はてなキーワード: 日本的とは
私の不幸はelm200という人間に出会ってしまったことである。それ以来、あいつがしばしば脳裏によみがえってしまう。あまりに非合理的で、あまりに不条理で、あまりに不愉快な奴だからだ。ツイッターでひたすら日本への罵倒を繰り返している。
海外に移住したいというが、それが成功したことはない。それなのに自分は国際人であり、日本はダメだと主張する。
日本が嫌いで、国際人だというが、日本以外のことを語ることはほとんどない。観光旅行は嫌いで、ゆっくり滞在して、その国のことを深く広く知りたいというが、外国への理解はきわめて紋切型で、深い理解を示した言動はほとんどない。ベトナムにいけば、おおらかで開放的で親切だといい、韓国にいけば景気がよくて先進的で日本とは大違いだという。
いやはや。
そのうえ、ベトナムに移住して会社を作ろうとしたが、現地にまともなコネクションがないので、法人設立すらできずに逃げ帰ってきた。そもそも会社を作る理由が謎すぎる。私に「ソフトウェア開発業が心底嫌になったから移住する」と言ってでていったのに、やることは「海外オフショアのソフトウェア開発業」だという。意味が分からない。なんなんだ。
だいたいベトナムは政府がきわめて非効率的で腐敗しており、社会は遅れたコネ社会で、これから人口減少局面を迎える国である。彼が批判する日本像をもっとひどくしたような国ではないか! ベトナムが非効率的で腐敗しているので、法人設立すらできずに逃げ帰ってきた実体験があるのに、それでもひたすら日本批判を続ける。どういう精神性なのだ?
日本語にはこだわらない、英語のほうが論理的で良い会話ができる、と言いつつ、ひたすら日本語で書き続けている。外国で本当にしっかり暮らして、深い会話をするような外国人の友達ができたこともないのだろう。ましてや、外国や国際人のコミュニティに入れてないことなどは言うまでもない。ベトナムに本当の友人がいるのなら、法人が作れないわけがないのである。
私が会ったことがある人物のなかで、圧倒的に不合理で不条理で浅薄な日本的な人物が、elm200である。なぜこの人間は、自分が合理的で先進的な国際人だと思っているのだろうか? 本当に意味が分からない。自分が日本の嫌なところを煮詰めたような人物であることに気づいていないのか?
私も18歳のときは同じようなことを思っていたこともある。まあ中二病の一種だ。しかし奴は50歳を超えてもそんなことを言っている。信じがたい。出羽守界の超人だ。世界を旅して、多くの人と話して、社会や歴史を学べば、日本が悪くて、外国が良いなどと、言い切れるわけがないだろう。一体全体、外国に行って、何を見てきたのか。
まあ「自分の中の理想の外国」をひたすら見つめているだけで、外国に行っても、実際のその国のことなど全く見ていないのだろう。だから、何も外国について、書けないのだ。だから日本をひたすら罵倒するしかできないのだ。
プログラマとしては優秀なようだが、なぜかプログラミングすることを回避しようとして、行政書士やUSCPAを取得したりして、ひたすらモラトリアムしている。意味が分からん。私はそのあいだにビジネスを成功させて、世界のどこででも住める状態になったし、実際にコロナ前は世界中を回ってた。海外が好きなら、それを実現させるように動くのが当たり前だろう。なんで行政書士?! なんでUSCPA?! どういう発想?!
ユウナとシーモアのやつを取り敢えず終えて祈り子の部屋の手前まで来た。クライマックス感のあるイベントだったが決着は(当然)持ち越しなので、決戦が楽しみになった。
エボンの結婚式の様子を見て家族のことを考えるにやはりジェクト夫妻は親として微妙と言うか、同居してる大きい人たちくらいの距離感に思える。既存の日本的な家族幻想から自由な大人で、ゆえにティーダが自分がカッコ悪いと感じたのは話が素直だ。
ジェクトのスフィアが向けているメッセージが伴侶でなく一人息子にのみ向けられていたのは、彼が不器用なりにティーダとなんとかなりたかったという思いの強さを感じさせる。仮に伴侶に向けたスフィアが別にあるのだとしても「分けた」という事実がジェクトの思いやりのあらわれとなる。
これは父親不在の物語というより、母親不在の物語なわけだ。母親の存在が言い訳的にのみ用いられており、ティーダは母親の素晴らしさや暖かさを思い起こすことはほぼなく、漠然とした曖昧な母親の書割りが持ち出されるにとどまる。私にはティーダの母親は「大したことのない大人」「すがりつく価値のない人物」に見えた。ありふれた話だ。
ティーダの父親への怒りはジェクトが男として格上でカッコいいと感じていることへの嫉妬のようなもので、自分もああなりたい・あれよりも立派な人物でありたいのにそうなれないことへの自責が巻き起こしている。父に素直なリスペクトを表明出来ない彼自身の不器用さはユウナとの対比で示される。ティーダとジェクトは本来嫌い合う仲ではないはずなのに、その間に妙なものがはさまって膨らんでしまい互いに手がつけられなくなってしまっているという、ありふれた、しかし根深く正面からでは修復の難しいものに変わっていったわけだ。
ティーダがジェクトを許した、自分の不器用さ・幼稚さを手放し始めたきっかけは、ジェクトと自分が同じ環境におかれ、帰ることの出来ない不安と懸命に戦っていたことをスフィアに映る彼の断片から感じ取ったからだ。とんでもない強がりのカッコつけであったジェクトには隠していた弱さがあり、それが自分の引け目と共通していたことを感じ取り、それまでのジェクト像が揺らいだのだ。
こんにちは。あなたの投稿を読んで、考えさせられることが多くありました。とても鋭い洞察と、同時に少し心が痛むような感情が混ざり合った状況が伝わってきます。あなたが現在感じている違和感や迷いについて、少し視点を変えた考察をお伝えできればと思います。
まず、彼氏が「物語や小説を読まない人」なのではないか、という印象がありますが、あなたの文章にはそれらの情報はありません。もし彼がそれらに触れる機会が少なかったなら、日常の出来事に対して深く共感したり、感想を共有する能力が乏しいのかもしれません。
ただ、ここで一つ問いかけたいのは、あなた自身がその感性の欠如をどう感じているのか、です。相手の感性が物足りないと感じる理由の中に、自分自身がどこかで「豊かな感性を持ちたいけれど、それを育てきれていない」といった、無意識のコンプレックスが隠れている可能性はないでしょうか。私たちは往々にして、自分が欲しいと感じるものを他者に求め、それが得られないときに強い不満を覚えがちです。
例えば、フランスの哲学者サルトルが言った「人間は自由の刑に処されている」という言葉があります。自由を持つからこそ、その選択に責任を伴い、時にはそれが苦痛となる。この場合、あなたの自由とは「彼との関係をどうするかを選ぶ自由」であり、その選択をする上でのコンプレックスや迷いが影響しているのではないでしょうか。
日本の文化では、人間関係は「どう変化していくか」に重きを置かれることが多いです。たとえば、日本の古典文学『徒然草』では、自然や人々の移り変わりが美徳として語られます。また、茶道においても、茶室での一瞬一会の交流が大切にされるように、人と人との結びつきは静かに変化していくことを前提としています。
この視点からすると、あなたの不満の一因は、「彼が変化しない」という点にあるかもしれません。つまり、あなた自身がこれまで努力してきたように、彼にも歩み寄りや変化を期待しているのではないでしょうか。しかし、彼は「変化しない」ことを選んでいるように見えます。それが安定性として評価される一方で、あなたにとっては物足りなさや孤独感を生み出している。
変化がないことに対する憂鬱さは、あなた自身の「進化したい」「学び合いたい」という成長欲求が反映されているのでしょう。ドイツの哲学者ヘーゲルは、「自己意識は他者との闘争によって成長する」と述べました。彼との関係があなたの成長を支える場となるなら、それは理想的です。しかし、現状では彼がその役割を果たせていないのかもしれません。
「感性を共有する」とは、どのような体験でしょうか。それは、ただ同じ映画を見て同じ感想を述べること以上のものです。心理学者カール・ロジャーズの「共感」の理論では、真の共感とは「相手の視点で世界を感じる能力」にあるとされています。あなたが彼と感性を共有したいと願うのは、きっと「自分の視点で世界を見てほしい」という欲求からきているのでしょう。
一方、彼がそのような共感を示さない理由は、「感性を共有する価値観の欠如」ではなく、単に「感性の表現方法が異なる」からかもしれません。たとえば、彼があなたに尽くしたり、必要なものを惜しみなく提供する行動自体が、彼にとっての感性の表現なのです。
あなたが求めるのは言葉や会話を通じた感性の共有ですが、彼にとっては「行動」がその役割を果たしている。お互いにその違いを理解し合えると、新たな視点が得られるかもしれません。
あなたの文章からは、彼に対する愛情が完全に失われたわけではないことが伝わってきます。むしろ、彼の優しさや誠実さを評価し、尊敬している部分も多い。ただし、現状のままではあなた自身が満たされず、不安や迷いが増しているのも確かです。
言葉ではなく、行動や共同作業を通じて感性を共有する方法を探す。たとえば、一緒に新しい趣味に挑戦するなど。
すべてを共有できる相手である必要はありません。一部の違いを許容しつつ、それでも共に歩む価値があるかを見極める。
彼の興味を掘り下げる質問をしたり、あなた自身の感情を率直に伝える方法を試みる。少しずつ彼の言葉を引き出せる可能性があります。
関係を続けるか否かは、あなたが本当に自分らしくいられるかどうかにかかっています。そのためには、彼との未来を現実的に考える必要があります。
以前「夏目漱石「月が綺麗ですね」の元ネタを遡る」という記事を書いたのだが、いろいろ追記することがあったので改めて整理しなおそうと思う。
大雑把に言えば、この「夏目漱石が I love you を月が綺麗ですねと訳した」という話は、
に分解できる。ひとつずつ追っていこう。
まず、夏目漱石は「I love youは日本語にない表現である」と書き残している。これは漱石のイギリス留学時代である1901年から1902年にかけて書き留められたメモ書きの一つで、ジョージ・メレディスの『Vittoria』という小説に言及したものである。ただし、この台詞はヴィットリア(Vittoria)がラウラ夫人(Signora Laura)に向けて言った台詞なので、恋愛の「I love you」ではなく親愛の「I love you」である。
formula ノ差西洋日本 “I will excuse myself to you another time,” said Vittoria. “I love you, Signora Laura.”――Vittoria p. 113. 此 I love you ハ日本ニナキ formula ナリ.
1908年の『明治学報』に掲載された、上田敏の「予の観たる欧米各国」という講演の書き起こしにも、同様に「I love youは訳せない」というような記述がある。上田敏は高名な英文学者で「山のあなたの空遠く幸住むと人のいふ」や「秋の日のヴィオロンのためいきの」などの詩訳で知られる。漱石よりは年下だが、同時期に東京帝国大学で教鞭をとっていたこともあり、文学論を語り合う仲だった。
日本では「我汝を愛す」と云ふことは言へない、日本では何と云ふかと云ふと、「私アナタに惣れました」と云ふ、それでは「アイ、ラブ、ユー」と云ふことに当らない、「我汝を愛する俯仰天地に愧ず」それはどう云ふたら宜いか、(笑声起る)、所が「私はアナタに惣れました」といふことは日本語ではない、さういふ日本語は昔からないです、だから日本ではそれをパラフレーズするか、或はペリプラスチック、言廻はして、「誠にアナタはよい人だ」とか何とか云ふ工合に云ふより外言ひ方はない、「私はアナタが好です」と云ふと何だか芝居が好きだとか、御鮨が好だとか云ふやうになつて悪いです
同じく1908年に劇作家の益田太郎冠者という人物も次のように書いている。
欧羅巴人にはアイ・ラブ・ユーといつた、美しい詞があり、此の詞の中には、女の身上を刺激する意味が十分に含まれて居るが、日本人には斯ういふ詞が無く、その上「言はぬは言ふにいや優る」などといふ事が古来から上品としてあつて、万事詞が引込み思案になつて居るのです。
やや遅れるが、1922年に刊行されて当時のベストセラーになったという厨川白村『近代の恋愛観』にも、同様の主張が書かれている。厨川白村は漱石の教え子で、恋愛観について議論を交わしたこともあったという。
日本語には英語の『ラブ』に相當する言葉が全く無い。『戀』とか『愛』とか云ふ字では感じがひどくちがう。" I love you" や "Je t'aime" に至つては、何としても之を日本語に譯すことが出來ない。さう云ふ英語や佛蘭西語にある言語感情が、全く日本語では出ないのある。『わたしあなたを愛してよ』、『わたしや、あなたにいろはにほの字よ』では、まるで成つて居ない。言葉が無いのは、それによつて現はさるべき思想が無いからだ。
以上からすると、夏目漱石が最初に言い出したかどうかはともかく、この時期にさまざまな人が「I love youは日本語に訳せない」と主張していたことは確かなようである。
そしてこの「I love youは訳せない」という話から「月が綺麗ですね」が派生する。いまのところ見つけられたかぎりでは、1927年の『帝人タイムス』に掲載されたコラム「東方へ」での記述が最も古かった。
西洋デハ人ノ表情ガ露骨デアツテ 例ヘバ恋ヲ囁クニモ 真正面カラ アイラヴユー ト斬込ムガ 日本デハ 良イお月デスネー ト言フ調子デ 後ハ眼ト素振リニ物ヲ言ハス
1935年刊行の笠間杲雄『沙漠の国』にもそうした表現がある。元になった記事が雑誌に掲載されたのは1926年ごろのようなので帝人タイムスの記事より早いかもしれない。
第一、欧米人にとつては一生の浮沈を定める宿命的な宣言『アイ・ラヴ・ユウ』の同意語すら、日本語には無い。(中略)斯ういう意味を外国人に答へると、然らばあなた方日本人は、初めて男なり女なりを愛する場合に、どんな言葉で意志を通ずるのかと、必ず二の矢の質問が飛ぶ。私は答へる。我々は「いい月ですね」と言つても、「海が静かね」といつても、時としては「アイ・ラブ・ユウ」の翻訳になるのだと。
以降も「月が綺麗ですね」という話は散見される。たとえば1950年の雑誌『英語研究』。
月下に若い男女が語らい合つている. 男が女に愛の言葉をささやくとして, この場合の純日本的な表現は今夜はいい月ですねえ!ということであり, 女がほんとうにいい月ですこと!といつたとすれば, それは男の愛を受け入れたことになる.
1957年の雑誌『産業と産業人』の対談記事「ニッポン居よいか住みよいか」。
三宅 その言葉が昔からないんだね。向うはアイ・ラブ・ユウ、実に簡単ですよ。ところが日本はそういう表現はない。「ああいい月ですな」というのが、ほれたと翻訳しなきゃならんのだ。(笑)
大山 「いい月ですね」ってそのくらいのことは言われたような気がしますけど……。(笑)
1961年の早川東三『じゃぱん紳士周遊記』。こちらは「月が青いですね」である。
ドイツ人学生が日本の女の子に夢中になった。日本語で愛の告白は何と言うのだい、と切なそうに聞くから、「われわれは皆んな詩人だからね、イヒ・リーベ・ディヒ(わたしはお前を愛する)なんて散文的なことは言わない。月が青いですねと言うんだ」と教えてやったが、ご使用に及んだかどうかは知らない。
1962年『日本人の知恵』。これは朝日新聞に連載された記事をまとめたものらしい。
さらにいえば、日本の社交の基本は「見る」ことで成立する。若い男女の恋人同士が愛の告白をするとき、西洋人のように、
「私はあなたを愛しています(I love you)」
などとはけっしていわない。そんなことばを口に出さなくとも、満月を仰ぎ見て、
「いいお月さんですね」
そして、二人でじっと空を見上げるだけで、意思は十分通じるのだ。
以上のように、戦後にも「I love youは訳せない」や「月が綺麗ですね」はそれなりに広まっていたと思われるが、しかし、この時点ではまだ夏目漱石とは結びついていなかった。
それらの話を夏目漱石と結びつけたのは、おそらくSF作家の豊田有恒だろう。たとえば1978年の『SF文迷論入門』(雑誌掲載は1977年)では以下のように書かれているが、他のいくつかの著作でも同様のことを書いており、いわゆる「持ちネタ」のようなものだったことが窺える。
明治時代に、夏目漱石が、学生に、I love you を、どう訳すか、質問した。学生は、明治時代だから、我なんじを愛すというようなことを答えた。漱石は、怒って、一喝した。おまえら、日本人か? 日本人は、そんな、いけ図図しいことは言わないんだ。I love you というのは、日本語では、月がとっても蒼いなあ、と、こう訳すものだ、って言ったろ。
ほぼ同時期に、つかこうへいが小田島雄平との対談で同様のエピソードを語っているが、こちらの記事の初出は1978年なので豊田有恒よりも後ではある。つかこうへいが豊田有恒の記述を読んだのか、それとも共通の元ネタがまだどこかにあるのか。
古くは夏目漱石が I love you はどう訳せるかって言ったという有名な話がありますよね。生徒たちがそれは「愛してます」って訳すると言ったら、夏目漱石が教壇からばかやろうとどなりつけて、「月がとっても青いから」って訳すのだと言った話がありますけど、そういう翻訳のリアリティーっていいますか、それは、時代とともにいろいろ変わっていってるんでしょうね。
以降の流れは「月が綺麗ですね・死んでもいいわ」検証に詳しい。
ツルゲーネフの『片恋』における「Yours」という台詞を二葉亭四迷が「死んでも可いわ…」と訳したという話を、「二葉亭四迷がI love youを死んでもいいわと訳した」に変形させた犯人探しも行われているが、それはおそらく土岐善麿だろう。1957年の『ことば随筆』にこう書かれている。
「アイ・ラブ・ユウ」を日本語に直訳すれば「われ、なんじを愛す」であろうが、二葉亭四迷はそれを「死んでもいいわ」と表現したことがある。ツルゲーネフの「あいびき」の中にあるのを読んで、その訳しぶりのすばらしさにおどろいた記憶がある。
この記述は、のちに金田一春彦がいくつかの著書で引用しており、そのあたりから広がっていったのだろう。たとえば金田一春彦の1975年『日本人の言語表現』ではこういった具合だ。
土岐善麿氏によると、二葉亭四迷は、トゥルゲーネフのある小説で女性の言うI love you.を訳すのにはたと困ったそうだ。何でも相愛の男女が愛を確かめあうクライマックスの場面であるが、男がI love you.と言い、女もそれに答えてI love you.と言う。男のせりふの方は「ぼくはあなたが好きだ」で簡単だ。が女の方はそうはいかない。もし、「私もあなたが好きです」とでも言ったら、それは教養のないあばずれ女ということになる。女のI love you.を日本語で何と訳すべきか、二葉亭は、二日二晩考えた末、今も名訳として伝わっている日本語を思いついた。それは「死んでもいいわ」という文句という文句だという。
2024年の現在から過去数十年を振り返った際の重要なイベントやトレンドに関してまとめてみた。筆者の出自(旧来側の小売企業に所属)によって、記載の濃淡がどうしても出てしまうが、その点は容赦いただきたい。
大型店舗の新規出店に対して規制をしていた「大規模小売店舗法」が1991年に緩和され
2000年に廃止された。経緯としては、日米間の貿易摩擦に対する折衝の中で日本の国内産業障壁の一つとして指摘されたことによるもので、大店法緩和の象徴として日本に進出したのがトイザらスである。しかし、大店法の緩和と廃止によって生じたのは米国企業の進出ではなく、商店街などの中小小売業の衰退とロードサイド化である。我々が日本の各地で目にしている、寂れた中心市街地と画一化されたロードサイド店舗が並ぶ郊外の風景は、これによってもたらされた。
楽天市場のサービス提供が1996年、Yahoo!ショッピングが翌年の1997年である。小売の各セグメントにおいて、Eコマースは食品スーパー、コンビニ等を抑えて堂々の一位にある。あまり詳しくないので記載はこの程度。
岡田卓也が社長を務める岡田屋ほか3社が合併し、ジャスコ株式会社が誕生。
大店法緩和以降(第1位参照)の小売業の郊外進出の時流に乗って積極的に出店と企業統合および業態の拡張を行い、イオンへの屋号変更を経て、日本最大の小売グループと成長していく。
米サウスランド社から前年にライセンスを取得したイトーヨーカドーが国内第1号店として、東京都江東区豊洲の酒屋を改装しオープンした。大店法緩和以降の、中心街および市街地における店舗フォーマットとして、フランチャイズにおける小型店舗という、毀誉褒貶の伴うビジネスモデルを確立した。国内初のコンビニに関しては実は諸説あるらしいが、いずれにせよ豊洲店が現在まで続く流れの中で最も重要な存在であることは間違いがない。なお、豊洲店は今なお営業しており、従業員に国内初のコンビニであることを尋ねると、嬉しそうな反応が返ってくる(何年か前の話)。
2000年にフランスの大手スーパーマーケットのカルフールが日本に進出し千葉県幕張市に店舗をオープン。また2002年には経営不振に陥っていた西友を買収する形でウォルマートが日本に進出した。しかしカルフールは2005年にイオンに売却され、ウォルマートも2018年に西友の経営から手を引いた。
両社の進出当時には、EDLP(エブリデーロープライス 特売に頼らない一定の値付け)や卸などの日本的商習慣の打破に対する期待もあった。両社の撤退後、国内のリアルの小売業は日本資本が担っていくという流れが決定的となった。一方で、川上側の流通構造の変化については、イオンやユニクロ等が手をつけていくことになったのだが、そこに海外大手の進出の影響があったのかもしれない。知らんけど。
ユニクロがフリースを目玉商品として原宿に出店した。ロードサイド型のフォーマットは、レンガを基調にしたオールドユニクロファンには懐かしい店舗スタイルで1985年にすでに最初の店舗をオープンしていた。地方発祥の一量販店に過ぎなかったユニクロが、原宿のオープン時に社会現象と言われるまでのニュースになり、以後は全国的なブランドとなっていった。またフリースから始まったユニクロオリジナル商品はジーンズなどの数々のヒット商品を経て、単なるアパレルショップという業態からSPA(製造小売)という別のビジネスモデルへの転換へと繋がっていった。今では想像もできないが、昔はユニクロでもリーバイスのジーンズとか売っていたのだ。
スマートフォン発売当初は、国内ではいわゆるガラケーと呼ばれた従来型携帯電話が主体であったが、2010年のiPhone4あたりから潮目が変わり始めて、スマホの普及が加速した。これに伴い、ECの担い手も従来のPCからモバイルへと変化していった。
今となっては想像もできないが、当時はECで買い物をするときには、PCの前に移動してブラウザを立ち上げてから買い物をすることが必要であった。
ネットとリアルの統合とかそういったことがこの頃から言われるようになった。リアル店舗における買い物体験については、モバイル化によって、当時期待していたほどに変化したとは言えないが、今後も続く大きな流れではある。
また、このモバイル化とほぼ同じタイミングで東日本大震災(2011年)があったのは、巣篭もり含む社会情勢変化の中で間接的な影響はあったのではないかと個人的に思う。
小売業界以外の人にはほぼ知られておらず、業界内でもペガサスクラブのことを知らない人が多い。読売新聞の記者であった渥美俊一氏によって設立された、研究機関ないし互助機関である。高度経済成長期以降、アメリカの小売業をモデルとした、日本の小売業の組織化と大規模化に、ペガサスクラブの「チェーンストア理論」は大きな影響を与えたとされる。
松下(現在のパナソニック)製のテレビを、ダイエーがメーカー設定を下回る価格で販売したことによる対立。大きくは流通業界全体における主導権を製造側が握るか小売側が握るかという点での争いである。より消費者に近い川下側が主体となって流通全体の効率化と変革を進めていく考えが流通革命であり、1962年に同名で出版された著書がある。
大丸と松坂屋の統合によるJ.フロント リテイリング、阪急百貨店と阪神百貨店によるエイチ・ツー・オー リテイリングの発足がともに2007年で、翌年の2008年には三越と伊勢丹が経営統合した。この一連のイベントは、統合そのものよりも、百貨店業界全体の不振として捉えたい。
今となっては信じられないが、かつては小売業の中での業態別の首位は百貨店であったが、売上高としては1991年の12兆円をピークとして現在まで半減している。
村上春樹は、日本および世界文学において、いくつかの重要な文学的達成を遂げたと評価されています。以下、多角的な視点からその功績を分析します。
村上春樹は、1980年代から現代にかけての日本文学を代表する作家の一人であり、特にポストモダン文学の文脈で高く評価されています。彼の作品は、従来の日本文学の伝統やテーマから脱却し、グローバルな感性やポップカルチャー、サブカルチャーを積極的に取り入れることで、新しい文学のスタイルを確立しました。これにより、村上は日本文学を世界文学の文脈で再定義する役割を果たしました。
2. 小説技巧
村上春樹の作品は、独特な語り口、現実と非現実が交錯するメタファー、シンプルながらもリズム感のある文章で特徴づけられます。彼のスタイルは、読者を異世界に誘いながらも、同時に自己反省や存在の意味を問いかける要素を含んでいます。また、村上の作品には、オープンエンディングや多義的な解釈が可能な要素が多く、読者の解釈を促す手法が多用されています。
村上春樹は、アメリカの作家であるレイモンド・チャンドラーやカート・ヴォネガット、ジョン・アーヴィングなどの影響を受けていることを公言しており、それらの作家たちと同様に、日常に潜む異質な出来事やシュールなユーモアを取り入れています。しかし、彼の作品はそれを単なる模倣ではなく、独自の日本的な視点や感受性を織り交ぜて再構築する点で独特です。このことが、村上を単なる「翻訳的」作家にとどまらない存在にしています。
4. 後世への影響
村上春樹の影響は、日本国内だけでなく世界中の作家たちにも及んでいます。彼の作品のスタイルやテーマは、多くの若手作家たちに影響を与え、村上の影響を受けた「ポスト村上世代」ともいえる作家たちが台頭しています。また、彼の作品が世界中で翻訳され、幅広い読者層を獲得していることから、村上は日本文学の国際的認知度を高める役割を担ったともいえます。
村上の作品では、自己探求、孤独、失われた時間、人間関係の複雑さなどの普遍的なテーマが頻繁に描かれます。これらのテーマが現代社会の不安感や疎外感と強く共鳴することにより、多くの読者が村上の作品に共感を抱いています。特に、彼の作品に見られる現実逃避や非現実との対話は、現代人が抱える精神的な問題や自己探求の葛藤を反映しています。
6. ポップカルチャーとの融合
村上春樹の作品には、音楽(特にジャズやクラシック)、文学、映画などのポップカルチャーが頻繁に引用されます。この要素が彼の作品に親しみやすさと多層的な深みを与え、特に若い世代の読者層に支持される要因となっています。
村上春樹は、ポストモダン文学の旗手として、日本文学に新しいスタイルと視点をもたらし、グローバルな視点での文学的交流を推進しました。彼の作品は現代社会の問題に対する鋭い洞察と普遍的なテーマを兼ね備え、後世の作家や文学に大きな影響を与え続けています。その文学的達成は、技術的な革新だけでなく、世界的な文学の文脈での再評価を促す点においても顕著です。
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一一
このごろ与次郎が学校で文芸協会の切符を売って回っている。二、三日かかって、知った者へはほぼ売りつけた様子である。与次郎はそれから知らない者をつかまえることにした。たいていは廊下でつかまえる。するとなかなか放さない。どうかこうか、買わせてしまう。時には談判中にベルが鳴って取り逃すこともある。与次郎はこれを時利あらずと号している。時には相手が笑っていて、いつまでも要領を得ないことがある。与次郎はこれを人利あらずと号している。ある時便所から出て来た教授をつかまえた。その教授はハンケチで手をふきながら、今ちょっとと言ったまま急いで図書館へはいってしまった。それぎりけっして出て来ない。与次郎はこれを――なんとも号しなかった。後影を見送って、あれは腸カタルに違いないと三四郎に教えてくれた。
与次郎に切符の販売方を何枚頼まれたのかと聞くと、何枚でも売れるだけ頼まれたのだと言う。あまり売れすぎて演芸場にはいりきれない恐れはないかと聞くと、少しはあると言う。それでは売ったあとで困るだろうと念をおすと、なに大丈夫だ、なかには義理で買う者もあるし、事故で来ないのもあるし、それから腸カタルも少しはできるだろうと言って、すましている。
与次郎が切符を売るところを見ていると、引きかえに金を渡す者からはむろん即座に受け取るが、そうでない学生にはただ切符だけ渡している。気の小さい三四郎が見ると、心配になるくらい渡して歩く。あとから思うとおりお金が寄るかと聞いてみると、むろん寄らないという答だ。几帳面にわずか売るよりも、だらしなくたくさん売るほうが、大体のうえにおいて利益だからこうすると言っている。与次郎はこれをタイムス社が日本で百科全書を売った方法に比較している。比較だけはりっぱに聞こえたが、三四郎はなんだか心もとなく思った。そこで一応与次郎に注意した時に、与次郎の返事はおもしろかった。
「いくら学生だって、君のように金にかけるとのん気なのが多いだろう」
「なに善意に払わないのは、文芸協会のほうでもやかましくは言わないはずだ。どうせいくら切符が売れたって、とどのつまりは協会の借金になることは明らかだから」
三四郎は念のため、それは君の意見か、協会の意見かとただしてみた。与次郎は、むろんぼくの意見であって、協会の意見であるとつごうのいいことを答えた。
与次郎の説を聞くと、今度は演芸会を見ない者は、まるでばかのような気がする。ばかのような気がするまで与次郎は講釈をする。それが切符を売るためだか、じっさい演芸会を信仰しているためだか、あるいはただ自分の景気をつけて、かねて相手の景気をつけ、次いでは演芸会の景気をつけて、世上一般の空気をできるだけにぎやかにするためだか、そこのところがちょっと明晰に区別が立たないものだから、相手はばかのような気がするにもかかわらず、あまり与次郎の感化をこうむらない。
与次郎は第一に会員の練習に骨を折っている話をする。話どおりに聞いていると、会員の多数は、練習の結果として、当日前に役に立たなくなりそうだ。それから背景の話をする。その背景が大したもので、東京にいる有為の青年画家をことごとく引き上げて、ことごとく応分の技倆を振るわしたようなことになる。次に服装の話をする。その服装が頭から足の先まで故実ずくめにでき上がっている。次に脚本の話をする。それが、みんな新作で、みんなおもしろい。そのほかいくらでもある。
与次郎は広田先生と原口さんに招待券を送ったと言っている。野々宮兄妹と里見兄妹には上等の切符を買わせたと言っている。万事が好都合だと言っている。三四郎は与次郎のために演芸会万歳を唱えた。
万歳を唱える晩、与次郎が三四郎の下宿へ来た。昼間とはうって変っている。堅くなって火鉢のそばへすわって寒い寒いと言う。その顔がただ寒いのではないらしい。はじめは火鉢へ乗りかかるように手をかざしていたが、やがて懐手になった。三四郎は与次郎の顔を陽気にするために、机の上のランプを端から端へ移した。ところが与次郎は顎をがっくり落して、大きな坊主頭だけを黒く灯に照らしている。いっこうさえない。どうかしたかと聞いた時に、首をあげてランプを見た。
「この家ではまだ電気を引かないのか」と顔つきにはまったく縁のないことを聞いた。
「まだ引かない。そのうち電気にするつもりだそうだ。ランプは暗くていかんね」と答えていると、急に、ランプのことは忘れたとみえて、
一応理由を聞いてみる。与次郎は懐から皺だらけの新聞を出した。二枚重なっている。その一枚をはがして、新しく畳み直して、ここを読んでみろと差しつけた。読むところを指の頭で押えている。三四郎は目をランプのそばへ寄せた。見出しに大学の純文科とある。
大学の外国文学科は従来西洋人の担当で、当事者はいっさいの授業を外国教師に依頼していたが、時勢の進歩と多数学生の希望に促されて、今度いよいよ本邦人の講義も必須課目として認めるに至った。そこでこのあいだじゅうから適当の人物を人選中であったが、ようやく某氏に決定して、近々発表になるそうだ。某氏は近き過去において、海外留学の命を受けたことのある秀才だから至極適任だろうという内容である。
「広田先生じゃなかったんだな」と三四郎が与次郎を顧みた。与次郎はやっぱり新聞の上を見ている。
「どうも」と首を曲げたが、「たいてい大丈夫だろうと思っていたんだがな。やりそくなった。もっともこの男がだいぶ運動をしているという話は聞いたこともあるが」と言う。
「しかしこれだけじゃ、まだ風説じゃないか。いよいよ発表になってみなければわからないのだから」
「いや、それだけならむろんかまわない。先生の関係したことじゃないから、しかし」と言って、また残りの新聞を畳み直して、標題を指の頭で押えて、三四郎の目の下へ出した。
今度の新聞にもほぼ同様の事が載っている。そこだけはべつだんに新しい印象を起こしようもないが、そのあとへ来て、三四郎は驚かされた。広田先生がたいへんな不徳義漢のように書いてある。十年間語学の教師をして、世間には杳として聞こえない凡材のくせに、大学で本邦人の外国文学講師を入れると聞くやいなや、急にこそこそ運動を始めて、自分の評判記を学生間に流布した。のみならずその門下生をして「偉大なる暗闇」などという論文を小雑誌に草せしめた。この論文は零余子なる匿名のもとにあらわれたが、じつは広田の家に出入する文科大学生小川三四郎なるものの筆であることまでわかっている。と、とうとう三四郎の名前が出て来た。
三四郎は妙な顔をして与次郎を見た。与次郎はまえから三四郎の顔を見ている。二人ともしばらく黙っていた。やがて、三四郎が、
「困るなあ」と言った。少し与次郎を恨んでいる。与次郎は、そこはあまりかまっていない。
「君、これをどう思う」と言う。
「どう思うとは」
「投書をそのまま出したに違いない。けっして社のほうで調べたものじゃない。文芸時評の六号活字の投書にこんなのが、いくらでも来る。六号活字はほとんど罪悪のかたまりだ。よくよく探ってみると嘘が多い。目に見えた嘘をついているのもある。なぜそんな愚な事をやるかというとね、君。みんな利害問題が動機になっているらしい。それでぼくが六号活字を受持っている時には、性質のよくないのは、たいてい屑籠へ放り込んだ。この記事もまったくそれだね。反対運動の結果だ」
「なぜ、君の名が出ないで、ぼくの名が出たものだろうな」
「やっぱり、なんだろう。君は本科生でぼくは選科生だからだろう」と説明した。けれども三四郎には、これが説明にもなんにもならなかった。三四郎は依然として迷惑である。
「ぜんたいぼくが零余子なんてけちな号を使わずに、堂々と佐々木与次郎と署名しておけばよかった。じっさいあの論文は佐々木与次郎以外に書ける者は一人もないんだからなあ」
与次郎はまじめである。三四郎に「偉大なる暗闇」の著作権を奪われて、かえって迷惑しているのかもしれない。三四郎はばかばかしくなった。
「さあ、そこだ。偉大なる暗闇の作者なんか、君だって、ぼくだって、どちらだってかまわないが、こと先生の人格に関係してくる以上は、話さずにはいられない。ああいう先生だから、いっこう知りません、何か間違いでしょう、偉大なる暗闇という論文は雑誌に出ましたが、匿名です、先生の崇拝者が書いたものですから御安心なさいくらいに言っておけば、そうかで、すぐ済んでしまうわけだが、このさいそうはいかん。どうしたってぼくが責任を明らかにしなくっちゃ。事がうまくいって、知らん顔をしているのは、心持ちがいいが、やりそくなって黙っているのは不愉快でたまらない。第一自分が事を起こしておいて、ああいう善良な人を迷惑な状態に陥らして、それで平気に見物がしておられるものじゃない。正邪曲直なんてむずかしい問題は別として、ただ気の毒で、いたわしくっていけない」
「家へ来る新聞にゃない。だからぼくも知らなかった。しかし先生は学校へ行っていろいろな新聞を見るからね。よし先生が見なくってもだれか話すだろう」
「すると、もう知ってるな」
「むろん知ってるだろう」
「君にはなんとも言わないか」
「言わない。もっともろくに話をする暇もないんだから、言わないはずだが。このあいだから演芸会の事でしじゅう奔走しているものだから――ああ演芸会も、もういやになった。やめてしまおうかしらん。おしろいをつけて、芝居なんかやったって、何がおもしろいものか」
「しかられるだろう。しかられるのはしかたがないが、いかにも気の毒でね。よけいな事をして迷惑をかけてるんだから。――先生は道楽のない人でね。酒は飲まず、煙草は」と言いかけたが途中でやめてしまった。先生の哲学を鼻から煙にして吹き出す量は月に積もると、莫大なものである。
「煙草だけはかなりのむが、そのほかになんにもないぜ。釣りをするじゃなし、碁を打つじゃなし、家庭の楽しみがあるじゃなし。あれがいちばんいけない。子供でもあるといいんだけれども。じつに枯淡だからなあ」
与次郎はそれで腕組をした。
「たまに、慰めようと思って、少し奔走すると、こんなことになるし。君も先生の所へ行ってやれ」
「行ってやるどころじゃない。ぼくにも多少責任があるから、あやまってくる」
「君はあやまる必要はない」
「じゃ弁解してくる」
与次郎はそれで帰った。三四郎は床にはいってからたびたび寝返りを打った。国にいるほうが寝やすい心持ちがする。偽りの記事――広田先生――美禰子――美禰子を迎えに来て連れていったりっぱな男――いろいろの刺激がある。
夜中からぐっすり寝た。いつものように起きるのが、ひどくつらかった。顔を洗う所で、同じ文科の学生に会った。顔だけは互いに見知り合いである。失敬という挨拶のうちに、この男は例の記事を読んでいるらしく推した。しかし先方ではむろん話頭を避けた。三四郎も弁解を試みなかった。
暖かい汁の香をかいでいる時に、また故里の母からの書信に接した。また例のごとく、長かりそうだ。洋服を着換えるのがめんどうだから、着たままの上へ袴をはいて、懐へ手紙を入れて、出る。戸外は薄い霜で光った。
通りへ出ると、ほとんど学生ばかり歩いている。それが、みな同じ方向へ行く。ことごとく急いで行く。寒い往来は若い男の活気でいっぱいになる。そのなかに霜降りの外套を着た広田先生の長い影が見えた。この青年の隊伍に紛れ込んだ先生は、歩調においてすでに時代錯誤である。左右前後に比較するとすこぶる緩漫に見える。先生の影は校門のうちに隠れた。門内に大きな松がある。巨大の傘のように枝を広げて玄関をふさいでいる。三四郎の足が門前まで来た時は、先生の影がすでに消えて、正面に見えるものは、松と、松の上にある時計台ばかりであった。この時計台の時計は常に狂っている。もしくは留まっている。
門内をちょっとのぞきこんだ三四郎は、口の中で「ハイドリオタフヒア」という字を二度繰り返した。この字は三四郎の覚えた外国語のうちで、もっとも長い、またもっともむずかしい言葉の一つであった。意味はまだわからない。広田先生に聞いてみるつもりでいる。かつて与次郎に尋ねたら、おそらくダーターファブラのたぐいだろうと言っていた。けれども三四郎からみると二つのあいだにはたいへんな違いがある。ダーターファブラはおどるべき性質のものと思える。ハイドリオタフヒアは覚えるのにさえ暇がいる。二へん繰り返すと歩調がおのずから緩漫になる。広田先生の使うために古人が作っておいたような音がする。
学校へ行ったら、「偉大なる暗闇」の作者として、衆人の注意を一身に集めている気色がした。戸外へ出ようとしたが、戸外は存外寒いから廊下にいた。そうして講義のあいだに懐から母の手紙を出して読んだ。
この冬休みには帰って来いと、まるで熊本にいた当時と同様な命令がある。じつは熊本にいた時分にこんなことがあった。学校が休みになるか、ならないのに、帰れという電報が掛かった。母の病気に違いないと思い込んで、驚いて飛んで帰ると、母のほうではこっちに変がなくって、まあ結構だったといわぬばかりに喜んでいる。訳を聞くと、いつまで待っていても帰らないから、お稲荷様へ伺いを立てたら、こりゃ、もう熊本をたっているという御託宣であったので、途中でどうかしはせぬだろうかと非常に心配していたのだと言う。三四郎はその当時を思いだして、今度もまた伺いを立てられることかと思った。しかし手紙にはお稲荷様のことは書いてない。ただ三輪田のお光さんも待っていると割注みたようなものがついている。お光さんは豊津の女学校をやめて、家へ帰ったそうだ。またお光さんに縫ってもらった綿入れが小包で来るそうだ。大工の角三が山で賭博を打って九十八円取られたそうだ。――そのてんまつが詳しく書いてある。めんどうだからいいかげんに読んだ。なんでも山を買いたいという男が三人連で入り込んで来たのを、角三が案内をして、山を回って歩いているあいだに取られてしまったのだそうだ。角三は家へ帰って、女房にいつのまに取られたかわからないと弁解した。すると、女房がそれじゃお前さん眠り薬でもかがされたんだろうと言ったら、角三が、うんそういえばなんだかかいだようだと答えたそうだ。けれども村の者はみんな賭博をして巻き上げられたと評判している。いなかでもこうだから、東京にいるお前なぞは、本当によく気をつけなくてはいけないという訓誡がついている。
長い手紙を巻き収めていると、与次郎がそばへ来て、「やあ女の手紙だな」と言った。ゆうべよりは冗談をいうだけ元気がいい。三四郎は、
「なに母からだ」と、少しつまらなそうに答えて、封筒ごと懐へ入れた。
「いいや」
「何を」と問い返しているところへ、一人の学生が、与次郎に、演芸会の切符をほしいという人が階下に待っていると教えに来てくれた。与次郎はすぐ降りて行った。
与次郎はそれなり消えてなくなった。いくらつらまえようと思っても出て来ない。三四郎はやむをえず精出して講義を筆記していた。講義が済んでから、ゆうべの約束どおり広田先生の家へ寄る。相変らず静かである。先生は茶の間に長くなって寝ていた。ばあさんに、どうかなすったのかと聞くと、そうじゃないのでしょう、ゆうべあまりおそくなったので、眠いと言って、さっきお帰りになると、すぐに横におなりなすったのだと言う。長いからだの上に小夜着が掛けてある。三四郎は小さな声で、またばあさんに、どうして、そうおそくなったのかと聞いた。なにいつでもおそいのだが、ゆうべのは勉強じゃなくって、佐々木さんと久しくお話をしておいでだったという答である。勉強が佐々木に代ったから、昼寝をする説明にはならないが、与次郎が、ゆうべ先生に例の話をした事だけはこれで明瞭になった。ついでに与次郎が、どうしかられたかを聞いておきたいのだが、それはばあさんが知ろうはずがないし、肝心の与次郎は学校で取り逃してしまったからしかたがない。きょうの元気のいいところをみると、大した事件にはならずに済んだのだろう。もっとも与次郎の心理現象はとうてい三四郎にはわからないのだから、じっさいどんなことがあったか想像はできない。
三四郎は長火鉢の前へすわった。鉄瓶がちんちん鳴っている。ばあさんは遠慮をして下女部屋へ引き取った。三四郎はあぐらをかいて、鉄瓶に手をかざして、先生の起きるのを待っている。先生は熟睡している。三四郎は静かでいい心持ちになった。爪で鉄瓶をたたいてみた。熱い湯を茶碗についでふうふう吹いて飲んだ。先生は向こうをむいて寝ている。二、三日まえに頭を刈ったとみえて、髪がはなはだ短かい。髭のはじが濃く出ている。鼻も向こうを向いている。鼻の穴がすうすう言う。安眠だ。
三四郎は返そうと思って、持って来たハイドリオタフヒアを出して読みはじめた。ぽつぽつ拾い読みをする。なかなかわからない。墓の中に花を投げることが書いてある。ローマ人は薔薇を affect すると書いてある。なんの意味だかよく知らないが、おおかた好むとでも訳するんだろうと思った。ギリシア人は Amaranth を用いると書いてある。これも明瞭でない。しかし花の名には違いない。それから少しさきへ行くと、まるでわからなくなった。ページから目を離して先生を見た。まだ寝ている。なんでこんなむずかしい書物を自分に貸したものだろうと思った。それから、このむずかしい書物が、なぜわからないながらも、自分の興味をひくのだろうと思った。最後に広田先生は必竟ハイドリオタフヒアだと思った。
中選挙区の時代に自民党内で派閥が入れ替わってたのは日本的民主主義の一つの形だったと思うんだよな
主流派にならなかった人たちも多少は政権運営に関わってノウハウを身に着けておいて、自分らが主流派になった時に実務に困ることがない仕組みに(意図せず)なっていた
事実上の政権交代は出来ていたのに、政権交代が起こりやすい仕組みとして小選挙区制が導入されて、却って政権交代が起こらないようになってしまったように見える
たまには自民党以外に政権任せてみるか、ではノウハウを持たない素人集団が政権を担うことになってどうせうまくいかない
アメリカ式に頻繁に2大政党が政権交代するか(これを目指して上手くいかなかった気もするが)、ヨーロッパ式に多数の党が連立政権になるか、昭和の日本方式で行くか、そのあたりが答えになるんだろうか
なんとなく知事を追い詰めて辞めさせるのがゴールみたいになってしまっている。
議員は知事に辞職要求する以上、今回の問題についての議会としての結論を世に示すべきだろう。
少なくとも以下の点については、ちゃんと総括していただきたい。
この内容はどの程度真実でありどの程度誤りであったのか。
本人が体験や見聞きしたものでなく伝聞で作成されたことはわかっている。
このため、内容が真実でないならば、噂話をもとに作られた悪意のある怪文書でしかない。
だけど、どうやらそうではなく、ある程度の真実が含まれているようだ。
かなりの部分が真実ということであれば、信頼できる情報をもとに作成された内部告発文書といえる。
そうなると、知事の初動には大変問題があったと言わざるを得ない。
これは百条委員会の主題でもあり、明確に結論を出してもらわないと困る。
現時点では、付箋投げつけ、深夜のチャット、机を叩く、大声で叱責する、などの行為が百条委員会で認められている。
ただ、この全てが知事を辞めなければならないほどのものかというと、そうでもないだろう。
日本の平均的サラリーマンならこの程度の経験はしてきた人が多いだろうし、他の首長もかなりの人がやっていると思われる。
これは全国の自治体で起こりうる問題であり、こうした行為はパワハラだと知らしめることには大きな意義がある。
もちろん知事の不適切な犯人探しや懲戒処分にも原因はあるが、それでも本人は百条委員会への出席に前向きだったという。
それを追い詰めたのは、百条委員会を公開でやることにこだわり、プライベートを公開の場で晒してやると脅した維新議員だったとの情報がある。
これが事実なら、この維新議員も責任を問われるべきであり、知事とともに辞職すべきではないのか。
死人に口無しで片付けるのではなく、事実を明らかにして責任を果たしてほしい。
阪神オリックスの優勝記念パレードという維新のイメージアップのためだけに行われた空疎なイベントにおいて、寄付金が集まらなかったので後で補助金で補填するからと信金に寄付させた疑惑。
実はこれが最も深刻な問題で、このせいで一人職員が自殺したと言われている。
むしろ早く辞めさせたいのはここを突かれると困る人間がたくさんいるからではないのかと疑ってしまう。
これは明らかに公金の不適切な支出を誤魔化すようなロンダリング行為であり、問題は大きい。
徹底的な追及を望む。
辞職要求を知事が飲まなければ、次の争点は不信任決議案になるだろう。
今の空気では、いかに知事を追い詰めるかだけが注目されている。
議論がとっ散らかってるけど、この四つを許容するのならアリだし、どれか一つでも許容できないのならナシ。もちろんそれぞれ独立してるわけじゃなく相互に絡み合ってるけどね。
民間企業の行うものは差別ではないとするもの。レディースデーや保険料など。
当然、採用や給与で差異を設けることを含みうる。(辞める可能性が高いから採用しない、という判断を認めるか)
スポーツの男女分けや医大の男性優遇合格枠(事前に公表すること前提だが)はここ。
加えてその一に絡むけど企業の採用や給与、保険料はここにも該当する。
差別されている側(女性)が利益を得るものだからアリとするもの。アファーマティブアクションなど。学割も学生の所得が低いことを理由とするならここか。
実はスポーツの男女分けも元々はここに入る。
同等の権利の主体(正確には意志能力)とみなされていないので差異を設けて良いとするもの。子供割引など。
例示を見てもらえばわかるが明らかに程度問題なことがわかる。(自民党が「差別」を「不当な差別」と書き換えたときは批判一色だったが妥当な書き換えだったと思う)
そして、スポーツを除いて、性別による差異を設けることってのは世論として認められにくくなってる感覚がある。
女性枠(アファーマティブアクション)も時代遅れになりつつあるしね、時代遅れになってから採用するのがいかにも日本的。
合法だろうが差別はダメだし、そうやって社会運動は進んできたはずだ。
アホなブコメがあったので
保険料、特に自動車保険に代表される損保は一応統計的裏付けがあることになってるのを知らないって言うのはさすがに増田が適当に書いているだけって言う証左(´・_・`)恥ずかしい
僕は29歳の男性(来年の2月に30になる)で以前はにわかネトウヨかぶれだった男だったけど
ネトウヨになれずに大人になった今考えると特攻隊を美化する言説って胸糞悪いなと思っている。
特攻隊作戦というのも今考えると無能軍部と国により若い男性が犠牲を被ったようにしか思えない。
普通の国の軍隊はあんな戦術をするなどありえないし、やっちゃいけない行為だ。
太平洋戦争当時の政府に盲従し敵に抵抗したお陰で戦争が長期化し、特攻によってイタズラに敵対心と恐怖心を植え付け、その後の日本中の空襲や原爆投下の口実・正当化に利用されている。
「ゆとり世代やZ世代が楽に生きられるのも団塊ジュニアやロスジェネが若いころに犠牲を払ったおかげ」と人様の目の前でいうことができるだろうか?
団塊ジュニアやロスジェネ世代が若いころにまかり通った派遣労働も、結局は若者への虐待や搾取を通じてイタズラに日本への敵対心と嫌悪心を植え付け、今では若者による反日・売国言動・行動の口実・正当化に利用されている。そりゃ若者ほど日本的な料理や製品を毛嫌いするし、韓流が流行るし、少子化も車バイク離れも止まらなくなるわな。
太平洋戦争であのような戦術をすることがなければ1990年代や2000年代の不況時にあんな若者を食い物にする派遣労働なんかが流行ることがなかったかもしれないのにと今では思っている。
金ズリは腐る程あるので徹底抗戦したが40分粘りやがった
どこのバカか知らんが暇なやつだ
山〇掲示板ジムは我が家が主管です、勝手な行動は謹んで頂きたい。
我が家は
俺(青)、息子A(青)、息子B(黄色)、ママ(黄)、予備垢(赤)
空気の読めない頭の悪い無法者が我が家のジムにちょっかいを出してくる
俺とて四六時中ポケGOを監視しているわけでは無いので20分30分目を離した隙にジムを乗っ取られることがある。超ゲキムカつく
即座に複垢高速回しで奪還
そういう事をしていたらどうもわが町のポケGoユーザーにあのジムやべぇと悪評が立っているようだ。やべぇ
一応人口密度2万人/kmを超えており、昼間人口はそこそこ高いエリアで、ジムもそこそこあり
たかがゲームじゃん、と思ってたが、ガチ勢のガキはそうではないようだ。
なぜ気がついたかというと、先日公園でジムレイドをしていたら近くに小学男子6人のグループが同じジムレイドに入っており、声のでかい彼らの会話が聞こえてきた
「こいつRじゃん、やべぇ、クソじゃん」
うん、どう考えてもジムの恨みだわw
ジム参加者リストを見たが、確かに見覚えある、何度か秒殺で刈り取ったったわw
来年、恐らく彼らと同じ小学校に入学する息子Aが不憫でならない
学校でポケGO自慢はすんな、てか最近はポケGo飽きてにゃんこ大戦争も飽き始めてひみつのおるすばんにどっぷりだけどさ
で、話を戻す
ルールは単純、
①先頭が8時間超えたら残り5人の時間に関係なくジムを乗っ取る
②日跨ぎ直前の場合は、その日分未達の人と別ジムで50コイン獲得済みで翌日に回したい人もいるだろうから軽くジムアタックして回復行動が見られたら中止、日を跨いでから制圧
ところが、最後尾が8時間(50コイン)超えるまで待つ的な暗黙のルールがあるじゃん
俺に言わせりゃ不合理で知ったこっちゃない、日本的な頭の悪いマナーだ
空いてるスロットにさっさと入れないのが悪い、出遅れた自己責任
僕なんか間違ってます?
日本は長い歴史を通じて独自の文化を育んできました。この文化的特徴は、世界的に見ても非常に稀有で価値の高いものです。
これらの特徴は、日本社会の調和と秩序を維持する上で重要な役割を果たしてきました。
日本の独自文化を保全することは、以下の理由から極めて重要です:
日本文化の独自性を活かしたインバウンド産業の創出は、経済発展の新たな可能性を秘めています:
大規模な移民の受け入れは、日本の文化的価値を希薄化させる可能性があります:
日本の発展のためには、労働力不足の解消よりも、文化的価値の保全とそれに基づくインバウンド産業の創出に注力すべきです。日本の高コンテキスト文化や独自の社会システムは、世界的に見ても特異で価値の高いものです。
この文化的資産を守り、活かすことが、日本の持続可能な発展につながります。大規模な移民の受け入れではなく、日本文化の独自性を維持しながら、国際社会との交流を深めていくことが重要です。