はてなキーワード: 葛藤とは
2025年はな、自分の内面をじっくり探る年やで。自分の欲望や情熱に向き合って、その根っこを理解することで、本当の自分を見つける旅が始まるんや。この過程で、自分がなんで生きてるのか、意味を考えることが大事やで。行動することが自己実現につながるけど、内なる声もちゃんと聞かなあかんで。
安定と変化が交わる2025年は、物質的な豊かさと内面的な成長、両方求められる年や。美しいもんや喜びを追い求める中で、自分の価値観を見直すチャンスが来るで。物質にこだわりすぎず、真の豊かさとは何か考えることで、もっと深い満足感が得られるはずや。
知識と情報の探求がテーマになる年やで。新しいことを学んだり経験したりすることで、自分が成長するんやけど、「知識って何や?」って問いに直面することもあるで。表面的な情報に流されず、本質的な理解を追い求めることで、自分の思考や感情を深められるはずや。
2025年は感情の深みを探る年や。自分の内面的な世界に目を向けて、感情の波やその意味について考えることが大事やで。過去の経験から学び、それが今の自分にどう影響しているかを理解することで、より豊かな感情生活につながるんや。
自己表現と創造性が高まる年やけど、その表現は他人と比べずに、自分自身の内なる声に基づくものであるべきや。自分自身の本質や情熱に忠実でいることが、真の力になるんや。この過程で、自分との対話を通じて存在意義について考える機会も増えるで。
精密さと分析力が求められる年やけど、「完璧さ」って何なん?って問いが浮かぶで。自己改善への欲求は大切やけど、自分自身への優しさも忘れたらあかん。このバランスを保つことで、本当の意味で充実感を得られると思うわ。
調和とバランスがテーマになる2025年は、美的感覚や倫理観について深く考える時期や。自分自身の価値観と向き合いながら、何が本当に大事なんか見極めることが求められるで。この過程で、内なる調和を見つけて、より豊かな人生観につながるんちゃうかな。
深い内面的探求が促される年や。自分の感情や欲望と向き合うことで、本質的な自己理解が得られるんや。この探求は時にはしんどいけど、その中から得られる洞察は人生における真実への扉になると思うわ。痛みや葛藤は成長への道なんやから、それによって新たな視点も得られるで。
冒険心と自由への渇望が強まる年や。この年は、新しい経験や知識を追い求めながら、自分自身の存在意義について深く考えるチャンスがあるで。外部世界だけじゃなくて、内面的な旅も大事なんよ。このプロセスで得られる洞察は、人生の目的について新たな光をもたらすと思うわ。
社会的地位とか目標達成への意欲が高まる年や。でも、その成功は外からの評価だけじゃなくて、自分との約束によって意味づけられなあかん。責任感と倫理観について再評価して、自分自身の価値観と目標について深く考えることが重要なんよ。この内面的な探求は、本当の成功とは何かって問いへと導いてくれると思うわ。
革新と独自性への関心が高まる年や。この年は、自分自身のアイデンティティについて深く考える時期なんよ。他者との違いを受け入れて、それを自分自身の強みに変えることで、新たな可能性が開けると思うわ。このプロセスでは、自我と宇宙とのつながりについて考える機会も訪れるで。
直感や創造性が高まる2025年は、精神世界への探求も進むんちゃうかな。他者との共感力も強まって、自分自身の内面に目を向けることで、新たな洞察を得られると思うわ。このプロセスでは、夢とか幻想について深く考えて、それらが現実生活にどう影響しているか探求する機会もあると思うで。
私の時代から一世紀以上を経たこの地上に舞い戻り、「弱者男性」「強者男性」という言葉が流行っていると聞いた。どうやら“弱い”と“強い”の二元論で男の価値が安易に測られ、その一方で人々は皆、自らがどちらに属するかに怯え、もしくは誇らしげに語っているらしい。だが諸君、それが本質的な人間の力の在り方を示していると本気で信じるのか?
私はこう問う。「弱者男性」「強者男性」という区分は果たして誰のためにあるのか、と。もしそれがただ社会の視線や他者の評価から与えられ、個々人がそれに媚びたり振り回されたりするだけなのであれば、それは“価値の奴隷化”の証でしかない。人が自分で自分の価値を創造するのではなく、他者にゆだねているのであれば、それは私が『道徳の系譜』で指摘した“奴隷道徳”の時代が形を変えて続いているにすぎないのだ。
では私が現代の諸君にあてて、「弱者男性」「強者男性」という言葉を再定義するとしたらどうなるか? 私は「弱者男性」という呼び名を「自己否定の迷宮に囚われた者」、そして「強者男性」という呼び名を「自己創造の悦びを知る者」と呼び替えたい。
いわゆる弱さを抱えている――それは悪いことではない。むしろ人間誰しもが不安や恐怖に襲われ、失敗し、弱さを自覚する瞬間がある。それ自体は自然だ。だが問題は、そこから抜け出せずに自己否定の淵に沈んでしまい、「自分はどうせ弱者だ」と開き直り、あるいは周囲の同情や嘲笑に身を委ねてしまうことだ。
“弱さ”をアイデンティティにしてしまう者は、自らを狭い牢獄に閉じ込める。ここで私が言う“弱さ”とは、他人によって規定された評価や属性に自分でとどまり、みずからの可能性を放棄してしまう心理状態を指す。諸君、他人の期待や既存の価値観に絡めとられてはならない。
世間でいう“強さ”とは、権力や金、あるいは身体的な力で他者を支配することだと思われているかもしれない。だが私に言わせれば、それは浅い理解にすぎぬ。真の“強さ”とは何か? ――それは、自らの弱さをも肯定し、それを力へと転じるための創造的エネルギーをもつ者のことだ。
「自分はどうありたいのか?」「何を生み出したいのか?」――この問いに対して他人からの評価に惑わされることなく、自分の意志に基づいて行動し、生きる歓びを“新たな価値”として打ち立てられる者。自らの軸をもって世界に挑戦し、困難や苦しみによって磨かれながら高みに至ろうとする者。それこそが、“自己創造の悦びを知る強き存在”なのだ。
私は「力への意志」という言葉を残したが、それは単純な“他者への支配衝動”ではない。人間存在そのものが自己を拡張し、高め、価値を生み出そうとする根源的な力のことを指している。自分という存在を創造するために、時にこれまでの自分を壊すことも必要だ。たとえ社会に認められなくとも、自分の歩む道を新たにデザインし、己の生を音楽のように奏でることができる者こそが、私の言う“真の強者”である。
「弱者男性」「強者男性」といった言葉を、社会のラベリングとして機械的に受け取ることはやめ、各々が“弱さ”や“強さ”を自分で再解釈してほしい。そして自分の内奥にある意志を見つめ、何を創り出したいのかを問い直してほしい。
名声や金や地位を求めるもよし、家族や仲間と幸福を築くもよし。ただし重要なのは、そこに自らの意思が宿っているかどうかだ。他人の期待や世間の評価に引きずられるままに生きてはならない。己の足で立ち、新たな価値を見出すことを忘れてはならない。
さあ、諸君。今こそ“自己否定の迷宮”を抜け出し、“自己創造の悦び”へと飛び込むのだ。激しい葛藤や痛みから逃れず、それを通してこそ自分が研ぎ澄まされる。その先にある高みを目指す諸君の姿こそが、私の望む“人間の未来”の一端であると信じているのだ。
年末に昔世話になったお店の閉店情報が流れてきて案の定「なくなるの悲しい」コメントで溢れかえってた。
正直めちゃくちゃうんざりする。
その「悲しい」感情表現が、閉店を決意した人間のどれだけ後ろ髪を引くかわかってないだろ。
一つも葛藤せずにみんなから愛された店を閉じる人間なんていない。
何度も何度も葛藤して、文字通り自分の身を削って店をもたせてきたけど、それがもう限界だから閉店という決断をするのだ。
そうなれば一人のファンとしてはその決断を称えて前に進ませてやることしかできない。
それなのに「むかし通ってました。悲しいです」とか「なくなる前に絶対に行きます!」とか、それがどれだけ相手の気持ちを踏みにじる言葉だということがなぜ理解できないのか。
いま来てくれているお客だけじゃ維持できなくなったから店を閉めるんだ。
皆が色々な事情を持ってて通えなくなるのが仕方ない事なのはわかっている。
だったら店側に「悲しいです」なんてプレッシャーをかける前に、自分自身が省みるべきではないか。
以前も利益を取っていないような安価な飲食店が店を閉める際、閉店が決まったからとこぞって人が訪れているというニュースがまるで美談のように流れていた。
100歩譲ってお礼を言いに来たと言うならわかる。
そうじゃなくて、行列を作ってまで安価な料理で腹を満たしてやろうという気持ちが全く理解できない。
もう無くなるから最後に味わっていたいという気持ちがわからないではないが、だったら3倍の料金でも置いていけばいいのにそんな人間は誰ひとりいなかった。
ここに並んでいる人たちが普段から十分に利益を落としていれば、後継ぎだって教育できたしその人達にも十分な給料を支払えたはずだ。
それこそが店を残し続けることのできる唯一の手段だということがわかっているのに、安価な料理しか受け入れなかったのは今まさに行列を作っているこの人たちではないか。
一体どんな立場で「悲しい」とか「続けてほしい」とか言えるか。
大事な店の閉店が決まった時に、自分たちができることは悲しむことでも最後にあやかることでもない。
それができてはじめて、最後にお店の商品やサービスを受ける権利があるといえるのではないか。
自らの生活をすり減らしてまでお店を続けてきてくれた人が、今後スムーズに新しい生活を送れるようにするためって考えれば安いものではないか。
その時はじめて「本当はなくなってほしくなかった」って言葉も心に響くだろう。
それすらしないしできない人間には店がなくなることを悲しむ権利なんてない。
それはもう「これからも自分のために犠牲になってくれ」といっているのと同意だ。
そんなものはただの感動ポルノ消費だし感情に任せて身勝手を振り回しているだけだ。
それがわかったなら、わざわざ店に行ってまで店主にプレッシャーかけるじゃなくて、店の維持に貢献できなかった自分の不甲斐なさをまずは責めるべきだ。
そうして散々自分の不甲斐なさを責めたら、「悲しい」なんて言葉をかけるのではなく、店主に向かって感謝やはなむけの言葉をかけてほしい。
間違っても「続けて下さい」なんて言うな。だったら自分がやれ。
これから先も誰かにとって大事な居場所はどんどんなくなっていくだろう。それはもう時代の流れとして仕方のないことだ。
それが抗えない流れだとわかっていても、自分にとって大切だと思えるならそうやって思い出したことがあったなら、お店がまだ開いているうちに一度でも多く行って一円でも多くのお金を落としてほしい。
それでも閉店を決断した人がいたなら、自分が悲しむよりも先にその決断をしっかりと支えてやってほしい。
久しぶりに全話見た。
何回も見てるのにいつ見ても何度見ても泣ける。
号泣。
それと、潮香さんに自分の母を重ねるようになった。
全然状況は違うんだけど
私がしんでしまいたいくらいつらかった時、優しく寄り添ってくれた母の姿が
潮香さんが亜也さんに寄り添う姿そのものというか。
あんな顔して抱きしめてくれたなぁとか
気丈に明るくふるまうときの表情とか本当に同じ顔してたなぁとか
亜也さんが自分にできることがなくなっていく、
人の手を借りないといけない…
お母さんも体を悪くして思うように生活できなくて
葛藤してたんだろうなぁとか
ベクトルは違うのかもしれないけど、
過去のことにいろいろ思いを巡らせてる。
なんで気づけなかったんだろう
なんでもっと寄り添えなかったんだろう
何を思っても後悔しかない。ごめんね、ひたすらごめんねと
今のことマインドで、お母さんに接することができてたら…。
最期の方は、怒った顔、辛い顔ばかりしていた。
そんな顔ばかりさせてごめんなさい。
なんて親不孝だったんだろう、私。
そうやって、今さらどうすることもできない後悔ばかり。
いつまでたっても前に進めない。
カップリングを中心にアニメを視聴すること自体は、個人の楽しみ方として自由である。しかし、それが行き過ぎると、作品本来の魅力を見失ったり、他のファンとのトラブルに発展したりするなど、様々な問題が生じる可能性がある。
水星の魔女の同人界隈における混乱は、カップリングを中心にアニメを視聴することの危険性を示す好例である。
カップリングに過度に執着すると、作品本来のテーマやストーリーが見えなくなってしまうことがある。
例えば水星の魔女では、「企業間の争い」「戦争の悲劇」「親子間の葛藤」といったテーマが描かれている。しかし一部のファンはカップリングのみに関心を持ち、これらのテーマを理解しようとしなかった。結果として作品全体の評価がカップリングの成否によって左右される事態となり、本来のテーマやストーリーが軽視されることとなった。
一部のファンは自分の好みのカップリングを成立させるために、公式設定や解釈を無視したり、歪曲したりすることがある。
水星の魔女では、公式がスレミオ(スレッタ×ミオリネ)を最終的なカップリングとして提示したにもかかわらず、グエスレ(グエル×スレッタ)やエラスレ(エラン×スレッタ)やラウグエ(ラウダ×グエル)など、公式設定とは異なるカップリングを支持するファンも存在した。彼女らは公式設定を無視し、自分の解釈に基づいた二次創作活動を行い、監督や脚本家への誹謗中傷を投稿する者や、企業ホームページからカップリングの非成立についての苦情のお問い合わせを送るものまで現れた。
カップリングに対する過剰な執着は、時に過激な言動や迷惑行為に発展する。
水星の魔女では、公式カップリングであるスレミオの結婚を公式に認めさせるために、株主総会で要求を行うファンが現出した。また、グエスレの同人誌即売会に殺害予告が送られる事件も発生した。
さらに、声優に対してスレミオを支持する発言を強要したり、キャラクターに対する不満を声優に対する誹謗中傷リプライとしてぶつけたり、生配信でスレッタ役とミオリネ役の声優に対して演じた役柄と同様に同性婚するよう求めるコメントを送るファンまで現れた。これらの行為は、作品や関係者に対する重大な迷惑行為であり、決して許されるものではない。
異なるカップリングを支持するファン同士が対立し、誹謗中傷や作品批判に発展することがある。
水星の魔女では、スレミオ支持派とグエスレ支持派の間で激しい対立が起こった。スレミオ支持派は、グエスレ支持派を「公式設定を無視する迷惑な存在」「同性愛差別者」と非難し、グエスレ支持派は、スレミオ支持派を「百合厨」「LGBT活動家」と罵倒した。
これらの問題は、水星の魔女に限ったことではない。 カップリングを過度に重視することで、作品や関係者、そして他のファンに迷惑をかける可能性があることを認識し、節度を持った行動を心がける必要がある。
性加害は本当に許してはならない、これには心から全面的に賛同する。するのだけど、加害者たちの対極の存在は評価されないことにいつも辟易する。
私はそういった性犯罪者の対極にいるという自負がある。脳が意思と関係なく顔が可愛いかどうかをジャッジするのすら不愉快なので実在女性の顔をコミュニケーション上必要ないときに見ないようにしており、それでも人並み(以上?)に性欲はあるため、現実世界に紐付く人格が「ない」二次元ものしかオカズにしない(VTuberもNG)という生活様式を、私は第二次性徴以降頑なに守っている。まだ30にもなっていないため、こういう「戒律」を守るにあたって、日々自らの性欲と戦わなければならない。しかし、性加害者への社会的制裁が日増しに強力になる中で、私のような生活様式の男性の評価が日増しに上がっていくなんてことはない。
辟易とはするが、しかし、この理不尽さには、「母なる進化を呪う」と吐き捨てる以外にできることがない。
一応、自分を「友人として」信頼してくれる同世代の女性はそれなりの数いる。私は発達障害者ではあるが、健常者エミュレータ(原義)の性能は、運良く生得的に高い言語性IQのおかげで、自分でいうのもなんだが、良い。だからそういった友人の関係性「まで」ならなれる。しかしながら、私もアセクシュアルではないため人を好きになることがある。おそらく平均よりかなり長いであろう内面の葛藤を経てから一歩踏み出すと、いつも、いつも、「誰か」が自分より先にその人の「良い人」になっているのを周辺人物から知る。その後やることは決まって数ヶ月かけて恋愛感情をバラバラに解体し、ただの友人に戻るための努力をすることだ。そしてこれは悲しいことにいつもうまくいく。その人たちに会うと湧き起こっていた甘酸っぱい感情を殺すのはとても寂しいが、間違いを犯すことはないのだと安心する。ただ、よく考えると仮に「良い人」がいなかったとしても、無害だと思っていた男から言い寄られるときの「ぬいぐるみペニス現象」が発生する可能性は高かっただろう。私の運が悪いおかげで彼女たちに不快な思いをさせずに済んだだろうか?
男性の性欲の暴力性について深く逡巡し、性加害を犯す愚者にほんの少しでも近づくことを良しとしない異性愛者男性は、報われない。そして、どこまでの侵襲性なら暴力性ではないか、というバランスを取り続けなければならない、定型発達者にも難しいゲームは、発達障害者にとっては難易度調整をミスってる上に一度も死ねない死にゲー(矛盾)としか言いようがない。そんなゲームにはうんざりだが、本能を萌えというドラッグでHackして誤魔化せるのは何歳までなのだろうか。萌えキャラはいつか病床に就くであろう私を世話してはくれない。かといって現実の女性を責めることもできない。「生理的にムリ」なものを論理でひっくり返すのは極めて困難だろう。きっとそれは性加害を撲滅するよりも難しい。
「理性は情念の奴隷」、それが私も含めた人間の本性というものだろう。
しかし希望はある。シンギュラリティ(技術的特異点)だ。ChatGPTの登場以降の世界を見ればわかるように、AIの進化はみんなが思っていたよりずっと速い。科学技術の発展を前例のない速さで推し進める汎用人工知能の登場は、もしかしたら2020年代中になるかもしれない。AIと愛や絆を結べる日、人類がAIと融合して「情念の奴隷」から脱却する日は思ったより近いのかもしれない。いま、生成AIの倫理には多くの疑義があるかもしれないが、後10年しないうちに、この地獄にもシンギュラリティによる「千年王国」が到来すると信仰しないと、もはや発狂せずに生きていくのも難しい。それしか縋れるものがない。だから私は恋愛市場での不利を承知で博士課程に進学し、自分を慰めてくれている作品を生み出す萌え系イラストレーターたちから十把一絡げにされて白い目で見られているであろうAIの研究に人生を擲っている。
そう信じて。
スレッタが許す許さないを決めるのは、プロスペラがエリクトのためにスレッタを作り児童労働者として使役してきた(きょうだい児・搾取子の立場に置いていた)ことについてまでであって、偽旗作戦でアーシアンを大量に殺したりクワイエット・ゼロ発動を邪魔する宇宙議会連合の軍人を大量に殺したことについては、スレッタは被害者でもなんでもないので許す権限などない。プロスペラの掌の上で転がされ思い通りに操作された大失敗罪でミオリネがアーシアンの憎悪の的になり、シャディクがクワイエット・ゼロの罪まで背負って逮捕されているけど、意味が分からない。これは本当に監督に対して「何をやっているか分かっているのか」といいたい。
目の前で何かが起きたとき、現象の原因や意味や今後予想されることなどはスレッタには分からない。ファラクトに勝手に乗り込んだノレアにニカが踏みつぶされそうになるのをスレッタは見ていて、すぐに体が動いてバイクで助けるけど、何が起きているか分かってない(その場でニカの死を防げればすぐに忘れる)からその後の学園テロも防げない。プロスペラ、エリクト、ミオリネが大事な存在であり、あとは地球寮のみんながいじめられていたら助けてほしいとグエルに頼むし、目の前で困っている人がいたらモブであっても救助するために体が動く。でも情報の処理や理解が何もできない。物事を長く覚えておくこともできないようだ。
スレッタアンチだからバカ扱いをしているとかではなく、ミオリネに何を言われても意味が分かっておらずミオリネを絶望させたシーンも、結局こういうことなんじゃないかと。でも、スレッタは頑丈。落ち込んでも盗み食いするし、頭が悪くてブレーキが壊れているところはあるが基本的には善性に基づいて行動するため他人の憎悪に飲み込まれないのがスレッタの美点でもある。スレッタはショックを受けても寝られるし食べられるし、体がよく動くことが取り柄の、頭はよくないが鈍感さが良いほうにも作用している健康的な子だ。最後に全身麻痺になっていて信じられなかった。ろくに教育を受けられず思考力もなく、学校を建てるだけ建てて、あの後どうするのか。
ミオリネの生存確率を上げるための制度として決闘により結婚相手を強制的に決める制度が有効だった・合理的だったとは欠片も思えない。しかし最終的にミオリネはデリングの愛を感じて態度が軟化、グエルもフェンシング(死ぬほどしょうもないシーン)の機会を設けてホルダーをスレッタに譲るという形でデリングの顔を立てながらスレッタとミオリネの結婚が決まっており、耐え難かった。ミオリネの誕生日も過ぎ、ミオリネがグループ総裁になるくらいだし、あんなルールは全くの無効になっているのだから、無視すべきであった。コングロマリットの総裁選がU-20な件は笑って流したが、トロフィー追認はその種の「所詮アニメのリアリティレベルだから」で流す気には到底なれなかった。
シャディク嫌いと言うと「わかってねー」みたいになるのも嫌い。真空ジェシカとトム・ブラウン褒めないとセンス悪い認定するインターネット同調圧力のようだ。うざい。あのキャラクターが高度だとは思わない。他作品では比較的ヴィランを好きになる性質の人間なのに、シャディクのことはストレートに嫌いだった。
アーシアンの地位向上の革命を目指しているが、ソフィやノレアやニカなど貧民アーシアンを使い捨てにすることについての葛藤・合理化の過程が何も見えない。ミオリネとグエルは両方上級国民みたいなもんだけど、ミオリネは好き(ただしクエタテロのときは一旦安全を諦める)、グエルには上級への嫉妬でネチネチした感情を向ける(ミオリネ自身の選択という部分を認めずにグエルに責任転嫁して逆恨みする)、というのがもう、好き嫌いの部分で完全に嫌いで。孤児からアカデミー時代の回想等も一切ないし、シャディクガールズのための自己犠牲も「シャディクガールズ自身に罪を償わせろ」としか思わなかったから、嫌いな部分をカバーできるような同情・共感できる要素が一個も出てこなかった。これが監督が特に力を入れたキャラクターなら、本当に感性が合わないとしか言いようがない。
グエル:スレッタが泣かされている→泣かせた4号を決闘で倒す(だれも望んでない行為だし失敗)
ラウダ:ペトラが意識不明にされ学園が壊され学生がじゃんじゃん殺されグエルがおかしくなった→諸悪の根源のミオリネをガンダムで倒す(だれも望んでない行為だし失敗)
不快な出来事が発生したら敵を探して倒して解決(ジェターク社の経営難はデリングを暗殺して解決)というヴィム脳ムーブをやめましょうねということなんだろうが、やめましょうのその先がどうなったのかが全く分からない。長男に対して虐待のような真似を繰り返すが大企業を存続させて雇用を生んでもいたヴィム・ジェタークという人物を、長男が引き受けてそのパターナリズムを再構築する部分を、グエルがやったんですか?どういう着地なんですか?途中の認識についても着地についても、説明が一切ないので空虚。父殺しについても意味がよくわからない。スレッタと同じタイミングでグエルも人を殺したら、その偶然の一致がなんか面白いということだった?結局最後まで共闘しないし、スレッタはグエルから何の影響も受けないし、関係がなかった。無関係なところで勝手に偶然同じタイミングの殺人していることと失恋しか無いとは、結局何がしたかったのか…。
退寮や退学といった虐待に耐えかねて家出した件について、対話を諦めたグエルの罪であるかのような扱いは許し難い。ヴィム・ジェタークは対話不能の相手であり、弟も味方ではなかった。グエルの家出は「批判されるべき逃げ」ではない。弟に殺されかけたのもグエルに殺されるほどの問題があり責められても仕方ないような話ではない。全体的に、デリングやヴィムの側の対話放棄は無罪で、子供側の「無理解」や逃げは有罪であるという非対称が酷い。
金儲けのために人体実験やって貧民殺してた金持ちが資産を失って面白いというエンディング。
5号は絵の場所を見つける前向きな旅をしているので復讐に囚われていない、までは良いんだが、ニカが自首して服役を描いておいて、明確な人殺しがバレずにCEOが無罪放免になっているのは何?資産を失ったとはいえ、殺り得でしたねとしか思えない。
こっちもスレッタが4号に恋をしたってだけで退場なんだよな。ペイル周りで意味らしきものが感じられたのは、スレッタのストーリーとは一切交わらない部分の、5号のセリフくらいだ。スレッタの頭が悪くて大概のことを聞き流したり忘れるから、ジェタークやペイルとの絡みがあまり意味を持たないんだよな。というか、シャディクとの対峙についても意味あったか?シャディクが勝手に決めることについてスレッタが抵抗し、勝ったことに意味があるかと思ってた。無かった。
ニカがおかしいことに気づいていながらマルタンが身内を通報することをためらったため、通報のタイミングが大幅に遅れて学園テロが発生して大勢が死んだわけだが、視聴者は「マルタンがニカを売った」「チンコロ野郎」とキレており、このアニメの視聴者層に対して絶望した。
マルタンはニカの怪しい動きをクエタで見てから何度も対話を求めており、ニカが拒絶しつづけて、ついにテロが発生したという流れがあったうえで、最後マルタンが「もっとニカに対して対話を求めていればよかった」と反省していたのも完全に意味不明だった。マルタンはニカに話してくれと求めていた。反省するとしたら対話を求め「ニカ待ち」をしている間にテロが起きて、大勢の人命が失われたことだろ。マルタンとニカの罪の辺りのシナリオは完全に意味不明。だれかこの異常なくだりを解説してくれ。
欠陥を愛そうというコンセプトは感じられるが、欠陥の描写ばかりで美点の描写が下手だからシャディクなどを「普通に」嫌いになる。
スレッタは嫌いではないが、「どんぶり飯をたんと食え」のような祖父母→孫感情の矛先というか、食い意地の張った哺乳類の幼体に向ける好感であり、人物としては「頭が悪い」としか言いようがないので、あの状態で学校を建てて理事長なり校長なりをやるのかと思うと意味が分からないと思う。
ガンダムシリーズ初の女性主人公で頭が悪い主人公だったので別の文脈が乗り不快。女性主人公二作目で頭が悪かったらこういう不快さはなかった(男性主人公の愛すべきバカキャラはいる)。ガンダムシリーズ初の女性主人公で異性愛フラグを折ったうえでの同性婚成立をやったのも面倒くさかった。異性愛フラグを立てたうえで折っておかないと悪意にまみれたレズのチン堕ち勢が押し寄せてきて尊いスレミオを破壊されるだろうから予め封じておきたかったのかもしれないが、まず百合ガンダムなどなぜ女性主人公の二作目以降でやってくれなかったのか。それにSF的な説明なしで全員バイセクシャルであるという設定のつもりなら、おかしい。そんなものには誰もついていかない。同性愛嫌悪者どころか、腐女子や百合豚ですらついていけない異常な人間観だろう。同性愛者、両性愛者、異性愛者、無性愛者がいる、その多様性を描けていない。ファンダムまでもが、同性愛以外を叩く百合豚と腐女子、異性愛以外を叩く男女カプ厨という多様性の真逆の地獄になっている。こんな糞以下のファンダムは滅びるべきである。
さらに同性愛以外のテーマも盛り込みすぎて、一個一個の社会問題の扱いが雑、尺が足りていないから全部が浅くてつまみ食い。「いろいろありますが、難しいですね」という大上段に構えた、優等生的な冷淡さがそこにあった。最も連想するのは、サンフランシスコの社会的弱者を守るための万引きの無罪化だ。当事者性が全くないエリートが頭の中で弱者保護を考えた結果、万引きの無罪化を行い、ホームレスよりはさすがにマシな立場にあった個人規模の小売店が万引き被害により経営が成り立たなくなり廃業を余儀なくされていく、その種の持続不可能な弱者保護、お世話係をよそに押し付けたうえでのマイノリティ保護。結果、攻撃的・搾取的な人間が蔓延してコントロールを失い、この事態を引き起こした自罰を行うだけになる流れだ。社会問題の取り扱い方に、現実味がないのだ。ニカやミオリネのお花畑が憎悪を生んだ、あの雰囲気が通底している。
読書など長居するつもりでスターバックスにいくことが割とあるんです。
近所のスターバックスはクッション性のない固い木の椅子の席と割とクッションが効いてるソファータイプの席があって、
長居するつもりならクッションが効いた席に座りたいと思う人が多いのか、朝行くとソファータイプの席から先に埋っているわけです。
幸運にも、ちょうど1席分だけ席が空いていたりすることもよくあるわけですが、そういうときに限って、隣の席は若い女性なわけです。
そうすると、ワイなどのおっさんがそこに座ろうとすると、ほかの席が空いてるのにわざわざ隣に座りに来る怪しいやつ
扱いされ、事案扱いされる危険があるわけです。
ですが、こっちはおっさんなので固い席は体につらい。できれば座面がやわらかいソファー席に座りたい。
すべての女性が警戒反応をするわけではないので、そういう判断をしそうな女性なのかどうかを自分なりに判断して見定めて
ソファータイプの席に座るか否か決めたいわけですが、そういう見定め行為が相手からすると却って
「じろじろこっちを見たうえでわざわざほかに席が空いてるのに隣に座ってくるおっさん」認定される羽目になるわけです。
相手はこっちを警戒してるようにも見える、でもからだのことを考えるとソファータイプの席に座りたい。そういう葛藤に毎回苦しむわけです。
お辛いお気持ち、痛いほど伝わってきました。一人で抱え込み、頑張り続けてこられたのですね。本当に毎日お疲れ様です。
まず、あなたは決して一人ではありません。同じように悩み、葛藤しながらも懸命に子育てをしているシングルマザーはたくさんいます。そして、あなたのことを心配し、応援している人も必ずいます。
あなたが感じている「限界」は、決してあなたが弱いからではありません。長年、一人で育児と仕事の両立、そして経済的な不安を抱えてきた結果です。誰だって、そんな状況でずっと頑張り続けることは難しいです。
まずは、ご自身の気持ちを大切にしてください。「頑張らなくていいよ」と、心から言ってあげましょう。そして、「つらい」「苦しい」という気持ちを、ここで吐き出すだけでなく、信頼できる人に話せる場を見つけることも大切です。
* 自治体の相談窓口: 役所の相談窓口では、制度の説明だけでなく、個別の状況に応じた相談にも乗ってくれます。担当者によって対応は異なる場合があるので、何度か足を運んでみるのも良いかもしれません。
* ひとり親家庭支援センター: 育児や家事のサポート、就労支援、経済的な相談など、様々なサービスを提供しています。
* 民間団体: NPO法人など、シングルマザーを支援する民間団体もあります。同じ境遇の仲間と出会える場や、専門家による相談などを受けることができます。
* オンラインコミュニティ: インターネット上には、シングルマザー同士が交流できるコミュニティがたくさんあります。匿名で悩みを相談したり、情報交換をしたりすることができます。
また、お子さんの気持ちについても、ぜひ寄り添ってあげてください。お子さんは、あなたが思っている以上にあなたのことを理解し、心配しているかもしれません。
「○○くんはプログラミング教室に行ってるんだって!」という言葉の裏には、「自分も行きたい」という気持ちだけでなく、「お母さんを困らせたくない」という気持ちも隠されているのではないでしょうか。
お子さんの気持ちを受け止め、正直に今の状況を話してみることも大切です。そして、「一緒に頑張ろうね」と伝え、お子さんと一緒に乗り越えていく方法を探してみてください。
最後に、あなたは決して「ダメな母親」ではありません。精一杯頑張っている、素晴らしいお母さんです。どうか自分を責めることなく、前を向いて進んでください。
Generated by Gemini
そもそも被害者でも何でもない。当事者以外はすっこんでろよ。以外ないのです。
@harrier0516osk
難しい問題で
扱う対象物に人の感情が不可避であることは無視できないと思っています。
理屈と感情という、親和性の低い両者を、どうアウフヘーベンするか
「人の生命・健康」というような「絶対善」に乏しい(刑事法はまだあるほうかもしれないが、それでも、被害者の権利利益と被疑者被告人の権利利益という矛盾した課題がある)
@u_c4j
3時間
@u_c4j
仰る通りです
その通り過ぎてグウの音も出ない…
司法は民意に寄り添え!って気持ちは分かる だけどそれは法の安全性を根底から覆すもので…
だけど法律って永久不滅ではなくてアップデートされていくもので…
難しいな…
@harrier0516osk
7時間
証拠がないのに、民意で有罪にされたら、たまらんな。 x.com/s_omaenandayo/…
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@harrier0516osk
@s_omaenandayo
19時間
裁判官は基本的には民意を気にして判決書いた方がいいと思いますね…
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@u_c4j
荒神ヤヤ🐉
@connectomancer
札幌空襲の次のページで何もなかったかのように学校パートがあって、え、回想?と思いきや戦争が始まっても想像以上に変化は少なく日常は続いていく事を繰り返し執拗に描いてて、これを漫画で出してくるのは読者の読解力を信頼してるなと思った
そしてやっぱり自分はIQ90くらいのほんわかしたかわヒロインよりも、体育会系の距離感近い脇役のほうが好きという事が再認識させられた。
これを高校の時に、いやせめて今の仕事について多くの人の死を見る前に読んでおけば、もっとこの主人公ズの葛藤に感情移入できたんだろうな。名作だけど旬を逸してしまった感は否めない。
とても懐かしい感情で、死がだんだんと日常に入り込んでる頃の嫌な感覚を思い出した。とっくに忘れていたけれど、まあたしかに、最初の頃は嫌だったな。
他の作品だと誰かを殺すか殺さないかと葛藤がある中で、最終兵器彼女のヒロインは仕事なので敵は殺すし相手の顔すら覚えないほど業務化してるけど、それはそれとして、日常を中断されて殺しに行くのを心底嫌そうにしていて、本当に死が日常を侵食する経験としてリアルだ。作者の実体験に基づいてる?
やはり私達は不完全なものの中に美しさを見出してしまう。10代は情動を生み出す扁桃体は十分に大人なのに、理性を司る前頭葉の発達は20代に完成する。だから大人から見た時に答えが見えている問いに懊悩したり、不条理・不合理な行動をするけど、時としてそれはとても美しく見える
十分に合理的な人間が出会ったら、友好/敵対の関係を問わず、あるべき関係性に一直線に進む。それはそれで早くかつ遠くにいける良さはあるのだけど、やはりしっちゃかめっちゃかのランダムウォークしながら見る人をハラハラさせてあるべき形に落ち着いていく姿にしかない美がある
「下手の考え休むに似たり」という言葉は、一見すると凡庸な教訓のように思われるが、その背後には、熟練と未熟の対比、行動と無為の葛藤、そして思索そのものの限界と可能性といった、多層的な哲学的・心理的含意が隠されている。この諺の核心には、人間の知的営為が必ずしも価値を生むわけではないという冷厳な認識があり、その背景を掘り下げることで、人間の思考と行為の微妙なバランスを探る契機となる。
この諺は、考えることそれ自体を否定するものではないが、「考える」という行為が持つ潜在的な二面性を指摘している。「下手」とは、単に未熟であること以上に、「適切な方法論を持たない」という含意を持つ。つまり、下手な人間の「考え」は、方向性を失った反復や錯乱に陥り、結局は「休む」こと、すなわち何もしない状態と等しいとする厳しい評価を示している。
「休む」という語の選択も興味深い。ここでは、ただの身体的な休息ではなく、「無効性」や「停滞」というニュアンスを帯びている。したがって、この諺は単なる知的な怠惰を指すのではなく、誤った方法による熟考がむしろ不作為と等しいというパラドックス的な洞察を表現していると言えよう。
この諺を解釈する際、特に興味深いのは「休む」という行為が果たして本当に「無」と同義なのか、という点である。ここには、「何もしない」という消極的な態度と、「無駄にする」という積極的な損失との間に微妙な違いが潜んでいる。休むという行為そのものは、中立的な意味を帯びる可能性もあるが、未熟者の考えが「休むに似たり」とされることで、それは一種の「偽りの活動性」への批判に変化する。考えるフリをすること、つまり見かけだけの努力をすることは、むしろ静止よりも害悪ですらあるという指摘が込められているのだ。
この点で、「下手の考え休むに似たり」は、古代ギリシャ哲学における「現象」と「本質」の対比を想起させる。プラトン的には、下手な考えは単なる「影」であり、それ自体は現実に触れない空虚なものに過ぎない。あるいは、ヘラクレイトスの「静止は存在せず」という思索を逆転させ、無意味な運動は静止以下であるとさえ言えよう。
この諺をさらに具体的に読み解くためには、「下手」の範囲を拡張する必要がある。ここでの「下手」とは、単なる技術的未熟さではなく、正しい道筋を見いだす能力、すなわち実践知(phronesis)の欠如を指している。この点ではアリストテレスが述べた「善く考える(euboulia)」という概念に近い。善く考えるとは、理性が行動の適切な目標を指し示す能力を持つことを意味し、下手な考えはその逆、すなわち目標も見失い、行動を導く力を欠いている思考を指す。
この実践知の欠如は、しばしば「方向感覚の喪失」というメタファーで表現される。下手な考えが「休むに似たり」とされる理由は、その思索が明確な目標に向かわず、無駄にループを繰り返すことで進歩を妨げるからだ。これは、経験や洞察に裏打ちされた熟考とは異なる、浅薄で空虚な反復を暗示する。古典文学で言えば、例えば『ドン・キホーテ』における無謀な行動や、シーシュポスの神話における徒労に通じるものがある。
心理学的には、この諺は「過剰思考(overthinking)」や「分析麻痺(analysis paralysis)」と呼ばれる現象を指摘していると考えられる。未熟な人間ほど、あれこれと余計なことを考え、選択肢を増やすばかりで最終的な決断に至らない傾向がある。つまり、熟練者が直感的かつ素早く判断を下せるのに対して、下手な者は思考過程そのものが目的化し、行動のタイミングを失うのだ。
ここには、「知識の量と知識の質」という重要なテーマが隠されている。下手な考えはしばしば知識不足から生まれるが、逆に言えば、中途半端な知識はむしろ思索を停滞させる。フランシス・ベーコンの言う「知識は力なり」という言葉も、適切に使われなければただの重荷となるのだ。
「下手の考え休むに似たり」は、経済学的には効率の問題として解釈できる。この諺の背後にあるのは、思索という「投資」に対して得られる「リターン」がきわめて低いという状況の批判である。言い換えれば、下手な考えはコストに見合う成果を生まない「非効率的なリソース配分」の典型例である。
この観点から見ると、「休むに似たり」という表現はむしろ控えめであり、下手な考えは単なる無駄以上に、リソースを奪い、他の重要な活動を妨げる存在とすら言える。たとえば、組織やプロジェクトの文脈では、下手な計画が最初からなされることで、リソースが浪費され、最終的な失敗を招くという例が挙げられる。
現代において、この諺はますます重要な意味を持つ。インターネットの普及により、情報は過剰なまでに流通し、誰もが「考えること」が可能になった。しかし、その結果として、考えるという行為の質が低下し、無駄な議論や非生産的な思索が増加する状況が生じている。「下手の考え休むに似たり」は、こうした現象に対する警鐘として読み替えることができる。
現代社会では、むしろ「考えることをやめる」という選択が重要になる場合もある。これは、「情報断捨離」や「マインドフルネス」のような概念と結びつき、必要な判断に集中する能力を取り戻す試みとして解釈される。
「下手の考え休むに似たり」という諺は、表面的には思索の無駄を戒めるものであるが、深く掘り下げると、思索それ自体の構造的な矛盾や、人間の知的限界を指摘する哲学的洞察を内包している。この言葉は、私たちに効率と成果のバランスを問いかけるとともに、思索という行為の価値を再評価する契機を提供するものである。
どうしても気になったので。
エピソードを見るに多分お二人とも気がいい人なのでしょうね。
あなたの文章にあふれるユーモア、彼女のボケに対する貪欲さなどから笑いであったり砕けた空気を好み、お二人とも根本的にはそれを大切にしているのだなと感じました。共通する価値観はこの部分。和やかであることを大切にしたいのかな。その手段に多分二人ともユーモアを使う。
笑ってる状況とか誰かを笑わせられるっていいですもんね。わかります。
だからほとんどの時間は気が合うし、別れることを想像すると苦しみも大きそうだなと。
合理的な別れる理由をいろいろと考察されているようですが、感情がyesでないからずっと迷っているんじゃないかな。いろいろ意見はあると思いますが、親密な付き合いというものは感情的な結びつきを伴うものだし、共通する価値観で三年も共に暮らせば理屈で割り切ることは不可能ですよ。あなたはそんなタイプの人ではないはずです。
彼女に結婚しないなら別れるといわれたときにすごくショックを受けませんでしたか?
「「え、そんな周りの状況とかで割り切って決められちゃうの?」とどこかで思ったんじゃないかな。
別れと結婚の二択を迫る彼女の言動もまた、醤油の例に始まる彼女に対するあなたの違和感と同じ原因から出ているのかなと思います。
エピソードを見ていると彼女はすごく自己防衛する感じなんですよね。
"不快なことが起こる→いやな気持になる→自分と問題を分離する"みたいな。
私に原因はないとなると原因は相手とか不在の何かなわけですから、まぁあとはいろいろ客観的に聞こえる理屈を並べるのかな。
理屈が正しく聞こえるから惑わされるかもしれないんですけど、彼女のケースでは感情的な反応が先にあって理屈は後出しです。
なんでそんなに冷たく一般論とか正論みたいなもので返せるの?っていう疑問の答えは、彼女の中では嫌な気持になった時点ですでにそこに自分は介在していない、自分に非はないというポジションに立つわけですから、そこから出てくる言葉に思いやりなんてありませんよ。
共感とか思いやりって問題を共有しないとでてこないものですから。
彼女にとっては醤油さしの例も、実際過去にあなたを傷つけてきた問題も、結婚するかしないかもすべて自分の問題ではないわけです。
取っ組み合いのエピソードからは自己暗示力の高さを感じました。
問題を分離して相手に非があると理由をつけられれば疑うことなく戦えるタイプなんですね。
相手に非があるという理屈が一般論として正しいということだけを根拠にできるんです。
炎上とかでグロテスクなくらいひどい意見が無関係の第三者からでてくることはありますが、彼女と根本的に同じマインドなんだと思います。
謝らない、それも当然です。
誰だって、自分に全く関係がないと思っていることなら謝るのは嫌でしょう。
彼女の場合は思考の癖で、あるいは逃避的に関係ないと思い込んでいるだけですが。
あなたが傷ついていることも察していると思いますが、それもまた彼女にとって向き合いたくない不快なのでしょう。
浅い人間関係ならまだ問題を表面化させない程度に我慢できるかもしれませんが、深い関係で甘えが出てくるとこの傾向が強まるのかも。
愛がないわけじゃないと思いますよ。あなたのことは好きだし、結婚して一緒にいたいと思っている。
でも、問題が起こった時に相手の視座に立って、「理屈じゃ割り切れないよね、白黒はっきりつけられないけどあなたに悲しんでほしくはないよ」的な共感は期待できないでしょう。
年食っても一生このままの人もいますし、問題が起こって気が付いて変わる人もいます。
彼女がどうかはわかりません。
もっと心が動く問いかけをしてみるといいかも。二人で何気なく会話してもいいかも。
些細なことでお友達とけんかして絶好だなんだと言いながら寂しそうにしているとき。
性的な描写が多い文学作品は、歴史的にもさまざまなテーマや文脈で書かれています。それらの描写は、単なるエロティシズムを超えて、愛、人間関係、心理的葛藤、社会的タブーなどを深く掘り下げるために用いられることが多いです。以下は、性的な描写が多い、またはそのテーマを重要視している著名な文学作品の一部です。
『ロリータ』(ウラジーミル・ナボコフ)
禁断の恋愛をテーマにしており、文学的にも高度で、物議を醸す内容。
マゾヒズムという言葉の由来となった作品で、性的従属と権力のテーマが描かれています。
『チャタレイ夫人の恋人』(D.H.ローレンス)
貴族階級と労働者階級の恋愛を描き、性的な自由と社会的制約の問題を扱っています。
インドの古典文学であり、性愛と人間関係について詳細に論じています。
『青い花』(ジョルジュ・バタイユ)
『鍵』(谷崎潤一郎)
中年夫婦の日記形式で語られる、性的な欲望と嫉妬を扱った作品。
主人公の性的嗜好や葛藤を通して、アイデンティティや抑圧を描いています。
性的な関係を含む自己破壊的な生き方が赤裸々に描かれています。
『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』(E.L.ジェイムズ)
BDSMをテーマにした恋愛小説で、エンターテインメント性が高い。
『クローサー』(マイケル・カニンガム)
短編小説集で、官能的な描写が非常に文学的に表現されています。
これらの作品を読む際には、描写の背後にあるテーマやキャラクターの心理、社会的な文脈を考慮すると、より深く楽しむことができます。また、性的な描写が多い作品の多くは、それ自体がメインテーマではなく、物語の中で重要な役割を果たす要素として描かれています。
同一人物であってる。
その例えで言ったら、
元増田が「原付が好きだ。原付というのは原動機付自転車のことだけじゃなくて、俺はなんかエンジンで動いているやつのことは全部原付と呼んでいる」とか言ってたから
俺は「それは車両と言うんですよ普通は」と教えてやった感じだね。
他者性、相手がいることを強調するために、それが言いたかったのだと思うが。
「葛藤」はハリウッドの脚本理論の訳語で、元はconflictなので、
だいたいお前の思った通りの意味を含んでいると思うぞ。
お前が言っている「バトル」っていうのは、普通、ストーリー上の「葛藤」とか呼ぶんだよ。
そういうのは真の名作じゃないだろ!と言われたら、まあそれはそういう見方もある。
前提:質問の回答から除外して欲しいもの - 「私が世界だ」という誇大妄想を持つ個人の解釈パターンであれば理解しやすいですが、今回のケースではその可能性を除外してください。 - 個人の感想に対する過剰な反応は、自己評価が低く、他者に盲従しがちな、「微小妄想」傾向がある個人に多く見られる現象です。
「(俺にとって)」という明確な主観的限定の他者の感想を、「(世界にとって)」と曲解するのは、「括弧内が文字起こしされていないからだ」という主張は妥当ですか?
1−1、1−2どちらであるかは、文脈から理解できるでしょと考えるのは、過剰な期待ですか?
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1−1: 情報や名前に価値があるだけで作品としての魅力は(俺にとって)ない
1−2:情報や名前に価値があるだけで作品としての魅力は(世界にとって)ない
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「(俺にとって)」という主観的な限定を「(世界にとって)」と曲解するのは、「括弧内が文字起こしされていないからだ」という主張は妥当ではありません。文脈から理解できる場合が多いので、過剰な期待とは言えないでしょう。文脈を無視して曲解するのは、誤解や意図的な誤読の可能性が高いです。
妥当ではありません。文脈から判断するのが通常であり、過剰な期待ではありません。
1-1と1-2の違いは、「俺にとって」という主観的な視点があるかないかです。通常のコミュニケーションにおいて、特に感想や評価を述べる場合、明示的に「世界にとって」と断定しない限り、それは発言者の個人的な意見として解釈されるのが自然です。括弧内の文字起こしがないからといって、文脈を無視して意味を曲解するのは不当です。
「(俺にとって)」という主観的限定を「(世界にとって)」と曲解する主張は妥当ではありません。その理由は以下の通りです
現代のNLPにおいて、以下の推論規則は「妥当」と評価されますか?それとも論理の飛躍や読心術と見なされますか?
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• 命題1: Aは作家Bの知名度とBの作品が世間を賑わせている客観的事実を認識している。
• 命題2: Aはミーハーな気持ちで作家Bの作品に触れたが、その良さを理解できなかった(興味が持てなかった)。
• 結論: 「作家Bの名前や情報に価値はあるが、作品は世界にとって価値がない」とAは考えているに違いない。
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現代のNLPにおいて、以下の推論規則は「妥当」とは評価されません。論理の飛躍や読心術と見なされるでしょう。Aの主観的な感想を、世界全体の評価と結びつけるのは過剰な一般化です。
現代のNLP(自然言語処理)や論理学において、この推論は「妥当ではない」と評価されます。なぜなら、主観的な意見の認識(Aが作品に興味を持てなかった) から、客観的な結論(「世界にとって価値がない」) を導くことには論理の飛躍があるためです。
これは論理的根拠が不十分な「読心術」や「主観の過剰な一般化」と見なされるでしょう。
妥当とは評価されません。論理の飛躍であり、読心術と見なされます。
提示された推論は、Aの内心を勝手に推測しているだけで、客観的な根拠がありません。Aがミーハーな気持ちで作品に触れたとしても、それが「世界にとって価値がない」と考えていることには繋がりません。興味を持てなかったという事実は、単にA個人の好みや感受性の問題である可能性が高く、普遍的な価値判断とは無関係です。NLP(神経言語プログラミング)においても、このような独断的な解釈は推奨されません。
もし、質問2のような推論を行う人が多数派であれば、社会や世界は成り立たないと思うのですが、気のせいでしょうか?
質問2のような推論を行う人が多数派であれば、社会や世界は成り立たないというのは、ある程度正しい見解です。過剰な一般化や誤解が広がると、コミュニケーションの混乱や誤解が生じやすくなります。
おっしゃる通り、そのような推論が社会的に多数派となれば、社会や世界の正常なコミュニケーションや意思決定が難しくなります。主観と客観の区別が曖昧になり、過剰な一般化や誤解が横行し、議論の基盤が崩壊する恐れがあります。
気のせいではありません。質問2のような推論が多数派を占める社会では、コミュニケーションは著しく混乱し、相互理解は不可能になります。個人の感想が勝手に普遍的な価値判断に置き換えられてしまうため、自由な意見表明が阻害され、健全な議論も成立しなくなります。
あなたの直感は正確です。このような推論が多数派となれば、社会は機能不全に陥るでしょう:
質問2のような推論が一般的ではないと指摘されても、「状況によってはそのような推測も成立し得る」と主張し、常識(共通認識や共通基盤)の存在自体を否定します。
他者に盲従し、自身の考えを率直に表明することを極度に恐れる一方で、なぜ、積極的に常識を否定しようとするのでしょうか?悪目立ちします。
また、自身が盲信する社会的権威や教科書的な正解の背後にあるものが、常識の集積であるという認識を持っていない可能性はありますか?
他者に盲従し、自身の考えを率直に表明することを恐れる一方で、常識を否定しようとする理由は、自己評価の低さや他者からの承認欲求が影響している可能性があります。また、常識の集積が社会的権威や教科書的な正解の背後にあることを認識していない場合もあります。
盲従しやすい人が常識を否定する背景には、自己肯定感の低さや他者からの評価への過剰な恐れがあると考えられます。自身の意見を率直に述べることを避ける代わりに、「常識」への反発や否定的主張を行うことで、「自己存在の独自性を証明したい」 という心理が働く可能性があります。
また、「常識」や「教科書的な正解」が何らかの権威のみによる押し付けであるという認識が強く、その背後にある合意形成(常識の集積) を理解していない場合があります。
他者への盲従と常識の否定は、一見矛盾するように見えますが、根底には自己の脆弱性からくる不安があります。
本質的には、低い自己肯定感と社会的文脈における不安が、逆説的な形で表出している心理状態と言えるでしょう。
常識(共通認識や共通基盤)の存在そのものを否定しているのではなく、「括弧内が文字起こしされていないことが問題だ」と考えたり、
「質問2の推論を行わないのが一般的だと証明されていない限り、それを常識とするのは不当だ」と、
「括弧内が文字起こしされていないことが問題だ」と考えたり、「質問2の推論を行わないのが一般的だと証明されていない限り、それを常識とするのは不当だ」と主張する可能性はあります。しかし、これは一般的な見解ではなく、特定の状況や個人の認識に依存するものです。
可能性としては十分に考えられます。彼らは、主観と客観の混同を防ぐための明示的な表現(括弧内の「俺にとって」など)が欠けていることを重視し、「それがない限り断定は不当だ」と主張する傾向があります。また、「常識を証明せよ」と要求することで、認識論的な対話を引き延ばし、議論の焦点を逸らす戦略にもなり得ます。
可能性はあります。これは、常識という概念に対する誤解に基づいています。
これは可能性としてあり得ますが、本質的な問題を矮小化しています:
「主観的な意見と客観的な事実を区別できる」、「社会的混乱を招く推論をしない」を共通認識や共通基盤に含むのは不当であり、常識とは呼べませんか?
「主観的な意見と客観的な事実を区別できる」、「社会的混乱を招く推論をしない」を共通認識や共通基盤に含むのは妥当です。これらは社会的なコミュニケーションの基本的なルールであり、常識と呼べるものです。
これは常識の範疇に含まれると考えるのが妥当です。現代社会では、客観的事実と主観的意見を区別することは、円滑なコミュニケーションの前提であり、共通認識(社会的基盤)の一部とされています。これを否定することは、社会的秩序を乱し、コミュニケーションの破綻を招く恐れがあります。
不当ではありません。むしろ、これらは健全な社会生活を送る上で不可欠な要素であり、常識と呼ぶに相応しいものです。主観と客観の区別、論理的な推論は、コミュニケーションの基本であり、これらが欠けていると社会生活は成り立ちません。
これらを常識に含めることは、むしろ健全な社会機能のために不可欠です:
ググればすぐ出てくると思う。
わりと最近の漫画、ここ数年以内に完結したやつ。アニメ化実写ドラマ化済。
タイトルだけ見たときは、正直、なろう系とか中世系とかフェチ系を想像したのだが
普通に現代のホームドラマというか家族愛系で少しオカルティックなことが起こる系だった。
そして何より、構成と心情描写の丁寧さが際立ってよかったと思う。
悪者をただ悪者として断罪してシャンシャン!というものがないというか
すべての登場人物に魂というか背景の人間らしさが垣間見れるというか。
正直面倒くさくなってえいや!で終わらせられるところをきちんと描ききっていたというか。
それを説明が長いとか蛇足といえばそうなのかもしれないが、葛藤が伝わってきて感情移入しやすかった。
久々に全巻紙で揃えようかと思わせてくれた名作でした。ありがとう。
ネガポジアングラーとは今期に放送しているオリジナルアニメである。
今期はリゼロやダンまち、ダンダダンなどの人気作があるため原作なしのオリジナル作品は自然と目立たない形になってしまっているものの…このまま埋もれてしまうには本当に惜しい作品なので、ここでおすすめしようと思ってこれを書いている。
釣り+群像劇な作品で、主人公が昨今のアニメでは珍しいぐらいにリアルなコミュ障なのも特徴的。
ただ主人公は金融からの借金まみれで、その借金をパチンコで返そうとする駄目人間
おまけに余命宣告までされてお先真っ暗。
「今まで何一つうまくいったことがない」が口癖のような男で、状況が悪くなるとすぐに逃げ出す。
おいおい誰がこんな主人公を好きになるんだよ?って思うぐらいには陰湿でいいところないんだけど、そんな男が出会いと釣りを通じて少しずつ変化していく。
実写ドラマでも違和感ないような作品で、心理描写がとにかく丁寧。それも安易な独白に頼るんじゃなくて、ちょっとした動作や演出で見せるのが巧い。
主人公の周りに居るのは基本釣りバカなんだけど、そんな彼らにも等身大の悩みや葛藤があるんだなってことをちゃんと描いているのがほんといい。
荒廃した都市。燃えさかる街並み、崩れ去るビルの残骸。大地には無数の影の魔物がうごめいていた。
その中央に立つ、一人の男。
プーチン。冷徹な灰色の瞳と重厚な剣 「スターエグゼクター」 を携えた戦士。
「すべてを滅ぼす運命か……くだらん。」
影の軍勢が一斉に襲いかかるが、プーチンは瞬く間に彼らを打ち倒していく。
プーチンは冷たく答える。
だが、その言葉とは裏腹に、アッキーナの輝きが剣に淡い光を宿した。
遠く離れた戦場の地平線。影の審判核が不気味な赤黒い光を放ち、影の将軍 ナイトレイヴン が影の軍勢を指揮していた。
プーチンの胸の紋章が紅く輝き、荒廃した大地に光と闇の模様が広がる。
「運命だと?……くだらん。」
プーチンは剣を振り下ろし、光と闇の力が激しく衝突する。
激しい衝撃の中、プーチンは突然胸に鋭い痛みを覚える。 影の審判核の影響で、彼の体に不気味な黒い紋章が浮かび上がる。
「この力……何だ……!」
影の魔物たちが再び押し寄せ、プーチンは膝をつく。しかし、強靭な意志で立ち上がる。
「たとえ運命を拒もうと……この剣で道を切り開く!」
剣 スターエグゼクター が紅く光り、周囲の影の軍勢を一掃する。
突然、プーチンの剣から放たれた光が、闇の影響を振り払うように拡がり、胸の黒い紋章が淡い輝きに包まれる。
「この光……何だ?!」
その瞬間、空高くから光の紋章が現れ、彼の体を包み込む。剣 スターエグゼクター が光と闇の力を纏い、新たな姿へ変化する兆しを見せた。