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こんにちは、らくからちゃです。 いつもどおり、通勤電車でぼけーっとtwitterを眺めていると、こんなものが流れてきました。 「これは民主主義じゃない。多数決主義だ!」ってのは凄いな。〝これはカレーライスじゃない。ご飯にカレーをかけただけだ!〟みたいな…爆笑。— 菊池雅志 (@MasashiKikuchi) 2015年9月16日 なんじゃこりゃ、と思ってみていると元ネタになっているのはとある弁護士さんの発言みたいですね。 安保法制は強行採決されるのか。緊迫の夜が続いている。15日横浜で行われた公聴会で公述人のひとり、水上貴央弁護士は安保法案には憲法9条に反する重大な欠陥があると指摘。こんな状態の法案を通してしまうことは「単なる多数決主義であって、民主主義ではない」と語った。 これを受けて、一部のネット住民は大盛り上がりになったみたいです。 この水上氏の「多数決主義は民主主義ではない」という
近代市民憲法は、権力の濫用を阻止し、人権の享有を確保することを課題とする。憲法という名称の法典が存在しているにもかかわらず、その課題にこたえる内容を欠いている市民憲法を「外見的立憲主義型の市民憲法」という。「外見的権利保障」は、憲法の保障で国民の権利が保障されているにもかかわらず、権力に十分に対抗できない権利の保障をいう。(注1) 十九世紀、市民革命と産業革命によって市民憲法を整え、資本主義経済を浸透させた英米仏の国力は他を圧倒しつつあった。後発国としてそれを追う立場のプロイセンは革命を経ずに近代化を行う「上からの近代化」路線を取る。 「封建的土地貴族のイニシアティヴにより、封建的土地貴族と農奴の関係をそのまま資本・賃労働関係に再編成し、政治的にはそれに対応する外見的立憲主義の憲法によって立憲体制の外見をほどこすという、近代化のしかたである。」(注2) そのため、可能な限り旧い原理が温存さ
先住民の子どもたちを家族から引き離し、強制的に寄宿学校生活させていたのは、「文化的なジェノサイド(特定の集団を対象とした大量虐殺)」だった――。 カナダの「真実と和解委員会」は、1世紀以上続けられた同国の先住民政策をそう結論づけ、6月2日、報告書の要約版を発表した。6750件のインタビューを含め6年間に及んだ調査。その集大成となった報告書は、インディアン、イヌイット、その他多くの先住民の子どもたちが、政府の強制的な同化教育政策で身体的、文化的、そして性的な虐待を受けていたことを立証している。 先住民の寄宿学校教育は、政府の財政支援で、主に教会が運営し、1883年から実施された。最後の寄宿舎が閉鎖されたのは1998年だった。 この間、学校で3201人の児… この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。 この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけ
政府はわかりやすく予測しやすいルールを示す 民間はリスクと責任を一致させる 松尾匡著「ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼」を読んだ。本書の主張を一言で言えば、経済学の原則を守れということ。 ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼 (PHP新書) 作者: 松尾匡出版社/メーカー: PHP研究所発売日: 2014/11/15メディア: 新書この商品を含むブログ (12件) を見る ソ連の教訓 もはや自由主義の勝利とは誰も言わないだろうが、ソ連、共産主義陣営があのような悲惨な結末に終わったのはなぜだろうか?「競争がないから駄目になる」「共産主義だとみんな怠けて努力しない」みたいな話は大間違い。 ソ連は資本主義国と変わらないほど競争が盛んで、苛烈な受験戦争、出世競争があった。地位が上がれば長時間行列に並ばなくてよくなるし、不正して良い思いができる。出世へのインセンティブは十分だった。 ソ連崩壊の原因は、経営者
「Danas je lep dan.」を見て。 あ,前は保守派っつってたけど最近保守派の看板は下ろしてます。というのは考えれば考えるほど「これって保守主義じゃなくて民族主義なんじゃ」というのがわかってきた感じなので今後は積極的にナショナリストを名乗っていこうかなと。DG-Lawさんの言うところの保守主義とはどうも相容れん感じがするというか。漸進的改革は手段として有効なら採用するに吝かではないけどそれを思考の中心に据えようとは思わないという点で(急進的改革がしばしば反発を招き結局は悪いほうに頓挫してしまうからまずは漸進的に,というのはもちろんあるんだけど,それは改革のグランドヴィジョンを立てた上での戦術論だよなあという)。 Danas je lep dan. 本邦においては、「単一民族国家幻想」というのが根強くあり、ゆるやかな民族主義が、ある種の国家主義、全体主義と一緒くたになりがちなのだけ
カフカース山脈に位置する小国グルジアが自国呼称の変更を日本に対して求めていることは以前より知られていたが,どうやら政府は本格的に名称変更に乗り出すらしい。 (……)外務省も呼称を変えるべく次期国会に法案を準備している。同国から「グルジアはロシア語で、ジョージアと呼んでほしい」と求められているからだ。(……) 同国は6月末、ウクライナ、モルドバと共に欧州連合(EU)との連合協定に署名した。かつてソ連の一部だった同国は、これによって欧米との絆を確固としたものにした。呼称変更を日本政府に求めるのも、ソ連離れとも関係しているのだろう。 外務省が国の呼称を変えた例はベトナム(以前はヴィエトナム)とコートジボワール(以前は象牙海岸)がある。「先方の要望もあり国会は通るでしょう」と外務省。そうなるとマスコミも「ジョージア」と呼び、表記することになる。(客員編集委員)金言:「ジョージア」に変わる?=西川恵
先日の記事「近代日本、海水浴の誕生」で明治時代に日本の医療制度の確立に多大な影響を与えたドイツ人医師エルウィン・フォン・ベルツについて紹介したが、そのベルツの日記に、彼が侍医を務めた皇太子嘉仁(後の大正天皇)の結婚に関するエピソードとして、伊藤博文の発言が紹介されている。明治三十三(1900)年五月九日の日記より。皇太子の結婚は翌日五月十日のこと。 『一昨日、有栖川宮邸で東宮成婚に関して、またもや会議。その席上、伊藤の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて、伊藤のいわく「皇太子に生れるのは、全く不運なことだ。生れるが早いか、到るところで礼式(エチケット)の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいながら伊藤は、操り人形を糸で躍らせるような身振りをして見せたのである。――こんな事情をなんとかしようと思えば、至極簡単なはずだが。皇太子を事実
自己否定 → 普遍性 固有名 → 普遍性 しかし、普遍性を固有名によって可能にするとは、どのようなことをいうことになるのだろうか。ここには、普遍性概念を維持してきた宗教の歴史にとって、ある異和を発生させる契機が必ずや含まれることになるものだ。柄谷行人は、歴史的にいって宗教の中に内在してきた精神哲学の在り方を綜合して、そこにある反転を企てた。 宗教を宗教たりうるものとして自己正当化できるものとは、その宗教が示せる普遍性概念の所在にある。個の立場から宗教にサブジェクトしうるとは、それが宗教を媒介する行為によって、時代的で地域的な、個人にとっての相対的な他者、その共同性に向けて個をサブジェクトさせうる、そうすることによって共同体の全体統治と維持−再生産をなすという機能を実現することにある。宗教とは社会を安定させる装置として存在してきた。宗教とは共同体にとって主に治安を実現させる。 個の
山崎 雅弘 @mas__yamazaki 紛争史に関心を持ち始めた頃は、単純に「A国対B国」という対立図式で見ていたが、紛争史分析の原稿を15年書き続けた結果、紛争の発生や継続の深層に横たわるのは、国籍を超越した「a集団対b集団」という内なる戦いであるとの認識を得るに至った。 http://t.co/88M79beKFM 2013-04-03 21:26:45 山崎 雅弘 @mas__yamazaki 例えば中国や韓国で反日デモを行う人間、大久保や鶴橋で反韓デモを行う人間は、一見すると全面的に敵対しているように見えるが、共に自国の「b集団」に位置し、相手国との関係悪化を望んでいる点で目的が一致している。相手国の「b集団」は「敵」であるのと同時に共通の目的を持つ「味方」でもある。 2013-04-03 21:26:56 山崎 雅弘 @mas__yamazaki 「b集団」に属する各国の人間が
○渡辺龍策『馬賊:日中戦争史の側面』(中公新書)中央公論新社 1964.4 書店で、めずらしいタイトルを見るなあと思ったら、このたび「復刊」された中公新書の名著3冊のうちの1冊だった。先だって読んだ高島俊男の『中国の大盗賊・完全版』が脳裡によみがえって、つい買ってしまった。 高島さんの前掲書は、飄々として、どこか絵空事の講談を聴くような味わいがあったが、本書は、ずっと現実的である。ただし、無味乾燥な公式記録で語られる歴史ではない。「本書におりこまれた挿話のほとんどは、私じしんが直接にかいま見たか、あるいは交際をむすんだひとびとの表面に浮びでた行動に関するものである」と語るだけあって、行間には、汗と黄砂と、それから硝煙の匂いがする。 1903年(明治36年)生まれの著者は、5歳のとき、「袁(世凱)に抱かれてあやされ、肩骨を脱臼した」という。ひー。軍閥割拠から抗日戦争まで、動乱の中国を、バリバ
写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ A.「国益」が「民益」に優先する国家の失敗について ウクライナの混乱は、クリミアのロシア編入で収まるどころか、さらにロシアに近づきたい人々とロシアから離れたい人々の間で、深刻な状況を招いている。ぼくたちは遠い国の出来事として傍観しているが、アメリカが主導権を握る西側世界の秩序を、日本も支持する以上、ロシア非難の流れに乗るしかないと日本政府は考えている。でも、この影響は難しい事態を招く。ロシアとの北方領土交渉が安倍政権とプーチン政権の間で、これまでになく進展しそうな気配だったのにこれで遠のくだろう。「国益」という言葉は、日本が明治維新以来ことあるごとに大義名分として唱えてきたのだが、詰まるところ何を追求してきたのか。国家の利益とは、その国に住む住民の幸福のために追及される
写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ A.山本太郎天皇手紙渡し事件のこと ぼくはあとどのくらいこの世に生きるのだろうか?そんな問いはほとんど意味はないのだが、今のところ64歳を迎えてもとくに身体にたいした異常はなく(強いて言えば左目が緑内障で少々視野が狭くなっているくらいだが老眼はまだない。暗くても文庫本は読める)、毎週6キロ30分ランニングをして結構ハードなウェイトトレーニングをこなして、同世代の人に比べれば風邪ひとつ引かずかなり元気だ。近いうちに倒れて動けなくなるような病気になるとは思っていない。二十前後の学生と一緒に動き回っても、彼らの方が先に疲れる。そうはいっても、誰だって明日死ぬかもしれないのだが。 多くの人がそうであるように、多少健康の不安があったにせよ個人としての日常生活にさしたる支障はなく、
ヒョーゴスラビアとは、ホンシュラシア大陸中西部に位置する共和制連邦国家である。正式名称はヒョーゴスラビア連邦共和国(ヒョーゴスラビアれんぽうきょうわこく、Federal Republic of Hyogoslavia / Федеративна Република Хёгославија)。 概要[編集] ヒョーゴスラビア連邦共和国は多様な民族・文化が入り混じっており、構成主体はセッツィア、ハリマニア、タジマニア、タンバゴビナ、アワジネグロの5共和国と、コーベグラード特別自治州からなる。それぞれ異なった歴史や文化を持ち、建国以前には南北間の交流すらほとんどなかった。ヒョーゴスラビア建国の英雄、ハクブン・イトーの名言「7つの国境(大阪民国・キョーランド・オカヤマニア・トットリスタン・トクシマリア・ウドイツ第三帝国・ワカヤマニア)、6つの言語(セッツィア語・ハリマニア語・コーベグラード語・アワ
戦地で死んだ者の霊はどこにいるのか、本当は誰にもわからない。*1 靖国神社は戦死者をひとまとめに「合祀」していると言うけど、ひとりひとりの「霊」が靖国神社に集まっているという客観的根拠はない。 いや、「霊」はいろいろなところにいる、だけど靖国神社はそれらの霊と私たち生者との間の接点(チャンネル)として存在しているという考えもあるだろう。しかし「霊」の側が、靖国神社を生者とのチャンネルとして認めている、という客観的根拠はない。 つまり、靖国神社が「霊」の居場所ないし接点というのは、主観ないし共同主観にすぎない。*2 誰の共同主観か? そう、靖国神社という宗教法人とその支持者の。 ここで想起すべきは、国家によって戦争に動員され戦地で死んだ約230万の半分以上は、戦闘による死ではなく餓死だったということだ(藤原彰氏の研究による。http://blog.goo.ne.jp/taro606/e/cd
赤澤史朗『靖国神社』を再読する。 (たぶん)知られざる良書である。 いつもどおり、興味のあるところだけ取り上げていく。 「靖国神社の祭礼には、競馬やサーカスなどの娯楽が付きまとい、多くの観衆が集まった」というふうに、庶民にとって靖国神社が親しい存在だったことを説明する研究がある(20頁)。 だが、戦前の靖国神社は、神社が強力な軍の管理下に置かれていたし、また例大祭などの祭典に正式に参列できるのは、軍や国家の代表者だけであって、庶民はもとより、遺族すらも参列できなかった。 戦前期には、祭礼の合祀に際して、遺族は合祀祭への参加を許されず、かろうじて招魂斎庭から、本殿に向かう御羽車を拝んで見送ること、祭典終了後の昇殿参拝が認められただけであった。 戦前における靖国神社の遺族に対する位置づけは、実はこのようなものである。 遺族会として勢力が強くなるのは、戦後のことである。 ところで、上記の「庶民に
アンダーソン・ベネディクト、白石隆・白石さや訳(1991=1997)『増補 想像の共同体』 NTT出版 もはやナショナリズム研究の古典となりつつある名著です。ナショナリズムの普及を印刷資本主義の生成から明快に解き明かしてゆきます。活版印刷によりナショナリズムが生み出されたという指摘は、マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』にも見られる指摘ですが、本書はその分析をさらに精緻化したものと言えるでしょう。アンダーソンは、国民というものが、いかにして人々の想像の中で形作られていったのかを解き明かしてゆきます。個人的な話をすると、ナショナリズムやエスニシティの問題に私が惹かれることになったきっかけとも言える本です。最近、増補版が出て、二章付け加えられました。(1997年) イグナティエフ・マイケル、真野明裕訳(1998=1999)『仁義なき戦場』 毎日新聞社 セルビア、クロアチア、ルワンダ、アフガ
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