着させるには余白も能力も足りない。
かといってウィトゲンシュタインによる定義で話を進めまーすなどと言い出しても自分の結論に誘導するための手前味噌にしかならないのでそういうのは良くない。
もうどうしようもないので定義せずにフィーリングで話を進めます。ごめんね!!!
定義しないとは言いつつ最低限の認識は共有していなければ話にならないのでゲームというものについてのそもそもの話をするのだが、まず、ゲームというものはプレイヤーの入力に対して何らかの対応する出力が返ってくるものであるわけだが、これだけではゲームとして成り立っていないというのは御理解いただけるだろう。
でなければスマホのフリック入力もPCデスクトップのエロサイトへのショートカットをクリックするのも全部ゲームということになってしまう。ホワイトカラーの皆さんも勤務時間中パソコンに触れている間はずっとゲームしていることになってしまう。そんなことで減給だの処分だの食らっていてはとてもではないが堪らない。
つまりまだ何かゲームというものに必要な条件があると思う。それはなにか。
ここで出来るだけゲームというものの源流に近くシンプルな例として将棋やチェスでも話に出すと、その必要条件というのは「ルール」と「見立て」なのではないかと思う。
単なる字の書かれた木片や石片を交差する線上で動かす行為がゲームとして成立させているのは、それらの木片石片にポーンや歩兵という名前を与える「見立て」と、駒を交互に動かす、駒ごとに動ける範囲が決まっている、上に乗ったら排除できる、といった「ルール」の存在である。
このふたつにより盤上に散らばった木片や石片は、実際の戦争の再現としての意味合いを付与され、ゲームと呼ばれ得るのではないだろうか。
さてドラクエに話を戻すが、あれもまた当然メモリ上でやりとりされるステータスという名の数値や、画面上に表示されるドットには本来何の意味もない。勇者や魔物というストーリーの見立てを被せているだけで、実際にはちからやみのまもりといったステータスはただの数字である。
そんなことないよ!という方は先にクッキーババアと一緒に天文学的数量のクッキーを焼いてきて欲しい。
あくまでもコンピュータ上でやりとりされる無機質な情報に、ルールと見立てによって意味合いが付与されることでテレビゲームはゲームとして成立しているのである。
その前提を踏まえた上で、「HPが0にならない」という仕様の意味するところについて考えて欲しい。
一見大した違いなどないように見える 「無限コンティニュー」 や「クリアしたことにする」と「HPが0にならない」の間には質的な、根本的な差異による断絶が存在するのである。
「無限コンティニュー」 や「クリアしたことにする」という出血大サービスの難易度緩和、将棋で言えば歩と飛車角金銀桂馬香車が使えない19枚落ちのようなヤケクソ難易度であろうが、一応はゲームそのものが崩壊することはない。
しかし王を取られても詰みにならない、全部の駒を失おうがゲームが続く、というのは根本的にゲームのルールそのものの破壊にあたるのであり、ルールの破壊はゲームそのものを成立させている意味合いの付与の破壊、ゲームの破壊に当たる行為なのである。
考えてみて欲しい。スターを取得して無敵と化したマリオとて画面端に落ちれば死ぬのである。
敵を一方的にブチ○せるというのはゲームの一要素として成立するが、死なない、負けないというのはゲームを破壊する行為に当たる。
マリオが無限残機で即座にいくらでもやり直せることと、敵にも床判定のない画面端に触れても決してゲームオーバーにならないことの間には決定的な違いがある。
無限に復活するマリオはいくら難易度を緩和しようがゲームとして成り立ち続けることができるが、落ちないマリオはゲームとして成立しない。
如何なヌルゲーでゲームオーバーやデスペナが微粒子レベルでしか存在しなかろうが、0でさえなければゲームは成立する。0であればゲームは成立しない。
ドラクエ3リメイクのかんたんモードは、この1と0の間の絶対に越えてはいけないラインを越えているのである。
一応言っておくと勝ち負けの存在しないゲームというものも今の時代は存在するし、議論はあれど一切分岐のないノベルゲームなんかも現状ゲームに分類されているのは承知の上です。
マイクラのクリエイティブモードがデバッグモードの類ではなくゲームモードのひとつであることに文句はないし、それこそ上で話に出したクッキーババアのようにゲームをゲームとして成り立たせている要素をゲシュタルト崩壊させて楽しむアウトサイダーなゲームもゲームのひとつだと思う。
ゲームシナリオはシナリオ単体で抜き出すとゲームとしてもシナリオとしても成立せず、ゲーム部分の没入ありきでゲームに依存した存在なのでゲームシナリオが楽しめればそれでいいとも思いません。
当時ファミコンが全盛期で、友達の家でドラクエやゼビウスをやらせてもらっていて、
むちゃくちゃのめりこんでいた。端的に言って、ゲームに熱狂していた。
喉から手が出るほどゲーム機が欲しかったが、親はがんとしてゲームを買ってくれなかった。
そんな折、電気屋の親戚のおじさんから、安くMSXを譲ってもらうことになった。
パソコンでゲームが作れるということを前から聞いていたので、自分でゲームを作れれば最高じゃんと
思ったのだが、どうすればゲームを作れるのかまったくわからなかったので、
自分でコンピュータに命令して、思い通りに動いた感覚というか。
最初は簡単なギャンブルゲーム、単純に半か丁かを予想して、掛け金を増やしていくゲームから、
シューティング、RPGなど、拙いながらも自分の愛すべきゲームが出来上がっていった。
まるで神にでもなったかのような全能感を抱いたのを覚えている。
そんな体験があって、今は小さいソフトウェア会社でコンピュータに関わる仕事をしている。
でも今の子供達って、そういう経験をすることはないんだろうなと思う。
現代のゲームは、美麗3Dの超大型ゲームがそれこそ無数に存在していて、
自分でこんなゲームを作れるわけはないってのは、子供でもわかる。
ドット絵のインディーゲームとかもまああるにはあるけど、現代の子供達は
どっかの記事で読んだのだけど、ドット絵は「手抜き」なんだと思ってるらしい。
そんなわけだから、自分で市販されているようなゲームを作ろうと思えば、
僕らが昔やってたような、お気楽にゲームを作るという発想にはならないんじゃないかなと思ってる。
アマチュアゲーム制作文化をまた盛り上げていくにはどうしたらいいんだろうと考えるけど、
なかなか答えは出ないよな。
まあ、なんつーか、そんなです。
総合力においてはスーファミ時代にロマサガシリーズとDQ・FFが争っていた頃がピークで、そっから先は「グラは進化したけど体験としては・・・」って状態でずっと停滞してるよな。
アクションRPGやシミュレーションRPGといった派生ジャンルと混ぜることで多少誤魔化そうとは出来てるけど、それでも総合的な面白さにおいては「グラが進歩したおかげでちょっと加点されてるのを除けば・・・」という感じかな。
そもそもテレビゲームという遊び自体がある種のリミットまでたどり着いてるような気がしてならん。
映画にしろ音楽にしろ文学にしろ最高得点という意味では過去の傑作と同じぐらいまでしかたたけず、平均点が少しずつ上ってきているだけに留まっている気がしてならん。
なんつうかさ、人類の進歩自体がボトルネックに引っかかってる感じだよね。
こっから先をもう一歩進む方法自体はなんとなく分かってるんだよ。
「バーチャル空間で擬似的に夢を見せる」っていうSFでよくある没入体験方式を実現させること。
極端なことを言えば、脳に直接刺激を叩き込んでいければ人類が直面している表現のリミットは突破できる。
人類の脳みそ自体をレベルアップさせてよりハイコンテクストなコンテンツを気軽に楽しめるようにするって方向もありだと思う。
つまる所、あらゆる文化が脳科学の進歩に将来を託しているのが現状なわけだな。
なんだか虚しくなってくるね。
結局は基礎科学と学の技術こそが世界の根底を底上げ出来る力であり、それ以外の「文化的なモノ」は全てそれに依存するだけなんだから。
たとえば絵の具を作り出すために必要な工業的な技術が発達するまでは、それっぽい色の石ころを必死に擦り付けてガビガビ画質の壁画を作ることしか絵描きには出来なかったわけだ。
無力すぎて可愛そうになってくるよね。
だからこそ芸術家みたいな連中はその弱さを取り繕うために「どうだ俺達こそがスーパーヒーローなんだ」って振る舞ってるのかなあ。
確かにジャンルとしては昔からあったけどさ、割合としてはここまで高くなかった気がする。
1人プレイ:協力プレイ:対戦プレイ=8:1:1ぐらいだったように思う。
ゲーセンのような空間に限定すればもうちょっと対戦が増えて6:1:3ぐらいになるだろうけど、それでもこのぐらいだ。
でも最近はすぐに対戦や協力をする。
スマホゲーのギルバトのようなリアルタイムでないモノも入れれば、対戦要素や協力要素が入ってないゲームは明らかに少数派になった。
完全な一人プレイ専用はもはや全体の3割程度だろうか。
割合は完全に逆転して、ゲームというのは皆でワイワイ遊ぶものになってしまった。
こういうの、なんだか堅苦しいなと俺は思う。
仕事や学校で平日は10時間ぐらい他人と一緒に居て、家に帰れば家族がいて、そんな中で一人になる時間を確保するために都合のいい箱庭がテレビゲームだった。
本を読むとか、筋トレをするとか、一人になる方法は他にもあるが、テレビゲームと比べると現実を離れて没頭する割合が少ないように感じる。
成功者の伝記や、ドラマの主人公などに自分を重ねすぎて、人生に求める平均点を無計画に上げてしまったタイプ。
学校の教師なんかが「とにかく夢を持て、君も立派な人間になれるぞ」なんて無責任に言うのを鵜呑みにしてしまった人間の成れの果て。
よくよく考えれば、教師なんて自分は残業代も貰えずに最低賃金未満で働いてくるくせによくこんなことが言えたものだと気付けなかった思考力が哀れ。
テレビゲームの世界ではコントローラーを握ってるだけで皆世界を救った勇者になれるけど、現実にいる自分はその他大勢の村人であるという客観的視点を持つ才能がなかったのも哀れ。
テレビを見ながら1時間で偉人の人生を追った所で、自分は1ミリも偉くなってないってことに早く気付ければよかったね。
想像力や分析能力の欠如により現状に対しての不満ばかり漏らし、その考えを自分の人生にも当てはめてしまったタイプ。
あらゆるものに対してとりあえずケチをつけておけば何となく「評価が出来た」という気分になれるという楽さに溺れてしまったのが敗因。
存在し得ない最高の状態からの減点で何でも測るので、何が起きても常に不満しか持てないという悲しい生き物。
ゼロから数えてどれぐらい積み上がっているのかを数えればいいものを常に100点からのマイナスで数えるのでいつまでも満足できない。
このタイプはたとえ95点の人生が手に入っても、「マイナス5点の人生」として数えて「ああ、俺の人生の価値は0にさえ劣る・・・」と嘆き始めるのだから相手にする価値が全くないと切り捨てていい。
子供の頃にちょっとしたことで表彰されたりしたのをいつまでも覚えているようなタイプ。
言ってしまえば「クラスで自分しかビブラスラップを演奏してないから身内じゃ一番ビブラスラップが上手い」のを「俺はこの街で一番音楽の才能があるのだ」と勘違いしてしまうようなホームラン級のアホ。
幼児的万能感とも言えるものが精神の根底にビッシリと根を張っており、それを下手に取り除けば自我が崩壊してしまうレベルだから外側からの治療はもはや不可能。
死ぬまで「子供の頃、俺にはとんでもない才能があったのに、努力が足りずにその才能を無駄にした」と言いながら現状を否定し続けるのである。
自分の人生がどこまで上手くいっても「俺の才能が完璧に活かせたらもっと成功した」と言い続ける絵に描いた餅の囚人である。
この3タイプ、どれもどうしようもなくしょーもないのだが、一応救われる方法はある。
それは自分の人生に対して無駄に高く見積もるのをやめ、その上でゼロから数えて自分の人生の価値について考えるだけでいいのである。
飯は食えてる。
家はある。
身体は動く。
ある程度自由。
とりあえず明日はくる。
そういったことに対して少し高めに加点していってやればあっという間に人生なんて「70点/100点」ぐらいにはなる。
その現状を「よっし!とりあえず70点あるならええやろ!俺にしちゃ立派や立派!」と言えばいいだけだ。
これは別に無理やりでいい。
筋トレ中に限界だと思っても無理して笑えば脳内麻薬で痛みが吹っ飛んでワンモアセット可能になると同じ状態だ。
無理やりでいいから「俺の人生70点ぐらいある!70点もあるんだから十分じゃないか!」と思え!
俺がそうだった。
はてな界隈では大学進学、東京で正社員就職、が人生の既定路線として語られています。
しかし現実には大学進学率は60%、東京の昼間人口は日本全人口の13%に過ぎません。
社会の底辺を占める人々をはてな民が認識していないのは社会の階層化が進んだ結果でしょうか。
底辺層も日々普通に暮らし、納税し、選挙では一票を持っています。人生の夢や目標があります。家族がいて子供を育てています。
と、大上段で書きましたが、本音は奨学金をめぐる小泉進次郎氏や河野太郎氏の発言を聞いて底辺層が理解されていない現状・軽んじられている現状に苛立ち、一旦吐き出したい気持ちで書いておきます。
他の党首候補の皆さんも同じですが、奨学金を借りる層を最底辺と思われている節がありますが、その下には借りることを諦める層もいるという話です。
先祖は父方母方共に学がありません。
明治から大正にかけては博打打ち、物乞い、自転車修理などをしており、ホームレスもいたそうです。
昭和に入ると建設作業員、工場労働、トラックドライバーといった職業に就いていました。
戦災や仕事のために西日本を転々とする中で、1991年(平成3年)に中国地方の片田舎でわたしが生まれました。
通っていた公立小学校は治安が悪く、男子生徒が徒党を組んで女性教諭に暴行を働いていました。いじめも多く、暴行や、習字の墨を顔にかける、アルコールランプで服を燃やすといった事件が頻発しており、小3から小6は学級崩壊状態でした。
わたしはイジメが怖いのでなるべく不良に関わらないように逃げ回っていました。昼休みは校舎の裏の木陰に隠れていました。
小6の算数は教科書が半分くらいしか終わりませんでした。この傾向は中学まで続きました。
地域には公営団地が多く所得の低い世帯が多かったため、半袖半ズボンがトレードマークとなっている生徒はわたしの他にも数名いました。
学級崩壊が継続していました。不登校が学年の一割ほどにのぼっていました。
中2の頃に母が体を壊して働けなくなり、経済状況が一気に悪化しました。
1日3食食べられなくなったので、給食のパンを持ち帰り夕食にしていました。土日やパンがない日は近所のミスタードーナツのゴミ箱から廃棄のドーナツを拾って食べていました。
栄養不足のためか、朝礼や体育の授業で倒れることが頻繁でした。
父が電気部品組み立ての内職を持って帰ってくるので、毎晩手伝っていました。ノルマは1日500個で、2時間ほどかけて作ります。家電メーカーに納入されていたとのことなので、皆さんのご自宅のエアコン、冷蔵庫などにわたしが組み立てた部品が入っていたかもしれません。
同級生のあいだではワンピースやハンターハンターといった少年漫画、マリオカートやポケットモンスターといったテレビゲームが人気でしたが、わたしは33歳の現在に至るまで一度も触れたことがありません。
給食がなくなったためミスタードーナツのゴミ箱あさりが毎日のルーティンになりました。なぜミスタードーナツなのかというと、家が近いことと、完成状態で捨てられていたためすぐに食べられたからです。たまに廃棄を入手できなかった日は別の飲食店をあたるか夕食抜きです。
「大学」という施設があることを高校1年生のときに知りました。当時知っていた大学は東京大学、慶應大学の2校です。なぜ慶應かというと当時「学校へ行こう!」というテレビ番組でco-慶應という学生ラッパーが活躍していたためです。
わたし自身が大学に行くかは分かりませんでしたが、文系・理系の選択で文系コースを選びました。
高校2年に上がると学校で全国模試を受けることになりました。毎回全国で2500番〜3000番くらいにランクインし、成績優秀者の冊子に名前が載りました。
模試を受ける際には志望校を記載することになっています。そのときに初めて知ったのですが、大学というものは全国各地に数百校あるらしいと分かってきました。
担任の先生は大学進学を熱心に勧めてくれました。「もしかしたら東京大学や京都大学にさえ進めるかもしれない」…と。大学進学すべきかわたしは迷いました。
担任や、数学の先生、英語の先生が私を放課後に呼び出して、食べ物や飲み物をくれながら、大学進学するように勧めてくれました。
しかしわたしは大学進学しないことに決めました。理由は一点です。
ましてや、実はわたしは既に借金を背負っていました。貧乏で公立高校の学費を支払えないことから、親が銀行から毎月1万円借りており、計36万円を私が将来返済することになっていました。
加えて、担任が試算してくれたプランでは学費(減免の可能性あり)、実家を離れて暮らす生活費が合計毎月10万円ちかくにのぼり、本当にわたしが想像できない金額でした。
学費は減免の可能性がある、最低でも半額は狙えるだろうとか、大学進学により生涯所得がうんと大きくなるといったことを教えてくれました。しかし中学生の頃からミスタードーナツのゴミ箱をあさったり電気部品の内職をしているわたしにとっては現実感のない話です。
想像できないほどの金額を返済できるのか。大学進学したとして就職でつまづいたらどうなるのか。この展望を全く持てないために大学進学しないと決めたのでした。
大学進学しないことを決めると、担任の先生が表計算ソフトの教本を無料で与えてくれました。放課後に情報室のパソコンで練習しました。
高卒の就職活動はなぜか一社しか志望できないというルールが当時あり(現在も「一人一社制」という名前でルールが残っているようです)、わたしは地元の和菓子屋に接客・兼・事務として就職しました。1学年440名中就職は2名で、他438名は大学等への進学という比率の高さに驚いたことを覚えています。
その後父母が鬼籍に入ると、わたしは実家を離れていくつもの会社を転々としています。今では全く別の職業で生活しています。
身軽になった今、あのとき大学進学していれば違う人生があったのだろうかと想像することがあります。
わたしに借金を背負う覚悟がなかったといえばそれまでですが、やはり当時のわたしには覚悟は不可能だったと思います。未成年ができる決断ではない。
河野太郎氏は大学教育費を親負担ではなく本人負担に変えよと述べましたが、貧しい世帯は既に生活費も含めて全額本人負担です。むしろ本人が負担しきれないことが問題なのです。
小泉進次郎氏は必ずしも大学進学の必要はなく手に職を付けよと述べました。しかし転職の多いわたしが言うことでないかもしれませんが、手に職系の仕事も簡単ではありません。
大抵のひとは5年〜10年も同じ仕事を続ければ成長が止まります。しかも年齢を重ねると体に無理が出てきます。かといって独立して料理人が自分の店を経営するとか、建設作業員がひとり親方として営業していくには「手に職」と別種のスキルが必要となり、現場の人間のうちそれができる者は一握りです。
残された道は若手・外国人材・機械化との低賃金チキンレースです。
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2人ともオムツが取れない。
長男はできるのにしない。
少し前は、オムツを履いてない時はしぶしぶトイレに行くので、フルチンで過ごさせてたが、オムツを探して自分で履いてからおしっこをするということを覚えてから、またトイレに行かなくなった。長男は綿の下着はガンとして拒否。
オムツを拒否するボケ老人のように、パンツなんか履けるか!という雰囲気。
次男はちょっと前まで、トイレやオムツ以外でしちゃいけないということをわかってなかった。
長男がオムツを探して履いてから用を足すのをみて、フローリングでおしっこしちゃいけないことをようやく学んだ。ところが、今度は用を足したオムツを脱ぐことを覚えて大変。オシッコならとにかく、うんこの後の汚れた尻で布団にダイブはホントに嫌になる。おしっこやうんちは汚いという認識がゼロ。
長男は2歳前から、フローリングで漏らしちゃったときや、うんちがオムツから落ちた時にはパニックだったのに、次男ときたら平気で触る。
でも次男のほうが希望が持てるところもある。長男はガンとして自分からは脱がないし、綿の下着は拒否するが、次男は「すごーい!おにいさんパンツかっこいい!」と煽てるとニコニコ。
そろそろオムツが取れないと本当に困る。長男なんて4月から小学校だ。たぶん支援学校なんだろうけど、それでもトイレと着替えくらい自分でしてくれないと困る。
長男は賢いが空気は読めないし読まない。知的障害なのに賢いというのも変な話だが、認知能力とかは普通の子よりも進んでるくらい。
数字が書かれた箱に、その数だけ玉を入れるとかは出来るのに、「おもちゃを3個ちょうだい?」と指示しても理解できない」言語とか、相手の表情を読んだりとか、そういうのが壊滅的。
言葉掛けなどから学ばないし、煽てても無駄。しかられてもあまり響かない。説明書の図の通りにおもちゃを組み立てるのは出来るのに、順番を待つとか、じっとしてるとか、その簡単な社会行動もできない。発語レベルは2歳児。YouTubeやゲームから覚えてる部分が多いせいで、半分くらい英語。言語理解は3歳くらい。字はかなり読めているみたいだ。画面の字を読みながら勝手にテレビゲームを進める。社会性ゼロのくせに、人懐っこい。自分の「喜の感情」を共有したがる。相手の都合などは完全無視。性格は温厚で、次男に叩かれたり蹴られたら、妻がつい手を出してしまっても、反撃したりしない。おもちゃは奪い返すが、おもちゃを引っ張るだけで、相手を叩いたり蹴ったりはしないし、奪取したあとに追撃したりもしない。目的さえ達せればどうでもよく、怒りとか嫉妬という感情と無縁。自分は自分、他人は他人を徹底してる。
次男は長男よりかなり空気が読めるが、賢さがまったく見えてこない。怒られるとすぐ泣く。何を叱られてるかはわからないのに、叱られてることは敏感に察する。これは長男と全く違う。イライラすると、嫌なことがあると、すぐヒトやモノにあたる。長男に比べると感情で生きてる。これでも初診で自閉と即答されるくらい典型らしいが、長男のような異星人感は薄い。年長さんの真似をしてリュックを背負ったりパンツを履いてみたり、長男が遊んでる玩具には、難しすぎて遊べなくても触りたがるし、背伸びや嫉妬や劣等感といった複雑な感情が見える。次男の言語レベルは全くわからない。音声は叫ぶ以外に使われず、言葉には遠い。「お風呂」とか「ほいくえん」とか「でかけるよ」とかは理解してるけど、理屈先行の長男と違って、相手の表情や雰囲気で理解してる風でもある。字を読めないのに絵本が好き。
2人の紹介はそんなとこ。
性格真反対だし、協調性がないから、2人を連れて出掛けるには大人が2人いる。
スーパーに買い物とかも1人じゃ無理。
なんかもう、書いてていろいろな感情が湧き上がる。金銭面は補助があるからなんとかなるんじゃないかと楽観してる。そうしないと発狂するので。
市の発達支援センターでの療育が週1、小児神経科の診察が2ヶ月に一度、作業療法が隔週、これを2人分、別々の日。長男は今月から言語のトレーニングも月1、ガリガリ平日が削られる。
今は2人とも同じ保育園だから送迎は楽だが、来年は長男は小学校。
妻が長男と小学校、自分が次男を保育園に送ることになる。朝から着替えをフルアシストなのが辛いから、着替えはマスターしてほしい。
風俗だって高級店はフルアシストみたいだし、やっぱりしてもらうほうが楽チンなんかな。オムツも。保育園じゃ自分で靴履いてるし、出かけたい時は嬉々として自分から履いたりするから、着替えだった靴だってやる気になればできるくせに、しない。
送りは分担でどうにかできるとして、迎えが問題。小学校に毎日3時に迎えに行くのは無理だ。
預かって貰おうとしたら発達障害や知的障害だと学童保育ではなく放課後デイサービスというやつになる。事業所ごと、預かる児童の程度が違うみたいで、どこも個別相談して大丈夫か聞くしかない。定型児だって学童保育が見つからなくて大変とかいうのに、これだもん。
放課後デイで預かってもらっても、2人別々に病院、やっぱ今より楽にならない。キツくなる。
妻に専業主婦になってもらうと、次男が保育園に預けられなくなる。これはこれでつむ。次男を平日預かって貰えるところがないと、長男の通院に差し障る。今無料の保育料が一時保育は有料なのになるので避けたい。
とりあえず、小1の壁をどう乗り越えるかだ。
来年は長男が小1、次男が保育園の年中、自分は仕事をやめずに頑張る。妻はとりあえず次男が退園にならない程度に働いてるアリバイを作っててもらう。再来年、長男が小2、次男が年長、いよいよ俺も辞めないとダメかもと思う。そのとき、だいぶ手がかからなくなってたらいいんだが、次男の成長が読めない。長男が同じ月齢だったときと比べても、言葉も行動も成長が遅いから期待できない。
妻も自分も保育園や小学校にすぐ駆けつけられる場所でバイトを探して、週3働くみたいな生活がベストに思える。
バイトになるとして、1100円/時の6時間を週3で4.5週で8万。
月収8万が2人で16万、特児が2人で7万、児童手当が2人で2万、しめて25万。税はほぼゼロとして、健康保険と年金と払って手取り22万、手取り年収で260万、いけるか?いけないよな。住宅ローンと光熱費と通信費で12万くらいは飛ぶしな。4人暮らしだと手取り30万、手取り年収で360万はないと無理そうな気がする。ググったら4人家族の生活費は平均30万なんだってな。やっぱりそんなもんかって思ったら住居費が18411円ってなんだよ!やっぱ毎月40万要るじゃないか。
https://www.navinavi-hoken.com/articles/family-of-four-living-expenses#d1b52593f84537bb
つうと、やっぱり年間に手取り480万相当を捻出しないとキツいってことかよ。控えめに月35万で回しても、420万。うへえ。夫婦で16万しか月収がないと、特定児童扶養手当と児童手当があっても年間で160万足りない。
なんとか捻出できても、貧しい生活になるなあ。
毎年160万取り崩すとすると、下の子が18歳になるまで取り崩し続けたら2000万くらいなくなるわけだ。いつまで持つか。
ベーシックインカムの構想が1人毎月7万円だったっけ?その代わりあらゆる手当が無くなるとか。
それにしたって4人で28万、これを毎月か。これなら、夫婦で月収15万でも障害児2人余裕なんだけどな。ダメだ、考えると発狂するってのに考えてしまった。障害児だからといって金がかかるわけではないが、働けない。子育て以外なんもできない。
障害児産んだら、住み込みの家政婦を恒久無料とかしてくれませんかね?
中学受験が大変とか言ってる連中が憎い。好きで苦しんでるだけだろと。
ある方が「遺書だったもの」というブログ・エントリーを公開してはてなブックマークで注目を集めています。
https://kirimin.hatenablog.com/entry/2024/09/04/001242
一読しただけで大変な状況の中ご本人が精一杯頑張ってきたことが伝わってきました。
普通の人は不登校になったあとに就職したり(それもB社側からの打診で正社員に!)、アメリカ出張、趣味でイラストや競技プログラミング、といった活動は出来ません。
なにより踏みとどまるという意思を持たれていることが一番素晴らしいと思います。
ブログの内容について、アドバイス、というより考えてみるきっかけを提供できればと思い、以下に書いておきます。
"アドバイス"という言葉は上から目線のニュアンスがあるため私は嫌いですが、分かりやすさのためにあえて"アドバイス"と記載しております。
"アドバイス"の手がかりとして、世の中の多くの人たちと異なっている点を特徴として捉え、そこに着目して述べていきます。
多くの人は、自死を取りやめた場合は遺書を公開しません。ここが最大のポイントです。
他にも、元カノの話や学校で友達を作りたかった話、インターネット掲示板、会社の同僚との関わりなど、コミュニケーションについて多く言及していることもかなり特徴的です。
心理的な安定のためには、インターネットで構わないので、コミュニケーションの場への参加を増やしてしてみると良いかもしれません。
私も同世代で、2005年~2007年ごろには2chで政治家をおちょくるコラージュ写真を作って遊んでいたので、当時の雰囲気は知っています。当時と似たコミュニティはもはやほとんどなく、ネット掲示板よりもLINEのオープンチャットあたりのほうが雰囲気が近いかもしれません。
仕事やそれに近い競技プログラミングの能力・モチベーションでご自身の価値をはかる表現が目立ちます。
仕事への情熱はご自身の能力開発、社会貢献、金銭獲得のために素晴らしいことです。
一方で能力・モチベーションで全人類のトップに立つことは出来ない以上、どこかで自分の能力に見切りをつける必要があります。
それが今なのかな、と漠然と感じました。
人には能力の限界・投入できる時間の長さの制約があり、その制約のもと各自それぞれのペースで頑張るしかなく、他に選択肢はないため、ある面で人より劣ることを認めざるを得ません。
しかしだからといって人間として価値がないとか、死ぬべきだということは論理の飛躍です。
劣ることを認めたうえで、それがどうした、自分が死ぬ必要はないじゃないか。むしろ優れた人たちが素晴らしい社会を作ってくれてありがたい、と感謝すればよいと私は思います。ご自身にもその気持があるはずです。その証拠にA社のリーダー、B社のプロダクト、元カノ、といったものを称える文章があります。これは称賛の気持が奥底にあるからだと思います。
というより本当は人間という存在自体が自他に価値を評価される必要がなく、各自勝手に生きて構わないと私は思います。評価という行為自体が発生しないのが通常の状態であり、仕事では給料の分配という特別な目的のために上司が評価するという例外的なシチュエーションが発生していると私は理解しています。つまりそもそも職場以外での「自己評価」は必須ではないと私は考えています。
そのうえで、それでもなお自己評価が必要であれば、いくつもの会社で働くことができ、しかも先方から声をかけてもらっているというのは素晴らしいことだと思います。普通の人には声をかけませんよね。仕事の以外の面に目を向けると、イラスト、VR、他の投稿ではお母様にテレビゲームを教えたりと多方面に活動している点が素晴らしいと思います。競技プログラミングで高レート帯の方々はこうした活動と両立できるのでしょうか。ほとんどNoだと思います。総合的に見れば特別劣っているように私には見えません。
この点は次の第3の特徴に続きます。
文章には「多くの人から嫌われ、失望され、迷惑をかけながら生きていたくない。」と書かれています。
しかしきりみんさんは、嫌われている人・失望されている人・迷惑をかけている人に対して、死ねとは言わないと思います。そういう人柄だと文章で分かります。
それなのに自分に対して厳しいのはダブルスタンダードで、ご自身を不必要に傷つけているように見えます。ご自身に対して厳しすぎるダブルスタンダードを持つ理由は何でしょうか。ダブルスタンダードを持つメリットはあるのでしょうか。これについて考えると楽になれる部分があると思います。
きりみんさんは、自分より仕事ができない人に死ねと言わないと思います。競技プログラミングが下手な人に死ねと言わないと思います。その理由は劣っていても死ぬ必要はないとご自身が理解しているからです。そうであればきりみんさんが死ぬ理由もないと私は思います。
妻が麦茶を冷やしていた
妻はボウルに熱いヤカン、氷、水道水をチョロチョロ流しながら冷やしていた。
なるほど無学なアホはそうやって冷やすのか、と思ったが口には出さない。
俺が冷やすときはボウルに氷を入れてそのままヤカンを乗せるだけ、流水は無駄
息子を見るとアホみたいな動画を観ている
タブレットとスマホを与えYoutubeだろうがゲームだろうが好きに使わせているのだが
タブレットで「ひみつのおるすばん」をやりながらピクチャーインピクチャーで攻略動画を見つつ、横のスマホでちろぴのを観ていた。最悪だ
パーソナライズドされたレコメンドの連続だから大人の目には触れにくいが
なんの意味も無い、いいねボタン、チャンネル登録を誘導するだけの詐欺動画。
「息子よ、キミが観ている動画は実にさもしい人生になんの意味も無い、教えも気づきも与えてくれない、ただ脳に刺激と快楽を与え小銭を稼ごうとする悪い大人が作った詐欺動画だ。6歳の分別、弁識能力ではわからんだろうが、父として教え諭す義務があるので一応は言うておく、観るのは構わんが愚かな時間であることを頭の片隅において、早期に卒業してほしい」
と言うたら
「パパ、ボク子供だからよくわからないけどスマホでたまご寿司の簡単な取り方を検索して」
だってよ。最悪だ
それにしても、育児において電子デバイスを一切許さず、絵本だの、せいぜい教条的テレビ番組、一日何時間まで、テレビゲーム?ありえなーい的伝統的環境を是とした方針の親御さんもいる。今日はピアノ、明日は体操教室、昨日の絵画教室の宿題を早くしなさい、公文は終わったの?的な
ウチと真逆なわけだが、どっちが正しいんだろね?
一応ウチも友達に負けるの悔しいと言い出し公文をねだられて通わせているが
ひらがなカタカナなんぞ小学校に入ればタダで教えてくれるのになぜ毎月1万4000円をドブに捨てて数ヶ月早く習得する必要があるのだ。ゆえに一度でも宿題が間に合わなかった即座に退会な、とは申し伝えている。いつも宿題が完成するのは5分前。
はぁ情けない。
パパなんて小学校4年生以降夏休みの宿題は一度も出したことが無いぞ
二学期始まって未提出だと叱られるが、なぁに1週間ものらりくらいしのげば向こうも諦める
両親、教師、誰一人無理やり最後までやらせようと指導する敵は現れなかった
ありがたや
息子にもそういう処世術を身につけて欲しい
他人という存在が、十把一絡げでだんだんと不明瞭となる感じはなんか理解できる。
私も最近は、自分以外の存在って全てNPCなんじゃないかと信じるようになってきた。
自分以外の存在はNPCが演者として演じているだけに過ぎない、と思えるようになってきた。
増田が例示した、座席を塞いだり、待ち列を伸ばしたりする行為だけなら、たぶんロボットでもできるはずで、
それなら、自分以外の存在は結局、全て機械なんじゃ?とも思ったりするのだ。
あとは、ニュースで扱われるような複雑な社会も、あくまでも映像だけの話で、実際に存在しないとも思ってきてる。
あれらは、実在してると自分が勘違いしているだけで、本当はテレビゲームのキャラクターかなんかなのだと、思い始めてる。
つまり、まとめると、私が知覚できる簡単な動作をしている「他人」は、機械化されたNPCで、
ニュースで扱われるようなすごい存在の「他人」は、映像だけで実在しないと考え始めてきてるわけだ。
まあ、リアル「他人」にそれを言うことは無いのだが、自分の中ではわりと信じられる事実に成りつつある。
しかし、本当にそうだとしたら、ここに書くことも、NPCに伝えることにしかならないわけで、
それにどんな意味があるのかって話になるわけなんだが…
という感じで、リアルな人間というのが何なのか、なんだかよくわからなくなってる今日この頃。
もう何年もテレビゲームをしていない。山積みの新書も読んでいない。
付き合いの飲み代とおやつ代でだいたい消える。残った分は、誘惑に勝てずに子どものおもちゃを買ってしまう。
というか、赤子の相手をするうちに、性欲もずいぶん減退した。
休日に昼まで寝るなど許されないのだ。
お腹もすっかりへっこみました。
自律神経がおかしくなってたんだろうね。結婚して1年くらいで消えた。
これも、なんか知らんうちにすっかり消えた。
「次はテレビゲームや。それをキミのところでやらんか?」
と言われたんです。でもまあ、
カセット方式ではない、ソフト内蔵式のテレビゲームを出していました。
※2
ゲーム&ウオッチ=1980年発売の『ボール』を皮切りに、1984年まで、59タイトルが登場し、全世界で4340万個を販売した。
※3
横井軍平さん=任天堂在職中にゲーム&ウオッチやゲームボーイなどのゲーム機のほか、ファミリーコンピュータロボットや『Dr. MARIO』などを手がける。故人。
※4
「テレビゲーム6、15」=1977年7月発売の「カラーテレビゲーム6」と「カラーテレビゲーム15」。それぞれ6種類と15種類のテニス、または卓球ゲームを遊ぶことができた。
そういう意味では、
その延長線上にある商品ということになるんですけど、
例えばAとBの説があったとして、「反ワク」というのは「反A」と言ってるに過ぎない。
何の意味も成してない。それなのに論破できると思っているのは、Bを信仰しているからである。
そもそも「反ワク」という言葉は、複数の解釈ができて厳密に意味を限定できない。
例えば、ある特定の工場で製造された特定の時期のmRNAコロナワクチンに問題があると主張するのも反ワクだし、
この世に存在する全てのワクチンに問題があると主張するのも反ワクだ。当然いくらでもグラデーションがある。
あなたがテレビゲームをプレイしてバグを見つけそれを報告したら、「反ゲーム」と言われることを想像して見て欲しい。
「反ワク」という言葉を使う人はそれと同じ事をやっているのだ。
科学的な議論をするなら、言葉の定義は奇数と偶数のように厳密にするように努めるべきである。
「反ワク」なんて論外中の論外だ。