横浜でご一緒したかたから、10月末に頂いたメールの一部より(許可を得て引用): 関係性、あるいはコミュニケーションが成り立っていることのスタイルを問題にすること自体が、なんらかのスタイルを介してでなければ伝わらない、というパラドクス?のようなものがあると思っていて、実践的にはなんらかのスタイルにすでにのっとってしまいながら、そのスタイルを維持した中でしか、スタイル自体を問題にできない、というのは矛盾じゃないか、と思いますが、 僕自身も含め、多くの人は、スタイルに順応しなければ社会参加できないということを、そういうものだとどこかで割り切って(あるいは矛盾を矛盾と思わず)、社会参加をしているのかなと思います。 多くの人々によって、その矛盾がどうやって乗り越えられているのか、ということと、スタイルに内在しながらスタイル自体をくみかえていく、というようなことがいかにして可能なのか、 問題にすること